Author Archive

Date: 2月 4th, 2016
Cate: ステレオサウンド

ステレオサウンドについて(その2)

「ステレオのすべて」を選ばなかった理由は、自分でもはっきりとしていない。
最後まで迷っていた。

そうやって選んだステレオサウンド 41号と別冊の二冊を、
冬休みの二週間、朝から夜までずっと読んでいた。
記事を読み、広告も読み、また最初から読みなおす。

このときの私には、オーディオに関する知識はほとんどなかった。
「五味オーディオ教室」を読んで得たものだけだった。

具体的な製品名やメーカー名に関しても、
「五味オーディオ教室」に登場してくるモノは知っていても、
それ以外の多くのモノについては何もしらないに等しかったし、
オーディオ評論家に関しても、何も知らなかった、といえた。

だからステレオサウンドか「ステレオのすべて」かで迷ったときに、
誌面に登場するオーディオ評論家の名前は何の参考にもならなかった。

本を書店に手に取り、そこから感じるものを選んだ。
こう書いていくと、「五味オーディオ教室」で出発したのだから、
ステレオサウンドを選ぶのは当然と思われる人もいるだろうが、
このころのステレオサウンドには五味先生は登場されていなかった。

手にした二冊のステレオサウンドで私が、より熱心に読んでいたのは、
「コンポーネントステレオの世界 ’77」のほうだった。

Date: 2月 4th, 2016
Cate: ステレオサウンド

ステレオサウンドについて(その1)

私が最初に手にしたステレオサウンドは、何度か書いているように、
41号とと同時期に発売になっていた別冊「コンポーネントステレオの世界 ’77」の二冊である。
1976年の12月だった。

その数ヵ月前に、私は「五味オーディオ教室」と出逢っていた。

中学二年の冬休みを、オーディオの本をじっくり読みながら過ごしたいと思っていた。
当時は地方の個人経営の書店にもオーディオの雑誌は並んでいた。

ステレオサウンドはそのころ1600円だった。
別冊も1600円だった。二冊あわせて3200円。

働いている人にとってはたいしたことのない金額であっても、
中学生が小遣いで買うには、けっこう大きな金額だった。

書店にはステレオサウンド以外のオーディオ雑誌も並んでいた。
音楽之友社の「ステレオのすべて」もあった。

ステレオサウンドがB5版、「ステレオのすべては」はA4版だった。
価格も同じか少し高かったかもしれない。

「ステレオのすべて」も買いたかった。
ステレオサウンド 41号と「コンポーネントステレオの世界 ’77」は、
書店で見つけてすぐに買ったわけではなかった。
三冊すべて買えるほどの余裕はなかった。
どれかをあきらめなければならなかった。

どれにするかを決めるのに、三日ほど書店に通っては悩んでいた。
そして選んだのがステレオサウンドであり、
「ステレオのすべて」はあきらめた。

こうやってステレオサウンドを読むようになっていった。

Date: 2月 4th, 2016
Cate: audio wednesday

第62回audio sharing例会のお知らせ(マッスルオーディオで聴くモノーラルCD)

3月のaudio sharing例会は、2日(水曜日)です。

3月のaudio sharing例会は、以前書いたことをやる予定だ。

私のところにあるJBLの2インチスロートのコンプレッションドライバー2441を持っていく。
ホーンはJBL唯一の木製の2397、
スロートアダプターに2329を使い、
2397一本に二発の2441を取りつける。

2441は一本あたり11.3kg、これが二本で22.6kg。
2397が4.4kgで、これに2329(重量は発表されていないが2kg弱か)が加わるから、
トータル重量は28kgをこえる。
これが片チャンネルの中高域を受け持つ。

これだけのモノを中高域にもってくるとなると、
低音域はもちろんダブルウーファーが必然となる。

両チャンネルをこの規模で揃えるのはたいへんだけど、
モノーラル(片チャンネル)だけなら、器材は揃っている。

それでモノーラルCDに限定することで、
ダブルウーファー、ダブルコンプレッションドライバーの音を聴く会をやる。

アンプは喫茶茶会記常備のマッキントッシュのMA2275を使う。
片チャンネルを低域用に、もう片チャンネルを高域用に使うことで、
バイアンプ駆動が可能になる。

デヴァイディングネットワークは抵抗とコンデンサーだけの、
パッシヴ型の12dB/oct.のモノを作っていく。
クロスオーバー周波数は600Hzを予定している。

これをCDプレーヤーとMA2275の間に挿入すれば、バイアンプシステムが整う。
このシステムを、ダブルウーファー、ダブルコンプレッションドライバーのシステムと呼んでもいいが、
長いので、マッスルオーディオと呼びたい。

ウーファーはアルテックの416-8Cなので、
JBL・アルテックの混成部隊となる。

こまかなことを気にする人には向かない音が出てくると思う。
それにくり返すがモノーラルCDしかかけられない。

場所はいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

Date: 2月 3rd, 2016
Cate: 「スピーカー」論

トーキー用スピーカーとは(トーキー映画以前)

トーキー映画の前は、サイレント映画である。
日本ではサイレント映画には活動弁士がいた。

同じ映画でも、上映する映画館によって活動弁士は違うことになる。
徳川夢声という人気弁士がいたというから、
弁士によって、同じ映画であっても印象が違ってきたはずだ。

うまい弁士もいればへたな弁士もいたはず。
よく話す弁士もいればそうでない弁士も、
それに弁士ひとりひとり声が違う。

徳川夢声の声は「カリガリ博士」にぴったり合っていた、とのこと。

東京においても、山の手の劇場と浅草の劇場とでは違っていたらしい。
山の手調と浅草調とがあったとのことで、浅草の劇場では弁士が歌うこともあり、
歌がうまいと観客も喜び掛け声をかけたりしていたそうだ。

けれど山の手の劇場、山の手調の弁士はぜんぜん違っていたらしい。
東京ですらこれだけ違うのだから、東京と関西とでは違う。
関西の弁士は東京の弁士よりも、よくしゃべる傾向にあった。

人気弁士は、地方の劇場を巡業していたから、
そういう弁士ならば、東京と関西でも同じになるかというと、そうでもないらしい。

徳川夢声はたいへんな飲んべえで、大阪に着くまでにえんえんと飲んでいて、
肝心なときに寝てしまっていた、というエピソードもある。

一本のサイレント映画を、どこで観るのか、どの弁士で観るのか。
そういう楽しみが、当時はあったわけだ。

それがトーキーになりスピーカーがスクリーン裏に設置され、音がついた。
音がついたことで映画の表現力は増し、そこでのトータルのクォリティは管理されることになる。
映画館の違い(弁士の違い)は、もうないわけだ。

サイレント映画における弁士の存在は、
オーディオとまったく関係ないこととは思えない。
なにかひっかかってくるところを感じている。

Date: 2月 2nd, 2016
Cate: 所有と存在, 欲する

「芋粥」再読(その1)

別冊 暮しの設計 No.20「オーディオ〜ヴィジュアルへの誘い」には、
安岡章太郎氏の「ビデオの時代」が載っている。

そこに、こう書かれている。
     *
 七十歳をこえた小生ぐらいの年になると、中学生の頃から見てきた数かずの映画の大部分を忘れてしまっているので、これをビデオで繰り返し見ているだけでも、余生を娯しむには十二分のものがある。いや、昔見たものだけではない、見落したものや、全く知らなかったものまでがビデオになっているので、こういうものを全部入れると、もう残り少ない自分の人生を総てビデオ鑑賞のために費やしても、足りないことになるかもしれない。
 先日、岡俊雄氏からキング・ヴィドゥアの名作『ザ・ビッグ・パレード』のビデオを拝借したとき、岡さんは現在、エア・チェックその他の方法で見たい映画、気になる映画のビデオを殆ど蒐集してしまったが、そうなると却って、もうビデオを見る気がせず、録画ずみのカセットの山をときどき呆然となって眺めておられる由、伺った。
「われながら奇現象ですな、これは」
 と、岡さんは苦笑されるのだが、私は芥川龍之介の『芋粥』の主人公を思い出した。実際、充足ゆえの満腹感が一種の無常観をさそうことは、現代日本の何処にでも見られることだろう。
 考えてみれば、庶民に夢をあたえてくれるものが映画であり、だからこそ映画撮影所は「夢の工場」などと呼ばれたわけだろう。そして庶民の夢は、つねに多分に物質的なものであるから、一旦夢がかなえられると直ちに飽和点に達して、夢見る能力自体が消えてしまうわけだ。
     *
芥川龍之介の短篇「芋粥」は、学生のときに読んでいる。
いまでは青空文庫で、インターネットにつながるのであれば、すぐに読める。

手元に「芋粥」がおさめられている文庫本がないから、
青空文庫からダウンロードしてiPhoneで読みなおした。

長くはないから、すぐに読み終えるし、
インターネットで検索すればあらすじもすぐに読める。
それに、昔読んでいる、という人のほうが多数だろう。

主人公である五位にとっての芋粥は、現代の私たちオーディオマニアにとっては、何にあたるのだろうか。
レコードがまず浮ぶ。

LP、CD、その他の方法で入手できる録音の数々。
ずっとずっと昔にくらべれば、レコードの価格は相対的に低くなっている。
それだけでなく、ここ十年以上、各レコード会社から発売されるCDボックスの枚数と、その安さ。
同時に、購入もインターネットを通じて簡単にできるし、すぐに配達される。

このブログを読まれている方のなかには、
リスニングルームに未開封のCDボックスがあるという人もいると思う。
それもひとつやふたつではないかもしれない。

2ちゃんねるのクラシック板には、
《未聴のCDの山を見て人生の残りを考える》というスレッドがあり、かなり続いている。

Date: 2月 1st, 2016
Cate: ヘッドフォン

ヘッドフォン考(終のリスニングルームなのだろうか・その6)

岡先生がAKGのK1000について書かれた文章をさがしていた。
とりあえず見つかったのは、
別冊 暮しの設計 No.20「オーディオ〜ヴィジュアルへの誘い」にあった記事だ。

このムックは中央公論社から1992年に出ている。
岡先生と菅野先生が監修されている。

すこし長くなるが引用しておこう。
     *
 それ以上に優れているのは音のよいことである。今まで音のよいヘッドフォンといえば、ソニーのMDR−R10が抜群であり、スタックスのΛ(ラムダ)Σ(シグマ)シリーズの上級機も定評があったが、K1000はダイナミック型のもつ力強さとコンデンサー型の繊細さや透明度を持ち、歪み感のすくないことでも注目されるものであった。本機はパワーアンプの出力をそのまま入力すればよいようになっている。インピーダンスが120オームなので、ふつうのスピーカーを聴くときに上げるアンプのヴォリュームの位置と大差はないところで、ほどよい音量が得られる。
 K1000が発表されたのは1990年だが、1991年にこのヘッドフォンのための専用アンプ(K1000アンプリファイアー)が発売された。純粋A級アンプで、ヘッドフォン専用アンプとして作られただけに、このアンプを通したときの音がもっともよい。
 入出力ともXLR(キャノン端子)コネクター用によっており、入力は3端子のバランス専用、出力はLR共用の4端子が1対装備されているので、K1000を2本つなぐことができる。
 このアンプが現われたので、バランス出力のあるCDプレイヤーやDATあるいはカセットデッキなどを直接モニターすることができる。音量調整も出力端子のすぐそばにヴォリュームがあるので、容易に好みのレベルに設定できる。
 K1000はたしかにヘッドフォンにちがいないが、聴感覚的にはヘッドフォンを使っているという感じをまったく与えないのは、ヘッドバンドの構造とユニットの支持法が実によく考えられているのと、完全オープン・タイプであるために、長時間使用していても違和感や疲労感がまったく生じないためである。
 また、プレイヤーの出力をダイレクトに専用アンプを経由させるだけで、余計な回路を通っていないので、プログラムのクォリティ・チェックにもひじょうに有用である。
 筆者は、仕事の必要上新譜のテストを数日間聴きっぱなしということがある。スピーカーから出る音との音場感の差などを常時チェックしたりするけれど、大部分、K1000だけで試聴して何の不都合も感じない。ひじょうにありがたいのは夜遅く聴かなければならないときに、あまり大音量を出すことは考えものなので、机上の両サイドに置いている小型モニター・スピーカーで接近試聴という不便なことになってしまうが、K1000では、ドアを開けてレコードを大音量(?)で聴いても、隣りの部屋での睡眠の何の邪魔にもならず、昼間と同じ再生レベルで聴くことができる。
 このまったく新しいヘッドフォンを使用中にひとつ新しい発見があった。聴いている音楽を同時にスピーカーからも音を出してみる。それも音量感からいえば、ヘッドフォンを耳で聴いているレベルの数分の1から10分の1ぐらいでよいのだが、このスピーカーの音によって、音場感がひじょうに広くなりパースペクティヴも感じられる。レベル差がひじょうに大きいので定位感はヘッドフォンの音で決まってしまうので、スピーカーに対するリスニング・ポジションを気にすることも必要ではない。今までサテライト・スピーカーを使ったり、いろいろな音場再生を行なってみたことはあるが、ソースのクォリティを損なわず音場感を得られるということは実におもしろい経験でもあった。
 筆者にいわせれば、ミニ・ハイファイ・システムのひとつの極点が、こんなところにあるのではないかと思った次第である。ただし、K1000が17万5千円、専用アンプが22万5千円だから、合せて40万円になる。これを高いと思うか安いと思うかはその人次第だが、いまの高級コンポーネントが、100万から数百万までのがざらにあることを考えれば、筆者はこれは安いと思う。
     *
岡先生はK1000を「新しいヘッドフォン」と書かれている。
そうだと思う。
そういう「新しいヘッドフォン」の真価を、
知人は見抜けなかったから、K1000のことを酷評したともいえる。

ちなみに知人は、私よりは年上だが岡先生よりもずっと若い。

Date: 2月 1st, 2016
Cate: audio wednesday

第61回audio sharing例会のお知らせ(聴感上のS/N比)

今月のaudio sharing例会は、3日(水曜日)です。

真空管には高信頼管というモノがある。
電圧増幅管としてポピュラーなモノには高信頼管はある。

通常管と高信頼管。
名前の印象だけで判断すれば、後者のほうが優秀な真空管のように思える。
オーディオマニアにとって、優秀とは音がいい、ということでもあるわけだが、
通常管と高信頼管、どちらが音がいいのかについては、人によって違ってくる。

高信頼管がいいという人もいれば、
高信頼管の音には音楽性がない、
通常管のほうが音楽性があるからいい、という人もいる。

もっともいまでは高信頼管とは名ばかりの真空管も出廻っているようだから、
そういういかがわしい高信頼管のことではない。

真空管全盛時代につくられた高信頼管であっても、
聴く人によって、通常管との音の違いは評価がわかれる。

私がどちらがいいと思っているのかは書かないが、
ノイズと音の関係性を考えれば、納得のいくことだ。

真空管の違いは直接的なS/N比にも関係してくるが、
聴感上のS/N比にも関係してくる。

どこまでいってもノイズを完全に排除することはできないだろう。
どこかでノイズとの折り合いをつけていくのがオーディオである。

場所もいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

Date: 1月 31st, 2016
Cate: 老い

老いとオーディオ(若さとは・その2)

むき出しの才能、
むき出しの情熱、
むき出しの感情、
これらをひとつにしたむき出しの勢いを、
持っていただろうか……、とふりかえる。

Date: 1月 31st, 2016
Cate: 老い

老いとオーディオ(若さとは・その1)

若さとは、
むき出しの才能、
むき出しの情熱、
むき出しの感情、
なのかもしれない。

Date: 1月 30th, 2016
Cate: 「オーディオ」考

「虚」の純粋培養器としてのオーディオ(ライバル考)

囲碁や将棋、
ほんとうに強くなるためにはライバルの存在が不可欠のように思う。
囲碁に関してはまったく知らないし、
将棋に関しても駒の動かし方をなんとなく憶えている程度の者のいうことだから、
あてにならないのかもしれないが、
それでもたったひとりだけで勉強していって、ほんとうに強くなれるものだろうか。

囲碁、将棋の才能に恵まれた人がいたとする。
けれど、彼のまわりには彼と同程度の実力をもつ、
つまりライバルとなり得る存在がいなかったとしたら……。

将棋や囲碁の世界には、名人といわれる存在の人たちが、
上の世代にいるわけだから、たとえライバルがいなくともその人たちを目指していけば、
強くなれるはず──、そう思えなくもないが、それでも……、とやはり思う。

オーディオはひとりで完結しようと思えばできなくはない趣味である。
オーディオ仲間をいっさいつくらずに、趣味として楽しむことができる。
誰かと対戦するわけではないから、
将棋や囲碁とは違いライバルは必要としない趣味、と果していえるだろうか。

ライバルなんて、プロの世界だけのものでしょ、という意見もあるだろう。
それに生の演奏がライバルだ、という意見もあるはずだ。

そう思える人はそう思っていればいい。
「虚」の純粋培養器としてのオーディオ、というタイトルをつけてしまってから考えているのが、
ライバルの存在に関して、である。

まだ結論に近いものが見えているわけではない。

Date: 1月 29th, 2016
Cate: 「スピーカー」論

「スピーカー」論(いま読み返している)

ヤマハのNS5000のことを書くにあたって、
ダイヤトーンのDS10000のことを比較対象としている。

そのためステレオサウンド 77号、
ステレオサウンド創刊20周年記念別冊「魅力のオーディオブランド101」を読み返している。

77号には特集Components of The yearの、
JBLのDD55000とマッキントッシュXRT18のところも併せて読んでいる。

この年、ゴールデンサウンド賞として三機種のスピーカーシステムが選ばれている。
ひとつは大型ホーンを使ったフロアー型、そして高能率のスピーカーシステム、
ふたつめはソフトドーム型トゥイーターを複数使用したトゥイーターアレイが特徴であり、
能率は低めの、やや小さめのフロアー型。
みっつめは国産オーディオメーカー独自の3ウェイ・ブックシェルフという形態を、
最大限まで磨き上げたモノである。

まさに三者三様のスピーカーシステムが、
1985年のComponents of The yearのゴールデンサウンド賞になっている。
だからこそ、そこでの座談会がおもしろい。

77号にはダイヤトーンのDS10000の記事が9ページ載っている。
菅野先生が書かれている。

「魅力のオーディオブランド101」で、これらの記事と併せて読んでほしいのは、
ダイヤトーンのところである。

菅野先生と井上先生が郡山のダイヤトーンの試聴室を訪ねて、
2S305とDS10000を聴かれての座談会が載っている。

「魅力のオーディオブランド101」では、オーディオ評論家三氏が、
国内オーディオメーカーの試聴室を訪ねたものを中心に構成されている。

ただダイヤトーンでは、柳沢功力氏が都合が悪く参加できなかった、とある。
このことが、ダイヤトーンの記事をより面白くしていると感じている。

聞き手としての柳沢氏がいい。
柳沢氏が参加されていたら、違うまとめになっていたはずだし、
もちろんその方がよりおもしろくなるかもしれないが、
少なくともダイヤトーンの訪問記は、読み手が知りたいと思っていることを、
柳沢氏が、菅野先生、井上先生にストレートにきかれている。

いまステレオサウンドでは、過去のバックナンバーから記事を集めたムックを出している。
私は、ステレオサウンド 77号のComponents of The yearの座談会、
菅野先生のDS10000の記事、
「魅力のオーディオブランド101」のダイヤトーンの記事。
この三つの記事をひとつにまとめてほしいと思う。

スピーカーというモノをどう捉えるのか。
そのためのヒントが、これら三つの記事をまとめて読むことで得られるからだ。

Date: 1月 28th, 2016
Cate: audio wednesday

第61回audio sharing例会のお知らせ(聴感上のS/N比)

2月のaudio sharing例会は、3日(水曜日)です。

同じメーカーのスピーカーシステムで、開発年代が大きく離れているモノを比較試聴すると、
いろいろなところが変っていることがわかると同時に、
聴感上のS/Nvv比が向上していることは、明らかである。

少なくとも名のとおったスピーカーメーカーのフラッグシップモデル、
それに類するモデルでは、聴感上のS/N比はほぼ間違いなく向上しているといえる。

それでは旧いスピーカーシステムは聴感上のS/N比が低いとはいいきれない。
たとえばJBLのコンプレッションドライバーをみればすぐに理解できることだが、
どこを叩いても雑共振をするところがない。

すべてのメーカーのコンプレッションドライバーがそうだとはいえないけれど、
JBLの375(376)、2440(2441)の実物に触れたことのある人ならば、理解されるはずだ。

けれどコンプレッションドライバーは基本的にドライバー単体では使えない。
必ずなにがしかのホーンとの組合せが必要となり、
このホーンが、場合によっては聴感上のS/N比を劣化させている。

ホーンの形状、ホーンの材質、ホーンの取りつけ方などによって、
聴感上のS/N比は変ってくる。
同じドライバーでもホーンの形状によって出力音圧レベルもわずかながら変化する。

ドライバーに限らない。
高能率のドライバーに合せるために能率を高くすることを第一としたコーン型ウーファーに関しても、
潜在的な聴感上のS/N比の高さを認められるモノがある。

聴感上のS/N比をよくする、とよくいうし、いわれている。
けれど実際には聴感上のS/N比を劣化させている要因をひとつずつ(少しずつ)排除していった結果として、
本来の聴感上のS/N比が活きてくるわけだ。

場所もいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

Date: 1月 27th, 2016
Cate: 日本のオーディオ

日本のオーディオ、これから(ハイテクと呼べるモノ)

ハイテク(high-tech)。
ハイテクノロジー(high technology)の略であり、
1980年代はよく使われた言葉だったが、いまではあまりみかけることもなくなっきた。

以前はハイテク・オーディオ機器はアンプだっただろうし、
CDプレーヤー登場以降は、CDプレーヤーを始めとするデジタル機器であり、
いまではハイレゾリューション対応であることが、
一般的にはハイテク・オーディオ機器ということになるであろう。

けれどスピーカーこそがハイテク・オーディオ機器という捉え方も可能である。
1980年代にはいり、新素材の積極的な活用が目立ってきた。
それ以前にも新素材の採用に、オーディオ業界は積極的であった。

スピーカーの振動板に限らず、カートリッジのカンチレバーやトーンアームの分野でも、
新素材の採用は活発だった。

1970年代、スピーカーシステムにおいてはウーファーに関しては、紙の振動板が大半だった。
それが’80年代からウーファーへも新素材が採用されることになる。

この新素材の採用という点からスピーカーをとらえれば、
スピーカーシステムこそがハイテク・オーディオ機器ともいえることになる。

もっともこのことは1980年代にダイヤトーンの技術者によって指摘されていることである。
1986年のステレオサウンド創刊20周年記念別冊「魅力のオーディオブランド101」で、
ダイヤトーンのスピーカーエンジニアの結城吉之氏が語られている。
     *
結城 ハイテク時代といわれていますが、素材のほうから見れば、いまやスピーカーはハイテク商品なんですね。
菅野 ある点では一番原始的ですけど、確かにハイテク商品です。
     *
新素材を採用しただけでハイテク・オーディオ機器となるわけではない、もちろんない。
新素材の特質を活かした形状、構造、使い方を吟味した上で、はじめてハイテクと呼べる。

ダイヤトーンの結城氏の発言はいまから30年前のもの。
けれど、いまもう一度、考えてみるべき価値のある発言だと思っている。

Date: 1月 26th, 2016
Cate: 使いこなし

使いこなしのこと(調整なのか調教なのか・その4)

調教といってしまうと、
暴馬、じゃじゃ馬を力づくでおとなしくさせて訓練する、というイメージがもたれがちである。
けれど調教は、そのことひとつではない。

暴れがちな馬を強制的におとなしくさせたところで、
その馬の良さはいきてこないどころか、殺してしまうことになる。
悪さも殺させるけれども……、である。

いわゆる角を矯めて牛を殺すことになってしまう。
スピーカーに関しても、まったく同じことがいえる。

使いこなしが難しい、いわゆる暴馬的なスピーカーの使いこなしには、
大きくふたつの方法(というか方向)がある。

ひとつはいまあげた、良さも悪さも殺してしまう鳴らし方であり、
これもまた調教といえる。
もうひとつは、とにかく良さも悪さもすべて出して切ってしまう、という鳴らし方である。

長島先生がジェンセンのG610Bの使いこなしにおいてとられたのは、
いうまでもなく後者の鳴らし方(調教)である。

どちらをとるかは人によって違う。
前者を調教とイメージする人もいれば、後者こそ調教と考えている人もいる、ということだ。

長島先生と同世代、
つまりステレオサウンドの初期から関わってこられた方たちは、
後者の調教をとられてきた人たち、ともいえる。

ステレオサウンド 77号のComponents of The yearのゴールデンサウンド賞には、
ダイヤトーンのDS10000の他に、
JBLのDD55000とマッキントッシュのXRT18という対照的なモデルも選ばれている。

そのDD55000について、井上先生が次のように語られている。
     *
 使いこなしが難しいという話が出たけど、このスピーカーの使いこなしには、ぼくは二つの方法があると思うんです。悪さもよさも殺して鳴らすのと、とにかく鳴らし放題鳴らしてしまう方法のふたつが。ぼくは後者をとりますね。鳴らすだけ鳴らして、このスピーカーの音の世界に自分が入ってから、どうするか考える。個人のシステムだから、それでいいと思うんです。最初からいい音、というよりも聴きやすい音を出す必要はない。リファレンス機器じゃないんだから。まずこのスピーカーの音の世界の中に入って、どんな鳴り方をし、どんな素性を持っているスピーカーなのか探って、それからいろいろ苦労したほうがいい。外野にいて、調教しようとしても、鳴ってくれるスピーカーじゃありませんよ、これは。
     *
この井上先生の発言にも、調教という言葉が出てくる。
調整ではなく、やはり調教が、である。

Date: 1月 25th, 2016
Cate: ジャーナリズム

オーディオにおけるジャーナリズム(贅沢な本つくりとは)

マガジンハウス発行の雑誌ku:nel(クウネル) が全面刷新している。
そのことでamazonのレヴュー欄がたいへんなことになっているというニュースをインターネットの記事でみかけた。

創刊号から2010年までの編集長は岡戸絹枝氏。
岡戸絹枝氏は現在「つるとはな」をつくられている。

ku:nel(クウネル) の記事を読みながら、新潮社の「考える人」のメールマガジンのことを思い出した。
五年前のことだ。
冒頭に、こう書いてある。
     *
 他の出版社の雑誌を見ていて、これは絶対に自分ではできないと、これはもうほとんどすべての雑誌についてそう思うのですが、どういう人がこの雑誌を考え出して、何を譲らぬようにしながらこれをつくっているんだろう、と想像したくなるものは数えるほどしかありません。私にとってそのような雑誌の筆頭にあがるのが、マガジンハウスの「クウネル」でした。

「クウネル」があみだした新しい編集スタイルは、その後いろいろな雑誌がとりこんでいったので、ひょっとすると「他の雑誌も同じようなことやってるじゃないですか?」と言い出す人が出て来かねないのですが、とんでもございません。
(全文は新潮社のサイトで読める。)
     *
「考える人」の編集長が、こう言っているのだ。
ただ残念なことは、
このメールマガジンの時点で《それぐらいオリジナルな雑誌でした。》と過去形で書かれていたことだ。
このメールマガジンは2010年のものだから、
岡戸絹枝氏がku:nel(クウネル) を離れられたあとだったのかもしれない。

「考える人」のメールマガジンを読んでいて羨ましいと感じたのは、このところだ。
     *
「クウネル」のアートディレクターは有山達也さんです。有山さんの果たした役割もはかり知れぬほどおおきい。「考える人」のアートディレクターは創刊以来、ずっとひとりで(!)全ページを(!)デザインしてくださっている島田隆さんなのですが、私も島田さんには頭があがりません。必ず原稿をきちんとすみずみ読んでくださった上で、しかるべくデザインをする。もはや「考える人」に欠かせない編集部員のひとりといっていい存在です。余談になりますが、「クウネル」の有山さんと「考える人」の島田さんは、若い頃、中垣信夫デザイン事務所で机を並べていた仲でした。
     *
私が羨ましいと思ったのは、
《必ず原稿をきちんとすみずみ読んでくださった上で、しかるべくデザインをする》、ここである。