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Date: 5月 24th, 2015
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(その31)

ステレオサウンド 52号にJBL#4343研究の第二回が載っている。
瀬川先生による、プリメインアンプで4343はどこまで実力を発揮できる、という内容だ。

52号は1979年9月に出ているから、
598のスピーカー・ブームの数年前である。

この記事では、八機種のプリメインアンプが用意されている。
もっとも高価なモデルはマランツのPm8で250000円、
いちばん安いモデルはテクニクスのSU-V6で59800円。
1979年当時、4343WXは一本58万円だった。

598のスピーカーの約10倍であるから、
ここでのスピーカー対プリメインアンプの価格比をそのまま598のスピーカーにあてはめれば、
6000円から25000円ほどのプリメインアンプということになる。
現実には、2万円台のプリメインアンプはいくつかあったが、1万円を切るモデルは存在しなかったし、
価格比をすべての価格帯にあてはめることには無理がある。

ステレオサウンド 52号の記事中に瀬川先生は、こう書かれている。
     *
 これだけ日本国中にひろがった♯4343ではあるが、いろいろな場所で聴いてみて、それぞれに少なくとも最低水準の音は鳴っている。従来のこのタイプのスピーカーからみると、よほど間違った鳴らし方さえしなければ、それほどひどい音は出さない。これは後述することだが、アンプその他のパーツがかなりローコストのものでも、それらのクォリティの低さをスピーカーの方でカバーしてくれる包容力が大きいからだろう。
     *
4343には包容力がある。
ここがブームになった598のスピーカーシステムと大きく違うところである。

価格が違う、ユニット構成が違う、大きさが違う、国が違う……、
そういった違い以上に、包容力の違いは、組合せ(特にアンプの選択)において重要なこととなる。

Date: 5月 24th, 2015
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(その30)

いまはどうなのかは知らないが、
昔は価格的にバランスのとれた組合せということは、次のようなものだった。

スピーカーシステムの価格が一本59800円だとする。
約60000円だとして、アンプ(ここではプリメインアンプ)にもほぼ同額、
アナログプレーヤーにもほぼ同額ということだった。

つまりスピーカーは二本必要だから、60000×4=240000円が、
価格的にバランスのとれたといえる、ひとつの基準であった。

これがセパレートアンプを使うようなスピーカーシステムのグレードになってくると、すこし違ってくる。
スピーカーシステムの価格が一本50万円であれば、
コントロールアンプに50万円、パワーアンプに50万円、
アナログプレーヤー(カートリッジも含めて)に50万円、
つまりトータルで250万円くらいまでは、価格的にバランスがとれているとみなされていた。

もちろんここでもアンプにかける費用をスピーカーシステムと同額、
つまりコントロールアンプ、パワーアンプの合計が50万円というのもあった。

実際にはあくまでも目安であり、
予算的にはつねに制限があるものだから、
スピーカーに比重がおかれたり、
アナログプレーヤーが少し犠牲になったり、
予算内でのやりくりはもちろんあるわけだが、
59800円のスピーカーシステムを鳴らすのに、ペアで数十万円のセパレートアンプをもってくるのは、
あきらかに価格的にアンバランスな組合せとなる。

スピーカーシステムよりもアンプ、アナログプレーヤーのクォリティが高ければ、
それだけスピーカーはよく鳴ってくれる。
それでも59800円のスピーカーに対しては、
59800円から10万円くらいまでのプリメインアンプが選択肢となる。

だが1980年代半ば以降ブームとなった598のスピーカーシステムは、
同価格帯のプリメインアンプでうまく鳴ったという記憶がない。

Date: 5月 24th, 2015
Cate: オーディオの「美」

美しい「花」がある、「花」の美しさといふ様なものはない、を考える(その1)

美しい「花」がある、「花」の美しさといふ様なものはない。

別項「正しい音とはなにか?」の(その8)でもとりあげた。
小林秀雄の有名すぎる一節であり、これまでにいろいろな解釈がなされている。

私はオーディオマニアだから、まず「花」を「音」に置き換えて考えてみる。
それでもわかったようなわからないような……。

だが「花」を別のものに置き換えてみたら、どうだろうか。
「月」である。

美しい「月」がある、「月」の美しさといふ様なものはない。
こうなるわけだが、月そのものは、ほんとうに美しいのか、と思う。

夜空に浮ぶ月は、美しいな、と思うことはある。
けれどわれわれは実際の月を写真で見て知っている。
月の表面がどうなっているのかを知っている。

私は月そのものを美しいとは思えない。
けれど遠く離れたここ(地球)にいて、夜空の月を眺めれば美しい、と思う。

となると、美しい「月」がある、「月」の美しさといふ様なものはない、といえるのか。

Date: 5月 24th, 2015
Cate: 素材

素材考(発電ゴムという素材・その2)

発電ゴムということは、その逆もまたできるはずである。
つまり音声信号を発電ゴムに流せば、振動するはず。
発音ゴムでもあるはずだ。

ゴムなのだから、叩いても共振はしないはずだ。
それに動作だか一手もピストニックモーションでの振動による変換ではないから、
振動板としての剛性の高さは必要としないはず。
つまりベンディングウェーヴ型のスピーカーの素材として使えるはずだ。

オーディオではカートリッジとスピーカーに使えるはずだと多くの人が考える。
他に使えるところはないのだろうか。

これは私の直感なのだが、トランスに応用できるのではないかと考えている。
トランスは鉄芯(コア)にコイルを巻いている。
一次側(入力側)のコイルに信号が流れると、コアに磁束の流れが生じる。
この磁束の流れは二次側(出力側)のコイルに電流を発生させる。

電気→磁気→電気という変換がトランスの中で発生している。
発電ゴムは、この磁気のところを振動に置き換えられるのではないか。
電気→振動→電気というトランスが可能になるのではないか。

トランスは一次側と二次側のコイルの巻線比を変えることで、昇圧(降圧)ができる。
発電ゴムの柔軟性が、コイルの巻線に相当するのであれば、
柔軟性の異る発電ゴムが登場したら、コアを必要としないトランスが可能になるような気がする。

Date: 5月 24th, 2015
Cate: 素材

素材考(発電ゴムという素材・その1)

5月18日にリコーが発電ゴムを発表している。
いわゆる圧電素子のひとつとなる。

これまでの圧電素子といえば、リンク先にもあるようにセラミックと高分子樹脂があり、
それぞれに長所と短所がある。
今回の発電ゴムがリコーの発表通りのモノならば、それぞれの長所を併せ持つ圧電素子となる。

圧電といえば、昔のローコストのカーリトッジは圧電型があった。
セラミック型、クリスタル型と呼ばれていたカートリッジである。

MM型、MC型、MI型が速度比例型なのに対し、
圧電型カートリッジは振幅(変位)比例型であるため、
イコライザーアンプは原則として不要になる。
しかも出力電圧も大きいため、
ポータブル型のスピーカー内蔵のプレーヤーには、圧電型カートリッジが搭載され、
アンプは小出力のパワーアンプのみという簡単な構成になっていた。

そのせいか、これまで圧電型カートリッジはローコスト向きのように受けとめられてきたところがある。
けれど、一部のあいだでは、圧電型の可能性を評価する声もあった。

とはいえ圧電素子そのものが改良されることが必須であり、
リコーの発電ゴム以前にも、圧電素子はいくつも登場してきている。

それでもオーディオの世界で圧電素子が採用される事はなかったが、
今回の発電ゴムは可能性があるように思える。

当然カートリッジへの採用がまず考えられる。
しかもゴムだから、この圧電素子自体がダンパーを兼ねることになる。
コイルも磁気回路もいらない。
設計の自由度は高くなる。

これまでのカートリッジとは違う音を開いてくれる可能性もある。

Date: 5月 23rd, 2015
Cate: 孤独、孤高

毅然として……(その17)

コンサートホールで音楽を聴く人のことを、聴衆と呼ぶ。
けれど家庭でオーディオ機器を介して音楽を聴く人のことは聴衆とは呼ばない。

聴き手と呼んだり、リスナーだったりする。

レコードと本は似ているところもあり、そうでないところもある。
本を読む人のことは読者という。
ならば音楽を聴く人のことは聴者ということになる。

実際に聴者という言葉はある。
けれど聴者という言葉は、読者ほど一般的ではないし、
コンサートホールで音楽を聴く人のことを聴衆とは呼んでも聴者と呼ぶことはまずない。

この「聴者と読者」については、
黒田先生がステレオサウンド 43号からの新連載「さらに聴きとるものとの対話を」で書かれている。
当時読んで、なるほど、と感心した。

コンサートホールで音楽を聴く。
私にとって、このことはほぼクラシック音楽をコンサートホールで聴くことを意味している。
そこでは音楽を聴くというのは、「個」の行為である。
この点においては、まわりに人がいたとしても、
家庭で一人で聴くことと本質的には違いはない。

クラシックのコンサートでは、皆息をひそめるように聴いている。
そして演奏が終る。
皆が拍手をする。

この拍手という行為は、「個」の行為といえるのか。
ここで聴衆になるといえるのか。

こんなことを考えながら、(その2)で書いた映画「仮面の中のアリア」の冒頭のシーンを思い出していた。
そこでの拍手について。

Date: 5月 23rd, 2015
Cate: 楽しみ方

想像は止らない……(その1)

オーディオの楽しみの、少なからぬ部分は想像だと思っている。

オーディオに興味を持ち始めたばかりのころ、
ステレオサウンドの記事を読んでは、
そこに登場しているオーディオ機器の音を想像していた。

どのスピーカーが自分に合うのだろうか、アンプは……、カートリッジは……、と想像する。
オーディオはコンポーネントだから、組み合せなければ音は出ない。
だから組合せもあれこれ想像する。

組合せを想像しては、どんな部屋が似合うだろうか、とまた想像する。
どういう置き方をしたらいいのか、具体的なことも想像してみる。

とにかくオーディオに関する想像は始めたら終りがない、ともいえる。

想像はそれだけではなく、こんなことも10年以上前から想っている。
洋楽にはカバーアルバムというのがある。
ならばオーディオ機器にも、カバーモデルというのがあってもいいじゃないか、とおもう。

カバーモデルとは、あまりいい語感ではないから、オマージュモデルとでもいおうか。
そういうモデルが登場してきてもいいのではないか。

たとえばJBLのパラゴン。
パラゴンのオマージュモデルを、他のメーカーが出すということを想像していた。

いまはもう創業者のフランコ・セルブリンが離れ、
しかもフランコ・セルブリンが亡くなってしまっているからもう望めないが、
フランコ・セルブリンがいたころのソナスファベールがパラゴンのオマージュモデルをつくったら……。
パラゴンのオマージュモデルということで、まっさきに浮んだのはこれだった。

Date: 5月 23rd, 2015
Cate: 日本のオーディオ

日本のオーディオ、これまで(続ハンダ付け)

魚を焼く網へのハンダ付け。
山水電気だけでなく、他の国産メーカーもやっていたところはあるし、
やっていないとこもあっただろう。

この研修をやっていたメーカーの工場でハンダ付けを担当されていた人たちは、
このことは出来てあたりまえのハンダ付けの腕前であったわけだ。

当時の国産のオーディオ機器は、そういう人たちの腕前によって作られていた。
いまはどうなっているのたろうか、と思う。
いまも同じレベルのところもあるだろうし、
そうでないところもあると思う。

そして、想像でしかないのだが、後者のほうが増えて来つつあるのかもしれない。
それだけではない、海外はどうなのか、とも思ってしまう。

海外製品の中には、ひじょうに高価すぎるオーディオ機器がある。
それらは、国産メーカーのハンダ付けと少なくとも同等、もっと上のレベルなのだろうか。
ついそんなことを考えてしまう。

ハンダ付けは基本である。
だからこそ、たとえば往年の管球式アンプを修理もしくはメンテナンスに出す際には、
ハンダ付けの技術を確認するのもひとつの手だといえる。

多くの業者が、完璧なメンテナンスを行います、と謳っている。
オリジナルパーツを使います、とか、よりよいパーツと交換します、とか。
そんなことよりも大事なのは、メンテナンスを施す人のハンダ付けの技術である。

調子のいいことをいう業者はいる。
それだけではない、自分より上の技術を目にしたことがない人は、
自分のレベルが高いと思い込んでいることだってある。

そういう人に、大事に使ってきたオーディオ機器の修理をまかせても平気な人はいない。
そういう人を見抜くには、魚を焼く網にハンダ付けをしてもらうのもひとつの手である。
そして、ハンダ付けが終った網を硬いものに力いっぱい叩きつける。
ハンダがひとつも落ちなかったら、その人のハンダの技術はしっかりしたものといえる。
ボロボロ落ちるような人には、決して愛器の修理はまかせてはいけない。

Date: 5月 22nd, 2015
Cate: 変化・進化・純化

変化・進化・純化(その5)

考え込むことになることはある。
けれど「立ちどまるな」という声が聞こえてくる──、そんな気がする。

蚕が死に行くまで糸を吐き続けるのだから。

Date: 5月 22nd, 2015
Cate: 使いこなし

スピーカー・セッティングの定石(その3)

KEF Model 105に感じた疑問。
それに対する答らしきものを見つけるにはけっこうな時間を必要とした。
ずっと考え続けていたわけではないが、それにしても20年以上経っていた。

それでも答らしきものとしかいえない。
これが完全な答とはいえない。
それでも、これまで聴いてきた音、聴かせてもらった音をふり返って気づいたことがある。
低音再生に関しては、スピーカーを内側に向ける必要はないどころか、
むしろ内側に向けない方がいいのではないのか。

スピーカーと聴き手の位置関係は、
左右のスピーカーを結んだ距離を底辺とする正三角形の頂点で聴くことが基本である。
正三角形が、時には部屋の関係もあって二等辺三角形になることもあるが、
基本は正三角形であり、スピーカーシステムの指向特性が60度の範囲まで保証しているものであれば、
たしかにスピーカーシステムを内側に向ける必要はない、ともいえる。

けれど実際にはスピーカーシステムの指向特性が再生周波数帯域で均一であるとはいえない。
JBLは4350、4341(4343)といった4ウェイのスタジオモニターを開発した理由は、
この指向特性の均一化の実現である。

ただしここでの指向特性はあくまでも水平方向のものであり、
ユニットの数が増えるマルチウェイでは垂直方向の指向特性はまた別問題として存在する。

実際には、だからスピーカーシステムを内側に向けることが多くなる。
どのくらい内側に向けるのか、その角度はスピーカーの指向特性も関係してくるし、
スピーカーシステムのエンクロージュアのプロポーションも関係してくる。

たいていの場合、内側に向けた方がいい結果が得られる。
けれどもし低域(ウーファー)のみ、内側に向けずに正面を向かせ、
中高域のみ内側に向けることができたら……、と考えたことがあった。

そして自作スピーカーを、実にうまく鳴らしている人のセッティングを思い出していた。

Date: 5月 22nd, 2015
Cate: 程々の音

程々の音(その28)

タンノイ・コーネッタをいまでも欲しい気持をつねに感じながら、
この項を書いていて気づいたことがある。

毎日目にしている、
そしていまも目の前に存在感たっぷりにいるHarknessのことである。

15インチ口径のフルレンジユニットのD130と175DLHの組合せ。
バックロードホーンであっても、エンクロージュアのサイズはさほど大きくない。

ユニットの口径こそ違えど、このHarknessも、コーネッタ的スピーカーなのではないか。
そう思えてくる。

バックロードホーンという構造もあって、低域はそれほど下まで延びているわけではない。
高域に関しても175DLHだから、さほど延びていない。
つまりHarknessそのものはナロウレンジのスピーカーシステムだし、
「コンポーネントステレオの世界 ’76」巻頭のシンポジウムでは、
Harknessは古い時代のスピーカー代表として登場しているくらいである。

1975年当時で、すでに古い時代のスピーカーを、
その40年後に鳴らすということは、どういうことなのかを考えている。

このHarknessで、鳴らすアンプの組合せをうまく考えれば、
コーネッタを欲しいという気持、コーネッタで鳴らしたいと思っていた音の世界を、
同じように鳴らせるはずである──、そう思えてくる。

Harknessはコーネッタよりも能率が高い。
パワーアンプの出力を欲張らなければ、300Bシングルアンプでもいける。
これもいいな、と思えてくるのだが、
ここで(その24)で書いたことがひっかかってくる。
自分で書いたことが、なにか足枷のように感じられてくる。

ワーズワースの有名な詩句 “plain living, high thinking” をもとに、
“plain sounding, high thinking”と書いた。
この“plain sounding, high thinking”がひっかかってくる。

Date: 5月 22nd, 2015
Cate: オーディオマニア

つきあいの長い音(その3)

つきあいの長い音を持つ人が得られるのは、安心感だけではない。

Date: 5月 22nd, 2015
Cate: 日本のオーディオ

日本のオーディオ、これまで(ハンダ付け)

ずっと以前の話だ。
山水電気は新入社員の研修の一環として工場に行き、ハンダ付けをやらされる。
プリント基板にではなく、魚を焼くときに使う金属製の網をである。

網のワイヤーとワイヤーが交わっている箇所を、すべてハンダ付けしなければならない。
山水電気はオーディオ専業メーカーだから、
新入社員の多くはラジオ、アンプの自作の経験を持つ者も多い。
ハンダ付けにもみな自信を持っている。

すべての箇所がハンダ付けされた網を、
工場勤務の女性が手にとり、作業台の天板の角に網を叩き付ける。
するとハンダがボロボロと落ちていくそうだ。

工場勤務のハンダ付けのベテランの人たちによる網は、当然のことながらひとつも落ちない。

昔はそういう人たちの手によって、オーディオ機器が作られていた。
高価で信頼性の高い部品をどれだけ使おうと、
余裕のある動作をする設計しようと、
ハンダ付けの技術が未熟な手で作られてしまえば、どうなるか。

山水電気の新入社員たちは工場に勤務するわけでhなく、
開発や、営業、広報の仕事につくわけで、網にハンダ付けができてもできなくと、
工場から出来上がってくる製品の出来には直接関係ないわけだが、
だからといって、このハンダ付けの研修が無駄とは思わない。

Date: 5月 21st, 2015
Cate: 使いこなし

スピーカー・セッティングの定石(その2)

コンクリートブロックのような例は他にもあるが、ひとつひとつ書いていくつもりはない。
定石はない、ということの例として書いたまでである。

そう書きながらも、まったく定石といえることはないのか、とも考えてしまう。
なにかひとつぐらいはあるのではなかろうか。

いまから40年ほど前にKEFからModel 105というスピーカーシステムが登場した。
30cm口径のウーファー、11cm口径のスコーカー、5cm口径のドーム型トゥイーターの3ウェイ。
このスピーカーシステムは、
ウーファーをおさめた、フロントバッフルが傾斜したメインエンクロージュアの上に、
スコーカーとトゥイーターをおさめたサブエンクロージュアがのるという、階段状の外観をもつ。

中高域のサブエンクロージュアは上下と左右に動かせるようになっている。
垂直は±5度、水平は±20度の稼働範囲をもっている。
トゥイーターとスコーカーの間にインジケーターがあり、
これを目安にして調整しやすいように配慮されている。

実をいうと、この可動範囲が、当時中学生だった私は疑問だった。
垂直(上下)の調整は理解できる。
聴き手が坐る椅子の高さ、それに聴き手の座高などが人によって違うのだから、
最適な位置を調整できるようにするのはわかる。

わからなかったのは、なぜ水平方向にも動かせるようにしているのか、だった。
この調整はスピーカーシステム本体の振りを動かすことで調整できるわけだから、不要なのではないか。
なぜ余分な機構をつけているのか、そんな疑問を持っていた。

この疑問はずっと持ちつづけていた。

Date: 5月 21st, 2015
Cate: 境界線

境界線(余談・続々続々シュアーV15 TypeIIIのこと)

「続コンポーネントステレオのすすめ」で、シュアーのV15シリーズについて書かれている。
     *
 ところでシュアーだ。表看板のV15シリーズは、タイプIVまで改良されて、改良のたびにいろいろと話題を呼ぶ。ひとつ前のタイプIIIは、日本でもかなりの愛好家が持っているし、若いファンのあこがれにもなったベストセラーだ。けれど、私はタイプIIまでのシュアーが好きで、タイプIII以後は敬遠している。まあ参考としては持っているが。
 V15の最初のモデルは、いま聴き直してみても素晴らしい。とくにピアノのタッチの、鍵盤の重量感がわかるような芯の強い輝きのある音。ルービンシュタインのステレオ以後の録音にはことによく合う。そう、カートリッジのルービンシュタインと言いたいほど、V15は好きだ。
 タイプIIになって、もっとサラッとくせのない音になった。ちょうどオルトフォンがSPUからMCに変った印象に似ている。その意味ではタイプIIでない最初の音のほうが、個性的だが魅力もあった。けれどタイプIIは、トレースの安定性とバランスの良い格調高い音質が、当時はズバ抜けた存在で、最も安心して常用できるカートリッジひとつだった。
 タイプII以前のシュアーが、最高の性能と音の品位を追求していたのに対して、タイプIII以後のシュアーの音は、逆に大衆路線に変更された。そこが、私のシュアー離れの大きな原因だ。これは私の想像だが、タイプIIIは、その時点でのコンポーネントステレオ・パーツの、ごく一般的な水準にぴたりとピントを合わせて計画されたにちがいないと思う。実際、たいていのコンポーネントステレオにV15/IIIをとりつけると、とたんに解像力の良い、格段に優れた音を聴かせる。一般評価が高まったのもとうぜんだ。
 だがおもしろいことがわかってくる。タイプIIIは、再生装置のグレイドがある水準を越えて上ってくるにつれて、次第に平凡な音に聴こえてくる。再生装置が極めて品位の高い音質に仕上がってくると、もはやタイプIIIの音の品のなさはどうしようもなくなってくる。
     *
V15 TypeIII以降はTypeVまでじっくり聴いている。
TypeIIと最初のオリジナルモデルは聴いていない。

瀬川先生の、この文章を読むと、最初のV15を無性に聴いてみたくなる。
「カートリッジのルービンシュタイン」、これだけでそう思えてくる。
そして、これだけでV15の音が想像できる。

V15でルービンシュタインのレコードを鳴らしてみたくなる。

この文章を読んでわかるのは、
シュアーのV15の歴史の中にも境界線があったことがわかる。