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Date: 5月 2nd, 2018
Cate: 境界線

境界線(その13)

毎月第一水曜日に四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記で、
audio wednesdayをやっている。

昨年、スピーカーのネットワークを改造した。
喫茶茶会記で使われているネットワークは、
コイズミ無線の製品で、800Hzのクロスオーバー周波数という仕様。

改造前まではスピーカーエンクロージュアのすぐ後に置かれていた。
改造後は、アンプ(マッキントッシュのMA7900)の真後ろに置いている。

配置場所の変更理由は、改造によって、アースの共通インピーダンスを極力排除したためで、
ネットワークからアンプへのアース線の数が通常の配線よりも増えている。

この部分を長くしてしまうと、
まずスピーカーケーブルの引き回しがそうとうにめんどうになる。
しかもスピーカーケーブルにかかる費用も増えてしまう。
それに複数になったアース線は、無意味に長くしたくない。

これらの理由で、スピーカー側からアンプ側に移動したわけだが、
そうなってくる、これまで書いてきた、それぞれの領域という面ではどうなるのか。

スピーカー側にネットワークがある場合は、
スピーカーの入力端子まで、つまりスピーカーケーブルを含めてが、
パワーアンプの領域だと定義した。

だが、ネットワークがアンプの真後ろにあって、アースの共通インピーダンスをなくすようにすれば、
どう捉えるのか。
これまで通り、スピーカーまでと考えれば、
アンプの真後ろにあるネットワークへの配線(10数cmほど)までが、
パワーアンプの領域であって、ネットワークの基板以降、
つまりネットワークからスピーカーユニットまでのケーブル(数mになる)は、
スピーカー側の領域となるのか、といえば、
ここではネットワークを含めて、ネットワークからユニットまでのケーブルまでが、
パワーアンプの領域と考える。

Date: 5月 1st, 2018
Cate: アナログディスク再生

シュアーの撤退

シュアーが、今夏、カートリッジから撤退する、というニュースは、
SNSでも拡散されているから、もう目にされていることだろう。

ひとつの時代が終った、
困る……、
これからどうすればいいのか……、
そんな感想も、ニュースの拡散とともに目に入ってくる。

個人的には、撤退は自然な流れだと感じた。
シュアーのイヤフォン部門への力のいれようと比較すると、
カートリッジに関しては、ただ継続しているだけ──、そんなふうに感じていたからだ。

イヤフォンではコンデンサー型の意欲的なモデルも開発している。
実は、もしかするとカートリッジでコンデンサー型モデルを出してくるかも……、
とほんの少しだけ期待していたけれど、可能性は完全にゼロになってしまった。

私はシュアーのカートリッジには夢中になれるモノがひとつもなかった。
V15シリーズにしても、TypeIIIもTypeIVも、
それから上級機のUitra500も、じっくり聴く機会があったけれど、欲しいとはまったく思わなかった。

イヤフォンはSE535が出たばかりのころ、知り合いが「これ聴いてみて」といって聴かせてくれた。
シュアーのイヤフォンということで、実のところ期待はしていなかった。
けれど、シュアーの製品で、初めて欲しい、と思うほどだった。

イヤフォンでこれだけのモノがつくれるのだから、
カートリッジもイヤフォンと同じくらいに本気で取り組んでくれれば、
シュアーのカートリッジで、欲しいと思えるモノが登場したかもしれない。

シュアーは冷静に市場を捉えていたのだろう。

SHURE、昔はシュアと表記されていた。
私がオーディオに興味をもったころはシュアーだった。
いまはシュアである。

Date: 5月 1st, 2018
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(情報量・その5)

情報量の多い音というのは、いわば鮮明な音である。
不鮮明な音を、情報量が多い音ということはない。

鮮明であって、細部まで聴きとれるからこそ、情報量が多いわけだ。
物理的なS/N比が優れているだけでなく、
聴感上のS/N比の優れた音は、ここでいう鮮明な音であり、
情報量の多い音である。

けれど、昔からいわれているのは、不鮮明な音ほど、
聴き手の想像力は、鮮明な音を聴いているよりも働かせている、ということだ。

鮮明な音は、音を待って聴きがちになる、とは黒田先生がよくいわれていたことだ。
耳をそばだてることなく、容易に細部まで聴こえてくるのだから、
スピーカー(音)に対しての意識を、一歩前に向わせる必要はない、ともいえる。

けれど一方で、情報量が多いからこその想像力がある、という意見もある。
不鮮明な音、情報量の少ない音での想像力は、
聴こえない音を補おうとしての想像力であり、
情報量が多い音での想像力は、そこから先の想像力である、と。

そうかもしれないが、
それはあくまでも不鮮明な音に対しても、鮮明な音に対しても、
積極的な聴き手であるからこそだ。

音楽(音)の聴き手として、つねにそうありたいと思っていても、
つねにそうである、といえるだろうか。

情報量は増す傾向にある。
情報量が増えれば増えるほど、
聴き手は、増えた情報量の対処でいっぱいいっぱいになることだって考えられる。

人によって処理できる情報量には違いがある。
同じ聴き手であっても、つねに同じとはいえない。

Date: 4月 30th, 2018
Cate: 新製品

新製品(その17)

オーディオマニアを自認している人であっても、
製品にまったく興味がない、という人もいるようだ。

どんな理由から、新製品に興味がないのだろうか。
新製品に興味をもたない人人からすれば、
新製品につねにワクワクしている人は、なぜ、あんなに興味をもてるのか──、
そう見られている。

ステレオサウンド 58号、
「タンノイ研究(4)」で菅野先生が最後に、こう書かれている。
     *
 タンノイをこうしてずっと聴いていると、タンノイの世界に入り切り、しばらく他の音を聴きたくないという気持になる。聴いている音に満足させられているという証拠であると同時に、他のスピーカーを聴いて、もし、そっちのほうがよかったら、今の幸せが壊れてしまうという恐しさなのである。
     *
いま聴いている音に満足しているのであれば、新製品に興味はわかないものか。
確かに不満があれば、
不満とまでいかなくても、もう少し……という気持がどこかにあるからこそ、
新製品、もしくは他のアンプなりスピーカーが気になる、とはいえる。

菅野先生は《聴いている音に満足させられているという証拠》と書かれている。
聴いている音に満足している証拠、ではない。

満足させられているから、《今の幸せが壊れてしまうという恐しさ》を感じてしまうのか。
聴いている音に満足しているのか、満足させられているのか。

いま鳴っている音に満足しているから──、という人でも、
満足しているのか、満足させられているのか、
その違いに気づいていないことだってある。

だからこそ、菅野先生はつづけて、
《こういう気持にさせてくれるスピーカーの存在は貴重である》とされている。

Date: 4月 29th, 2018
Cate: audio wednesday

第88回audio wednesdayのお知らせ(ネットワークの試み)

5月2日(水曜日)のaudio wednesdayは、
前回、前々回とトラブルが続いたことで延び延びになっているネットワークの試みが、
テーマでの音出し(三度目の正直)である。

直列型ネットワークと、これまで試してこなかった結線によるネットワークの試みであり、
この「ネットワークの試み」は、年内にあと一回か二回はやりたいと考えている。

次回(おそらく夏以降)の「ネットワークの試み」は、
直列型ではなく、並列型での実験を考えている。

場所はいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。
19時開始です。

Date: 4月 29th, 2018
Cate: Noise Control/Noise Design

聴感上のS/N比と聴感上のfレンジ(余談)

昨日(4月28日)は、男三人で中野に昼ごろからいた。
目的はサンプラザで行われていたヘッドフォン祭でもあったし、
近くの中野四季の森公園でのラーメン女子博でもあったし、
そのあとの、まだ明るい時間からの飲み会でもあった。

そこで聴感上のS/N比の話題も出た。
日本テレガードナーのM12 GOLD SWITCHのことも話題になった。

M12 GOLD SWITCHはスイッチングハブ。
しかも相当に高価である。
それが、一週間ほどAさんのところにある、という。
試聴会をしよう、ということになる。

散会して、一時間ほどして、Aさんからメッセージがあった。
試聴会の日時の連絡だった。

そこには、聴感上のS/N比がとは、がテーマとあった。
ただ「聴感上の」と書いてあったのではなく、聴感上(情)、とあった。

聴感上と聴感情。
聴感上(ちょうかん・じょう)に対して、聴感情(ちょう・かんじょう)であり、
聴感上がシステム、部屋を含めて聴き手の耳に届くまでの領域に対し、
聴感情は、聴き手の内面の領域であり、
そこにおけるS/N比は、なにかヒントになりそうな予感もしている。

Date: 4月 29th, 2018
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(KEF Model 303・その4)

サプリーム「瀬川冬樹追悼号」で、菅野先生は瀬川先生について、こうも書かれている。
     *
 よく音楽ファンとオーディオファンはちがうといわれるが、僕達は音楽の好きなオーディオファンだから、そういう言葉がぴんとこない。しかし、いろいろなオーディオファンと会ってみると、確かに、音楽不在のオーディオファンというのも少なくないようである。そして、多くの音楽ファンは、ほとんど、オーディオファンとは呼べない人達であることも確かである。音楽会へは行くけれどレコードは買わないという音楽ファン。レコードは大好きだが、それを再生する装置のほうにはあまり関心がないというレコードファン。レコードしか聴かないというレコードファンもいる。レコードを聴かないオーディオファンはいないだろうが、レコードで音楽を楽しまないオーディオファンは大勢いるようだ。どれもこれも、個人的な問題だから、とやかくいう筋合いではないと思うが、これは僕にとって大変興味深い人間の質の問題である。僕とオーム(注:瀬川先生のこと)は会うたびに、このことについて談笑したものである。そして、そこで得られた結論らしきものは、我々ふたりは音楽ファンであり、メカマニアであるという、ごく当り前のものだった。音楽が好きで、機械が好きだったら、自然にオーディオマニアになるわけだということになり、オーディオに関心のない音楽ファンやレコードファンという人達は、機械が好きでない人か、技術や機械にコンプレックスをもっている人達にちがいないということになった。そして、技術や機械に無関心だったり、コンプレックスをもってこれを嫌う人達は、お気の毒だが、現代文明人としては欠陥人間であるということに発展してしまった。そして、さらに、機械と技術の世界にだけ止まっている人達は、ロボットのようなもので、我々とは共通の言語をもち得ないということになってしまったのである。ふたりとも、人のつくるモノが大好きで、芸術作品と同様に、技術製品を尊重した。道具の文化というものを大切に考え、そこにオーディオ文化論的な論議の根拠を置いたようでもある。現代のオーディオは、あまりにもモノ中心、いいかえれば商品中心になってしまっているが、それはモノがひとり歩きをしだした結果である。我々がいっているように、モノは人の表れという考え方からは、現代のようなマーケット現象は生れるはずがないと思うのだが……とよく彼は口をとがらしていた。
     *
《機械と技術の世界にだけ止まっている人達は、ロボットのようなもので、我々とは共通の言語をもち得ないということになってしまった》
そういう人たちが、598戦争時代のスピーカーを手がけていたのかもしれない。

共通言語をもち得ないのだから、
どんなに瀬川先生がクラシックがまともに鳴るスピーカーを、といわれたところで、
それを期待するのは無理だったかもしれない。

《モノがひとり歩きをしだした結果》が、598戦争時代のスピーカーであり、
それをあおっていたのが長岡鉄男氏であり、
その時代、長岡鉄男氏と対極にいた瀬川先生不在の時代でもあった。

KEFのModel 303の音に、ひさしぶりに触れて、帰り途、そんなことをおもっていた。

Date: 4月 28th, 2018
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(KEF Model 303・その3)

ひとりのオーディオ評論家を過大評価しすぎ、といわれるであろう。
それでも、瀬川先生が生きておられたら、
598戦争なる消耗戦は起きなかった、と私は思っている。

単なる偶然なのだろうが、そうとは思えないのが、
1981年に瀬川先生が亡くなられたこと、
それから二、三年後にKEFの輸入元が日本から消えてしまった。
そして598戦争である。

瀬川先生が生きておられたら、
KEFの輸入は、どこか引き受けていたであろう。

瀬川先生が生きておられたら、
KEFのスピーカーシステムの展開も違っていたであろう。

303は303.2、303.3となっていった。
303と303.2の外観は同じだが、なぜだが303.3では一般的な外観になっている。
そのころのKEFは輸入元がなかったころであり、
303.3の音がどうだったのかは、知りようがない。

《ところがその点で近ごろとくにメーカー筋から反論される。最近のローコストの価格帯の製品を買う人は、クラシックを聴かない人がほとんどなのだから、クラシック云々で判定されては困る、というのである》、
こんなことをステレオサウンドに書く瀬川先生を、
メーカーのスピーカーの担当者はどう思っていたのだろうか。

煙たい存在、小うるさい存在……、そんなふうに思っていた人もいたはずだ。
それでも、瀬川先生は厳しいことを日本のスピーカーメーカーの技術者に、
しつこいぐらいいい続けられていた──、と私は信じている。

《あの、わがままで勝手な人間のことだったから、ずいぶん誤解されたり、嫌われたりもしたらしい》、
菅野先生が、サプリームに書かれていた。
瀬川先生を嫌っていたメーカーがあったことは、聞いている。

Date: 4月 27th, 2018
Cate: ベートーヴェン

ベートーヴェンの「第九」(その19)

五味先生の「西方の音」を読んだのは、ハタチぐらいだったか。
「日本のベートーヴェン」が、最後に収められている。
そこに、こんなことが書いてあった。
     *
 私は『葬送』の第一主題に、勝手なその時その時の歌詞をつけ、歌うようになった。歌詞は口から出まかせでいい、あの葬送のメロディにのせて、いちど自分でうたってごらんなさい。万葉集の相聞でも応援歌でも童謡でもなんでもいいのだ。どんなに、それが口ずさむにふさわしい調べかを知ってもらえるとおもう。ベートーヴェンの歌曲など、本当に必要ないくらいだ。日本語訳のオペラは、しばしば聞くにたえない。歯の浮くような、それは言語のアクセントの差がもたらす滑稽感を伴っている。ところが『葬送』のあの主旋律には、意味のない出まかせな日本語を乗せても、実にすばらしい、荘重な音楽になる。これほど見事に、全人類のあらゆる国民が自分の国のことばで、つまり人間の声でうたえるシンフォニーをベートーヴェンは作った。こんな例は、ほかに『アイネ・クライネ』があるくらいだろう。とにかく、口から出まかせの歌詞をつけ、少々音程の狂った歌いざまで、『英雄』第二楽章を放吟する朴歯にマント姿の高校生を、想像してもらいたい。破れた帽子に(かならず白線が入っていた)寸のつまったマントを翻し、足駄を鳴らし、寒風の中を高声に友と朗吟して歩いた——それは、日本の学生が青春を生きた一つの姿勢ではなかったかと私はおもうのだ。そろそろ戦時色が濃くなっていて、われわれことに文科生には、次第にあの《暗い谷間》が見えていた。人生いかに生きるべきかは、どう巧妙に言い回したっていかに戦死に対処するかに他ならなかった。大きく言えば日本をどうするかだ。日本の国体に、目を注ぐか、目をつむるか、結局この二つの方向しかあの頃われわれのえらぶ道はなかったと思う。私自身を言えば、前者をえらんだ。大和路に仏像の美をさぐり、『国のまほろば』が象徴するものに、このいのちを賭けた。——そんな青春時代が、私にはあった。
     *
『葬送』とは、ベートーヴェンの交響曲第三番の葬送行進曲のことだ。
その第一主題に、《勝手なその時その時の歌詞》をつけて歌う。
真似をしたことがある。

けれど、すんなりいかなかった。
それには、少し気恥ずかしさもあったからだろう。

そんな私がいま何をやっているかというと、
ベートーヴェンの「第九」の四楽章で、同じことをやっている。
《勝手なその時その時の歌詞》をつけて歌っている。

意識して始めたことではない。
ふと旋律が浮んできて口ずさんだ。
その時に、勝手な日本語をつけて歌っていた。

やってごらんなさい、というつもりはない。
第三番の葬送行進曲で、やっと歌えそうな気がしている。

Date: 4月 27th, 2018
Cate: ジャーナリズム, 組合せ

組合せという試聴(その11)

別項で、「音は人なり」は、思考の可視化と書いた。

思考の可視化ということでいえば、
組合せはまさに、思考の可視化である。

思考は(しこう)であり、
(しこう)は、志向、指向、嗜好でもある。

まさに組合せは、志向、指向、嗜好の可視化ともいえる。

このことに気づけば、組合せの記事こそがオーディオ雑誌の記事で、
もっとも興味深く面白い、といえる。

けれど実際は、編集者も組合せを考えるオーディオ評論家(商売屋)も、
組合せを思考の可視化とは、おそらく考えていない、はずだ。

スピーカーを決めて、それに合いそうなアンプを数機種見繕って、順に聴いていく。
その中から一機種選ぶ。
次はCDプレーヤーを数機種選んで……、
そんな試聴(受動的試聴)をやっていても、
オーディオ評論家にやらせても、
思考の可視化になるはずがない。

おもしろくなるはずがない。

Date: 4月 27th, 2018
Cate: 菅野沖彦, 録音

「菅野録音の神髄」(余談)

菅野先生の録音とはまったく関係ない話だが、
昔ステレオサウンドで読んだ、あるエピソードは、興味深いものがある。

55号の音楽欄に掲載されている。
「今日の歌、今日のサウンド ポピュラー・レコード会で活躍中の三人のプロデューサーにきく」
RVCの小杉宇造氏、CBSソニーの高久光雄氏、ポリドールの三坂洋氏が登場されている。
聞き手は坂清也氏。

9ページの記事。
引用するのは、三坂洋氏の発言のごく一部である。
機会があれば、この時代の日本の歌の録音を聴く人は、読んでほしい、と思う。
     *
 たとえば森田童子の最初のLPを制作したときのことですが、彼女は弾き語りでうたったときのニュアンスが最高にいいんです。彼女のメッセージの背後にあるデリケートな体臭とか人間性が、弾き語りのときには蜃気楼みたいにただようんです。それをレコーディングのときに、まずオーケストラをとり、リズム・セクションをとり、そのテープのうえに彼女のうたをかぶせる、といった形で行なうと、その蜃気楼みたいなものが、どこかへ消えてしまうんじゃないか、と確信しました。
 そこで、まずいちばん先きに彼女のギターとうただけをとり、そこにベースをかぶせドラムスをかぶせ、さらに弦をかぶせて、そのあとでベースとドラムスをぬいてしまったんです。したがって出来上りは、弦のうえに彼女の弾き語りがのっかる、という形になったわけです。ベースとドラムスは弦のためみたいなもので、ことにドラムスのリズムの拍数が分らないと、弦は演奏できませんから(笑い)。
     *
森田童子の最初のLP、
「GOOD BYEグッド・バイ」でとられたこういう手法は、
何もこのディスク(録音)だけにかぎったことではなく、
ずいぶんと多いと思います、と三坂洋氏はつけ加えられている。

Date: 4月 26th, 2018
Cate: 「うつ・」

うつ・し、うつ・す(その12)

デザイナーの亀倉雄策氏が、そういえば、同じことをいわれている。
     *
私はなぜ撮影に立ち合わないか。理由は簡単だ。立ち合うとその場の苦心が理解され過ぎて、選択の冷酷な目が失われるからである。この冷徹な透視力があってこそ、最後の一撃ができるのである。
     *
その11)での写真家のマイク野上(野上眞宏)さんと同じことである。

亀倉雄策氏の場合、撮影する者と選択する者の二人がいるから、
撮影に立ち合わないことで、選択が可能になる。

野上さんの場合は、撮影するのも選択するのも同じ人、野上さんである。
だから、そこには五年の月日が必要になる。

野上さんは「冷酷な目」という表現は使われなかったが、
撮影時に関するもろもろのことを切り離しての、冷静な目での選択──、
それは、どちらも写真(視覚の世界)のことではあって、
音(聴覚の世界)においては、どうなのか、と考えさせられている。

Date: 4月 26th, 2018
Cate: 「オーディオ」考

「音は人なり」を、いまいちど考える(その10)

オーディオは自己表現だ、と真顔で力説する人がいる。
だからこそ「音は人なり」でしょ、とそういう人は続ける。

「音は人なり」と、私はずっと前からいっている。
ここにも書いている。

オーディオは自己表現だ、と力説する人は、
「音は人なり」と言い続けてきているあなた(つまり私)にとっても、
オーディオは自己表現である、とまた力説される。

私はオーディオは自己表現だ、とは思っていない。
たしかに「音は人なり」であり、そこで鳴っている音に、
鳴らしている人(私)が反映されるわけだけど、
それをもって自己表現と決めつけられることには、強い抵抗がある。

いったい自己表現とは何なのか。
そういう人にはそのことから問いたくなるが、面倒なのでやらない。

自己表現が好きな人は、たぶんにナルシシストのような気もする。
オーディオは自己表現だ、と力説しているときの表情を見ていると、そんな気がしてくる。

「音は人なり」は、オーディオは自己表現だ、と語っているのだろうか。
私は、思考の可視化(音だから可聴化か)だ、と結論する。

Date: 4月 25th, 2018
Cate: 戻っていく感覚

二度目の「20年」(オーディオの才能)

オーディオの才能をもっている、と自負している。
けれど、そのオーディオの才能は、実のところ、
オーディオに興味をもちはじめた13歳のころから、
なにひとつ変っていないのではないか……、
最近,そう考えるようになってきた。

オーディオの才能はあっても、それを活かすことができなかった。
生かすために必要な知識も知恵も、経験も技倆もなかった。

永いことオーディオをやってきて、それらのことを身につけた。
ただそれだけのような気がしてならない。

Date: 4月 24th, 2018
Cate: デザイン

オーディオのデザイン、オーディオとデザイン(ダストカバーのこと・その22)

そこにあったハンガーは、たしかにハンガーなのだけれど、
いわゆるハンガーではなかった。

いろいろなモノがデザインされていることは、
まだ若造だった私でもわかっていたけれど、
ハンガーがこんなに美しくデザインされるなんて──、
想像をはるかに超えていた。

買おうと思えば変える値段だった、と記憶している。
でも買わなかった。

いつか、この美しいハンガーが似合うような環境を実現したら……、
そんなことを思って、買わなかった。
(もっとも、オーディオを最優先していたことも理由なのだけれど)

後になって、その時買っておかなかったことを後悔する。
後悔したときに、そのハンガーをデザインしたのが、誰なのかを知った。

倉俣史朗氏のデザインだった。
その店は、倉俣史朗氏のデザインしたモノばかりがあった(はずだ)。

そのころは倉俣史朗氏の名前も知らなかった。
知らなくても関係なかった。

あれだけ美しいハンガーを見たのは、それ以降ない。
そしてアクリルは、こんなにも美しく仕上がるのか、と感嘆した。

これを書くにあたって、Googleで「倉俣史朗 ハンガー」で検索しても、
私の記憶にあるハンガーは出てこない。
記憶違いなのか……、とも思うけれど、あれだけインパクトのあるハンガーのことを、
その材質のことを勘違いしているとも思えない。