「音は人なり」を、いまいちど考える(その10)
オーディオは自己表現だ、と真顔で力説する人がいる。
だからこそ「音は人なり」でしょ、とそういう人は続ける。
「音は人なり」と、私はずっと前からいっている。
ここにも書いている。
オーディオは自己表現だ、と力説する人は、
「音は人なり」と言い続けてきているあなた(つまり私)にとっても、
オーディオは自己表現である、とまた力説される。
私はオーディオは自己表現だ、とは思っていない。
たしかに「音は人なり」であり、そこで鳴っている音に、
鳴らしている人(私)が反映されるわけだけど、
それをもって自己表現と決めつけられることには、強い抵抗がある。
いったい自己表現とは何なのか。
そういう人にはそのことから問いたくなるが、面倒なのでやらない。
自己表現が好きな人は、たぶんにナルシシストのような気もする。
オーディオは自己表現だ、と力説しているときの表情を見ていると、そんな気がしてくる。
「音は人なり」は、オーディオは自己表現だ、と語っているのだろうか。
私は、思考の可視化(音だから可聴化か)だ、と結論する。