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Date: 10月 20th, 2019
Cate: アナログディスク再生

私にとってアナログディスク再生とは(リアパネルのこと・その5)

今夏にヤフオク!で手に入れたテクニクスのSL01とサンスイのAU-D607、
この二台で音を鳴らそうとした時に、どう設置しようか、と少し迷った。

ラックの上にSL01、ラックの下側にAU-D607という置き方を、
国産の、この時代のアンプは推奨しているかのようなリアパネルの端子の配置である。

こうすればフォノケーブルは真下に向い、
プレーヤーの電源コードともアンプの電源コードとも、基本的には交わらない。

けれど横に二台を並べようとすると、
プレーヤーを右側に置けば、
プレーヤーの電源コードとフォノケーブルは交わる。
反対にプレーヤーを左側に置けば、アンプの電源コードと交わることになる。

それぞれの電源コードに流れる電流の大きさは、
当然だがプリメインアンプのAU-D607の方が大きいわけだから、
交わることによる影響も、それだけ大きくなる。

それにAU-D607の二個の電源トランスは、アンプ内部左側にある。
つまりSL01を左側に置くと、カートリッジ、トーンアームという、
微小な信号が流れるラインと、アンプの電源トランスがかなり近づくことにもある。

電源トランスは直接は見えないが、
アンプを自分の手で持てば、どのあたりに配置されているかはすぐにわかる。

そうなると、あえて試すまでもなく、SL01とAU-D607を二台、横にならべるのであれば、
プレーヤーが右側、アンプが左側と自然に決ってしまう。

そういえばあるところで、フォノケーブルが、電源コードとくっつかんばかりに近づいていた。
わざとそうしているように見えたから、
ここ(フォノケーブル)とここ(電源コード)、離しましょう、といったら、
そうするとスピーカーケーブルと電源コードが近づいてしまう、大丈夫ですか、
という返事だった。

フォノケーブルはシールド線、スピーカーケーブルはシールドなしだから、
スピーカーケーブルが電源コードに近づく方が影響が大きいと考えた、ということだった。

Date: 10月 19th, 2019
Cate: 音の器

音の器(その3)

音の器として捉えた場合に絶対に不可欠な存在がある。
いうまでもなくレコード(録音物)である。

レコードがあってこそ、蓄音器は完結する。
デコラは特にそうだ、といえる。

蓄音器は蓄音「器」たり得る。

先日、デコラをじっくり聴かせてくれた方は、
デコラを手に入れて十数年、クラシックのレコード以外はかけなかった、とのこと。

言葉に出してこそいわれなかったけれど、
デコラを蓄音機ではなく蓄音器として鳴らされているからだろう。

音の器としてのデコラは、だからかけるレコードを選ぶ。
デコラをレコードを選ぶことを、どう捉えるのか。

それは、その人の自由というか、勝手である。
そこまで口出しする気は、もうなくなった。

Date: 10月 19th, 2019
Cate: 音の器

音の器(その2)

デッカ・デコラは、音の器だ、と確信した。
だからこそ名器と感じるのだろう。

デコラは電蓄。
電気蓄音器である。

電気を使わない蓄音器があった。
蓄音器はグラモフォン(gramophone)だ。

誰がグラモフォンを蓄音器と訳したのかは知らない。
そして、最初が蓄音器だったのか蓄音機だったのか、も知らない。

どちらも「ちくおんき」だから、
蓄音器であろうと蓄音機であろうと、違いはない──、
といってしまえば、それまでだと思う私だ。

私は蓄音器をとる。
音を蓄える器であるからだ。

だからデコラの電蓄は、私にとっては電気蓄音器である。
デコラという、立派な音の器であり、
あの時代のイギリスだからつくりえた音の器だ、とも思っている。

蓄音機であれば、そこには実のところ完結はうまれないのかもしれない。
蓄音器であればこそ、完結が得られたのだろう。

もちろん蓄音機であることを否定はしない。
蓄音機であることは事実である。

けれど、そこで完結を得たことで蓄音器でもある、と考えられるはずだ。

もちろんデコラをうみだしたのはイギリス人である。
彼らにとって、デコラはgramophoneだから、
蓄音器も蓄音機も、そんなことはまったく関係ない。

それはわかったうえで書いている。

Date: 10月 19th, 2019
Cate: 218, MERIDIAN, ULTRA DAC

2,500,000円と125,000円(その3)

ULTRA DACのフィルターをshortにした時のマリア・カラスは、
迫力があった──、
こう書いてしまうと、誤解されてしまいがちなのはわかっていても、
目の前に、それこそ1mちょっと離れているところにマリア・カラスが立って歌っている、
そういう気配をありありと感じることができた、という意味での、
そしてマリア・カラス自身が持つ、それこそオーラのようなものを感じとれた、
そういう二つの意味での迫力である。

こればかりは、どんなに218をうまく使おうとも、
絶対に出ない、と断言しておこう。

マリア・カラスは、そのほとんどがMQA音源になっていて、
e-onkyoで購入できる。

通常のCDをULTRA DACのshortフィルターで聴くのと、
MQAを218で聴くのと、どちらがか、となると、
まだ比較試聴は行っていないばかりか、マリア・カラスのMQAも聴いていない。

それでも断言できる。
そのくらいにULTRA DAC、shortフィルターでのマリア・カラスは、
いまも耳に残っているくらいに、すごかった。

218は優秀である。
優秀であるだけに、ULTRA DACがもつすごみがないのが感じられる。
優秀なだけではない、昨日、喫茶茶会記に導入しても、
聴いていて楽しい、と感じることができる。

ULTRA DACにもついているトーンコントロールが、218にもある。
別項で書いているように、218の、というより、
メリディアンのトーンコントロールは、見事である。

もうこれだけでも218は、間違いなくベストバイといえる。

ULTRA DACは、218の20倍の価格である。
ならばULTRA DACはベストバイといえないのか、というと、
これもまた私のなかではベストバイ中のベストバイとなる。

Date: 10月 19th, 2019
Cate: 「介在」

オーディオの「介在」こそ(その13)

音楽と聴き手のあいだに介在するガラスの例えが、
私のなかではしばらくして、瀬川先生が書かれていたことと結びついてきた。
     *
 二ヶ月ほど前から、都内のある高層マンションの10階に部屋を借りて住んでいる。すぐ下には公園があって、テニスコートやプールがある。いまはまだ水の季節ではないが、桜の花が満開の暖い日には、テニスコートは若い人たちでいっぱいになる。10階から見下したのでは、人の顔はマッチ棒の頭よりも小さくみえて、表情などはとてもわからないが、思い思いのテニスウェアに身を包んだ若い女性が集まったりしていると、つい、覗き趣味が頭をもたげて、ニコンの8×24の双眼鏡を持出して、美人かな? などと眺めてみたりする。
 公園の向うの河の水は澱んでいて、暖かさの急に増したこのところ、そばを歩くとぷうんと溝泥の匂いが鼻をつくが、10階まではさすがに上ってこない。河の向うはビル街になり、車の往来の音は四六時中にぎやかだ。
 そうした街のあちこちに、双眼鏡を向けていると、そのたびに、あんな建物があったのだろうか。見馴れたビルのあんなところに、あんな看板がついていたのだっけ……。仕事の手を休めた折に、何となく街を眺め、眺めるたびに何か発見して、私は少しも飽きない。
 高いところから街を眺めるのは昔から好きだった。そして私は都会のゴミゴミした街並みを眺めるのが好きだ。ビルとビルの谷間を歩いてくる人の姿。立話をしている人と人。あんなところを犬が歩いてゆく。とんかつ屋の看板を双眼鏡で拡大してみると電話番号が読める。あの電話にかけたら、出前をしてくれるのだろうか、などと考える。考えながら、このゴミゴミした街が、それを全体としてみればどことなくやはりこの街自体のひとつの色に統一されて、いわば不協和音で作られた交響曲のような魅力をさえ感じる。そうした全体を感じながら、再び私の双眼鏡は、目についた何かを拡大し、ディテールを発見しにゆく。
 高いところから風景を眺望する楽しさは、なにも私ひとりの趣味ではないと思うが、しかし、全体を見通しながらそれと同じ比重で、あるいはときとして全体以上に、部分の、ディテールの一層細かく鮮明に見えることを求めるのは、もしかすると私個人の特性のひとつであるかもしれない。
 そこに思い当ったとき、記憶は一度に遡って、私の耳には突然、JBL・SA600の初めて鳴ったあの音が聴こえてくる。それまでにも決して短いとはいえなかったオーディオ遍歴の中でも、真の意味で自分の探し求めていた音の方向に、はっきりした針路を発見させてくれた、あの記念すべきアンプの音が──。
     *
ステレオサウンド別冊「81世界の最新セパレートアンプ総テスト」の巻頭、
「いま、いい音のアンプがほしい」の書き出しである。

双眼鏡にはレンズが不可欠であり、
このレンズは、元はガラスであり、ガラスの形状を板から変えていくことで、
単なるガラス板では無理だったことを可能にする。
さらにレンズ同士を組み合わせることで、その性能を増していく。

レンズがあるからこそ、拡大してみることができるようになる。
《再び私の双眼鏡は、目についた何かを拡大し、ディテールを発見しにゆく》ことができる。

Date: 10月 19th, 2019
Cate: イコライザー

トーンコントロール(その14)

メリディアンの218を使われている方から、facebookにコメントがあって、
そこには左右独立でない点が不満といえば不満、とあった。

218のトーンコントロールは、左右チャンネルを独立して調整はできない。
そこに不満を感じる人もいるし、私は反対に、左右共通だからこそいい、と感じている。

これはトーンコントロールに対しての考え方、使い方の違いから来ることであって、
どちらが正しい、といったことではない。

218のトーンコントロールはDSPで信号処理しているだから、
左右独立でトーンコントロールの調整ができるようにするのは技術的には容易なはず。

あとはiPhone用のアプリ、IP Controlのユーザーインターフェースを変更すればいいくらいで、
実現可能なはず。

そういう仕様になったとして、
つまりトーンコントロールを左右共通で動かすのか、
独立させて動かすのかが選択できるようになったとしても、
私はいまのままの仕様(左右共通)で使う。

私はそのほうが使いやすい、と感じるからだ。

218のトーンコントロールについて、
やや昂奮気味に書いていて、次のステップとして非常に気になっているのは、
ULTRA DACが搭載する三種のフィルターとの組合せである。

Date: 10月 19th, 2019
Cate: 音の良さ

完璧な音(その2)

ヨゼフ・ホフマンが語っている。

Perfect sincerity plus perfect simplicity equals perfect achievement.
完璧な誠実さに完璧な単純さを加えることで、完璧な達成にいたる。

十年前に別項『「音楽性」とは(その5)』でも引用している。

完璧な誠実さ、完璧な単純さ、とある。
この二つに関して考えるだけでも容易ではない。

完璧な誠実さとは、どういうことなのか。
完璧な単純さに関しても同じで、どういうことなのか。

これ以上削る要素がないほどに達していれば、
それは完璧な単純さ(perfect simplicity)ということになるのか。

アンプで考えてみれば、ネルソン・パスが発表しているZen Ampは、
この完璧な単純さを実現しようとしている、と考えることもできる。

それを製品化したのが、First WattのSIT1、SIT2である。
これらのパワーアンプは、完璧な単純さのパワーアンプということになるのか。

そうだ、としよう。
では、ここに完璧な誠実さがあれば、完璧な達成となるのか。

けれどホフマンは、
《完璧な誠実さに完璧な単純さを加える》としている。

完璧な単純さに完璧な誠実さを加えるのでは、完璧な達成とならないのか。

“Perfect sincerity plus perfect simplicity equals perfect achievement.”を、
Perfect sincerity + perfect simplicity = perfect achievementとすれば、
完璧な誠実さと完璧な単純さを足せば、となる。

日本語訳の《完璧な誠実さに完璧な単純さを加える》にこだわりすぎているのか。

Date: 10月 19th, 2019
Cate: アナログディスク再生, 老い

アナログプレーヤーのセッティングの実例と老い(その5)

ジンバルサポートのトーンアームは、
回転軸のところに三本のネジがある。
垂直に一つ、水平に二つある。

まれにだが、この三本のネジをかなりきつく締めている人がいるのを知っている。

アナログプレーヤーの各部にガタツキがあれば、
それはてきめん聴感上のS/N比の劣化につながる。

井上先生も、以前ステレオサウンドで、
アナログプレーヤーのセッティングでの注意点として、
ネジをしっかり締めておくこと、といわれている。

基本的にはそうだが、
井上先生はその上で、締め過ぎてはいけないネジがあることも、きちんといわれていた。

それでも、そこまで読んでいないのか、
ただただネジをしっかり締める人がいるようだ。

ある国産のアナログプレーヤーで、ジンバルサポートのトーンアームがついていた。
そのモデルを、ヤフオク!で手に入れた知人がいる。

うまく鳴らない、という連絡があった。
行ってみると、トーンアームの感度が悪い。
ゼロバランスも取りにくいほどに、感度が悪く、
水平方向に動かしてみても、こんなに重い感触である。

知人がいうには、そのプレーヤーを使っていた人は、
けっこうなキャリアを持つ人のようだ、とのこと。

もちろんヤフオク!だから、実際に会って確かめたわけではなく、
商品の説明文を読んで、そう思っただけらしいのだが、
それにしても、こんな状態のトーンアームで、
その人はアナログディスクを再生できていたのか、と疑問である。

原因は回転軸のところにある三本のネジの締め過ぎだ。
一度ゆるめて締め直す。
締め過ぎにはしない。

たったこれだけのことで、トーンアームの感度はまともになった。
きちんとレコードが鳴るよう(トレースできるよう)になった。

あたりまえのことをしただけだ。

それにしても、と思う。
ほんとうに知人の前に使っていた人はキャリアの長い人だとしたら、
こういう状態を動作品とするのならば、
(その1)の最後で書いたように、これもひとつの老い(劣化)なのかもしれない。

Date: 10月 18th, 2019
Cate: 218, MERIDIAN

メリディアン 218を聴いた(喫茶茶会記の場合・本音)

メリディアンの輸入元が、
現在のハイレス・ミュージックからオンキヨーへ、12月からかわる。

10月9日のオーディオ関係のウェブサイトのいくつかでニュースになっていたし、
私もここで書いている。

オーディオ関係のサイトでは、コンシューマー機器に関しては未定、というふうになっていた。
けれど、すべてオンキヨーに12月からなってしまう。

輸入ブランドの場合、輸入元が変るのは、昔からよくあることだ。
輸入元が変ったことで、ブランドイメージが変ることもある。
よくなることもあれば、反対のこともある。

往々にして輸入元が頻繁に変るブランドのイメージは、あまりよくない傾向にある。
それでもさまざまな事情があって、輸入元がかわる。

どこになっても、製品そのものが変るわけではない。
メリディアンの製品はメリディアンが製造しているわけで、
オンキヨーになったからといって、製品の質に変化が生じるわけではない。

価格に関しては、なんともいえない。
変らない場合もあるし、変る場合もある。

オンキヨーでの取り扱いが始まって、価格が変るのかどうかは知らない。

輸入元以外、現行製品に関しては何も変らないかもしれない。
それでも心情的に、私は喫茶茶会記には、
オンキヨー扱いの218ではなく、ハイレス・ミュージック扱いの218を入れたかった。

10月2日のaudio wednesdayの後に、店主の福地さんが、
218を導入したい、といってきた。
私は春に218を鳴らした時から、218を入れようよ、と福地さんには何度か言ってきた。

その気になってくれた一週間後に、オンキヨーに移る、というニュースだった。
福地さんの決心は早かったし、固かった。

ハイレス・ミュージック扱いの218を納めることができた。
よかった、うれしい、というのが、私の本音だ。

Date: 10月 18th, 2019
Cate: 「介在」

オーディオの「介在」こそ(その12)

外部クロックが話題になりはじめたころだから、
もう十数年以上の前のことになる。

クロックの精度が上るほどに音の透明度が良くなる──、
どのオーディオ雑誌でも、どのオーディオ評論家でも、概ねそのようなことをいっていた。

音の透明度とは、音楽と聴き手のあいだにあるガラスに例えられてもいた。
クロックの精度が上っていくと、ガラスの透明度が増していく。

もうガラスの存在はなくなったかのように感じても、
さらに高精度のクロックを接続すると、
それまで、これ以上はないと思っていた透明度、
つまりガラスの存在を意識させなかった音が、
実はまだまだガラスの透明度は完全ではなかったことが感じとれるようになる。

理想は、もちろんガラスの存在を意識しないのではなく、
ガラスの存在がなくなること、のはずである。

それはスピーカーの存在が完全になくなってしまうこと、
アンプやCDプレーヤーの存在も完全になくなってしまうことを意味するのだとしたら、
私は、そこに一言いいたくなる何かを感じていた。

別項「続・再生音とは……(その29)」で書いていることが、ずっと頭にあるからだ。

瀬川先生が、熊本のオーディオ店で話されたことだ。

美味しいものを食べれば、舌の存在を意識する。
美味しいものを食べて、ほどよく満腹になれば、胃の存在を意識する。

空腹だったり食べ過ぎてしまっても胃の存在は意識するわけだが、
これは、悪い音を意識するのと同じことである。

人間の身体は不具合があっても存在を意識するが、
快感を感じても意識するようになっている。

瀬川先生はさらに、臍下三寸にあるものもそうだと話された。
臍下三寸にあるもの、つまりは性器である。

快感を感じている部位の存在を意識しない、という人がいるだろうか。

ならば、ほんとうに「いい音」とは、おもにスピーカーの存在、
さらにオーディオ全体の存在を意識することではないだろうか。
もちろん悪い音で意識するのとは反対の意味での意識である。

だから存在を感じさせない音は、
健康であるという意味であって、その先がまだあると考えられる──、
ということだった。

そのことがずっとあったからこそ、
ガラスの例えは、瀬川先生のいうところの健康な状態であって、
その先があるはずだ、
なぜ、誰もそこの領域に行こうとしないのか、と思っていた。

Date: 10月 18th, 2019
Cate: 218, MERIDIAN

メリディアン 218を聴いた(喫茶茶会記の場合・その3)

今日、喫茶茶会記にメリディアンの218をセッティングしてきた。
USBをSPDIFに変換するD/Dコンバーターもセッティングしてある。

218での音が、これからずっと聴けるようになっている。
たったそそれだけのこと、といってしまえば、そうかもしれない。

けれど、MQAの音を多くの人に聴いてもらえる環境が常にあるということは、
素直に嬉しい。

これまでは喫茶茶会記では、audio wednesdayで、
メリディアンのULTRA DAC、218を用意できた時だけだった。
だからこそ嬉しいわけだ。

218に関心のない人にはどうでもいいことだが、
218のシリアルナンバーは、218から始まっている。

Date: 10月 18th, 2019
Cate: ディスク/ブック

小林秀雄 最後の音楽会

小林秀雄 最後の音楽会」を見つけた。

最近、音楽関係のコーナーに行かなくなっていた。
今日は、歯の治療で東京駅近くにいた。

たまには丸善に行こう、と思い立った。
八重洲ブックセンターは、やっぱり歯の治療で来た時(二週間ほど前)に寄っている。

いつも行く書店とは違い、たまに行く書店は新鮮である。
なので音楽関係のコーナーものぞいていた。

平積みになっていたのが、「小林秀雄 最後の音楽会」だった。
とにかく、この本が最初に目に飛び込んできた。

メニューインの写真が使われている。
扉には、フラームスの交響曲第一番の直筆譜である。

いい感じが伝わってくる本である。

まだ読み終っていない、どころか、
読み始めてもいない。

ぱらぱらとめくってみただけである。
五味康祐という名前が出てくるのかどうかを、まず知りたかったからだ。

出てくる。
ステレオサウンドという名称も出てくるし、
ステレオサウンド 2号の「音楽談義」も出てくる。

著者の杉本圭司氏は、
ステレオサウンド創刊20周年記念に出た「音楽談義」のカセットテープも聴かれていることがわかる。

そうやって眺めているだけでも、いい本だな、と思う。
だから、とにかく少しでも早く知ってほしかったので、
読まずに書いた次第。

Date: 10月 17th, 2019
Cate: アナログディスク再生

「言葉」にとらわれて(トーンアームのこと・その6)

ウィルソン・ベネッシュのCircleには、
ワンポイントアームがついている。

このトーンアームは、アームパイプがカーボン製で、
エクスポネンシャルカーヴを描いていることなどが、出た当時は話題になっていた。

でも私が注目したいのは、メインウェイトである。
おにぎり型といいたくなるメインウェイトの底辺の両端には、
直径1cmほどの金属棒がカートリッジ側に取り付けられている。

一般的にトーンアームのメインウェイトの形状は円柱である。
その方が使いやすい、調整しやすいからであろう。

おにぎり型のメインウェイトは、ややゼロバランスがとりにくい、といえばそうだし、
針圧を印加する際に動かすのも、ちょっと注意が要るといえば、そうでもある。

慣れればいいだけ、のことでもあるが、
ウィルソン・ベネッシュが、メインウェイトの形状をこのようにしたのは、
その5)で触れたファイナルのKKC48と同じか、それに近い考え方からなのではないのか。

Date: 10月 17th, 2019
Cate: モニタースピーカー

モニタースピーカー論(APM8とAPM6・その13)

ソニー・エスプリのAPM6は、モニタースピーカーとして開発された、といっていいだろう。
けれど、APM6をモニタースピーカーとして導入したスタジオはあっただろうか。

CBSソニーのスタジオには導入されたのだろうか。

QUADのESL63は、家庭用スピーカーとして開発された。
にも関らず、当時のフィリップスがモニタースピーカーとして採用し、
それに応じてESL63 Proが登場した。

ESL63 Proは、型番からわかるように、モニタースピーカーとしてESL63の別ヴォージョンだ。

APM6はモニタースピーカーを目指しながら、採用されることはなかった。
ESL63は家庭用でありながら、モニタースピーカーとして採用されていった。

フィリップスの録音エンジニアは、おそらくAPM6の存在は知らなかったのではないか。
知っていたとして、音を聴いていたのだろうか。

もし彼らがAPM6を聴いていたとしても、
結局はESL63がモニタースピーカーとして選ばれたように思う。

その理由は、(その12)の最後に書いている「漂い」の再現なのだろう。

日本ではモニタースピーカー・イコール・定位の優れたスピーカーというイメージが、
アルテックの604シリーズが、広くモニタースピーカーとして使われていたことからもある。

ESL63をモニタースピーカーとして選んだフィッリプスは、
クラシックの録音を行う部門であるから、「漂い」が、その理由のように思うのだ。

Date: 10月 17th, 2019
Cate: 境界線

境界線(その14)

その13)で、ネットワークの設置位置を、
スピーカー側からアンプ側へと移動したことによる境界線の変化、
つまりどこまでがパワーアンプの領域で、
どこからがスピーカーシステムの領域なのかについて触れた。

(その13)は、2018年5月に書いている。
この時までは、喫茶茶会記のスピーカーのネットワークはコイズミ無線製だった。
つまり一般的な並列型ネットワークを使っていた上での、
設置位置の違いで、境界線(アンプ、スピーカー、それぞれの領域)についてだった。

その後、喫茶茶会記のネットワークは、私が作った直列型に変った。
設置位置は、コイズミ無線製と同じで、アンプのすぐ側である。

ならば境界線に変化はない、と考えられなくもない。
けれど直列型ネットワークは、その名称が示すように、
帯域ごとのスピーカーユニットを直列に接続する。

つまりウーファーとトゥイーターが直列に接続されたかっこうになる。
こうなると境界線は、並列型ネットワークからさらに曖昧になってくる。

(その13)では、
ネットワークを含めて、ネットワークからユニットまでのケーブルまでが、
パワーアンプの領域と考える、とした。

並列型ネットワークであれば、いまもその点に関しては同じである。
けれど直列型ネットワークとなると、どうなるのか。

同じようにユニットまでのケーブルまでがアンプの領域としよう。
すると、トゥイーターとウーファーを直列接続する一本のワイヤーをどう捉えるか。