ストリート・オブ・ファイヤー(映画性とは)
「ストリート・オブ・ファイヤー(Streets of Fire)」を数日前に観てきた。
もう少し早く行きたかったけれど、うだるような暑さに負けて延ばし延ばしにしていた。
以前書いているように1984年に公開されたとき、映画館で二回観た。
その後もレーザーディスクでも観ていたし、
最近ではHuluやAmazon Prime Videoでも観られる。
なのでけっこうな回数観ている。
最初と最後の、ダイアン・レイン扮するエレン・エイムのライヴシーンだけに限っていえば、
さらに観ている。
それをまた映画館に観に行った。
前日にもAmazon Prime Videoで観てたから、
もう字幕ナシでも楽しめるかもしれない──、
そんなふうにいえるくらい観ている。
同じ料金を払うのなら、最新の映画を観た方がいい、とは私も思う。
それでも「ストリート・オブ・ファイヤー」を映画館で観る機会は、
私が生きている間はもうないだろう。
それに一本くらいは、こういう映画があってもいいじゃないか、
そんな理由にもならない理由をつけて行っていた。
今回上映しているシネマート新宿は300人ほどの劇場だ。
当時観た新宿プラザよりも小さい。
それでも始まれば、夢中になっていた。
何度観ても飽きないシーンから「ストリート・オブ・ファイヤー」は始まる。
ラストもよかった。
ここも何回観たかわからないほど観ているのに、うるっとしそうになった。
そういえば、この映画、淀川長治氏が高く評価されていたことも思い出した。
「ストリート・オブ・ファイヤー 淀川長治」で検索すると、確かにそうだった。
1984年の外国映画のベスト10でも選ばれている。
六番目に「ストリート・オブ・ファイヤー」がいる。
その前がウッディ・アレン監督の「カメレオンマン」だ。
《ことしのアメリカ映画の収穫は「カメレオンマン」の頭脳に迫る「ストリート・オブ・ファイヤー」の映画感覚》
とある。
2017年1月に書いた『「音楽性」とは(映画性というだろうか・その11)』のことを思い出した。
ステレオサウンド 130号、勝見洋一氏の連載「硝子の視た音」の八回目の最後に、こうある。
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そしてフェリーニ氏は最後に言った。
「記憶のような物語、記憶のような光景、記憶のような音しか映画は必要としていないんだよ。本当だぜ、信じろよ」
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このフェリーニの言葉が、「ストリート・オブ・ファイヤー」にぴったりとはまる。