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Date: 7月 11th, 2018
Cate: 複雑な幼稚性

「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(その43)

問題を起した人のクビを切るだけなら、上に立つ人ならば誰でもできる。
切っただけでは、それで終ってしまう。

菅野先生は、やり直す機会を与えられていた。
ひとつの組織の上に立つ人しての行動といえる。

オーディオ評論家は、いわばフリーだから、
組織という言葉を持ってくるのはおかしいと思われるだろうが、
実際には「組織」といっていい。

逆にいえば、そういう認識なしに、
オーディオ評論家としての、ほんとうのところでのいい仕事はできないはずだ。

ステレオサウンドという、ひとつの組織で、ジュニアさんは追い出されている。
仕事のやり方に問題があったのは否定できない事実だが、
菅野先生が朝沼予史宏さんに向けた配慮を、
ステレオサウンドはジュニアさんに向けることはなかった。

ジュニアさんは、あのとき健康を害されていた。
少しばかり長い休養も必要だった。

しばらく離れて、またやり直せる機会を、ステレオサウンドは与えなかった。
だから、それで終ってしまっている。

私は、朝沼予史宏さんよりもジュニアさんのほうが才能が上と見ている。
このへんは人によって見方が変ってくるだろうから、
私はそう思っている、というだけである。

その6)から取り上げている今回の件、
ステレオサウンドの染谷一編集長が、avcat氏という匿名のオーディオマニアに、
207号の柳沢功力氏のYGアコースティクスのHailey 1.2の試聴記のことで謝罪した件。

ジュニアさんの問題とも、朝沼予史宏さんの問題とは性質が違う。
今回の件を、何が問題なの? という人がいるのも知っている。
ここも、ジュニアさん、朝沼予史宏さんの件とは違うところだ。

染谷一氏本人も、なんの問題があるのか、ぐらいに思っているのかもしれない。

ジュニアさんの場合は、
彼自身がほんとうにつくりたかったオーディオの本の編集において起ったこと。
一人で突っ走りすぎた、ともいえるのかもしれない。

朝沼予史宏さんの場合も、私には、(その41)で書いたことが原因のように思える。

どちらも想いが暴走してしまったのかもしれない。

染谷一編集長の件は、ここがはっきりと違う。

Date: 7月 11th, 2018
Cate: 複雑な幼稚性

「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(その42)

菅野先生の「やりすぎたんだよ」は、
朝沼予史宏さんを慮ってのことばである。

菅野先生はComponents of the yearの選考委員長として、
朝沼予史宏さんを選考委員から外されている。

苦渋の決断である。

菅野先生は、こう続けられた。
「朝沼くんならば、きっとやり直せる」と。
それを期待してのことだった。

菅野先生は、そのころの朝沼予史宏さんの行為はやってはいけないことだし、
そんなことを続けていては、朝沼予史宏という一人のオーディオ評論家をつぶしてしまうことになる、
朝沼予史宏という才能を殺してしまうことになる。

そんなことになる前に、なんとかしないと……。
選考委員から降ろされることが、朝沼予史宏さんに与える影響の大きさは、
菅野先生がいちばんわかっておられたはずだ。

それによってしんどい時期があっても、
朝沼予史宏さんならば、はい上がってくれる、と。

それには一年、二年……、もう少し必要なのかもしれない。
それでも腐らずにオーディオ評論という仕事を全うしていけば、
そこで再びComponents of the yearの選考委員になれたのである。

なのに朝沼予史宏さんが、突然逝ってしまわれた。
こんなことになろうとは、菅野先生もまったく予想されていなかった。

あの日の菅野先生の落ち込まれ方は、
朝沼予史宏さんへの期待への裏返しでもあった。

Date: 7月 11th, 2018
Cate: 複雑な幼稚性

「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(その41)

オーディオ評論家の領域を超えたところでの仕事、
オーディオ評論家の領域を逸脱してしまった行為。

前者をめざしていたはずなのに、気づいたら後者であった。
それが朝沼予史宏さんが、Components of the yearの選考委員ではなくなった理由だ。

具体的ないくつかのことは、
菅野先生からではなく、他のオーディオ業界の人らから聞いている。
ここで、その具体的なことは書かない。

朝沼予史宏はペンネームである。
五十音順で最初にくるように、「あ」で始まる苗字にした、
予見、予知の「予」を名にいれたかった、
そんな理由を、朝沼さんから直接きいている。

そのことをきかされたとき、沼田さん(朝沼さんの本名)は野心家なのかも……、と思った。
そうだったのかもしれない。
そうだったからこその、あのヴァイタリティであった、とはいえないだろうか。

私が先生と呼ぶオーディオ評論家の人たちは、
一般的なイメージとしてのオーディオ評論家の領域を超えたところでの仕事もされていた。

どの人がどういうことをも、ある程度は知っているが、
これもここで書くことではない。

朝沼予史宏さんも、そのへんのことは私と同じか、それ以上に知っていたはずだ。
だから、そこを目指されたのかもしれない。

けれど、時代が違っていた。
同じ人が、違う時代に生きていたら、
オーディオ評論家の領域を超えたところでの仕事をできたかは、なんともいえない、と思う。

オーディオ評論家の領域を超えたところでの仕事をめざしていたのに、
オーディオ評論家の領域を逸脱してしまった行為を、気づいてらやっていた──、
そういうことなのかもしれない。

菅野先生は、「やりすぎたんだよ」といわれていた。
確かに、朝沼予史宏さんのそれらの行為は「やりすぎ」である。
オーディオ評論家の領域を逸脱してしまった行為である。

Date: 7月 11th, 2018
Cate: フルレンジユニット
1 msg

大口径フルレンジユニットの音(その12)

(その11)で終りにするつもりでいたが、
友人のOさん(私より10くらい若い)が、この項を読んでくれて、
30cm口径のダブルコーンのフルレンジに興味を持った、という連絡があった。

しかも今日これから秋葉原に行き、購入してくる、とのこと。

audio wednesdayに来てくれたブラジル音楽好きのHさんも、
メールで、7月の会はおもしろかった、と伝えてくれた。

Kさんは、いつも鳴らしているアルテックよりも、ずっと好ましい、
これからも、これ(AXIOM 402)で行きましょう、といっていた。

AXIOM 402を聴いて、何か感じるものは人それぞれあったはずだ。

AXIOM 402の背面にある周波数特性の範囲。
40Hzから11,000Hz。
40×11000=44,000である。
ほぼ40万の法則にあう。

AXIOM 401は30Hzから12,000Hzで、こちらは36万。
どちらも40万に近い値になる。

数値での周波数特性は、表記の仕方によって違ってくるから、
ユニットの背面の数値をそのまま鵜呑みにしているわけではないが、
それでも、と思うところはある。

小口径のフルレンジであれば、高域にはのびていくが、
低域方向は逆に苦しくなる。

シングルボイスコイルのフルレンジユニットで、
40万の法則的といえるのは、30cm口径のダブルコーンかもしれない。

Date: 7月 11th, 2018
Cate: マーラー

マーラーの第九(Heart of Darkness・その11)

ストコフスキー/ロンドン交響楽団のマーラーの二番を聴いてみたい。
急に、そう思うようになった。

ストコフスキーの名を知らない人はいないだろう。
クラシックにさほど関心のない人でも、どこかで耳にしたり目にしたりしている、と思う。

名は知られていても、いまもストコフスキーの残した録音を、
熱心に聴いている人はどのくらいいるのだろうか。

クラシック音楽を聴いてきた時間の長い人ほど、
どこかストコフスキーを、巨匠と呼ばれる指揮者よりも低くみている。
私もそうだ。

ストコフスキーのレコードといって、すぐに浮ぶのは
グレン・グールドとのベートーヴェンのピアノ協奏曲第五番ぐらいでしかない。

ほんとうにストコフスキーのレコード(録音)を、積極的に聴いてきたわけではない。
これから先も、ストコフスキーを熱心に聴いていこうとも思っていない。

なのにストコフスキーのマーラーの二番が、ひっかかっている。
1974年に録音している、ということは、
1882年生れだから、92歳でのマーラーの二番である。

CBSコロムビアと100歳までの録音契約を結んでいたことは、私だって知っている。
そういうストコフスキーだから、92歳という年齢をふつうの感覚ではかっても、
あまり意味のないことだろうが、それにしても一番や四番ではなく、
二番を録音しているということを、うまく言い表せずにいるもどかしさがある。

微にいり細にいり、という演奏ではないであろう。
多少の瑕疵もある演奏かもしれないが、少なくともレコード会社が発売にOKを出している。

タワーレコードが、ストコフスキーのマーラーの二番を復刻している。

Date: 7月 11th, 2018
Cate: ディスク/ブック

スピーカー技術の100年 黎明期〜トーキー映画まで(追記)

佐伯多門氏の「スピーカー技術の100年」。
昨日、電子書籍にしてほしい、と書いた。

電子書籍にするのであれば、英訳してほしい、とも思う。
そうすれば海外でも販売できる。

オーディオの技術書で、日本の書籍が海外で評価されていることはないのではないか。
海外の技術書は、日本にも入ってきている。
私も何冊か持っている。

英訳して紙の本ということでは、コスト面でも大変だろうが、
英訳・電子書籍であれば、一度制作してしまえば、長いこと販売できる。

Date: 7月 11th, 2018
Cate: 複雑な幼稚性

「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(理解についての実感・その6)

フルトヴェングラーの「音楽ノート」のなかにある。
     *
 生きた作品は、思想や理論によって破壊されることがない。かといって、その生命が思想や理論によって守られるということもありえない。肝要なのは、火花が飛び移り、生きた音楽が生きた聴衆を見出すということである。そこでは、自己の過剰の知性による固定観念のなかに忌まわしく捕えられた現代に見られる、あの即座に準備され、いつでもすぐ仕上がる知ったかぶりなどは、まったく無視されるのである。
     *
私がどう解釈したかを、ここで書くつもりはない。
理解への実感に関係することだと感じたから、引用している。

そして、ここでのタイトルにも関係している。

Date: 7月 11th, 2018
Cate: 405, QUAD

QUAD 405への「?」(その4)

QUADのパワーアンプは、ステレオサウンドの試聴室でよく聴いている。
405以外に、プロ用の510、520、
405の改良型の405-2、上級機にあたる606、弟分の306と聴いている。
ステレオサウンドの試聴室を離れても、個人のリスニングルームで聴くことはあった。

そうやって聴いてきたQUADのパワーアンプであったが、
一度としてステレオサウンド 38号の新製品紹介の音の印象そのまま、
という音は聴けていないし、38号の試聴記との音のズレを感じていた。

聴けば聴くほど、38号の新製品紹介に登場した405の音を聴きたいし、
そういう音の405こそ、欲しい、と思うようになった。

405は一台持っている。
シリアルナンバーからすると、初期の405よりも数回変更が加えられたヴァージョンだ。
回路図を比較してみると、基本的な回路は同じであっても、細部は違う。

完全に最初の405と同じ回路にするには、ちょっと面倒である。
ならば最初のロットの405を、シリアルナンバーを調べて手に入れるか、というと、
そこまでの情熱はない。

そうやって手に入れたとしても、40年以上前のアンプだから、
全面的なメインテナンスも必要となる。
私の405も電解コンデンサーの交換が必要になっている。

つまり手を加えることになる。
ならば、と考えている。
どこまで38号に登場した405に近づけられるのか。

もっともその音を聴いているわけではない。
あくまでも文字からの想像が、私の中にあるだけだ。

QUAD 405への「?」を、「!」にしたい。

Date: 7月 11th, 2018
Cate: 五味康祐, 瀬川冬樹

カラヤンと4343と日本人(その1)

昨年12月に別項で、このタイトル「カラヤンと4343と日本人」で書き始めたい、とした。
タイトル先行で、どんなことを書くのかはその時点ではほとんど考えてなかった。
半年経っても、そこは変らない。

でも何にも書いていかないと、書こうと決めたことすら忘れがちになるので、
思いついたことから書き始める。

五味先生と瀬川先生は、本質的に近い、と私は感じている。
それでもカラヤンに対する評価は、違っていた。

五味先生のカラヤン嫌いはよく知られていた。
瀬川先生はカラヤンをよく聴かれていた。

ここがスタートである。
カラヤンといえば、黒田先生が浮ぶ。
音楽之友社から「カラヤン・カタログ303」を出されている。

瀬川先生も黒田先生もJBLの4343を鳴らされていた。
この二人は、朝日新聞が出していたレコードジャケットサイズのオーディオムック「世界のステレオ」で、
カラヤンのベートーヴェンの交響曲全集の録音について対談されている。

JBLの4343という、フロアー型の4ウェイ、しかもペアで100万円を超えるスピーカーシステムが、
驚くほど売れたのは日本であり、
カラヤンのレコード(録音物)の売行きでも、おそらく日本が一番なのではないか。

こう書いてしまうと、日本人はブランドに弱いから、としたり顔で、
わかったようなことをいう人がいる。
そんな単純なことだろうか。

ステレオサウンドに書かれていた人では、岡先生もカラヤンを高く評価されていた。
1970年代、岡先生はARのスピーカーを鳴らされていた。

岡俊雄、黒田恭一、瀬川冬樹。
この三人の名前を並べると、ステレオサウンド別冊「コンポーネントの世界」での鼎談である。
「オーディオシステムにおける音の音楽的意味あいをさぐる」である。

この鼎談は、瀬川冬樹著作集「良い音とは 良いスピーカーとは?」で読める。

Date: 7月 11th, 2018
Cate: マーラー

マーラーの第九(Heart of Darkness・その10)

そういえば、私はテンシュテットのマーラーの九番を聴いていない。
六番を聴いたら、九番を聴いてみよう、といまごろ思っている。

テンシュテットのマーラーだけでなく、シノーポリのマーラーを、
ここに来てもう一度聴いておこう、とも思いはじめている。

私が20代のころ、シノーポリのマーラーの録音は始まった。
発売順に聴いていったが、途中でやめてしまった。
理由は、もうよく憶えていないが、感覚的についていけないと感じたことも大きい。

あのころはそう感じたたけれど、いまはどう感じるのか。
そういえばシノーポリの九番も、聴いていない。

なにもマーラーの九番の、私にとっての名盤を選びたいわけではない。
そんな気持はまったくない。

正直、ジュリーニ、カラヤン、バーンスタイン、それにアバド(1987年録音の方)があれば、
私には充分である。
あとあげるならばワルターの古い録音である。

熱心なマーラーの聴き手からすれば、ずぼらな聴き方をしてきている。
網羅的な聴き方をそれほどしてこなかった。
これからそんな聴き方をしようとも思っていない。

聴いてきたマーラーよりも聴いていないマーラーの方が多い。
いまCDは安い。
集めようと思えば、それほど負担なくけっこうな枚数になる。
でも、聴くのか。

持っておけばいつでも聴ける。そんな安心感はある。
でも、心のどこかで、そんな聴き方とマーラーの九番の世界とはそぐわない。
なにか違う聴き方のようにも感じなくはない。

怠惰な聴き方のいいわけかもしれない──、
と思わないわけではないが、それで誰からに迷惑をかけるわけでもない。

それでも、これまで聴いてこなかったマーラーの録音に、
いまになって気になっている演奏がある。

Date: 7月 10th, 2018
Cate: 複雑な幼稚性

「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(その40)

その39)を読んで、オーディオ業界の事情通を自称している人のなかには、
菅野先生がそんな表情をするはずがない、と思う人がいるに違いない。

菅野沖彦が朝沼予史宏の才能を嫉んでつぶそうとした──、
いいかたは微妙に違っていても、
そんなことを言ったりインターネット上に書いたりしている人がいた。

そのことについて菅野先生は何も語られていない。
だから誤解が誤解のまま、一時期拡がっていた。

それは誤解だよ、と何度か書こうと思った。
けれど思いとどまって書かずに、十数年が経った。
まだ誤解は残っているようだ。

ほんとうに朝沼さんをつぶそうとしていた人が、
2002年12月8日に、あんな表情をするはずがない。

朝沼予史宏さんは、
Stereo Sound Grand Prixの前のComponents of the yearの選考委員の一人だった。
けれど降ろされていた。

オーディオ業界の自称事情通の人らは、
菅野沖彦が朝沼予史宏を降ろした、と吹聴していた。

確かにそれは事実だ。
このことが誤解につながっている。
だが理由がある。
朝沼予史宏さんをつぶそうとしてでは断じてない。

その逆だった。

Date: 7月 10th, 2018
Cate: 老い

老いとオーディオ(余談・その8)

ウエスギ・アンプのU·BROS3とマイケルソン&オースチンのTVA1。
ふたつのKT88のプッシュプルアンプの対比というより、
グラシェラ・スサーナの「抱きしめて」では、二人の女性の対比である。

歌い出しの「抱きしめて」。
その後に続く歌詞。

一人は「抱きしめて」といいながら、
こちらとの距離をぐっと縮めてくる。
「抱きしめて」の歌詞のあとは、すぐそこにいるような錯覚すら起す。

もう一人の「抱きしめて」は、そこに込められている心情は同じであっても、
ずっと控えめだ。奥ゆかしいともいえよう。

実際にこんなシチュエーションがあったなら、
そのあとにとる行動は、男ならみな一緒であろう。

それでも控えめな「抱きしめて」のあとには、
こちらから近づいていく必要はある。

その6)で上杉先生の、ステレオサウンド 60号での発言を引用している。
ここでは、もう引用しないが、つまりはそういうことだ。
控えめな「抱きしめて」でも、そういうことである。

肝心なところは同じであり、そういう違いをTVA1とU·BROS3には感じる。
若いころならTVA1を迷うことなく選ぶ、と(その7)で書いている。

そのころから30年が経っている。
どちらの「抱きしめて」も、いい。

聴き手のこちらの心情も、いつも同じなわけではない。
TVA1の「抱きしめて」でなければならない時もある。
U·BROS3の「抱きしめて」こそ、と思うときもある。

歌っているのはグラシェラ・スサーナである。
一人の歌手なのに、アンプというシステムの内面が変ることで、
「抱きしめて」も、それに続く歌詞も、
込められている心情は変らずとも表現はまるで違ってくる。

アンプの違いが、心情の違いになってしまっては困る。
なんともつまらない「抱きしめて」になってしまうアンプもある。

そんなアンプなら、「抱きしめて」を誰かと一緒であっても聴けよう。
けれど、心情をきちんと歌にのせてくれるアンプであるなら、
TVA1にしてもU·BROS3にしても、これはやはり独りで聴くしかない。

誰かと一緒でも聴ける、という人は、
「抱きしめて」に込められている心情がわかっていない。
それだけだ。

Date: 7月 10th, 2018
Cate: マーラー

マーラーの第九(Heart of Darkness・その9)

クラウス・テンシュテットの名を知ったのも、
テンシュテットのLPで最初に買ったのもマーラーだった。

東ドイツの指揮者だったテンシュテットは、1971年に西ドイツへ亡命している。
1925年生れのテンシュテットではあったが、そのためあまり名が知られているわけではなかった。

はっきりとは記憶していないが、
黒田先生は、テンシュテットを海中深く潜っていた潜水艦に喩えられていた。

EMIから出ていたロンドンフィルハーモニーとのマーラー。
その印象が強いだけに、潜水艦ということに妙に納得していた。

テンシュテットのマーラは、二番のLPを最初に買った。
次に、五番か四番を買ったはずだ。一番は買わなかった。
そういえば、いまだテンシュテットのマーラーの一番は聴いていない。

そして六番を、発売後すぐに買った。
その6)で書いているように、
これが六番の、私にとって最初のLPだった。

テンシュテットのマーラーのなかで、六番はよく聴いていた。
テンシュテットの発売になっていたマーラーすべてを買ったわけでもないし、
聴いていたわけでもないから、六番がテンシュテットの演奏でもっとも素晴らしいとはいわないが、
集中的に聴いていた。

どこか、その行為には、
ステレオサウンドの試聴室でくり返しきいたレーグナーの六番を、
テンシュテットの六番によって消し去ろうとしていたところもあったのかもしれない。

それから、いくつもの六番を聴いている。
バーンスタインの再録も聴いているし、他の指揮者でも当然聴いている。

もういまでは六番を聴くことは、すっかりしなくなった。
六番を聴きたい、とおもうことがなくなっている。

でも、そろそろもう一度テンシュテットの六番を聴いてみようか、と思っているところだ。

Date: 7月 10th, 2018
Cate: ディスク/ブック

スピーカー技術の100年 黎明期〜トーキー映画まで

無線と実験に長期連載されていた「スピーカー技術の100年」。
佐伯多門氏が執筆されていた。

この記事だけのために無線と実験を買おうか、と思うくらいだった。
けれど、いずれ一冊にまとめられるだろうと思って、買わずにいた。

連載が終ってどれぐらい経つだろうか。
そろそろ出るかな、と思っていたら、
佐伯多門氏の「スピーカー&エンクロージャー大全」が出た。

「スピーカー技術の100年」を出さずに、こっちなのか、と思ったくらいにがっかりした。
もしかしたら出ないかもしれない……、
そうなったら図書館に行って、ひたすらコピーしてくるしかないのか……。

7月9日に、やっと「スピーカー技術の100年」が出た。
近くの書店になかったので、まだ手にしていない。

もうこの種の本は出てこない、と思っていた方がいい。
ハイエンドオーディオばかりに夢中になっている一部のオーディオマニアは、
そんな古いスピーカー技術のことを知ったところで何になる──、
そんなことを思うかもしれない。

そういう人にほっとくしかない。

「スピーカー技術の100年 黎明期〜トーキー映画まで」が出たのは嬉しい。
ただ、現時点では電子書籍化はされていないようだ。
こういう本こそ、電子書籍化をしてほしい。
つまり紙の本が絶版になったとしても、電子書籍だけは継続して出版してほしい。

Date: 7月 10th, 2018
Cate: 405, QUAD

QUAD 405への「?」(その3)

ステレオサウンド 43号で、瀬川先生は、
《発売後数回にわたって回路が変更されているようで、音のニュアンスもわずかに違うし、プリのノイズを拡大する傾向のある製品もあるようなので、選択に注意したい》
と書かれている。

ということは38号での新製品紹介での405は、初期の405のはず。
その年の暮の「コンポーネントステレオの世界 ’77」で使われた405は、
38号の405とそう変っていないのかもしれない。

けれど「コンポーネントステレオの世界 ’77」から半年後の43号の時点では、
はっきりと405は変っている、といえる。

私が405を聴いたのは、43号よりさらに五年後。
回路・仕様の変更があったと考えてもいい。

それにその間に、コントロールアンプの44が登場している。
このあたりでも回路・仕様変更はあったとみていいのか。

405は魅力的なパワーアンプだし、好きなパワーアンプのひとつである。
それだけに、38号での音の印象とその後の音の印象のズレについては、
ずっとわだかまりのようなものがあった。

実際に回路・仕様変更はあったのか。
確かに405-2が登場している時には、回路変更はあった。
それ以前はどうなのか。

ずっと確認できないまま時は経っていく。
数年前に、405のサービスマニュアルがダウンロードできるようになっていた。
405-2になるまでに、何度かの回路変更があったのが確認できる。

シリアルナンバーで、どのヴァージョンの405なのかを確認できる。