抽象×抽象=(その3)
抽象×抽象=象徴。
そうおもえることがある。
象徴が、抽象×抽象の解だとは信じ込めていないのだが、
抽象×抽象=象徴がオーディオを面白くしている面もあるし、
ダメにしているともいえる面もあるようには感じている。
抽象×抽象=象徴。
そうおもえることがある。
象徴が、抽象×抽象の解だとは信じ込めていないのだが、
抽象×抽象=象徴がオーディオを面白くしている面もあるし、
ダメにしているともいえる面もあるようには感じている。
グレン・グールドの生誕90年で、没後40年の今年、
ソニー・クラシカルは、なにを出してくるのだろうか──、
といったことを(その1)で書いた。
数日前に、やっと判明した。
1981年録音のゴールドベルグ変奏曲の未発表レコーディング・セッション・全テイク。
全アルバムのSACDでの発売はなかったけれど、
これはこれでなかなかに嬉しい企画である。
もちろんすぐに予約した。
予約した、予約するつもり、という人はけっこういると思う。
ものすごい数が売れるとは思わないけれど、
とりあえず買っておこう、という人は少なくないと思うからだ。
けれどだけれど、いったい買った人の何割がきちんと聴きとおすだろうか。
買い逃したくない、仕事をリタイアしたら、その時じっくりと聴く──、
そんなことを思っている人もまた少なくないだろうが、
はたして、ほんとうにじっくりと今回のこのCDボックスのすべてを聴きとおすか──、
そう問われれば、私はたぶんやらないだろう、と答える。
三十ある変奏曲のいくつかに関しては、じっくりと聴き比べだろうが、
すべてをそうすることはない、と思っている。
(その1)を書いたのが2021年11月。
12月発売のステレオサウンド 221号には間に合わないだろうが、
3月発売の222号では紹介記事が載るだろうと思っていたら、
6月発売の223号の扱いである。
カラー三ページの扱いで、柳沢功力氏が担当されている。
223号で柳沢功力氏は、
《この桁外れの大型機は、当時の日本には紹介されることすらなく、その後、わずか3年ほどの短命に終る》
と書かれている。
1976年春発売のステレオサウンド 38号掲載の山中先生のリスニングルームには、
MC3500が鎮座している。
それに私が初めて手にしたオーディオの「本」、
「五味オーディオ教室」にもMC3500のことは登場している。
(その1)でも引用しているが、ここでもう一度引用しておく。
*
ところで、何年かまえ、そのマッキントッシュから、片チャンネルの出力三五〇ワットという、ばけ物みたいな真空管式メインアンプ〝MC三五〇〇〟が発売された。重さ六十キロ(ステレオにして百二十キロ──優に私の体重の二倍ある)、値段が邦貨で当時百五十六万円、アンプが加熱するため放熱用の小さな扇風機がついているが、周波数特性はなんと一ヘルツ(十ヘルツではない)から七万ヘルツまでプラス〇、マイナス三dB。三五〇ワットの出力時で、二十から二万ヘルツまでマイナス〇・五dB。SN比が、マイナス九五dBである。わが家で耳を聾する大きさで鳴らしても、VUメーターはピクリともしなかった。まず家庭で聴く限り、測定器なみの無歪のアンプといっていいように思う。
すすめる人があって、これを私は聴いてみたのである。SN比がマイナス九五dB、七万ヘルツまで高音がのびるなら、悪いわけがないとシロウト考えで期待するのは当然だろう。当時、百五十万円の失費は私にはたいへんな負担だったが、よい音で鳴るなら仕方がない。
さて、期待して私は聴いた。聴いているうち、腹が立ってきた。でかいアンプで鳴らせば音がよくなるだろうと欲張った自分の助平根性にである。
理論的には、出力の大きいアンプを小出力で駆動するほど、音に無理がなく、歪も少ないことは私だって知っている。だが、音というのは、理屈通りに鳴ってくれないこともまた、私は知っていたはずなのである。ちょうどマスター・テープのハイやロウをいじらずカッティングしたほうが、音がのびのび鳴ると思い込んだ欲張り方と、同じあやまちを私はしていることに気がついた。
MC三五〇〇は、たしかに、たっぷりと鳴る。音のすみずみまで容赦なく音を響かせている、そんな感じである。絵で言えば、簇生する花の、花弁の一つひとつを、くっきり描いている。もとのMC二七五は、必要な一つ二つは輪郭を鮮明に描くが、簇生する花は、簇生の美しさを出すためにぼかしてある、そんな具合だ。
*
MC3500の実機は見たことはある。
(その3)に書いているように赤坂のナイトクラブのステージで使われていた。
音を聴く機会はなかった。
なので、MC3500の音のイメージは、
私の場合は「五味オーディオ教室」の文章からつくられている。
223号のMC3500の記事を読むと、柳沢功力氏も聴かれていないようである。
だから、こう書かれている。
*
ところで普通、MkII機のサウンドは、まずオリジナル機との違いを探そうとするのだが、今回は無理。でも想像としては、あの時代の、それも音楽祭での使用を目的とした大出力機だから、まずエネルギー感にはじまるサウンドを想像したくなる。
*
何によってオリジナルのMC3500の音を想像するのかによって、
ずいぶん違ってくるものだなぁ……、とおもうしかない。
レゼルボワールから、アンプのVUメーターをモチーフとした腕時計が発表された。
ソノマスタークロノグラフが、そうである。
どんな腕時計なのかは、リンク先を見てほしい。
VUメーターをモチーフという見出しを見た時には、
品のない仕上がりになっているのでは……、と思っていたけれど、
リンク先の写真をみると、おっ、と思ってしまう。
色調も、いかにもVUメーター的である。
二十代半ばごろ、シューベルトの交響曲第九番を、
ほぼ毎日、誰かの指揮で聴いていた時期があった。
けっこうな数のシューベルトの九番を聴いた。
そうやって聴いたなかに、ジュリーニ/シカゴ交響楽団の一枚も含まれていた。
1977年録音である。
ジュリーニは十六年後の1993年にふたたび録音している。
1977年はドイツ・グラモフォン、
1993年はソニー・クラシカルで、オーケストラもバイエルン放送交響楽団である。
ジュリーニ久しぶりのシューベルトということで期待して聴きはじめた。
けれど第一楽章から、あれっ? と感じていた。
シカゴ交響楽団との演奏とはずいぶん違う。
そのことは別にいい。
同じであることを期待していたわけでもない。
けれど、いまのジュリーニならば──、とこちらが勝手に期待していた出来とは、
なんとなく違う。
もっと素晴らしい演奏が聴けるのでは……、
そんなことを思いながら第二楽章も聴きおえた。
これが他の指揮者だったら、ここで聴くのをやめていたかもしれないが、
ジュリーニへの思い入れが、こちらにはあるものだから、聴き続ける。
それにしても第三楽章の美しさは、
第一楽章、第二楽章とやや退屈していたこちらの気持が見透かされていたのかも──、
そんなありえないことを一瞬おもってしまうほどに、美しい。
素敵といってもいい。
それまでかなりの数のシューベルトの九番を聴いてきたけれど、
第三楽章が、こんなにも美しいと感じたことはなかった。
涙が流れそうになるくらいの美しさがある。
今回、TIDALでMQA Studio(44.1kHZ)であらためて聴いた。
やはり第三楽章の美しさは色褪ていないどころか、
MQAのおかげなのか、そしてこちらが齢を重ねたこともあるのだろうか、
あの時以上に美しく響いてくれる。
別項「サイズ考(その6)」でも書いていることなのだが、
LS3/5Aの型番表記がいいかげんである。
最近の復刻モデルはLS3/5aと、型番末尾が小文字になっているモデルもある。
だからそれらのモデルはLS3/5aという表記でいいのだが、
ロジャースのLS3/5Aは、大文字である。
ロジャースのLS3/5Aだけではなく、同時期に各社から出たLS3/5Aも、
大文字表記である。
リアバッフルの銘板を見ればわかることだ。
十四年前に書いたことをまた持ち出しているのは、
ステレオサウンド 223号の特集「オーディオの殿堂」を読んでいたら、
ロジャースのLS3/5A(136ページ)が、LS3/5aとなっていたからだ。
LS3/5Aは三浦孝仁氏が担当されている。
三浦孝仁氏の本文は、ちゃんとLS3/5Aとなっている。
なのに編集部は、LS3/5aとしてしまっている。
どうしてこんなことがやらかしてしまうのだろうか。
いまのステレオサウンド編集部には、
LS3/5Aに思い入れをもつ人はいないのだろう、おそらく……。
ステレオサウンド 222号を、いまKindle Unlimitedで読んでいるところなのだが、
新製品紹介の記事で、アーカムのSA30が取り上げられている。
高津 修氏が担当されている。
CDプレーヤーのCDS50ととともに二ページ見開きでの扱いである。
高津 修氏の文章のどこにもJBLのSA750のベースモデルということは記述がない。
なので当然だが、SA750との音の比較についても、何も語られていない。
(その22)で書いているようにHiVi 12月号には、
山本浩司氏がSA750とSA30の比較しての試聴記が載っている。
いうまでもなくステレオサウンドもHiViも、株式会社ステレオサウンドが出している。
一方ではSA30とSA750との関係性についてはまったく無視。
もう一方はきちんと比較試聴したうえでの記事を載せている。
ということは、このことは株式会社ステレオサウンドの方針というよりも、
ステレオサウンド編集部の方針とHiVi編集部の方針の違い、ということになる。
別項「B&W 800シリーズとオーディオ評論家(その17)」でも書いているように、
読者が知りたいと思っているであろうことを、あえて避ける(無視する)。
それが、いまのステレオサウンド編集部なのだろう。
いまごろステレオサウンド 222号の特集、
「現代最先端スピーカー B&W 801D4大研究」をKindle Unlimitedで読んだ。
小野寺弘滋、櫻井 卓、三浦孝仁、和田博巳の四氏による座談会を読んで、
というよりもまず眺めて思ったのは、なぜ、ここに傅 信幸氏がいないのか、である。
傅 信幸氏は、この座談会だけでなく、特集にはまったく参加されていない。
私だけでなく、多くの人がなぜ? と感じたことだろう。
ほんとうになぜ? である。
傅 信幸氏はB&WのNautilusを愛用されている。
だからこそ、傅 信幸氏に801D4をどう評価するのか、
もっといえば、Nautilusと801D4と比較して、本心はどう思っているのか。
多くの読者は、そこが知りたいのではないのか。
Nautilusは4ウェイのマルチアンプ駆動で、
801D4は内蔵ネットワークのおかげでマルチアンプにしなくてもよい。
この二つのスピーカーシステムを鳴らすシステムの規模は、
だから大きく違ってくるわけで、
どちらがどれだけいいとかそうでないのとか、
そういう直接比較をするものではない──、そういう意見は納得できる。
けれど、ステレオサウンドの読者の本音は、そこがいちばん知りたいところに近いのではないのか。
傅 信幸氏は、801D4を聴いて、心が揺らぐことはなかったのか。
そういったことを含めた傅 信幸氏の本音を、
座談会で語ってほしかった、とおもうわけだが、
ステレオサウンド編集部は、なぜ傅 信幸氏を特集から外したのだろうか。
TIDALを利用して音楽を聴くようになって、約一年半。
この一年半のあいだに何が変ってきたのか。
まず一つは、毎月の支払額が高くなっている。
TIDALの料金が上っているのではなく、円安ドル高の影響を受けて、である。
PayPalを利用してTIDALの料金を払っていることもあって、
先月は2,800円を超えていた。
高い、とは思っていないのだが、一年半前からすれば、けっこうな値上げでもある。
まだまだ円安が進めば、3,000円を超えるだろう。
それでもTIDALをやめることはまったく考えていない。
そのTIDALのおかげで、新しい演奏家の録音も、かなり積極的に聴いている。
いまに始まったことではないのだが、新しい演奏家の演奏テクニックは向上している。
私が、ここで書いている演奏家とはクラシックの演奏家のことなのだが、
このことはクラシックの世界だけではなく、ジャズでも、他の音楽の世界でもそのはずだ。
それにアイディアといっていいものだろうか、とちょっと迷うけれど、
アイディアも新しいところがあったりする。
なるほどすごいなぁ、と感心する。
けれども……、でもある。
そこから先が、あまりないように感じてしまうからだ。
そこから先の世界の拡がり、深まりが、
私が若いころ夢中になって聴いてきた、いわゆる往年の演奏家よりも、
狭く浅く感じてしまう。
なぜだろうか、とは思うし、その理由を考えてみたりもする。
世代の違いからくることなのか。
他にも、いくつか理由らしきものがあったりするのだが、
結局のところ、音楽、それも録音された音楽は、
その時代の音楽であるだけでなく、未来に放たれた矢でもある。
先日公開した「所有と存在(その18)」。
好きな音楽をおさめたディスク(LP、CD)が増えていくとともに、
火事になったら……、地震が来たら……、
そんな心配を持つようになった、と書いた。
なにもディスクだけではない、
オーディオ機器に関しても、その心配は常につきまとう。
オーディオ機器となると、一人で持ち出せる大きさ、重さではなかったりするから、
まずはディスクを、と心配するわけだが、
火事がおこり、目の前でそれまで使ってきたオーディオ機器が消失してしまうのは、
現実におこってしまったら、たいへんな衝撃のはずだ。
25のときに、EMTの927Dstを手に入れた。
音も見事だが、自室におけば、その存在感は大きい。
けれど、927Dstを緊急時に持ち出せるかといえば、
火事場の馬鹿力があるとすれば可能かもしれないが、
持ち出せるモノとは思えなかった。
オーディオという趣味は、安全な空間を必要とする。
火事がこようが、地震がこようが、何があってもリスニングルームは無事。
そういう空間を持てるのであれば、私のような心配はしなくてもすむ。
けれど災害は人の想像力を超えた規模で起りうる。
絶対安全な空間など、ほぼない、といっていい。
そして、オーディオは部屋に縛られる趣味ともいえる。
そんなことに頭を悩ませていたころに、AKGからK1000が登場した。
そのころはK1000が欲しいな、だった。
K1000の登場から二十年以上。
K1000の後継機が三年前に登場した。
時を同じくして、私の音楽の聴き方に変化が訪れた。
MQAとTIDALである。
iPhoneとなんらかのD/Aコンバーター兼ヘッドフォンアンプがあれば、
そしてK1000もしくはK1000の後継機が揃えば、
部屋に縛られることから解放される。
スピーカーで音楽を聴こうとするから、
定住することが求められるのだが、上記のシステムならば、
もうそんなことはない。
終のリスニングルームとは、そういうことなのだろうか。
つぼみのままの音がある。
花を咲かせる音がある。
花が散り、実を結ぶ音もある。
つぼみのままの音は、音楽をつぼみのままで終らせる。
花を咲かせられる音は、音楽という花を咲かすことができる。
実を結ぶ音は、音楽という「実」を聴き手に与えてくれるはずだ。
つぼみを眺めるだけ(愛でるだけ)の音、
花を眺める(愛でる)音、
「実」を食すことのできる音。
エルヴィス・プレスリーは,1977年8月16日に亡くなっている。
日本でもニュースで大々的に報じられていた。
とはいえ私はプレスリーのファンではまったくなかったし、
むしろ太ってしまった過去の人という印象しか持っていなかった。
1977年といえば、中学三年だった。
クラスにはビートルズを熱心に聴いている同級生が数人いた。
けれど、彼ら(彼女ら)もプレスリーには関心がなかったようだった。
8月16日は夏休みだったから、直後に同級生と会うことはなかった。
それもあったと思うけれど、夏休み明け、プレスリーのことを話題にする同級生はいなかった。
プレスリーの歌をまったく耳にすることがなかったわけではない。
“Love Me Tender”とか、そうやってそうとうに有名な曲は聴いたことはある。
あくまでもきいたことはある──、そのくらいだった。
私がエルヴィス・プレスリーをかっこいいと感じたのは、
それからずっと時が経ってのことだった。
2002年、ナイキのCMで使われていた“A Little Less Conversation”。
この曲が最初だった。
JXLによるリミックスのシングルCDを買ってしまった。
この曲で、熱心なプレスリーの聴き手になりました──、
そんなことはなかった。
“A Little Less Conversation”から二十年。
いま映画「エルヴィス」が上映されている。
ものすごく観たかったわけではなかったけれど、
とにかく映画が観たかった、大きなスクリーンで映画を観たかったから、
火曜日に「エルヴィス」を観てきた。
観てきた人ならば気づいているだろうし、
プレスリーの熱心なファンならば、そんなこと知っているよ、と言うだろうが、
私は「エルヴィス」を観たあとに、検索してみて初めて知った。
エルヴィス・プレスリーはトレッキーであった、と。
しかもそうとうなスタートレックのファンのようである。
このことだけで充分である。
プレスリーさん、あなたもトレッキーですか。
そんなことを心の中で呟きながら、
帰宅してすぐにTIDALで、プレスリーをまとめて聴きはじめた。
幸いなことにプレスリーはRCAに多くのアルバムを残している。
それらのアルバムはMQA Studioで聴ける。
「録音は未来」である。
オーディオ雑誌で、真空管アンプならではの音、とか、
真空管でなければ出せない音、といったテーマの企画が載ったりする。
真空管だけではなくて、ホーン型だったりもする。
ようするに方式とか素材によって得られる音がある、ということなのだが、
こういう記事では、だからといって、真空管アンプでは出せない音、とか、
ホーン型では出せない音ということについては言及しない。
オルトフォンのMC20MKIIを使うようになって、
MM型とMC型とでは本質的な違いがあることを、より強く感じるようになった。
MC20MKII以前、MC型カートリッジのいくつかは聴いている。
そのときに感じたことは、自分用として使うようになると、強い実感をともなってくる。
MC型カートリッジでなければ出せない音の骨格というものがある。
方式や素材で音は判断できないのわかっている。
それでもどうしても残ってしまうものがある。
どんなに技術が進歩しても、MM型からMC型のよさは得られない──、
と断言してもよい。
どちらがカートリッジの発電方式として優れているかどうかではなく、
その方式にはその方式ならではの「音の芯」のようなものがはっきりとあるからだ。
MC20MKIIが、私にとってのアナログディスク再生の最初の一歩目ではない。
エラックのSTS455Eを使っていたし、それ以前はプレーヤー付属のカートリッジを、
ごく短い期間とはいえ使ってもいた。
それでも、いまふり返ってみて、私にとってのアナログディスク再生の一歩目は、
やはりMC20MKIIということになる。
“MAGIC VIENNA: Works by Johann and Josef Strauss”。
ジョージ・セル/クリーヴランド管弦楽団によるアルバム。
このアルバムのことは知ってはいたけれど、
ディスクを買ってまで──、と思うことがなかった。
このアルバムも、TIDALで初めて聴いた。
楽しい演奏である。
もっと早く聴けばよかった、と思うほど、音楽が澱むことなく展開していく。
聴いていて、
オーケストラがクリーヴランド管弦楽団だからこそ、この演奏なのか、と思っていた。
セルはウィーン・フィルハーモニーも指揮している。
シュトラウスの作品なのだから、ウィーン・フィルハーモニーとの演奏だったら──、
まったく思わないわけではなかった。
けれど一瞬、そうおもったけれど、ウィーンとだったら、
ここまでの演奏はできなかったかも……、とおもいなおした。
セルとウィーンとによるシュトラウスも聴いてみたいけれど、
いかなセルとはいえ、
ウィーン・フィルハーモニーの伝統に引っ張られてしまうのではないだろうか。
“MAGIC VIENNA”には、そんなところは、当然だがまったく感じられない。
だからこそ、このアルバム・タイトルなのか、と思うし、
ここでのオーケストラは、オーディオでいえばスピーカーにあたる。
そこには相性が、どうしても存在する。
鳴らす人との相性、
鳴らす音楽との相性、
どう鳴らしたいか、との相性。
その相性いかんによって、マジックがおこせる(おきる)かどうか。
そんなことを考えていた。
直列型ネットワークを自作して、
トゥイーターとウーファーの接続の順番を入れ替えての結果を聴いて、
そういえば、あのスピーカーはどうだったのだろうか、と考えたのが、
BOSEの901である。
901はフルレンジユニットを九本直列接続している。
通常のユニットとは違い、901に使われているユニットのインピーダンスは0.9Ω。
つまり0.9Ω×9=8.1Ωとなる理屈である。
では、この九本のフルレンジユニットをどういう順番で接続しているのか。
901の中を見て確認したことはないなぁ、と思っていた。
おそらくだろうが、正面の一本がプラス側の最初にきて、
それから後面の四本+四本へと直列接続されていることだろう。
直列型ネットワークにおけるウーファーの位置づけにあたるのは、
901では正面の一本だと考えれば、
プラス側から後面の四本+四本と接続していき、
最後に、つまりマイナス側に正面の一本となるようにしたほうが、
好結果が得られるのではないだろうか。
実際に901でこのことを試したわけでもないし、
もしかすると最初から、こういう接続になっている可能性もあろう。
私の周りで901を使っている人はいないから確かめようはないが、
もしそうでなかったとしたら、接続の順番を逆にするだけで、
そうとうに901の音は変るはずだ。
内部をいじるのは好まないというのであれば、
スピーカーケーブルのプラスとマイナスを入れ替える。
このままでは逆相スピーカーになってしまうから、
システムのどこかがバランス伝送ならば、そこのところでプラス・マイナスを入れ替える、
D/Aコンバーターに極性の反転スイッチがあるならば、それを利用すれば、
システム全体としては正相となる。