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Date: 7月 5th, 2018
Cate: フルレンジユニット

大口径フルレンジユニットの音(その4)

最初に鳴ってきたAXIOM 402の音は、
大口径のフルレンジということもあって、さほど高域は延びていない。

それでも思っていたよりも出ている、という印象。
この感じだと、別項「聴感上のS/N比と聴感上のfレンジ」でも書いているように、
聴感上のS/N比をよくしていけば、聴感上のfレンジもよくなる、という直観が働く。

もちろん、どれだけやったところでトゥイーターの必要性をまったく感じなくなる、
そういうレベルにはならない。
かけるディスク(音楽)によっては、トゥイーターを、
質のよいドーム型トゥイーターを、カットオフ周波数はかなり高いところで、
コンデンサーだけでのローカットフィルターで足してみたら、
そんなことを私だけでなく、他の人も思っていたようだ。

けれどトゥイーターがほんとうに必要なのか、と思わせるほどよく鳴ってくれるディスクもあった。
喫茶茶会記の店主、福地さんが取り出してくれたディスク、
ディック・ヘイムズの「Rain or Shine」。

1950年代半ばの録音、つまり真空管を使った録音器材。
ぴたっとはまる、といいたくなる印象で鳴ってくれる。

男性の声がいい。
こういうところにも、BBCモニターの系譜が聴きとれる、といっていいのだろうか。
LS5/1Aの38cmウーファーはグッドマン製だった。

そんなことを聴いているときに思い出していたわけではない。
いいなぁー、と思い聴いていただけで、片付けのときに、そんなことを思っていた。

それからブラジル音楽好きのHさんが持参されたラテン系のCDもよかった。
セルソ・シン(Celso Sim)の「O AMOR ENTROU COMO UM RAIO」は、
昨年発売の新しいCDにも関らず、いい雰囲気で鳴ってくれた。
ナラ・レオンのCDもよかった。

イギリスのスピーカーなのに、この手の音楽もうまく鳴らすのか、と少し意外だっただけに、
これらのCDを昨晩聴けたことは、こういう会をやっていればこそ、だ。

私にとって、もっとも意外だったのはカンターテ・ドミノのSACDだった。

Date: 7月 5th, 2018
Cate: フルレンジユニット

大口径フルレンジユニットの音(その3)

昨晩のaudio wednesdayのセッティングは、いつもに比べれば楽だった。
16時30分ごろに喫茶茶会記について、
アンプの梱包を解いたり、隣の部屋に置いてあるグッドマンのスピーカーを移動したり、
そんなことをやって音を出したのは17時30分ごろ。

ひさしぶりに夕食をとれる時間の余裕があった。
いつも夕食抜きでやっているから、
スピーカーが違うと、こうも楽なのか、と実感していた。

鳴ってきた音を聴いて、いくつかのことをやる。
といっても、それほど大袈裟なことではなく、
私が準備しているところを見ていない人ならば、
何をやったのかは、見ただけではわからないセッティングである。

19時から始まって、それからも数箇所いじっている。
そうやって鳴らし続けていた。

伸びやかになってきたと感じられるようになったのは21時ごろだったか。
22時くらいになると、最初に鳴ってきた音は、鳴りっぷりが違う。

三時間以上鳴らしていての変化である。
今回はスピーカーだけでなく、パワーアンプのAleph 3もしばらく使われてなかったようだ。
このふたつのオーディオ機器が、本調子に戻ってくるまでの時間が、
それだけかかった(必要だった)わけだ。

終了したのは23時30分ごろ。
これだけ鳴らしていると、Aleph 3のヒートシンクはさらに熱くなっていた。
21ごろに触れたときよりも、しっかりと熱くなっている。

昔マークレビンソンのML2のヒートシンクを触っては、
カチンカチンに熱くなっている、という表現を使っていたが、
そんな感じに熱くなっていた。

そこまでの音の変化を聴いていると、
この状態で、あと一週間ほど毎日鳴らしては、
こまかなチューニングをしていけば、けっこうな音が鳴ってくれる予感もしてくる。

Date: 7月 5th, 2018
Cate: audio wednesday

第91回audio wednesdayのお知らせ

8月のaudio wednesdayは、1日。
テーマは未定だが、音出しの予定。

場所はいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。
19時開始です。

Date: 7月 5th, 2018
Cate: フルレンジユニット

大口径フルレンジユニットの音(その2)

AXIOM 402は、カタログには40Hzから11,000Hzとなっている。
ユニット背面にもそう明記してある。

AXIOM 402は1975年は20,000円だった。
1977年には27,000円になっている。

このころJBLのLE8Tは37,200円、アルテックの755Eは22,200円、
AXIOM 402j同じ30cm口径ダブルコーンのフィリップスのAD12100/M8は、
17,000円(1975年)、20,500円(1977年)。

755E、LE8Tは20cm口径、
このころのアルテック、JBLの30cm口径のフルレンジは、というと、
420Aが46,400円(1975年)、D123は40,100円、D131は49,400円だった。
いずれもユニット一本の価格だ。

余談だが1975年当時、ジェンセンのG610Bは現行製品だった。
価格は195,000円である。

AXIOM 402は普及クラスのフルレンジユニットである。
フレームは鉄板プレスで、この部分はAXIOM 401と比較すると見劣りする。
インピーダンスもAXIOM 401は15Ωであり、AXIOM 402は8Ωとなっている。

カタログ発表値は、AXIOM 401の周波数特性は30Hzから12,000Hzと、
AXIOM 402よりも広い。

もっとも実測グラフをみれば、おそらく大きな違いはないはずで、
表示の基準が違ってきているためであろう。

AXIOM 402は指定箱と思われるエンクロージュアにおさまっていた。
ARU付きである。
見た感じで判断すれば国産エンクロージュアのようだった。

いつごろ購入されたAXIOM 402なのかははっきりしないが、
少なくとも40年は経っている。
それに元の持主の方は、最近あまり鳴らされていなかったようにも、
最初に鳴ってきた音からは感じたし、その前の設置のときもそう感じていた。

Date: 7月 5th, 2018
Cate: フルレンジユニット

大口径フルレンジユニットの音(その1)

昨晩のaudio wednesdayは、
いつも鳴らしているアルテック中心のスピーカーではなく、
別項で書いているようにグッドマンのAXIOM 402を鳴らした。

別項ではAXIOM 401としていた。
402かもしれないと思って、喫茶茶会記の店主、福地さんに確認した。
福地さんを譲ってくれた人にきいたところ、401だということだった。
けれど実際にユニットを外して確認したところ、AXIOM 402だった。

401と402、裏側から見れば違いは一目瞭然なのだが、
表側からみると違いはわかりにくい。
どちらも30cm口径のダブルコーンのフルレンジユニットである。

ダブルコーンといってせ、サブコーンの形状、大きさによって、
設計思想は同じとはいえない。
なのでダブルコーンのユニットすべてに関心があるわけでもないが、
ダブルコーンのフルレンジユニットは好きなタイプである。

これまでもいくつかのダブルコーンのフルレンジユニットを聴いてきた。
とはいえ、これまで聴いてきたダブルコーンでいちばん大きかった口径は、
グッドマンのAXIOM 80の9.5インチ(約24cm)である。

30cm口径のダブルコーンは聴いたことがなかったし、
それをミッドバスユニットとして使用したり、
良質のトゥイーターを、ほんの少しばかり鳴らすような追加の仕方を前提とするならば、
話は違ってくるが、フルレンジ一発のシステムとしては、
本音をいえば、関心外だった。

AXIOM 80を特別な存在とすれば、20cm口径のダブルコーンまでが、
フルレンジ一発のシステムとしては関心の対象であった。

Date: 7月 4th, 2018
Cate: 複雑な幼稚性

「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(その32)

染谷一氏は、ステレオサウンドの編集長である。
編集長にいきなりなったわけではなく、その前は編集者であった。

私は編集者だけの経験しかないが、
それでも編集者と編集長の違いは、雑誌のあり方を含めてのことであることは感じている。

ステレオサウンドも雑誌のひとつである。
雑誌の編集長とは、将棋の棋士のようにも思う。

将棋の駒は、すべてが同じ動き(力)をもっているわけではない。
歩もいれば飛車、角行もいて、八種類。

これらの駒をどう活かしていくのかが、良き棋士なのではないか(将棋は素人なのだが)。
こう書いてしまうと、編集長の下にいる編集者がそれぞれの駒と受けとられるかもしれないが、
そうではなく、一冊の雑誌に掲載されるいくつもの記事こそが、それぞれの駒にあたる。

つまり編集長は棋士として、それぞれの駒(記事)を活かしていくことである。
ひとつの駒に力を一極集中してしまっては、勝負に勝てるわけがない。

いい記事をつくることは、いい編集者ならばできよう。
だからといって、編集者みなが、金将のような記事ばかりをつくっても、
いい雑誌になるとは限らない。

編集長がいるのは、そういう理由から、と考えることもできる。
編集長の仕事は、他にもあるのはわかっている。

ならば編集長(将棋の棋士)に求められるのは、先を読むこともそのひとつであろう。
行き当たりばったりに駒(記事)をいじっても、どうにもならない。

ステレオサウンド 207号は、特集としてスピーカーの試聴テストがあり、
ソナス・ファベールのパオロ・テッツォン氏による「三つの再生システムを聴く旅」もあり、
その他にも二本の導入記、新製品紹介などの記事がある。

編集長(棋士)としての、それぞれの記事(駒)の配置だとしたら、
なぜ、avcat氏に謝罪したのか──、と思うわけだ。

逆から考えれば、謝罪したことで、
染谷一氏の編集長(棋士)としての資質を疑っているわけでもある。

Date: 7月 4th, 2018
Cate: 複雑な幼稚性

「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(理解についての実感・その4)

フルトヴェングラーの「音楽ノート」をひさしぶりに読み返していて、
ここをまた一度引用しておこう、とおもうところにであう。

これを引用するのは、これで三回目である。
     *
権力そのものではなく、権力の乱用が悪である。ビスマルクではなくして、ヒトラーが悪なのだ。思考する人間がつねに傾向や趨勢をのみを「思考する」だけで、平衡状態を考えることができないのは、まさに思考の悲劇である。平衡状態はただ感知されるだけである。言い換えれば、正しいものは──それはつねに平衡状態である──ただ感知され、体験されるだけであって、およそ認識され、思考されうるものではない。
     *
このフルトヴェングラーの言葉すら、
受けての「理解」によって、どうなっていくのだろうか。

Date: 7月 4th, 2018
Cate: 終のスピーカー

無人島に流されることに……(その6)

ロック・ポップス、ジャズに、ほんのわずか触れたけれど、
私が聴くのはクラシック音楽だから、
「無人島に……」という問いには、クラシック音楽について考えることになる。

その3)で、シェイクスピア全集にあたるのは、
ワーグナーの楽劇だろう、とした。

そういえば……、とフルトヴェングラーの「音楽ノート」をひっぱり出してきた。
     *
 たいていの人は(ヘルマン・ヘッセにしても、詩人といえば美しい言葉で美しい感情を表現することのできる人間であると考えている。私の見かたによれば、詩人、とりわけ劇作家とは人間を創造しうる人にほかならない。詩人が言葉をまったく必要としないとき、すなわち状況もしくは人間の行為や反応がすでに一切を言い尽くしてくれるとき、彼は最も偉大である。シェイクスピア、ヴァーグナー、グリルパルツァーなどはこのような詩人である。月並みのドイツ人は詩人としてのヴァーグナーとグリルパルツァーを看過している。ヴァーグナーあるいはグリルパルツァーが描く形象の深い真実は、それが語るものを通して示されると同様に、それが沈黙するもの、すなわち語らないものを通しても示される。これらすべての形象はいくらかのものを──場合によってはきわめて多くのものを──沈黙せねばならぬ。ただし、それらの本性のうちに宿る沈黙を通してであり、たとえばイプセンに見られるような文学上の「技法」によって沈黙するのではない。
     *
シェイクスピア全集にあたるものとして、
クラシック音楽においてはワーグナーの楽劇は的外れでは決してない。

だからマタイ受難曲とワーグナーの楽劇は、
必ず無人島にもっていくものとして除外して考えることになる。

Date: 7月 4th, 2018
Cate:

ふりかえってみると、好きな音色のスピーカーにはHF1300が使われていた(その3)

セレッションのトゥイーター、
個人的には名トゥイーターといいたくなるHF1300。

いまBBCモニターのLS3/5Aの復刻モデルが、各社から出ている。
LS3/5Aに搭載されていたKEFのユニットは製造中止になって久しいから、
オリジナルの復刻にはユニットの復刻から、始めることになる。

そうやった復刻されたユニットを見ると、なかなかの仕上がりだ。
BBCモニターの復刻はLS3/5Aだけではない。

グラハムオーディオからはLS5/8とLS5/9も出ている。
LS5/1Aまでは期待しないものの、LS5/5は復刻されないものか。

LS5/5の復刻にはHF1300(正確には改良型HF1400)が不可欠だと、思っている。
ここが他のトゥイーター、どんなにそれが優秀であってもLS5/5の復刻とは呼べないはずだ。

ようするにどこかHF1300を復刻してくれないか、と思っているわけだ。
HF1300を単体のトゥイーターとして使ってみた(鳴らしてみた)ことはない。

自分でそうやって使う(鳴らす)ことで、確かめたいことがある。
それはHF1300独自の音色について、である。

ここでのタイトルは、
好きな音色のスピーカーにはHF1300が使われていた、としている。
そうである。

そうなのは確かだが、HF1300は各社のスピーカーシステムに使われている。
組み合わされるウーファーもさまざまだ。

そこにおいて音色のつながりに不自然さを感じさせるスピーカーシステムはなかった。
ということは、HF1300はそれほど主張の強い音色をもっていないのではないか。
そう解釈することもできるからだ。

ステレオサウンド 35号「’75ベストバイ・コンポーネント」で、
井上先生は、
《英国系のスピーカーシステムに、もっとも多く採用されている定評のあるユニットだ。滑らかで、緻密な音質は、大変に素晴らしく他社のウーファーとも幅広くマッチする。》、
瀬川先生は、
《イギリス製のスピーカーシステムに比較的多く採用されている実績のある、適応範囲の広いトゥイーター。BBCモニターの高域はこれの改良型。高域のレインジはそう広くない。》
と書かれている。

HF1300は適応範囲の広いトゥイーターだということが読みとれる。

Date: 7月 3rd, 2018
Cate: 複雑な幼稚性

「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(理解についての実感・その3)

丸山健二氏の「新・作庭記」(文藝春秋刊)からの一節を引用するのは、これで四回目だ。
     *
ひとたび真の文化や芸術から離れてしまった心は、虚栄の空間を果てしなくさまようことになり、結実の方向へ突き進むことはけっしてなく、常にそれらしい雰囲気のみで集結し、作品に接する者たちの汚れきった魂を優しさを装って肯定してくれるという、その場限りの癒しの効果はあっても、明日を力強く、前向きに、おのれの力を頼みにして生きようと決意させてくれるために腐った性根をきれいに浄化し、本物のエネルギーを注入してくれるということは絶対にないのだ。
     *
この項で、引用の理由は書かなくていいだろう。

Date: 7月 3rd, 2018
Cate: 所有と存在, 欲する

「芋粥」再読(その2)

以前のCDボックスは10枚組くらいだったのが、
いつのころからか、全集の名の元に50枚くらいは当り前になってきて、
80枚、それ以上の枚数のボックスも珍しくなくなってきている。

価格もそう高くはない。
一枚当りの価格は、そうとうに安くなっている。

CDボックスの多くはいわゆる再発にあたるわけだから、
安くなるのはわかるし、買う側にしてもありがたいことである。

あまりにも安いと、なんだか申しわけなく感じたりもするが、
それでも安価なのを否定はしない。

だからCDボックスが溜ってくる。
好きな演奏家のCDボックスであっても、一気にすべてのCDを聴いてしまえる人は、
どのくらいいるのだろうか。

50枚組のCDボックスを購入したとして、一日一枚ずつ聴いても二ヵ月近くかかる。
その二ヵ月間に、他のCDを一枚も購入しないということは、まずない。
しかも、その間に、別のCDボックスを購入してたりもする。

クラシックの場合、そのくらいCDボックスが次々に登場してくる。
だから未聴のCDボックスが溜ってくる。

CDボックスを、そんなふうに次々と買ってしまうのは、
ある年代よりも上であろう。

40代ならば、平均寿命まで生きられるとしたら、まだまだ残り時間はある。
50代ならば、そう長くはない、といえよう。

安岡章太郎氏の「ビデオの時代」に書かれているように《余生を娯しむには十二分のものがある》。
そんなことはみなわかっている。
なのに、CDボックスが出ると、つい購入ボタンをクリックしてしまう──、
クラシック好きの多くはそうだろう、と思っている。

CDボックスはインターネットで購入、
届くのを待つだけの人が多いはずだ。

レコード店で購入し、重い思いをして持って帰れば、
購入も少し控えるのかもしれないが、いまの時代はそうではない。

Date: 7月 3rd, 2018
Cate:

オーディオと青の関係(名曲喫茶・その6)

新宿珈琲屋のKさんの髪も長かった。

私は五味先生の「日本のベートーヴェン」に出てくる髪の美しい少女を、
髪の長い少女と手前勝手に想像しているのは、
私自身が少年だったころ、想いを寄せていた少女の姿からだけではなく、
実のところKさんのイメージもそこに重なってくるからだ。

新宿珈琲屋はカウンターだけの店だから、
《メニューを持って近寄って来る》こともないし、
《紺のスカートで去って行くうしろ姿》はない。

大きな店ではないから、
座っているところからすぐのところにKさんは立っていて仕事をしている。
頻繁に通っていたから顔は覚えられていた。
店に入ると、会釈を返してくれる。

とはいえKさんと話すことはほとんどなかった。
Kさんが淹れてくれるコーヒーを飲み、
後で鳴っているESLから流れてくるバロック音楽に耳を傾けて、
ただそれだけで店を出る。

あのころの私にとって新宿珈琲屋は、理想に近い居場所だった。
ずっと、あの場所にあるものだ、と信じ切っていた。

けれどあっけなく消失してしまった。
1983年12月だった、はずだ。
火事で無くなってしまった。

放火だといわれていた。
たしかにあの場所に木造長屋では、家賃収入も期待できない。
ビルに建て替えれば……、そんなウワサを聞いている。
地上げということをよく聞くようになっていたころだった。

Date: 7月 3rd, 2018
Cate: 複雑な幼稚性

「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(理解についての実感・その2)

「理解なんてものは概ね願望に基づくものだ」

願望に基づく理解しかできない人がアマチュアであり、
願望と切り離したところで理解できるのがプロフェッショナルであるのは、
オーディオの世界でもいえるはずだ。

Date: 7月 3rd, 2018
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(モニター機の評価・その5)

déjà vuを公開していたMさんは、私よりも10ほど若かったはずだ。
一方、スピーカーのネットワークで議論(のような)をやっていた二人は、
私よりも10ほど上であるから、Mさんよりも20ほど上なわけだ。

そんな人たちに向って、掲示板上とはいえ、諌めることは難しかった、と思う。
遠慮もあっただろうし、どうしたらいいのかわからないこともあったと思う。

同様のことで、録音で揉めていた二人もいた。
こちらは互いに面識もない人たちのようで、
かなりひどいやりとりになっていった、と記憶している。

録音の、それもマイクロフォンのセッティングについては、Mさんはほとんど知らなかったはずだ。
そこでの口出しは、さらに難しかったであろう。
このやりとりはどちらも感情的になっていった。

掲示板の運営・管理は、この例だけでも大変だな、と思う。
荒れるにまかせきった掲示板なら、それはそれでいいだろうが、
個人サイトの、しかもある思い入れをもって公開されているサイトでの掲示板は、
そういうわけにはいかない。

しかも皮肉なことに、掲示板がそういう意味で多少荒れた方が人が集まってくる傾向もあるようだ。
ここでも自由と勝手が勘違いされている。

掲示板とは、見知らぬ者同士の情報交換の場でもあるはずだ。
ここにも一週間ほどの
黒田恭一氏のこと(「黒恭の感動道場」より)」で引用した黒田先生のいわんとされていることが関係してくる。

Date: 7月 3rd, 2018
Cate: 「オーディオ」考

オーディオと「ネットワーク」(モニター機の評価・その4)

インターネットの掲示板とは、見知らぬ人と、それも複数の人と、
それぞれを隔てる距離、時間など関係なしに結びつけて話し合える場ではないのか。

議論もできる場であり、議論を深めていける場もある。
なのに残念なことは、それまではそんな雰囲気のあった掲示板が、
知名度が急に広まって多くの人がどっと押し寄せるようになると、
それぞれの自己主張の場と変っていくように感じている。

しかもいい大人が……、といわれる年代の人たちに、そういう人がどうも多いようだ。
その3)でふれたdéjà vuの掲示板もそうだったように記憶しいてる。

相手の意見に耳を傾ける、ということが、この人たちはできないのか。
そう思いたくなる(言いたくなる)ほど、一方的な書き込みをする人が現れる。

私が記憶している範囲では、こんなこともあった。
スピーカーのネットワークの次数とユニットの極性についてのことだった。
意見を戦わせていたのは、おもに二人。
どちらもハンドルネームだったが、当時ステレオサウンドに執筆していた人たちである。
そのことは常連のあいだでは知れ渡っていたはずだ。

一人は1970年ごろまでのスピーカーの教科書的書籍を元に書き込む。
もう一人は聞きかじりの知識のみで書き込む。

どちらかが全面的に正しくて、片方が全面的に間違っていたのであれば、
話は簡単に決着するのだが、両者とも部分的に正しくて、部分的に間違っている。

スピーカーの基礎知識があったうえで、
最新のスピーカーシステムがどうなっているのかを知っている人ならば、
この二人の議論が噛みあわないのはすぐにわかったはずだし、
それぞれの間違っているところを指摘することもできるのだが、
誰もそんな人はいなかったし、私も面倒でやらなかった。

二人とも知人ではあったし、一人はわりと頻繁に連絡をしていたので、
やんわりとそのことは伝えていた。

議論は尻すぼみになった記憶がある。