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Date: 7月 29th, 2018
Cate: the Reviewの入力

the Review (in the past)を入力していて……(ダンラップ・クラークのこと・その2)

「コンポーネントステレオの世界 ’77」は、
読者からオーディオ評論家にあてた手紙から始まる組合せの試聴である。

読者は愛聴盤を手紙に書いている。
どんな音、どういうふうにオーディオとつきあっていきたいのかも含めて、
指名されたオーディオ評論家が読者といっしょに試聴して組合せをつくっていく。

「コンポーネントステレオの世界 ’77」ではクラシックが主だが、
ジャズもあれば歌謡曲もあったし、邦楽、そしてブラック・ミュージックもあった。

岩崎先生が、その組合せを担当されている。
(架空の)読者は22歳の学生。
「黒っぽい音楽」「黒っぽい音」が好きだと、手紙にはある。
ジェームス・ブラウン、ウィリー・ディクソン、ジミ・ヘンドリックス、
マーヴィン・ゲイ、エスター・フィリップス、ジョー・リー・ウィルソンのレコードが挙げられていた。

岩崎先生による最終的な組合せは、
スピーカーがエレクトロボイスのSentry V、
コントロールアンプがラックスのCL32、パワーアンプがダイナコのMark VIと、
どちらも管球式で、新製品として登場してそれほど経っていない。

アナログプレーヤーは、ビクターのTT71を専用キャビネットCL-P1におさめ、
トーンアームはビクターのUA5045、カートリッジはピカリングのXSV/3000である。

スピーカーもパワーアンプも、カートリッジも黒っぽい組合せで、
音もきっと黒っぽいサウンドを響かせたのだろう。

この組合せは、見た目からして、私がもとめる世界ではないけれど、
それだけに強烈だったし、
こういう音楽を聴くのに、最適な組合せにも感じられた。

その印象が残ったままで、ダンラップ・クラークの記事を読んだのだった。
読みながら、もう少し早くダンラップ・クラークが登場していれば、
「コンポーネントステレオの世界 ’77」の組合せに登場していたはずだし、
岩崎先生はダンラップ・クラークのアンプの音を、どう評価されただろうか、と思ったから、
このあまり知られていないブランドのアンプのことが、いまも気になっている。

Date: 7月 29th, 2018
Cate: the Reviewの入力

the Review (in the past)を入力していて……(ダンラップ・クラークのこと・その1)

ダンラップ・クラーク(DUNLAP CLARKE)というアンプメーカーが、アメリカにあった。
ステレオサウンド 
42号の新製品紹介で、パワーアンプのModel 500とModel 1000が、
43号でコントロールアンプのModel 10が取り上げられている。
当時の輸入元は、オーディオファイルだった。

型番は、正しくはDreadnaught 1000、Dreadnaught 500なのだが、
輸入元がそうしたのか、42号ではDreadnaughtのところがModelに置き換えられていた。

これ以降、ダンラップ・クラークのアンプがステレオサウンドだけでなく、
他のオーディオ雑誌で取り上げられていたことはないはずだ。

私は実機も見ていない。
ステレオサウンドの新製品の記事以上のことは知らなかったのだが、
不思議と印象に残っているアンプだった。

だから、いつかダンラップ・クラークのことは書こうと思っていたが,
ついつい他のことを書いていて、置き去りにしたままだった。

42号では、井上先生と山中先生の音について語られていることが興味深い。
日本の300Wのクラスのアンプのパンチ力にくらべると、
鈍くて重い重量級のパンチだ、と表現されている。

黒っぽいロックなどを鳴らしたら素晴らしい、ともあるし、
異色のアンプともある。

同じ傾向は43号のModel 10でも語られている。
ここでも、ロックやソウルなどを鳴らすには、これほどピッタリとマッチングのとれるアンプはない、と。
コントロールアンプも、パワーアンプと同じ性格で、
独特の重みをもったエネルギー感を十分に感じさせる、と。

だから、私が聴く音楽とも、私がもとめる音とも離れたところにある音のアンプにも関らず、
いまもこうやって書くほど印象に残っているのは、
42号の三ヵ月に前に出ている「コンポーネントステレオの世界 ’77」の影響である。

Date: 7月 29th, 2018
Cate: オーディオマニア

夏の終りに(情熱とは・その4)

今日(7月29日)で、2018年のツール・ド・フランスは終る。
昨日の個人タイムトライアルが終了した時点で、総合優勝は決っている。

夏はまだまだ続くが、ツール・ド・フランスは今日で終る。
20年前のツール・ド・フランスのことは、いまも思い出す。

マルコ・パンターニが総合優勝した。
1994年のツール・ド・フランスでのパンターニの走りを知ったときから、
パンターニを応援していたものの、
1998年も前年の優勝者ヤン・ウルリッヒが勝つものだと思っていた。

けれど20年前の7月27日。
悪天候の中のレースで波瀾があり、パンターニが総合首位に立った。

レースの途中で、テレビ画面の下に、誰がトップを走っていて、
後続とのタイム差はどのくらいなのか、そういった情報が表示される。

パンターニが山岳コースでアタックをかけてどのくらい経ったのか、
そこに暫定マイヨジョーヌとしてパンターニの名前が表示された。

心の中で歓声を挙げた。
そんなことを思い出しながら、
パンターニは、山岳のしんどさから少しでも早く抜け出したがっていたことを、
ずいぶん後のインタヴュー記事で知る。

自転車で走ることは楽しい。
速く走れることも楽しい。
けれど、しんどいことから逃れられるわけではない。
登坂ではしんどさは増す。

山岳を誰よりも速く走ることは快感でもあったはず。
パンターニがどう感じていたのかは、いまとなっては確認のしようもないが、
山岳のしんどさから速く抜け出したい──、
という気持と同じ気持をまったく持っていないと言い切れるオーディオマニアはいるのか。

抜け出したい──、
そうどこかで思っているオーディオマニアも、情熱的と周りから思われているのではないか。

Date: 7月 29th, 2018
Cate: きく

音を聴くということ(グルジェフの言葉・その4)

キカイダーでは服従回路にはルビがふられていた。
イエッサー(Yes, Sir)である。

軍隊で上官の命令に対する返答である。
この服従回路から良心回路(こちらはジェミニィ、ピノキオのコオロギの名前)をみれば、
良心回路とは命令の拒否ということにもなる。

命令にイエッサーといい服従するのか、時には拒否するのか。
ここでの命令とは何なのかについて考えなければ、答はいつまでたっても出てこない。

キカイダーは、最後に服従回路を埋めこまれる。
良心回路も残されたままであり、それによってキカイダーは嘘をつけるようになる。

キカイダーより先に造られたキカイダー01には、
良心回路はないため服従回路を埋めこまれた後は、
命令に絶対服従するようになる。

キカイダーは単なるロボットではなく、人造人間という扱いなのだが、
服従回路により命令に支配されたキカイダー01は、ロボットとどこが違うのか、となる。

ピノキオには、良心回路も服従回路もなかった。
だから良心回路的な存在のコオロギ(ジェミニィ)が共に行動し、
嘘をつくと鼻が伸びていく。

キカイダーがつく嘘とピノキオがつく嘘は、同じとは考えにくい。
時代も国も、作者も違う、まったく別の二つの物語を一緒に考えていく無理があるのは、
承知しているつもりだが、このふたつの嘘を無視して、
レコード(録音物)とオーディオを介しての音楽を聴くという行為を考えていくのは、
それこそ無理があるのではないのか。

Date: 7月 28th, 2018
Cate: 映画

ストリート・オブ・ファイヤー(映画性とは)

ストリート・オブ・ファイヤー(Streets of Fire)」を数日前に観てきた。
もう少し早く行きたかったけれど、うだるような暑さに負けて延ばし延ばしにしていた。

以前書いているように1984年に公開されたとき、映画館で二回観た。
その後もレーザーディスクでも観ていたし、
最近ではHuluやAmazon Prime Videoでも観られる。

なのでけっこうな回数観ている。
最初と最後の、ダイアン・レイン扮するエレン・エイムのライヴシーンだけに限っていえば、
さらに観ている。

それをまた映画館に観に行った。
前日にもAmazon Prime Videoで観てたから、
もう字幕ナシでも楽しめるかもしれない──、
そんなふうにいえるくらい観ている。

同じ料金を払うのなら、最新の映画を観た方がいい、とは私も思う。
それでも「ストリート・オブ・ファイヤー」を映画館で観る機会は、
私が生きている間はもうないだろう。

それに一本くらいは、こういう映画があってもいいじゃないか、
そんな理由にもならない理由をつけて行っていた。

今回上映しているシネマート新宿は300人ほどの劇場だ。
当時観た新宿プラザよりも小さい。

それでも始まれば、夢中になっていた。
何度観ても飽きないシーンから「ストリート・オブ・ファイヤー」は始まる。

ラストもよかった。
ここも何回観たかわからないほど観ているのに、うるっとしそうになった。

そういえば、この映画、淀川長治氏が高く評価されていたことも思い出した。
「ストリート・オブ・ファイヤー 淀川長治」で検索すると、確かにそうだった。

1984年の外国映画のベスト10でも選ばれている。
六番目に「ストリート・オブ・ファイヤー」がいる。
その前がウッディ・アレン監督の「カメレオンマン」だ。

《ことしのアメリカ映画の収穫は「カメレオンマン」の頭脳に迫る「ストリート・オブ・ファイヤー」の映画感覚》
とある。

2017年1月に書いた『「音楽性」とは(映画性というだろうか・その11)』のことを思い出した。

ステレオサウンド 130号、勝見洋一氏の連載「硝子の視た音」の八回目の最後に、こうある。
     *
 そしてフェリーニ氏は最後に言った。
「記憶のような物語、記憶のような光景、記憶のような音しか映画は必要としていないんだよ。本当だぜ、信じろよ」
     *
このフェリーニの言葉が、「ストリート・オブ・ファイヤー」にぴったりとはまる。

Date: 7月 28th, 2018
Cate: Noise Control/Noise Design

聴感上のS/N比と聴感上のfレンジ(その12)

CR方法は、コイルに対しての手法であり、
コイルのあるところならば、いろいろなところに試せる。

スピーカーユニットのボイスコイル、
トランスの巻線、カートリッジのコイル、それからネットワークのコイルもそうである。

ネットワークのコイルに関しては、6月のaudio wednesdayで実験している。
6dBスロープのネットワークだから、コイルはウーファー側にだけ入る。
このコイルの直流抵抗は、約0.5Ω。

DALEの無誘導巻線抵抗は、もっと低い値まであるが、
ディップマイカは下限は1pFまで。
なので1Ωと1pFの直列回路をウーファーのネットワークのコイルに並列に接続した。

ここでの効果は、デメリットになるかもしれない、と半分くらい思っていた。
結果は、意外なことに、ここにおいても効果的だった。

コイルは定常状態を維持しようとする。
信号が流れていないコイルを信号を流そうとすると、
流させまいとしてパルス性のノイズを発生する。
反対の場合も同じである。ノイズが発生する。

このノイズに効いているのだろうか。
効いていないとは考えていないが、それだけとは思えない。

トランスを含めて、コイルのあるところ、今後試していく予定だが、
個人的に興味があるのは、真空管アンプのヒーター回路である。
それも出力管用のヒーター回路である。

ヒーターの点火方法は、定電流(定電圧ではない)点火だと考えている。
以前書いているから省略するがTL431を使った定電流回路が、いまのところはいい。

ただ電圧増幅管はまだいいが、出力管を定電流点火しようとするなら、
非常に大がかりになる。
出力管の定電流点火は、大きなメリットをもたらすだろうが、
その音は聴かない方が賢明だと思っている。

誰かがやったのを一度聴いてしまったら、きっとやってみたくなるはずだからだ。
アンプを設計したことのある人ならば、その大変さは想像できよう。
だから聴かない。

それでも……、とやはり考える。
定電流点火までは無理でも、従来の交流点火も見直せるのではないか。
そのひとつが電源トランスのヒーター巻線へのCR直列回路の取り付けである。

Date: 7月 28th, 2018
Cate: Noise Control/Noise Design

聴感上のS/N比と聴感上のfレンジ(その11)

負荷側のインピーダンスが高域においてどんどん上昇していく。
信号源(アンプ)の出力インピーダンスよりもはるかに高い値になれば、
ロー送りハイ受けで、特に問題はないように考えがちだが、
負荷側の高域でのそうとうなインピーダンスの上昇は、
アンプ側からみれば、のれんに腕押し状態なのかもしれない。

可聴帯域ではしっかりと手応えがあるのに、
高域、それも可聴帯域をはるかに超えたところではまったく手応えがないのれんに腕押し、
つまり無負荷に近い状態になる──。

実際にスピーカーを最低でもMHZの領域まで測定してみないと、正確なところはいえない。
それでも可聴帯域よりも上、それもそうとうに上の帯域では、
可聴帯域とはずいぶん様相が違っているのは当然だろう。

それに対してアンプは、どう動作しているのか。
周波数特性的にはそこまでのびていない、というか、保証されていない
数kHzぐらいまでの周波数特性は測定されている。

MHzも、そうとうに上の周波数となると、いったいどういう挙動を見せるのか。
そんな上の方まで信号に含まれていない──、
確かにそうだが、ノイズはそうではない。

スピーカーユニットの端子に、できるかぎり最短距離でCRの直列回路を取り付ける。
特にコンデンサー側のリード線は短くしたい。

ここを安直に、スピーカーユニットではなく、
スピーカーシステムの端子に取り付けても意味はない。

CR直列回路によって超高域においてのインピーダンスは補正されているはず。
超高域においての無負荷状態は防いでいるはずだ。

ステレオ・ギャラリーQの出力トランスの16Ω端子に取り付けられているのは、
20Ωと0.05μFの直列回路である。

真空管アンプの出力トランスの二次側の直流抵抗は、20Ω程度ではなく、一桁低い。
だからCR方法の算出では、抵抗は数Ωであり、コンデンサーは数pFとなる。

ここまで低くすると、聴感上わからなくなるのでは? と思われるかもしれないが、
おそらく音の違いははっきりとあらわれると予想している。

Date: 7月 28th, 2018
Cate: 複雑な幼稚性

「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(わかりやすさの弊害・その7)

ステレオサウンド 207号の試聴記を見て(読んで、ではなく)、
twitter的といったのは、つまみ食いならぬつまみ読みができるからでもある。

このスピーカーの試聴記のを頭から終りまで通して読むのではなく、
オーディオ評論家の○○さんの、この機種の、このディスクのところだけ、
といった読み方ができるからである。

このことに関連して思い出すのは、
私がステレオサウンドにいたころ、原田勲氏がいわれたことである。

雑誌は幕の内弁当でなければならない、とはっきりといわれたことがある。
私がいたころだから、もう30年も前のことであり、
いまではどう雑誌を捉えているのかは、なんともいえなかったけれど、
207号の試聴記を見るにつれ、いまもまだその考えは変っていない、と確信した。

幕の内弁当は、たとえばとんかつ弁当とは大きく違う。
とんかつ弁当(焼き魚弁当でもいいけれど、別項でとんかつを書いているので)は、
メインとなるおかずは、文字通りとんかつだけである。

とんかつ以外にはキャベツの千切りとちょっとしたサラダ、つけものぐらいか。
どんなに美味しいとんかつであっても、その日、とんかつを食べたくない人、
肉が嫌いな人にとっては、他に食べるものがなくなるのが、とんかつ弁当である。

どんな人であっても、まんべんなくおかずが食べられるのが幕の内弁当であって、
そういうつくりの雑誌にすれば、特集の企画によって売行きが変動することを抑えられるからである。

その幕の内弁当思想が、特集の試聴記にまで及んでいる。
さしずめtwitter的試聴記は、弁当でいえば、
一口サイズにおかずもご飯も区切られているマス目弁当である。

幕の内弁当は、さらに進歩した、といえる。

Date: 7月 27th, 2018
Cate: Noise Control/Noise Design

聴感上のS/N比と聴感上のfレンジ(その10)

その1)で書いているように、
CR方法は電源トランスに対して行われていたものだ。
それを私が「五味オーディオ教室」でのテレフンケンのS8のスピーカーでの記述。
そこに《配線図にはない豆粒ほどのチョークやコンデンサー》が、とあった。

このふたつのことを当時中学生だった私は、勝手に結びつけたわけだ。
だから本来は電源トランスであり、それを私はスピーカーユニットにも有効のはずだと考えた。
実際に有効である。

ならば次に考えるのは信号系のトランスである。
入力トランス、段間トランス、出力トランスなどがある。
いずれ試してみようと考えていたところに、Oさんから興味深い記事のコピーが届いた。

ラジオ技術(1968年10月号)掲載の300Bシングルアンプの製作記事である。
筆者は葉山滋氏(ラックスの上原晋氏のペンネーム)で、
記事を見ればわかるように当時話題になっていたステレオ・ギャラリーQのアンプそのものである。

一見すると見逃しやすいが、このアンプの出力トランスの16Ω端子には、
20Ωと0.05μFの直列回路が並列に接続されている。

これについて上原晋氏は、《段間に使われる積分形補正素子とは少し違う狙い》とされている。
スピーカーを接続しない状態でも、
超高域で出力トランスが無負荷になることを防止するもの、とのこと。

高域でインピーダンスの上昇するスピーカーは多く、
これらが接続された場合の20kHz以上の帯域で常に負荷がかかるようにするためである。

参考例としてラックスの出力トランスの、16Ω負荷時と開放時の周波数特性が載っている。
二次側が開放になっていると、20kHz以上で大きな差となる。
周波数特性のグラフは500kHzまで測定されているが、
500kHzでは15dBほどの違いであり、開放になっていると高域は確かにあばれている。

こういう現象が起るのは、
出力トランスの分割巻きれた各セクションの持つリーケージインダクタンス、
線間容量、対アース容量、各セクション間の結合容量の影響が、
適正な負荷がかかっていればバランスが保たれるのが、
無負荷ではバランスが崩れるために生じてしまう、とある。

Date: 7月 27th, 2018
Cate: 菅野沖彦

「菅野録音の神髄」(その18)

その10)で引用した
青山ホールの《響きをとったわけじゃない》という菅野先生の発言。

ホールの響きをとらないのに、スタジオではなくホールなのか。
ステレオサウンド 49号で、そのことについて語られている。
     *
菅野 ただね、エコーがなくても、空間感というのは、必要なんですよ。よくジャズだから、エコーいらないのだから、そんな広いホールでやる必要ないという人がいますが、実はそうではないのてす。やはり、ホールの持っている容積は、そこで出る音を決定的に左右するわけなんです。必ずしもエコーだけのためでなく、ある空間の中でのびのびした音というようなことから使うわけです。
保柳 のびのびというのかな。
菅野 要するに、音の抜けがよくなる。そんな意味からも使う。デッドであっても、容積の大きなホールは、音が抜けるということもあるし、逆に小さなところであれば、抜けが悪く飽和して、モヤモヤになってしまう。まあ、音楽の性格を考えたとき、必ずしもエコーを必要としなくても、ある容積を持ったホールを使うことになります。
保柳 よくいうんですけれど、アコースティック楽器というのは、ある空間を初めから、計算に入れて作られていますね。
菅野 そうそう、だから大きすぎるのも困る。
保柳 ヴァイオリン一つにしても、スタジオでとると、これはという音がなかなかとれない。確かにある水準はとれる、いいスタジオであれば。しかし、どこか違う。抜けというか、ほんとうのヴァイオリンの音になってこない。その同じヴァイオリンがホールへ持っていくと不思議とヴァイオリンの音になってくるんですね。
     *
ここでのエコーは、その前の発言で、
保柳健氏がいわゆるエコーをつけることを語られているため、
電気的なエコーと録音空間の残響とが一緒くたになっているようだ。

空間の大きさと空気の硬さとの関係は、何も録音の現場だけでの話ではなく、
再生の場、つまり家庭での空間についても、ひとしく同じことがあてはまる。

昔から、小さな空間は空気が硬い、といわれていた。

Date: 7月 27th, 2018
Cate: ディスク/ブック

CHARLES MUNCH/THE COMPLETE RECORDINGS ON WANER CLASSICS(その1)

五味先生が、「ラヴェル《ダフニスとクローエ》第二組曲」で、
シャルル・ミュンシュについて書かれていたのを読んだは、もうずっと昔のこと。
     *
 この七月、ヨーロッパへ小旅行したおり、パリのサントノレ通りからホテルへの帰路——マドレーヌ寺院の前あたりだったと思う——で、品のいいレコード店のショーウインドにミュンシュのパリ管弦楽団を指揮した《ダフニスとクローエ》第二組曲を見つけた。
 いうまでもなくシャルル・ミュンシュは六十三年ごろまでボストン交響楽団の常任指揮者で、ボストンを振った《ダフニスとクローエ》ならモノーラル時代に聴いている。しかしボストン・シンフォニーでこちらの期待するラヴェルが鳴るとは思えなかったし、案のじょう、味気のないものだったから聴いてすぐこのレコードは追放した。
 ミュンシュは、ボストンへ行く前にパリ・コンセルヴァトワールの常任指揮者だったのは大方の愛好家なら知っていることで、古くはコルトーのピアノでラヴェルの《左手のための協奏曲》をコンセルヴァトワールを振って入れている。だが私の知るかぎり、パリ・コンセルヴァトワールを振ってのラヴェルは《ボレロ》のほかになかった。もちろんモノーラル時代の話である。
 それが、パテ(フランスEMI)盤でステレオ。おまけに《逝ける王女のためのパバーヌ》もA面に入っている。いいものを見つけたと、当方フランス語は話せないが購めに店に入った。そうして他のレコードを見て、感心した。
(中略)
 シャルル・ミュンシュの《ダフニスとクローエ》そのものは、パリのオケだけにやはりボストンには望めぬ香気と、滋味を感じとれた。いいレコードである。
 他に《スペイン狂詩曲》と《ボレロ》が入っている(レコード番号=二C〇六九=一〇二三九)。もちろんモノを人工的にステレオにしたものゆえ優秀録音とは今では申せない。だが拙宅で聴いたかぎり、十分鑑賞に耐えるものだったし、アンセルメやピエール・モントゥとはまた違った味わいがあった。クリュイタンス盤より、そして私には好ましかったことを付記しておく。
     *
これを読んだ時から、ミュンシュのこのレコードを買おう、と決めていた。
けれど、当時なかったように記憶している。
私の探し方が足りなかったのか、廃盤になっていたのか、
そのへんはさだかではないが、聴くことはできなかった。

かといってミュンシュ/ボストン交響楽団のレコードを買う気にはなれなかった。

ミュンシュ/パリ管弦楽団のレコードは、ラヴェル以外にも優れた演奏が残されていることも、
すこし経ったころに知る。
ブラームスの交響曲第一番であったり、ベルリオーズの幻想交響曲などである。

結局、これらのミュンシュ/パリ管弦楽団の演奏を聴いたのはCDになってからだった。

9月にワーナー・クラシックスから、
CHARLES MUNCH/THE COMPLETE RECORDINGS ON WANER CLASSICSが出る。
EMIとエラートに残された録音が、13枚組のCDボックスで出る。

パリ管弦楽団だけでなく、
ラムルー管弦楽団、フランス国立管弦楽団、パリ音楽院管弦楽団との演奏も含まれている。
コルトーとの《左手のための協奏曲》も、もちろんだ。

この手のボックスものの例にもれず、この13枚組も安価だ。
五味先生が書かれているような、旅先で偶然、こういうレコード店に出会して、
存在を知らなかった、いいレコードに巡り合うという楽しみは、CDボックスにはない。

けれど、ありがたいことではある。

Date: 7月 27th, 2018
Cate: 真空管アンプ

真空管アンプの存在(ふたつのEL34プッシュプル・その3)

ダイナコとマランツの真空管アンプでは、
Mark IVとModel 5の対比も好き、というコメントがfacebookにあった。

Mark IVとModel 5の対比もありだな、と思っていたが、
実はMark IVは実機を見たことがない。
Model 5に関しても、みたことはあるけれど音は聴いたことはない。

とはいえ回路図、外観、内部を含めてインターネット上にはけっこうな数あるから、
特に音について書くわけではないから、
Mark IVとModel 5の対比でもなんら問題ないけれど、
Stereo 70とModel 8Bのほうが、私には身近な存在だけに、選んでいる。

ついでに書いておくと、ダイナコにはMark VIというモノーラルアンプもある。
ステレオサウンド 42号(1977年)の新製品紹介で登場している。

出力管に8417を四本使ったパラレルプッシュプルで、出力は120W。
ダイナコの真空管アンプとして初めての19インチラックサイズのフロントパネルをもち、
バイアスチェックをかねたパワーメーター、ラックハンドルがついている。

マランツのModel 9のプロ用機器版9Rを強く意識したような造りのアンプである。
Model 9は1960年に登場しているから、約20年経っての新製品Mark VIである。

ダイナコは真空管アンプにおいては、マランツの真空管アンプを、
どこか意識していたように感じる。

Date: 7月 27th, 2018
Cate: 純度

純度と熟度(と未熟)

未熟なものを新鮮と感じるほど、バカではない。
オーディオマニアとして熟度が足りない人を、
オーディオマニアとして純度が高い人と勘違いしたりもしない。

Date: 7月 27th, 2018
Cate: 複雑な幼稚性

「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(わかりやすさの弊害・その6)

「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(その47)』へのfacebookでのコメント。

ひとりの方は、
オーディオ機器選びもSNSの「いいね!」の数を見て選ぶような時代であって、
ステレオサウンドの試聴記のように長いものを読んで、
自分に合ったモノを選ぶという手間のかかることは、
今の若い人たちはやらなくなっている、と。

別の方は、オーディオ機器は、良いモノを長く使いたいと考える人が多いから、
SNSのその場限りに対して、オーディオ雑誌は内容に責任を負っているから、
現在で存在価値を認める、と。

ひとり目の方は、オーディオ雑誌に存在価値を認めているいないではなく、
若い人のモノ選びについて書かれている。
ふたり目の方は、自身のオーディオ機器選びについて書かれている。

若い人のすべてがSNSの「いいね!」の数を見て選ぶわけではないだろうが、
その傾向はあるような気はする。
それに長い文章はSNSでは避けられがちである。

SNSで見かけがちなのが「長くてすみません」ということわり、である。
私の感覚では、特に長くない、と感じるのだが、SNSではそうではないようだ。
長い文章はことわらなければならないのか。

ステレオサウンド 207号の試聴記も、文字数だけでいえば、
SNSでは「長くてすみません」とことわらなければならない。

そういう視点から207号の試聴記をみると、
鉤括弧でディスク名をあげ、その後に続く文章をひとつとして捉えれば、
100文字程度の短文のいくつかが合体しただけ、とも読める。

twitter的でもある。
ディスクごとの印象は、ツイートそのものではないか。

ステレオサウンドの試聴記においても、
さほど長くない試聴記を読ませるための工夫がなされている──、
そんなふうに受けとることもできる。

Date: 7月 27th, 2018
Cate: 真空管アンプ

真空管アンプの存在(ふたつのEL34プッシュプル・その2)

その1)で、EL34のプッシュプルアンプとして、
マランツのアンプを真っ先に思い出す人は多い、とした。

マランツのアンプは、どれもEL34のプッシュプルだ(Model 9はパラレルプッシュプル)。
Model 2、5、8(B)、9。
ここで取り上げるのは唯一のステレオモデルであるModel 8(B)。

出力35W+35W。
アメリカには、もう一機種、出力35W+35WのEL34のプッシュプルのステレオアンプがある。
ダイナコのStereo 70である。

外形寸法はModel 8がW34.3×H18.4×D26.7cm、Stereo 70がW33.0×H16.5×D24.0cm、
そう大きくは違わない。

全体のレイアウトもシャーシー後方に三つのトランス、前方に真空管。
その真空管のレイアウトも、電圧増幅管を左右に二本ずつ配置した出力管で取り囲む。

とはいえ、細部を比較していくと、Model 8とStereo 70はずいぶん違うアンプだ。
まずStereo 70はキットでも販売していた。

Model 8もマランツのラインナップでは普及クラスとはいえなくもないが、
市場全体からみれば、そうではないのに対し、Stereo 70はダイナコの製品である以上、
はっきりと普及クラスのEL34のプッシュプルアンプである。

キットも出ていたStereo 70は、高価な測定器を必要としなくても、
ハンダ付けがきちんとなされていて、テスターが一台あれば完成できなければならない。
ちなみに1977年当時の完成品のStereo 70は89,000円、
キットのStereo 70は69,000円だった。

Model 8Bにもキットはあった。
1978年にModel 7とModel 9のキットが、日本マランツから出て好評だったため、
翌年にModel 8BKが出ている。

同じキットとはいえ、ダイナコとマランツとでは、意味あいが違う。