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Date: 3月 29th, 2013
Cate: D130, JBL

D130とアンプのこと(その37)

ステレオサウンド別冊HIGH-TECHNIC SERIESの2号目は長島先生によるMC型カートリッジの研究だった。
この本の60ページに、MC型カートリッジの特性の見方という章がある。
そこではオルトフォンのSPUとMM型カートリッジの代表としてシュアーのV15/IIIとの比較がなされている。

V15/IIIの出力電圧は3.5mV、SPUは0.25mV。
これだけを比較すれば圧倒的にV15/III(つまりMM型カートリッジ)のほうが、
発電効率が高い、と受け取れる。

HIGH-TECHNIC SERIESが出たのは1978年、
このころは私もそう思っていた。
インピーダンスのことは知ってはいても、出力電圧のことしか考えていなかったし、
出力電力については考えが及ばなかった。

だから長島先生によるSPUとV15/IIIの出力電力の比較は新鮮だった。

出力電力には負荷インピーダンスが関わってくる。
SPUは1.5Ω、V15/IIIは47kΩ。
そして出力電力の求め方は出力電圧の二乗を負荷インピーダンスで割った値であり、
オルトフォンSPUの出力電力は41.66nW、V15/IIIの出力電力は0.2606nWと、
出力電圧とは逆転してSPUのほうが大きい値となり、
その差も出力電圧の比較以上に大きなものとなっている。

つまりMC型カートリッジは電磁変換効率がMM型カートリッジよりも高い、といえる。
コイルの巻枠に磁性体を採用したSPUは、空芯MC型カートリッジよりもさらに高効率となる。

長島先生は、この電磁変換効率を
「針先変位に対してどのような反応を示すかのバロメーターとなる」と書かれている。

Date: 3月 28th, 2013
Cate: D130, JBL

D130とアンプのこと(その36)

ピカリングのローインピーダンスのMM型カートリッジXLZ7500Sは、
ステレオサウンドの試聴室で新製品の取材の時に聴いている。

技術的なメリットは何もないのでは? と思いつつも、
出てきた音は、ローインピーダンス化したことで得られた音なのか、
それとも各部の改良によって得られたものなのか、そのあたりははっきりしないけれども、
たしかにいままで数多く聴いてきたMM型カートリッジとはなにか違う質の良さはあったように記憶している。

でも、その記憶もここまでであって、もっと細かなことを思い出そうとしても思い出せない。
いい音だとは思って聴いていても、その音そのものの印象は強くなかった。
だからなのか確かな記憶として残っていない──、としか思えない。

スタントンにしてもピカリングにしても、ローインピーダンスのMM型カートリッジは、
いわば特殊な製品であって、ならば、ほかの一般的な仕様の製品以上に、
それならではの魅力を私は感じたい、と思うほうなので、よけいに印象が薄い。

通常のMM型カートリッジでも、印象に強く残っているカートリッジはいくつかある。
それらと比較したときに、あえてヘッドアンプやハイゲインのフォノイコライザーアンプを用意してまで、
これらローインピーダンスのMM型カートリッジを使う意味を、私は見出せなかった。

私はそんな受け取り方をしてしまったわけだが、
ピカリングもスタントンもカートリッジの老舗メーカーである。
ただ通常のMM型カートリッジとは違うためだけの製品という理由だけで、
ローインピーダンス仕様を開発したわけではないはず。

ハイゲインのフォノイコライザーアンプならば信号が通過するアンプの数は、
通常仕様のMM型カートリッジと同じとなるが、
ヘッドアンプ使用となると、アンプを1ブロック多く通ることになる。
それによるデメリットが発生してもローインピーダンス化することのメリットを、
スタントン、ピカリングの老舗カートリッジのメーカーは選択したわけである。

Date: 3月 27th, 2013
Cate: 「オーディオ」考

「音は変らない」を考えてみる(その6)

どのスピーカーシステムでもかまわない。
たとえばある人がJBLのフラッグシップモデルであるDD67000を手に入れたとしよう。

その人にとって、DD67000とイメージできる音がある。
それが、その人にとっての、そのスピーカー(ここではJBLのDD67000)の「顔」ということになる。

このDD67000の「顔」は、人が変れば、共通するところもあるにしても、
違ってくるところもまたある。

そのことは、ここではあまり問題にはならない。
とにかく、ある人にとって、DD67000の「顔」といえる音がある、ということが、
結局のところ「音は変らない」にかかってくることになっている。

そのDD67000の「顔」は、鳴らす人が変らないかぎり、
ずっと同じである、ともいえよう。
アンプを、それまで使っていたモノと正反対の性格のモノに交換したとしても、
その人にとってDD67000の「顔」が、
タンノイのKingdom Royalの「顔」になったり、B&Wの800 Diamondの「顔」になったりはしない。

鳴らす人が変れば、同じスピーカーシステムであっても、
また違う「顔」を見せることもあるにしても、
人が同じであるかぎり、しかもアンプやケーブルで「音は変らない」人が鳴らすのであれば、
よけいに「顔」は変らない、ともいえるのではないか。

だからといって、アンプやケーブルを替えても「音は変らない」──、
そういう音の聴き方をしていて、音楽を聴いていることになるのだろうか、と私はおもってしまう。

アンプやケーブルを替えても「音は変らない」と宣言した時点で、
どこか「仏つくって魂入れず」に近いことを、自分は行っている、と言っていることになるのではないだろうか。

私はスピーカーは役者だと、いまは捉えている。
だから、よけいにそんなふうにおもえてしまう。

Date: 3月 27th, 2013
Cate: audio wednesday

第27回audio sharing例会のお知らせ

次回のaudio sharing例会は、4月3日(水曜日)です。

時間はこれまでと同じ、夜7時からです。
場所もいつものとおり四谷三丁目の喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

Date: 3月 26th, 2013
Cate: 「オーディオ」考

「音は変らない」を考えてみる(その5)

スピーカーが音の「顔」だとすれば、
スピーカー以外では「音は変らない」も理解できないわけではない。

人の顔は、どんな表情をしていようと、その人の顔であり、
整形手術でもしないがぎり、決して別人の顔になることはない。
その意味で顔は変らない。
つまりスピーカーを替えないかぎり、「音は変らない」ということになる。

けれど人の顔には表情がある。
朝起きたばかり寝ぼけ眼の顔、すっきりと目覚めたときの顔、夜更けて睡魔に襲われている顔、
これだけでも同じ人の顔でもずいぶん印象は違う。

そして人には感情がある。
その感情がつくりだす表情も、またある。
喜怒哀楽──、
これだけでも同じ人の顔はずいぶん変って見えることがある。

笑っている顔でも、ほほ笑んでいるときの顔、大笑いしているときの顔、苦笑いの顔、つくり笑いのときの顔、
いろいろある。
同じような表情はあっても、ひとつとして同じといえる表情はない、ともいえよう。

顔は変る。変っていく。
けれど、あくまでもその人の顔であるという意味では、変りはない、ともいえる。

このことと同じ意味で、
アンプやケーブルによって「音は変る」という人と、
アンプやケーブルで「音は変らない」という人に分れるのではないのだろうか。

Date: 3月 26th, 2013
Cate: 「オーディオ」考

「音は変らない」を考えてみる(その4)

スピーカーの変更によってのみ変る要素とは、
スピーカーの支配する領域のことである。

こんな当り前すぎることを、今回改めて考えることになったわけである。
そしてこのことと同時に思いだしたことがある。

瀬川先生が熊本のオーディオ店で定期的にやられていた「オーディオ・ティーチイン」で、
アンプの比較試聴を行われた。
そのとき、こんなことをいわれた。

「アンプの音のち害がよくわからない、といわれる方がいらっしゃる。
スピーカーの音の違いというのは、人でいえば外観の違いであり、
アンプの違いは内面の違いともいえる。」

スピーカーの音が人に喩えれば外観であり、
アンプの音がその人の内面、という表現はわかりやすいと思ったし、
もちろん、この喩えには瀬川先生もこまかいことをつけ加えたいと思われていたであろうが、
オーディオ・コンポーネントの中におけるスピーカーとアンプの音のどういうところを支配、関係してくるのか、
そのことを的確に表現されている。

アンプやケーブルを替えても「音は変らない」と頑なに主張する人の音の聴き方が、
私なりに掴めた、とやっと思えた。

スピーカーが、いわば音の外観に深く関係しているということは、
そのシステムの音の「顔」といえる領域は、スピーカーの領域ともいえよう。

Date: 3月 25th, 2013
Cate: 「オーディオ」考

「音は変らない」を考えてみる(その3)

ほかにもいくつか理由となりそうなことを考えてみた。
自分でもこじつけとしか思えないものをふくめて、あれこれ理由となりそうなことを考えても、
私自身を納得させることは見つけられなかった。

なぜ「音は変らない」となるのか。
音は確かに変っている、にも関わらず。

だから、すこし考え方を変えてみた。
「音は変らない」と主張する人たちですら、
スピーカーを替えれば音は変る、と認めている。

ということはスピーカーによって変る要素とはなんであるのか、
またスピーカー以外で変らない要素(変らないといえる要素)とは、いったいあるのか、
あるとすればそれはなんであるのか。

そう考えたときに、やっと納得できる答(もの)が見つかった。

Date: 3月 24th, 2013
Cate: 「オーディオ」考

「音は変らない」を考えてみる(その2)

井上先生がよくいわれていたことのひとつに「頭で聴くな」がある。

音は耳で聴くものである。
だがオーディオに関心のある人、それも関心が強くなればなるほど、
時として耳ではなく頭で音を聴いてしまうことがないわけではない。

つまり、このスピーカーはこういう技術内容を持った製品だから、とか、
このアンプは真空管式だから、とか、
このケーブルの銅線の純度はきわめて高いから、とか、
このブライドの製品なのだから、
……この手のことは、際限なく書いていけるわけだが書いていってもあまり意味のないことだから、
このへんにしておくが、オーディオの知識が増えていくことで、
その知識が音の判断を時として誤らせてしまう、歪めてしまうことがある。

井上先生は、頭で聴くタイプの人は、音で騙すことができる、誘導することも簡単だともいわれていた。
だまされないタイプの人は、オーディオに関心のない、音楽好きの人でもある、と。

いい音を出していく為に身につけてきた知識や経験によって、
自分で自分を騙してしまうことが、まったくなかった、という人が果しているだろうか。

ケーブルやアンプで「音は変らない」という人たちこそが、頭で聴くタイプである、とはいえない。
頭で聴く人は、「音は変らない」と主張する人たちの中にもいるし、
「音は変る」という人たちの中にもいる。

スピーカー以外で「音は変らない」──、
そう主張する人たちがいる理由は、だから他にある、と考えるべきである。

Date: 3月 24th, 2013
Cate: 「オーディオ」考

「音は変らない」を考えてみる(コメントを読んで)

昨夜書いた記事についてのkadhirさんのコメントを読んでいて思うことがあった。

こう書かれている。
「なにをしても音が変わる、というのはつらいと感じる人がいると思います。
つらいというか苦しいというか。際限のない地獄(金銭面でも)のような。」

確かに、音がささいなことで変化することには、そういう面がある。

ステレオサウンドにいたころ(20代前半だった)、
おもに井上先生の使いこなしによって、
こんなことで音は変っていくのか、と驚き、喜んでもいた。

そして井上先生の使いこなしによる音の変化に触発されて、
自分でも、こういうところでも音が変化することを見つけていくことに没頭していた。
自分で発見できたときは、また嬉しかった。

音はほんとうによく変る。
何かやれば、大なり小なり音は変化していて、
それに気がつくかどうかであることがわかる。

使いこなしの技能を身につけ磨いていくには、
こういう時期も必要である。
けれどオーディオの楽しみは、こういうことを発見するばかりでもない。

こんなことでも音は変ってしまう。
その現実に対して、意識的に拒否してしまいたくなる人もいて不思議ではない。
オーディオの目的は、音を変える要素を見つけていくことではないのだから。

だから、いまでは、こんなことで音は変ってほしくない、という気持の方が強い。
「際限のない地獄」と表現されている、その気持はわかるといえばわかる。
(私は地獄とは思っていないだけの話で、際限のないのは、そのとおりである)

けれど拒否しようとしても現実には拒否なんてできない。
さまざまな変動要素により音は変ってしまう。
だから私は、無数にあると思える要素をでひとつでも多くコントロールできるようにしたいと思っている。

いま別項で「plus」というタイトルで書こうとしていることの一部は、
このことへとつなげていく予定である。

オーディオ機器の性能を向上させるために、
いくつもの「新」技術がオーディオ機器にプラスされてきた。
それらはあらたな変動要素ともなっている。

Date: 3月 23rd, 2013
Cate: 「オーディオ」考
1 msg

「音は変らない」を考えてみる(その1)

何度か書いているように、世の中にはオーディオに関心を持ちながらも、
スピーカーを替えれば音は変ることは認めるけれど、
アンプやケーブルを替えても音は変らない、と頑なに主張する人がいる。

こういう人たちの耳が悪い、
この一言で片づけることはできる。
けれど、それだけで終らせてしまっていいものだろうか、とも思う。

音、オーディオに関心のない人が、音なんて変らない、というのとは違う。
関心を持っていながらも、それにオーディオ歴もそこそこ長いにも関わらず、
スピーカー以外では「音は変らない」となるのは、なぜなのか。

まず考えたのは、音の記憶力に関することだった。
たとえば写真や絵であれば、二枚のよく似た写真や絵を並べて比較することができる。
雑誌や新聞に片隅に載ることがある間違い探しである。
しかも写真も絵も時間によって変化することはないから、違いをゆっくり時間を気にせず探し出すことはできる。

音楽(音)は、たえず変化している。
そして比較試聴するアンプやケーブルの音を同時には出して聴くことはできない。
聴けるのは一組のアンプ、一組のケーブルである。
だから音を記憶していなければ、ふたつのアンプの音、ふたつのケーブルの音を比較はできない。

この記憶力は、人によって違いがある。
だからアンプやケーブルでは「音は変らない」という人たちは、
音の記憶力に欠けているのだと、最初は考えた。

けれど、それではスピーカーの違いによる音の違いも聴き分けられないことになる。
そうなると音の記憶力に関することではないのではないか。

Date: 3月 23rd, 2013
Cate: plus / unplus

plus(その9)

いまはどうなのかは知らないけれど、
私がいたころ、ステレオサウンドでのアナログプレーヤー関連の試聴では、
試聴しているあいだターンテーブルは基本的には廻し続けていた。

レコードをかけかえるときもターンテーブルは廻っている。
これは井上先生の指摘によるもので、
特にダイレクトドライヴ型プレーヤーでサーボ回路を搭載しているプレーヤーにおいては、
一度回転をとめてしまうと、電源を入れたままであっても、
回転をはじめてサーボが安定するまでにわずかとはいえ時間を要する。

このへんのことがわかっているメーカーとそうでないメーカーとでは、
サーボ回路が安定する時間に差が生じる。

アナログプレーヤー、ターンテーブルの試聴では、
このこともチェックするわけだが、
カートリッジの試聴でサーボ回路を搭載したダイレクトドライヴ型を使用した場合、
レコードのかけかえごとにターンテーブルの回転をストップしてしまうと、
カートリッジの違いを聴いているのか、
カートリッジを交換しなくても、針圧、インサイドフォースキャンセラーなどを調整しているとき、
その調整による音の変化を聴いているのか、それともサーボが安定するまでの変化量を聴いているのか、
そこのところが曖昧になるのを防ぐ意味で、
つねにターンテーブルの回転をとめることはしなかった。

つまり変動要素をひとつでも減らすため、でもあった。

Date: 3月 22nd, 2013
Cate: SME

SME Series Vのこと(その6)

別項「賞からの離脱」で、いま”Best Buy”についている。

菅野先生が、ステレオサウンド 43号で”Best Buy”をあえて直訳に近い形で、最上の買物とされている。
最上の買物といっても、人によって、これもまたさまざまであろう。
けれど、私が「最上の買物」ときいて、
数あるオーディオ機器の中から真っ先に挙げたいのは、
SMEのSeries Vとタンノイのウェストミンスターのふたつである。

なぜなのか、は、これまで、この項を読まれた方ならわかってくださるだろう。

Date: 3月 22nd, 2013
Cate: 孤独、孤高

毅然として……(その4)

グレン・グールドはある時期以降、録音の中だけの存在と、自らなっていった。
グレン・グールドによる演奏を聴くには、いかなる人であろうとも、
レコードを買ってきて、オーディオ機器で再生して聴く、
もしくはラジオから流れてくるのを待つ、ということになる。

自分の意思で、グレン・グールドの演奏を聴きたいと思ったときに聴くのであれば、
レコードを買ってくるしかない。
そして、自分専用ともいえるオーディオ機器の存在かなにがしか必要となる。
それは、どれほどの大金持ちであろうとも、権力者であろうとも、
何人もグレン・グールドによるバッハ、モーツァルト、ベートーヴェン、ブラームス、
その他の演奏を聴きたいのであれば、レコードとオーディオがどうしても必要となることには、
かわりはない。

そして、グールドが望んでいた(と書いていいのだろうか、すこし迷うところもある)、
もしくは思い描いていた、彼自身の聴き手は、
彼のレコードを、誰かといっしょに聴く、というのではなく、
あくまでもスピーカーの前にいるのは、
グレン・グールドの演奏が聴きたくて、グレン・グールドのレコードを買ってきた人ひとり、
という状況なのではないだろうか。

グレン・グールドのレコードは必ずひとりで聴かなければならない、
というものではないにしても、
グールドの演奏の性格からして、
そしてコンサートをドロップアウトしたグールドの録音への取り組み方を思えば、
おのずと、グールドのレコードはひとりで聴くのが望ましい。

Date: 3月 21st, 2013
Cate: 広告

広告の変遷(その6)

人はさまざまである。
私には無理なことでも、たやすくできる人がいる。
だから、オーディオ評論家として書くときと、
広告の紹介文を書くときとで、完全に割り切って文章を書くことができる人もいよう。

そんなふうにはっきりと自分を分けられる人だとして、
その人が書いたオーディオ評論の文章を信じられるかというと、私は逆にできない。

なぜなら、そんなふうに完全に割り切って書ける人に、
オーディオの、音楽のもつ、ほんとうに大切なところが理解できているとは、私には思えないからだ。

音楽の機微、音の機微を、そんなふうに割り切れる人がどう感じているのか、
それをまったく想像できない。

想像できない以上、私にとってその人の書いた文章はまったく信用できないことになる。

私とまったく正反対に、このことを受けとめる方もいるかもしれない。
そういう人だから、その人の書いたものは信用できる、と。

これもまた人それぞれだから、私がとやかくいうことではない。
ただ、もう一度書いておくが、
私は、そんな人たちの書いた文章は信用していない。

Date: 3月 20th, 2013
Cate: 数字

数字からの解放(その4)

マーク・レヴィンソンは、LNP2、JC2をよりよいアンプとして完成へと近づけていくために、
常に改良を加えていたことは、よく知られている。

型番こそLEMO製のコネクターを採用した時点で、末尾に「L」がつけられるようになったぐらい。
しかも、これは日本市場だけの型番の変更であり、並行輸入対策でもあった。
アメリカや他の国で売られていたLNP2、JC2などは末尾に「L」はついていない。

マークレビンソンのアンプが、他のメーカーのような型番のつけ方をもしやっていたとしたら、
LNP2は、MK5とかMK6でも足りずに、もしかするとMK10ぐらいまでいっていたのかもれない。

そこまで改良が加えられてきたLNP2、
マーク・レヴィンソンはひとつひとつ使用部品の音を丹念に聴き分けていっていた、という。
このレベルになると、測定結果には違いは出ない、といっていい。

トランジスターを互換性のある別の品種のものに換えれば、
わずかとはいえ測定結果に違いは出る。
けれどどこか一箇所のコンデンサーなり抵抗を交換したとき、
音はわずかではあっても確実に変化する。けれどおそらく、このときの音の違いは測定結果としてあらわれない。

もしかすると最初のうち、マーク・レヴィンソンは部品を交換しては測定をしていたのかもしれない。
けれど、どんなに精密な測定を行ったとしても違いが出てこない。
それで音が変らなければそこで済んでしまうことなのだが、
そこに少しでも音の変化があれば、無視できない。

部品を交換しては音を聴き、判断する。
そしてまた部品を交換し……。
こういうことを何度も何度もくり返し、ひとつのアンプを洗練させていく。

この気の遠くなるような行為が、マーク・レヴィンソンを数字から解放したのかもしれない。