Date: 4月 29th, 2018
Cate: 598のスピーカー
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598というスピーカーの存在(KEF Model 303・その4)

サプリーム「瀬川冬樹追悼号」で、菅野先生は瀬川先生について、こうも書かれている。
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 よく音楽ファンとオーディオファンはちがうといわれるが、僕達は音楽の好きなオーディオファンだから、そういう言葉がぴんとこない。しかし、いろいろなオーディオファンと会ってみると、確かに、音楽不在のオーディオファンというのも少なくないようである。そして、多くの音楽ファンは、ほとんど、オーディオファンとは呼べない人達であることも確かである。音楽会へは行くけれどレコードは買わないという音楽ファン。レコードは大好きだが、それを再生する装置のほうにはあまり関心がないというレコードファン。レコードしか聴かないというレコードファンもいる。レコードを聴かないオーディオファンはいないだろうが、レコードで音楽を楽しまないオーディオファンは大勢いるようだ。どれもこれも、個人的な問題だから、とやかくいう筋合いではないと思うが、これは僕にとって大変興味深い人間の質の問題である。僕とオーム(注:瀬川先生のこと)は会うたびに、このことについて談笑したものである。そして、そこで得られた結論らしきものは、我々ふたりは音楽ファンであり、メカマニアであるという、ごく当り前のものだった。音楽が好きで、機械が好きだったら、自然にオーディオマニアになるわけだということになり、オーディオに関心のない音楽ファンやレコードファンという人達は、機械が好きでない人か、技術や機械にコンプレックスをもっている人達にちがいないということになった。そして、技術や機械に無関心だったり、コンプレックスをもってこれを嫌う人達は、お気の毒だが、現代文明人としては欠陥人間であるということに発展してしまった。そして、さらに、機械と技術の世界にだけ止まっている人達は、ロボットのようなもので、我々とは共通の言語をもち得ないということになってしまったのである。ふたりとも、人のつくるモノが大好きで、芸術作品と同様に、技術製品を尊重した。道具の文化というものを大切に考え、そこにオーディオ文化論的な論議の根拠を置いたようでもある。現代のオーディオは、あまりにもモノ中心、いいかえれば商品中心になってしまっているが、それはモノがひとり歩きをしだした結果である。我々がいっているように、モノは人の表れという考え方からは、現代のようなマーケット現象は生れるはずがないと思うのだが……とよく彼は口をとがらしていた。
     *
《機械と技術の世界にだけ止まっている人達は、ロボットのようなもので、我々とは共通の言語をもち得ないということになってしまった》
そういう人たちが、598戦争時代のスピーカーを手がけていたのかもしれない。

共通言語をもち得ないのだから、
どんなに瀬川先生がクラシックがまともに鳴るスピーカーを、といわれたところで、
それを期待するのは無理だったかもしれない。

《モノがひとり歩きをしだした結果》が、598戦争時代のスピーカーであり、
それをあおっていたのが長岡鉄男氏であり、
その時代、長岡鉄男氏と対極にいた瀬川先生不在の時代でもあった。

KEFのModel 303の音に、ひさしぶりに触れて、帰り途、そんなことをおもっていた。

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