Date: 2月 2nd, 2016
Cate: 所有と存在, 欲する
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「芋粥」再読(その1)

別冊 暮しの設計 No.20「オーディオ〜ヴィジュアルへの誘い」には、
安岡章太郎氏の「ビデオの時代」が載っている。

そこに、こう書かれている。
     *
 七十歳をこえた小生ぐらいの年になると、中学生の頃から見てきた数かずの映画の大部分を忘れてしまっているので、これをビデオで繰り返し見ているだけでも、余生を娯しむには十二分のものがある。いや、昔見たものだけではない、見落したものや、全く知らなかったものまでがビデオになっているので、こういうものを全部入れると、もう残り少ない自分の人生を総てビデオ鑑賞のために費やしても、足りないことになるかもしれない。
 先日、岡俊雄氏からキング・ヴィドゥアの名作『ザ・ビッグ・パレード』のビデオを拝借したとき、岡さんは現在、エア・チェックその他の方法で見たい映画、気になる映画のビデオを殆ど蒐集してしまったが、そうなると却って、もうビデオを見る気がせず、録画ずみのカセットの山をときどき呆然となって眺めておられる由、伺った。
「われながら奇現象ですな、これは」
 と、岡さんは苦笑されるのだが、私は芥川龍之介の『芋粥』の主人公を思い出した。実際、充足ゆえの満腹感が一種の無常観をさそうことは、現代日本の何処にでも見られることだろう。
 考えてみれば、庶民に夢をあたえてくれるものが映画であり、だからこそ映画撮影所は「夢の工場」などと呼ばれたわけだろう。そして庶民の夢は、つねに多分に物質的なものであるから、一旦夢がかなえられると直ちに飽和点に達して、夢見る能力自体が消えてしまうわけだ。
     *
芥川龍之介の短篇「芋粥」は、学生のときに読んでいる。
いまでは青空文庫で、インターネットにつながるのであれば、すぐに読める。

手元に「芋粥」がおさめられている文庫本がないから、
青空文庫からダウンロードしてiPhoneで読みなおした。

長くはないから、すぐに読み終えるし、
インターネットで検索すればあらすじもすぐに読める。
それに、昔読んでいる、という人のほうが多数だろう。

主人公である五位にとっての芋粥は、現代の私たちオーディオマニアにとっては、何にあたるのだろうか。
レコードがまず浮ぶ。

LP、CD、その他の方法で入手できる録音の数々。
ずっとずっと昔にくらべれば、レコードの価格は相対的に低くなっている。
それだけでなく、ここ十年以上、各レコード会社から発売されるCDボックスの枚数と、その安さ。
同時に、購入もインターネットを通じて簡単にできるし、すぐに配達される。

このブログを読まれている方のなかには、
リスニングルームに未開封のCDボックスがあるという人もいると思う。
それもひとつやふたつではないかもしれない。

2ちゃんねるのクラシック板には、
《未聴のCDの山を見て人生の残りを考える》というスレッドがあり、かなり続いている。

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