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Date: 6月 20th, 2022
Cate: 所有と存在

所有と存在(その18)

その1)を書いたのは2014年8月。
八年前のことで、TIDALはまだ立ち上げられていなかった。
TIDALの設立は2014年10月である。

MQAも登場していなかった。

インターネット配信で音楽を聴くようになるだろう、とは思っていたけれど、
それでもまだディスク中心がもう少しばかり続くものだ、となんの根拠もなしに思っていた。

MQAの音を2019年に聴いていなかったら、
いまもディスク中心だったであろう。

メリディアンのULTRA DACでのMQAの音を聴いて、
メリディアンの218を導入してからというもの、
MQAで聴きたいという気持は強くなるばかりで、
e-onkyoをまず使うようになったし、TIDALも使うようになった。

もともと私は音楽も音も所有できない──、と考えているわけだから、
存在してくれればいい、それを聴く権利を使えるようになればいい──、
と八年前よりも強くおもうようになってきている。

そんな私だってある時期までは、自分の部屋にLPやCDの枚数が、
少しずつ増えていくのが喜びでもあった。

同時に火事になったらどうしよう……、と真剣に考えるようにもなっていた。
留守にしていたときに火事になったら、どうすることもできない。

その時、部屋にいたら火の勢いによるが持ち出すことはできる。
けれど、すべては無理で、ではどれを諦めて、どれを持って逃げるのか。

そんなことを真剣に悩むこともあった。
そんなこと悩んだことがない──、
ある程度以上の枚数のディスクを所有している人ならば、
少なくとも一度や二度は考えたり悩んだりしたのではないのか。

Date: 6月 19th, 2022
Cate: ハイエンドオーディオ

ハイエンドオーディオ考(その5)

一流レストランや料亭での食事ばかりを毎日している人だって、
世の中にはいるかもしれない。

夕食だけでなく、朝食も昼食も、豪華な食事を毎日している人は、
私が知らないだけでいないとはいいきれない。

そういう食生活が日常であれば、私が思い描く家庭料理とはまったく別世界のことなのだろう。
音もそうなのだろうか、と考える。

一流レストランや料亭で出される豪華な料理のような音で、毎日音楽を聴く。
もちろん、それはいい音である。
けれど、それは愉しいだろうが、毎日続けられること、
つまり日常となっていくことなのだろうか。

オーディオの場合は、鳴らす音楽によって、
そういう音であっても毎日聴けるものなのかもしれない。

毎日、ベートーヴェンの後期の作品ばかりを聴くわけではないし、
軽めの音楽を聴くことだってあるのだから、
家庭料理とは無縁と思える音であっても、いいのかもしれない。

それでも思うのは、卵かけご飯のような存在の音もあっていいのではないか。

ステレオサウンドは十年ほど前の特集で「いい音を身近に」をやっている。
この企画は、
十年前よりもずっとハイエンドオーディオ機器の高額化が進んでいるいま、
もう一度練り直してやれば、面白い特集になるように思っている。

「いい音を身近に」か「身近ないい音」か。

いまでは億を超えるオーディオ機器が登場してきている。
そういうオーディオ機器を持てる人であっても、
卵かけご飯のようなシステムで日常的には音楽を聴く、ということを、
求めたりしないのだろうか。

Date: 6月 19th, 2022
Cate: ハイエンドオーディオ

ハイエンドオーディオ考(その4)

五味先生は、
《プロ用高級機をやたらに家庭に持ち込む音キチは、私も含めて、宴会料理だけがうまいと思いたがる、しょせんは田舎者であると、ヨーロッパを旅行して、しみじみさとったことがあった》
と書かれている。

この文章が載っている「五味オーディオ教室」から始まった私のオーディオなのだが、
私自身、プロ用機器を喜んで使っていた。

EMTのアナログプレーヤーに憧れていたのだから、
930stのトーレンス・ヴァージョンの101 Limitedが登場したときは、
後先考えずに「買う」と言ってしまった。

そして930stの上級機である927Dstも手にいれた。
つまり《しょせんは田舎者》であったわけだ。

五味先生も930stを使われていたし、スチューダーのC37も手に入れられている。

927DstやC37は家庭用としては大きすぎる機器でもある。
それでもいいわけめくが、まだ家庭に持ち込めるぎりぎりのサイズではあったと思う。

いまのハイエンドオーディオ機器の一部の機器のように、
これらのスピーカーやアンプ、アナログプレーヤーは、
いったいどれだけの広さの部屋を要求するのだろうか──、
そういいたくなるほど大きすぎるし、重すぎるモノが登場してきている。

これらのオーディオ機器の音は聴いていないし、
聴いたからといって、その音について否定的なことを書きたいわけではなく、
これらのオーディオ機器をポンと買えて、苦もなく設置できる環境に住んでいる人は、
料亭の宴会に出す料理を家庭で食べたいと思っている人なのだろうか。

どれぐらい前のことだろうか、
ある記事で、一億円を超えるマンションは即金で買うものだ、とあった。
会社員で高給取りで、住宅ローンを組めば一億ほどマンションは買えるであろう人がいても、
良心的な業者はすすめない、ともあった。

十年先、二十年先はどうなっているのか、誰にもわからないのだから理由だった。

いまのハイエンドオーディオ機器も同じように思える。
長期の分割払いで買うモノなのか。
即金で買える人が買うモノのように思えるし、
そういう人は、毎日家庭で、料亭の宴会に出す料理を食べたいのだろうか。

Date: 6月 18th, 2022
Cate: 広告

響きに谺けよ(その2)

「響きに谺けよ」は、(その1)で書いているように、
四十年ほど前のヤマハのスピーカーシステム、NS690IIIの広告のキャッチコピーだ。

さきほどふと、
“L’art est le plus beau des mensonges”
ドビュッシーのことばを思い出した。

「芸術とは最も美しい嘘のことである」という訳で、
いろんなところで引用されている。

「音楽のために ドビュッシー評論集」(白水社刊)では、
「芸術というものは、うそのうちで最も美しいうそです。」として載っている。

「響きに谺けよ」と“L’art est le plus beau des mensonges”。
どこかで結びついているような感じがしている。

Date: 6月 18th, 2022
Cate: 組合せ

妄想組合せの楽しみ(ステレオサウンド 221号を眺めながら・その1)

以前、「瀬川冬樹氏のこと(その11)」で、
瀬川先生が地方への移動中、よくやられていたことを書いている。

地方のオーディオ店への旅の友は、ステレオサウンドから、
当時は年二回出ていたHI-FI STEREO GUIDEと電卓で、
組合せの予算やテーマ(鳴らしたいレコードや、どんな音を出したいか)などを自分で設定して、
ページをめくり、このスピーカーに、あのアンプ、カートリッジはこれかな、と想像していく。
楽しくて、いい時間つぶしになる、と話されていた。

私も同じことを学生のころ、よくやっていた。
私だけではないだろう、同じことをやっていた、という人はきっといる。

いまステレオサウンドからHI-FI STEREO GUIDEは出ていない。
かわりとなるムックもない。
ステレオサウンドのベストバイが、少しは役に立つかな、ぐらいでしかない。

それでもないよりは、ずっといいわけで、
ゴールデンウィーク中、221号を眺めながら、組合せをいくつか想像していた。

予算に制限がなければ、どういう組合せにするだろうか。
まずスピーカーシステムを決める。

誌面を眺めると、聴いたことのないモデルがけっこうある。
なので、誌面に写真が掲載されている機種からの選択にする。

こうやって組合せを考えて眺めることで、気づいた。
JBLのモデルがほんとうに少ない。
DD67000も、S9900もない。

ではタンノイは? と思ってみると、もっと驚く。
ないのだ。写真掲載という扱いではゼロである。

個人的に、いまのタンノイのモデルで鳴らしてみたい、と思うのは、
ほんのわずかである。
なので、その結果(扱い)に寂しさを感じたりはしないが、
それでもこんなに一年で様変りするのか、とは思って、
確認のために217号をながめてみると、今年とそう変らない状況だった。

フランコ・セルブリンのAccordoかKtêma、
それからファイン・オーディオのF1-12、これらを鳴らしてみたい。

アンプは、というと、パワーアンプだといくつかか選べる。
けれどコントロールアンプとなると、予算に制限がないとはいえ、
使いたい、と思う機種が、写真掲載のなかにはない。

Date: 6月 17th, 2022
Cate: 五味康祐, 瀬川冬樹

カラヤンと4343と日本人(その17)

カラヤンと精妙ということで思い出すのは、
ステレオサウンド 52号で、
岡先生と黒田先生が「レコードからみたカラヤン」というテーマでの対談である。
     *
黒田 そういったことを考えあわすと、ぼくはカラヤンの新しいレコードというのは、音の面からいえば、前衛にあるとはいいがたいんですね。少し前までは、レコードの一種の前衛だろうと思っていたんだけど、最近ではどうもそうは思えなくなったわけです。むろん後衛とはいいませんから、中衛かな(笑い)。
 いま前衛というべき仕事は、たとえばライナー・ブロックとクラウス・ヒーマンのコンビの録音なんかでしょう。
 そこのところでは、黒田さんと多少意見が分かれるかもしれませんね。去年、カラヤンの「ローマの松」と「ローマの泉」が出て、これはびっくりするほどいい演奏でいい録音だった。ところがごく最近、同じDGGで小沢/ボストン響の同企画のレコードができましたね。これはいま黒田さんがいわれた、プロデューサーがブロック、エンジニアがヒーマンというチームが録音を担当しているわけです。
 この2枚のレコードのダイナミックレンジを調べると、ピアニッシモは小沢盤のほうが3dB低い。そしてフォルティシモは同じ音量です。したがって全体の幅でいうと、ピアニッシモが3dB低いぶんだけ小沢盤のほうがダイナミックレンジの幅が広いことになります。物理的に比較すると、そういうことになるんだけれど、カラヤン盤のピアニッシモのありかたというか、音のとりかたと、小沢盤のそれとを、音響心理学的に比較するとひじょうにちがうんです。
黒田 キャラクターとして、その両者はまったくちがうピアニッシモですね。
 ええ。つまりカラヤン盤では、雰囲気とかひびきというニュアンスを含んだピアニッシモだが、小沢盤では物理的に小さい音、ということなんですね。物理的に小さな音は、ボリュウムを上げないと音楽がはっきりとひびかないんです。小沢盤の録音レベルが3dB低いということは、聴感的にいえば6dB低くきこえることになる。そこで6dB上げると、フォルテがずっと大きな音量になってしまうから聴感上のダイナミックレンジは圧倒的に小沢盤の方が大きくきこえてくるわけです。
 いいかえると、カラヤンのピアニッシモで感心するのは、きこえるかきこえないかというところを、心理的な意味でとらえていることです。つまり音楽が音楽になった状態での小さい音、それをオーケストラにも録音スタッフにも要求しているんですね。これはカラヤンがレコーディングを大切にしている指揮者であることの、ひとつの好例だと思います。
 それから、これはカラヤンがどんな指示をあたえたのかは知らないけれど、「ローマの松」でびっくりしたところがあるんです。第三部〈ジャニロコの松〉の終わりで、ナイチンゲールの声が入り、それが終わるとすぐに低音楽器のリズムが入って行進曲ふうに第四部〈アッピア街道の松〉になる。ここで低音リズムのうえに、第一と第二ヴァイオリンが交互に音をのせるんですが、それがじつに低い音なんだけど、きれいにのっかってでてくる。小沢盤ではそういう鳴りかたになっていないんですね。
 つまりPがひとつぐらいしかつかないパッセージなんだけれど、そこにあるピアニッシモみたいな雰囲気を、じつにみごとにテクスチュアとして出してくる。録音スタッフに対する要求がどんなものであったかは知らないけれど、それがレコードに収められるように演奏させるカラヤンの考えかたに感嘆したわけです。
黒田 そのへんは、むかしからレコードに本気に取り組んできた指揮者ならではのみごとさ、といってもいいでしょうね。
     *
実演での精妙と精緻ということではない。
録音での精妙と精緻ということでいえば、
カラヤンは精妙であるとはっきりいえるし、小澤征爾は精緻ということか。

岡先生は、さらにこうも語られている。
     *
 六〇年代後半から、レコードそしてレコーディングのクォリティが、年々急上昇してきているわけですが、そういった物理量で裏づけられている向上ぶりに対して、カラヤンは音楽の表現でこういうデリケートなところまで出せるぞと、身をもって範をたれてきている。指揮者は数多くいるけれど、そこで注意深く、計算されつくした演奏ができるひとは、ほかには見当りませんね。ぼくがカラヤンの録音は優れていると書いたり発言したりすると、オーディオマニアからよく不思議な顔をされるんだけど、フォルテでシンバルがどう鳴ったかというようなことばかりに気をとられて、デリカシーにみちた弱音といった面にあまり関心をしめさないんですね。これはたいへん残念に思います。
     *
単なる物理的な弱音ではなく《デリカシーにみちた弱音》、
心理的な意味でのピアニッシモを実現してこその精妙である。

Date: 6月 17th, 2022
Cate: 日本のオーディオ

日本の音、日本のオーディオ(その42)

ステレオサウンド 54号の特集は、スピーカーシステムの総テスト。
巻頭座談会で、こんなことが語られている。
     *
瀬川 黒田さんの言葉にのっていえば、良いスピーカーは耳を尾骶骨より前にして聴きたくなると同時に、尾骶骨より後ろにして聴いても聴き手を楽しませてくれる。それが良いスピーカーの一つの条件ではないかと思います。現実の製品には非常に少ないですけれど……。
 そのことで思い出すのは、日本のスピーカーエンジニアで、本当に能力のある人が二人も死んでしまっているのです。三菱電機の藤木一さんとブリランテをつくった坂本節登さんで、昭和20年代の終わりには素晴らしいスピーカーをつくっていました。しかし藤木さんは交通事故、坂本さんは原爆症で亡くなってしまった。あの二人が生きていて下さったら、日本のスピーカーはもっと変っていたのではないかという気がします。
菅野 そういう偉大な人の能力が受け継がれていないということが、非常に残念ですね。
瀬川 日本では、スピーカーをつくっているエンジニアが過去の伝統を受け継いでいないですね。今の若いエンジニアに「ブリランテのスピーカーは」などといっても、キョトンとする人が多い。古い文献を読んでいないのでしょうね。製品を開発する現場の人は、文献で知っているだけでなく、現物を草の根分けても探してきて、実際に音を聴いてほしい。その上で、より以上のものをつくってほしいと思うのです。
 故事を本当に生きた形で自分の血となり肉として、そこから自分が発展していくから伝統が生まれてくるので、今は伝統がとぎれてしまっていると思います。
黒田 たとえば、シルヴィア・シャシュが、コベントガーデンで「トスカ」を歌うとすると、おそらく客席にはカラスの「トスカ」も聴いている人がいるわけで、シャシュもそれを知っていると思うのです。聴く方はカラスと比べるぞという顔をしているだろうし、シャシュもカラスに負けるかと歌うでしょう。その結果、シャシュは大きく成長すると思うのです。
 そういったことさえなく、次から次へ新製品では、伝統も生まれてこないでしょう。
     *
ブリランテというスピーカーのことを、ここで初めて知った。
知った、といっても、名前だけである。
当時は、これ以上調べることができなかった。

インターネットが普及してからでも、ブリランテというスピーカーのことは、
まったくいっていいほど何も知ることができなかった。

2019年に出た「スピーカー技術の100年II 広帯域再生への挑戦」で、
やっとどんなスピーカーなのかを、ある程度知ることができた。
音を聴くことは、これから先もおそらくないだろう。

瀬川先生が、
《製品を開発する現場の人は、文献で知っているだけでなく、現物を草の根分けても探してきて、実際に音を聴いてほしい。その上で、より以上のものをつくってほしいと思うのです。
 故事を本当に生きた形で自分の血となり肉として、そこから自分が発展していくから伝統が生まれてくるので、今は伝統がとぎれてしまっていると思います。》
と語られている。

54号は1980年春号である。
いまは2022年である。

四十年以上前にとぎれてしまっていた伝統は、いまはどうなのか。
伝統なんて、新製品開発には不要という考えの技術者はいるのかといえば、
私は、いると思っている。

そういう人たちは、日本の音なんて、関係ない、というのであろうか。

Date: 6月 17th, 2022
Cate: 挑発
1 msg

スピーカーは鳴らし手を挑発するのか(その5)

スピーカーは鳴らし手を挑発するのか──、
挑発するスピーカーもあれば、そうでないスピーカーもある。

すべてのスピーカーに挑発される、というオーディオマニアは、
もしかするといるのかもしれないが、わずかであろう。

私もそうだし、ほとんどのオーディオマニアが、
挑発するスピーカーもあれば、そうでないスピーカーもある、というところのはずだ。

では、挑発するスピーカーが、すべてのオーディオマニア共通のモデルかというと、
けっしてそうではない。

私にとって挑発するスピーカーが、別の人にとってはそうでなかったりする。
逆もまたある。

たとえばJBLのパラゴン。
オーディオに興味を持ったばかりのころ、
なんという独自のスピーカーシステムなんだろう、と思った。

当時すでにロングセラーモデルでもあったし、
JBLの、ある意味フラッグシップモデルでもあり、
ステレオサウンドでの評価も高かった。

とはいえ、当時パラゴンを聴いたわけではなかった。
当時はスピーカーの自作が流行っていたし、ムックも何冊か出ていた。

パラゴンの自作に挑戦する人は、そのころは珍しくなかった。
大勢いたわけではなかったけれど、何人かいた。

オーディオ雑誌で取り上げられた人だけではなかったはずだ。
表に出ずとも、パラゴンを自作した人は他にもいた、と思っている。

彼らはパラゴンに挑戦していたわけなのだが、
当時中学生の私は、パラゴンの音をなかなか想像できなかった。

パラゴンの図面を眺めても音は鳴ってこないのだが、
こんな構造で、どんな音が鳴ってくるのか、
ほんとうにそれはいい音なのだろうか──、
そんなことをおもっていた。

Date: 6月 16th, 2022
Cate: 五味康祐, 瀬川冬樹

カラヤンと4343と日本人(その16)

瀬川先生が、「コンポーネントステレオの世界 ’80」の巻頭に書かれている。
     *
 現にわたくしも、JBLの♯4343の物凄い能力におどろきながら、しかし、たとえばロジャースのLS3/5Aという、6万円そこそこのコンパクトスピーカーを鳴らしたときの、たとえばヨーロッパのオーケストラの響きの美しさは、JBLなど足もとにも及ばないと思う。JBLにはその能力はない。コンサートホールで体験するあのオーケストラの響きの溶けあい、空間にひろがって消えてゆくまでの余韻のこまやかな美しさ。JBLがそれをならせないわけではないが、しかし、ロジャースをなにげなく鳴らしたときのあの響きの美しさは、JBLを蹴飛ばしたくなるほどの気持を、仮にそれが一瞬とはいえ味わわせることがある。なぜ、あの響きの美しさがJBLには、いや、アメリカの大半のスピーカーから鳴ってこないのか。しかしまた、なぜ、イギリスのスピーカーでは、たとえ最高クラスの製品といえどもJBL♯4343のあの力に満ちた音が鳴らせないのか──。
     *
ここに書かれていることも、精緻と精妙の違いのように読める。
4343の音は精緻、
LS3/5Aの音は精妙だからこそ、
《コンサートホールで体験するあのオーケストラの響きの溶けあい、空間にひろがって消えてゆくまでの余韻のこまやかな美しさ》を、
鳴らしてくれるのではないのか。

Date: 6月 16th, 2022
Cate: オーディオ評論

評論と評価/「表」論と「表」価(その2)

ステレオサウンドの「オーディオの殿堂」。
この企画は、オーディオ評論と評価によるものなのか、
オーディオ「表」論と「表」価にるものなのか。

Date: 6月 16th, 2022
Cate: ショウ雑感

2022年ショウ雑感(その8)

別項「試聴ディスクとオーディオショウ」で書いたことを、
今回のOTOTENでも思っていた。

すべてのブースで共通してかける(鳴らす)ディスクが、
一枚か二枚程度あってもいいのではないか、ということ。

OTOTENは、若い人たちに来てもらおうとしている。
成功しているとはまだまだ言い難いけれど、
インターナショナルオーディオショウよりは若い人の割合は多かったように感じている。

OTOTENを含めて、こういったオーディオショウは初めて、
という人がどのくらいいるのかはわからない。
ゼロということはないと思っている。

その人たちは、各ブースをまわって、音を聴いてどう思っている、感じているのか。
それを考えても、一枚でいいから、すべてのブースで、決った一枚のディスクを鳴らしてくれれば、
それぞれのブースの音の特徴が、より掴めるようになるはずだ。

いわばリファレンスディスクを決める。
そのリファレンスディスクをどう鳴らすのか。
音量の設定一つとっても、それぞれのブースで違ってくる。

それでいいし、それだからこそ、それぞれのブースのスタッフが、
リファレンスディスクの音楽をとう捉えているのかがはっきりとしてくる、ともいえる。

Date: 6月 15th, 2022
Cate: Digital Integration

Digital Integration(本とiPhoneと……・その4)

1984年、Appleからマッキントッシュの発表は、
The computer for the rest of usであった。

それまでのコンピューターは、専門家が使うモノというイメージが強かった。
つまり、The computer for the specialistだった。

1982年、CDの登場も、同じだったのかもしれない。
アナログディスクが全盛時代は、
家庭の中でのオーディオの位置は、お父さんの扱うモノだったことが多い。

すべての家庭でそうだったわけではなくても、
お父さんの許可がなけれは触れない、という話をきいたこともある。

なんとなく扱いがめんどうなモノという印象が、そのころはまだあった。
CDは、そんな印象を消し去ってくれたのではないだろうか。

ある時期まで、オーディオはオーディオマニアのモノだった。
ディスクではなくテープに関しても、
カセットテープが登場し、普及し、さらに日本のメーカーの努力によって、
ある程度の音質にまで向上したことで、
オープンリールテープまでは、お父さんの扱うモノだったけれど、
お父さん以外の家族が扱えるモノになっていった。

カセットテープもCDの登場も、サイズが小さくなったことが大きい。
CDがLPと同じ30cmのサイズだったら、どうだったろうか。
カセットテープにしても、オープンリールテープ並の大きさだったら……。

1984年に登場したマッキントッシュは、コンパクトだった。
最初のMacがふたまわり以上大きなモノだったら、
そのGUIがどんなに素晴らしいものであっても、生き残れただろうか。

あのサイズであったからこそのThe computer for the rest of usである。

ここでもスティーブ・ジョブズの言葉を引用しておく。
コンピューターは個人の道具ではない、と。
個人と個人をつなぐための道具である、ということを。

その道具としての適切なサイズがあっての“for the rest of us”だ。

Date: 6月 15th, 2022
Cate: 楽しみ方

オーディオの楽しみ方(すすめる)

オーディオの楽しみ方の一つに、すすめる、というのがある。

いい音で好きな音楽を聴くことに関心を持ち始めた人、
ようするにオーディオに、なんらかの、少しだけの興味を持ち始めた人が、近くにいる。

その人から、オーディオに関することの相談を受ける。
つまり相手がいてのオーディオの楽しみといえる。

オーディオマニアではない相手がいての、オーディオの楽しみである。
なのでそう頻繁にあるわけではないが、まったくないわけでもない。

こういう相談を面倒だと思う人もいよう。
面倒なところもあるとは思う。
それでも、すすめたことで相手が喜んでくれたのであれば、
オーディオマニアでよかった、と思えるオーディオの楽しみの一つであるのは確かだ。

Date: 6月 14th, 2022
Cate: Noise Control/Noise Design

聴感上のS/N比と聴感上のfレンジ(その19)

その18)で、聴感上のS/N比が良くなっていくと、
聴感上の音量は大きく聴こえるようになる、と書いた。

このことは1980年代くらいからの常識だと私は思っていたけれど、
(その18)でも書いているように、どうもそうではない。

聴感上のS/N比を良くしていくと、
音量は減ったように感じられる──、
と考えている(捉えている)人が意外にもいることに気づいたからだ。

今年のOTOTENで、MQAのセミナーがあった。
ボブ・スチュアートが来日してのセミナーで、
通常のPCMとMQAの比較試聴がメインだった。

そこでボブ・スチュアートが、MQAだと音量が増して聴こえるのは、
細かい音がより明瞭に聴こえるからだ、と言っていた。

聴感上のS/N比が良くなると聴感上の音量は大きく聴こえるようになる、と同じことだ。

Date: 6月 14th, 2022
Cate: 老い

老いとオーディオ(その11)

五味先生が「五味オーディオ教室」に書かれていたことを、
最近思い出すことが多い。
     *
 いい音で聴くために、ずいぶん私は苦労した。回り道をした。もうやめた。現在でもスチューダーC37はほしい。ここまで来たのだから、いつか手に入れてみたい。しかし一時のように出版社に借金してでもという燃えるようなものは、消えた。齢相応に分別がついたのか。まあ、Aのアンプがいい、Bのスピーカーがいいと騒いだところで、ナマに比べればどんぐりの背比べで、市販されるあらゆる機種を聴いて私は言うのだが、しょせんは五十歩百歩。よほどたちの悪いメーカーのものでない限り、最低限のトーン・クォリティは今日では保証されている。SP時代には夢にも考えられなかった音質を保っている。
     *
五味先生は、スチューダーのC37を手に入れられている。
ステレオサウンド 50号掲載の「オーディオ巡礼」に、そのことが出てくる。

それでも《出版社に借金してでもという燃えるようなもの》は、
五味先生の裡からは消えてしまっていたのだろう。

この《出版社に借金してでもという燃えるようなもの》は、
どうしても欲しい、という気持のはずだ。

最近思うのは、「どうしても欲しい」と「どうしても譲れない」、この二つの違いである。