ハイ・フィデリティ再考(原音→げんおん→減音・「夜のラジオ」を読んで)
谷川俊太郎氏の「夜のラジオ」を読んだ。
どきっ、としたところがある。
*
どうして耳は自分の能力以上に聞こうとするのだろう
でも今は何もかも聞こえ過ぎるような気がするから
ぼくには壊れたラジオの沈黙が懐かしい声のようだ
*
どきっ、としないオーディオマニアがいるだろうか。
谷川俊太郎氏の「夜のラジオ」を読んだ。
どきっ、としたところがある。
*
どうして耳は自分の能力以上に聞こうとするのだろう
でも今は何もかも聞こえ過ぎるような気がするから
ぼくには壊れたラジオの沈黙が懐かしい声のようだ
*
どきっ、としないオーディオマニアがいるだろうか。
つまりはこうである。
五味先生が書かれていた、マッキントッシュのMC275の音の描写、
「もとのMC二七五は、必要な一つ二つは輪郭を鮮明に描くが、
簇生する花は、簇生の美しさを出すためにぼかしてある」
こういう音の美をほんとうに理解できるようになるためには、
MC3500の音の描写、
「簇生する花の、花弁の一つひとつを、くっきり描いている」音をまず出せるようになってからではないのか。
そう考えるようになったからである。
若いうちから、この手の音を求めていく。
当時ステレオサウンドの連載記事スーパーマニアに登場されていた人たちは、
若い時分にそうとういろいろなことをされて、行き着く先に、
高能率のスピーカーシステムと真空管アンプという組合せにたどり着かれている、のを読んでいた。
シーメンスのオイロダインに伊藤先生のアンプを使われているスーパーマニアの方もいた。
最終的にこういう境地にたどりつくのであれば、
最初からこの世界に手をつけていれば──、という考えも少しはあった。
いいとこだけをやろうとしていた。
だが、オーディオはそんなことでうまくいくようなものではない。
シーメンスのコアキシャルと真空管アンプの組合せ、
これをあの時からずっと続けていれば、
20代前半のころよりもずっといい音で鳴らしている、とは思う。
だがシーメンス・コアキシャルの世界からあえて離れて、
いわゆるハイ・フィデリティと呼ばれるオーディオをやってきたからこそ、
もしいま当時と同じシステムを鳴らすことになったとしたら、
ずっと鳴らしつづけてきた音よりも、ずっといい音で鳴らせる。
私は20代前半のある時期、
シーメンスのコアキシャル(25cmウーファーとコーン型トゥイーターの同軸型)を平面バッフルで鳴らしていた。
平面バッフルのサイズは縦190×幅100cm、米松合板を使ったもの。
これにf0:65Hzという、古い設計のスピーカーユニットを取り付けていたわけだ。
同軸2ウェイとはいえ、トゥイーターも古い設計で、
しかも口径も大きいわけで高域がすーっと延びているわけでもない。
上も下も、そのくらいのレンジ幅である。
例えば口径はすこし小さくなるが、
JBLの20cm口径のLE8Tを適切なチューニングのなされたバスレフ型エンクロージュアにおさめたほうが、
低域に関してはずっと下まで延びている。
コアキシャルの出力音圧レベルは、98dB/W/m。
高能率といえるユニットだけに、このベクトルでの音の良さは確かにある。
けれど、コアキシャル+平面バッフルでは、再生が無理な音があるのも事実であり、
そんなことはこのスピーカーを導入する前からわかっていたことであり、それを承知で、
こういうシステムでしか聴けない音を求めての選択だった。
つまりは、ここでテーマとしている「減音」、
このときはそこまで意識したわけではないけれど、
それに若さゆえに粋がっていたゆえの選択でもあったけれど、
ようするに、この項の(続×二十九)で書いているMC275的音の描写を意識してのことだった。
けれど、このシステムはそうながくは続けなかった。
音が気に入らなかったわけではない。
ハイ・フィデリティ(High-Fidelity)は高忠実度ということで、
ハイ・フィデリティ再生とは、原音に高忠実度再生ということになり、
その原音の定義こそ難しく、あれこれ考えさせられるのだが、
ここでは録音されたものに対しての高忠実度ということにしてみよう。
そうなるとアナログディスクにしろCDにしろ、
なんらかのパッケージメディアを購入してわれわれは家庭で音楽を聴いている。
ここ数年、インターネットでの配信も盛んになってきている。
これから先もっと普及してくるのは間違いないだろう。
これらを介して音楽を再生するということは、
録音されたそのものを再生しているわけではない。
マスターテープに収録された音がそのまま聴き手のところに届くようには、
まだなっていないし、はたしてそれが理想的なことなのかについては、また考えなくてはならないことでもある。
だからこそ、よりよい音を求めてLPならば初期盤、オリジナル盤と呼ばれるものをものを、
CDではリマスター盤が、いくつも登場してそれらを,求める行為にもなっていく。
そうやって、その時点で最上と認められるモノを手に入れたとしても、
マスターテープの音がそこから再生可能なわけではない。
だから、ここでの高忠実度再生は、話を整理するためにも、話を進めていくためにも、
家庭で聴けるフォーマットしてのプログラムソース、
つまりLP、CD、配信ソースとして届けられる録音モノへの高忠実度再生が、
現状のハイ・フィデリティ再生ということになっている、と私は認識している。
とした場合の高忠実度再生とは、もう少し具体的にいうとどういうことなのか。
おそらく、一般的にはLP、CD、配信ソースに含まれている「情報量」(あえて、こう表現する)を、
あますところなく正確に音とすることになろう。
LP、CD、配信ソースに含まれている音は、ひとつとして欠けることなく、
すべて音としてなっていなくてはならない。
しかもそれらの音が録音側が意図したところで意図したように鳴る。
だから、基本的には再生側では色づけや情報量の欠損は認められない、と。
それがより高いレベルにあるのが、文字通りのハイ・フィデリティ再生──、なのだろうか。
そうだとしたら、減音などという考えは、
ハイ・フィデリティ再生とは対極の音楽の聴き方ということに思われるだろうが、
「忠実」という意味を、そして「忠」という漢字の意味を考えれば、
決してそうではないといえるし、さらにどちらが「忠実」なのか、ということになっていく。
完璧な録音・再生の系が実現してしまったとき、どうするのか、
オーディオマニアとして、その完璧な系をどう向い合うのかについての答は、すでにあった。
だから答は、すぐに浮んできた。
ただし、これは私にとっての答であり、
必ずしも、すべてのオーディオマニアにとっての答になりうるものではないのかもしれない。
だいたい生きているうちに、そんな時代はやってこない可能性のほうが圧倒的に高いのだから、
そんなことに頭を使って答を出すことそのものが無駄なこと、と思われる人がいても不思議ではない。
けれど、こういう極端な例を考えて、そこにひとつの答を出していくことは、
オーディオとは何か? について考えてゆく、ひとつの手法だと私は考えている。
だから、答を出していく。
もっとも、このことに関しては、答を出した、というのは必ずしも正確ではない。
思い出した、というのが、より正確な言い回しである。
ようするに、私が出した答は、すでにオーディオをやり始めたときに読んでいたものだった。
何度もくり返し読んできた、五味先生の「五味オーディオ教室」に書かれてあったことが、
答として私の裡にすぐさま浮んできた。
この項でもすでに引用しているし、別項でも何度か引用している、
マッキントッシュのパワーアンプMC275とMC3500についてふれられている文章で、
しつこいと思われようが、ここにはまた引用しておく。
*
ところで、何年かまえ、そのマッキントッシュから、片チャンネルの出力三五〇ワットという、ばけ物みたいな真空管式メインアンプ〝MC三五〇〇〟が発売された。重さ六十キロ(ステレオにして百二十キロ——優に私の体重の二倍ある)、値段が邦貨で当時百五十六万円、アンプが加熱するため放熱用の小さな扇風機がついているが、周波数特性はなんと一ヘルツ(十ヘルツではない)から七万ヘルツまでプラス〇、マイナス三dB。三五〇ワットの出力時で、二十から二万ヘルツまでマイナス〇・五dB。SN比が、マイナス九五dBである。わが家で耳を聾する大きさで鳴らしても、VUメーターはピクリともしなかった。まず家庭で聴く限り、測定器なみの無歪のアンプといっていいように思う。
すすめる人があって、これを私は聴いてみたのである。SN比がマイナス九五dB、七万ヘルツまで高音がのびるなら、悪いわけがないとシロウト考えで期待するのは当然だろう。当時、百五十万円の失費は私にはたいへんな負担だったが、よい音で鳴るなら仕方がない。
さて、期待して私は聴いた。聴いているうち、腹が立ってきた。でかいアンプで鳴らせば音がよくなるだろうと欲張った自分の助平根性にである。
理論的には、出力の大きいアンプを小出力で駆動するほど、音に無理がなく、歪も少ないことは私だって知っている。だが、音というのは、理屈通りに鳴ってくれないこともまた、私は知っていたはずなのである。ちょうどマスター・テープのハイやロウをいじらずカッティングしたほうが、音がのびのび鳴ると思い込んだ欲張り方と、同じあやまちを私はしていることに気がついた。
MC三五〇〇は、たしかに、たっぷりと鳴る。音のすみずみまで容赦なく音を響かせている、そんな感じである。絵で言えば、簇生する花の、花弁の一つひとつを、くっきり描いている。もとのMC二七五は、必要な一つ二つは輪郭を鮮明に描くが、簇生する花は、簇生の美しさを出すためにぼかしてある、そんな具合だ。
*
こういうことだと私は思った。
結局のところ家庭で音楽を聴くという行為は、
完璧なものが目の前に登場してきたとき、オーディオマニアとして私がやることは、
MC3500的花の描き方(つまり音の描写)ではなくMC275的花の描き方(音の描写)だということであり、
ここにこそ”fidelity”のオーディオにおける意味が問われることになる。
オーディオの理想が現実となるとき、
いまわれわれが接しているオーディオというシステムとは、まったく異るシステムになっている可能性もある。
スピーカーは、そういう変化の中で、もっとも大きく変化をとげる、というよりも、
発音原理そのものから変ってしまうのかもしれない。
そういえばステレオサウンド 50号には、
長島先生が小説仕立てで「2016年オーディオの旅」という記事を書かれている。
50号が出たのは1979年3月。そのころは2016年はずっとずっと先のことだと思って読んでいた。
まだCDは登場していなかったけれど、各社からデジタルディスクの試作機は登場していて、
50号にも岡先生が記事を書かれている。
「2016年オーディオの旅」でもプログラムソースは、
すでにテープもディスクも存在せずに固体メモリーになっている、という予測をされている。
長島先生のスピーカーの予測は、個人的には面白く興味深いものだった。
空気を磁化する方法が発見され、スピーカーから振動板がなくなっている。
音響変換効率90%で、50mWの入力で100dB以上の音圧が得られる、というもの。
あのころ、夢物語として読んでいた、この記事の2016年まで、あと4年にまで近づいている。
おそらく4年後も、スピーカーから振動板がなくなっていることは、まずない、と予測できる。
スピーカーの能率も低いままだろう。
でも、いつの日か(私が生きているうちなのかどうかはなんともいえないけれど)、
きっと、長島先生が夢見られ予測された日がきっと訪れることだろう。
そこまで到達できれば、「索漠とした味気ない世界」なのかもしれない、オーディオの理想へと、
そうとうに近づくことだろう。
そして、さらに進歩することで、ほんとうに完璧なオーディオが登場することだろう。
この長島先生の記事を読んでいたからこそ、
ステレオサウンド 52号の瀬川先生の特集の巻頭言を読んだ際に、よけいに考えてしまったわけである。
減音なんていう言葉をつくって、そのことについてまだ書いている。
この減音ということばを思いついたのは今年になってからだが、
この減音ということを考えるきっかけとなったことはなんだろう、とふりかえってみると、
それはひとつではなくいくつかのことが思い出されてくる。
そのひとつは、瀬川先生がステレオサウンド 52号の特集の巻頭言の最後のほうに書かれていることに関係している。
*
しかしアンプそのものに、そんなに多彩な音色の違いがあってよいのだろうか、という疑問が一方で提出される。前にも書いたように、理想のアンプとは、増幅する電線、のような、つまり入力信号に何もつけ加えず、また欠落もさせず、そのまま正直に増幅するアンプこそ、アンプのあるべき姿、ということになる。けれど、もしもその理想が100%実現されれば、もはやメーカー別の、また機種ごとの、音のニュアンスのちがないなど一切なくなってしまう。アンプメーカーが何社もある必然性は失われて、デザインと出力の大小と機能の多少というわずかのヴァリエイションだけで、さしづめ国営公社の1号、2号、3号……とでもいったアンプでよいことになる。──などと考えてゆくと、これはいかに索漠とした味気ない世界であることか。
*
ステレオサウンド 52号はアンプの特集号だから、アンプの理想像(それも極端な)について書かれているわけだが、
これがオーディオの再生系そのものだとしたら、どうなるだろうか、
と読み終ってしばらくしてのちに考えたことがある。
アンプだけではない、カートリッジもターンテーブルも、それにスピーカーも、さらにはケーブルにいたるまで、
完璧なものが世に登場したとする。
もちろん、再生系がそうなる前に、完璧な録音がなされて、その完璧なまま家庭に届けられる、という前提だ。
つまり録音の現場で鳴っていたものすべてを、家庭でそのままに再現できるようになった、とする。
部屋による再生音への影響もすべて取り除ける技術が開発されて、
同じプログラムソースであれば、どんな部屋でもまったく同じに再生される時代が来た──。
そうなってしまったら、それはオーディオの、果して理想が実現した、ということなのか、と考えたわけだ。
それは、瀬川先生がすでにステレオサウンド 52号に書かれているように、
「索漠とした味気ない世界」でもあるように思えてしまう。
オーディオの録音系も再生系も、いまとはまったく違う形態に行き着き、
音楽の聴き手は何の苦労もすることなく、いまの時代では想像できないほどのクォリティで音楽が鳴ってくる。
オーディオそのものに関心のない人にとって、それは素晴らしい、まさに理想のオーディオということになる。
けれど、いま、われわれが取り組んでいる趣味(ときにはその領域からも逸脱している)オーディオにとって、
そういう時代の到来は、やはり「索漠とした味気ない世界」でしかないのではなかろうか。
もし私が生きているあいだ、そういう時代になってしまったら、
オーディオマニアをやめるのか、それともオーディオマニアとして何をするのだろうか……、
いまから30年以上前に、そう考えたことが、いまここで長々と書き続けている「減音」につながっている。
ネルソン・パス主宰のパス・ラボラトリーズのパワーアンプの新作はXs300。
300Wの出力をもつAクラス動作モノーラル仕様、しかも電源部は別シャーシー。
つまり2チャンネル分で、W48.3×H29.7×D71.2cmという、そうとうに大型の筐体が4つ必要となる、
いかにもアメリカ的な規模を誇る。
重量はアンプ部が59kg、電源部が76.2kgと発表されている。
Xs300の規模はシャーシーの大きさと重量からも推測できるように、
内部に使われているパーツの数も、ファースト・ワットのSIT1とは、もう比較にならないほど大がかり、ともいえる。
輸入元のエレクトリの資料によると、出力段にはMOS-FETを18並列使用。
この出力段に対して、定電圧ソースを用意しており、ここにもMOS-FETが使われ、
アンプ内で使われているMOS-FETの数は72個と、STASIS1と思い出されるほどの多さである。
しかも電源部には定電流ソースのために40個のMOS-FETを使っているため、
アンプ部とトータルで112ものMOS-FETを使っていることになる。
これだけではXs300の回路は成り立たないから、電圧増幅段の半導体の数を含めると、
これまで市場に登場したアンプの中でも、もっともトランジスター、FETの使用数の多いアンプの筆頭格のはずだ。
ファースト・ワットのSIT1は、何度も書いているように、型番にもなっているSITをわずか1石のみ、である。
こんな両極端なパワーアンプを、ネルソン・パスはほぼ同時期に開発している。
ネルソン・パスが、どういうオーディオ観をもっているのかは知らない。
けれど、このふたつのアンプの存在からいえることは、
ネルソン・パスというひとりの男の中に、SIT1を生み出した、いわば諦観といえる考え、
Xs300を、現在のところ頂とする、いわば諦観なんていうものとまったく無縁の考え、
このふたつが二重螺旋のように存在している──、ということである。
この二重螺旋はネルソン・パスの中だけに存在するものではないはずだ。
私の中にも、はっきりとある。
おそらく、ほとんどすべてのオーディオマニアの中に、この二重螺旋はある、と私は信じている。
そして、この二重螺旋こそが、「減音」へとつながっていっている、と確信している。
ネルソン・パスはどうなのか。
──と、勝手に考えてみる。
いつごろからあるのかはっきりと憶えていないけれど、
1990年の終りごろにはあったように記憶しているのが、PASS DIYというサイトである。
サイト名からわかるように、ネルソン・パスによるオーディオのDIYのサイトである。
ここで取り扱われるもののメインは、やはりアンプ中心であるが、
以前はスピーカーに関する記事もいくつかあった。
このPASS DIYのサイトで目につくのは、Zen Amplifierである。
1994年から続いている。いくつかのヴァリエーションが存在する。
PDFがダウンロードできるので、興味のある方は英文の記事をお読みいただきたい。
このZen AmplifierのZenは、ほぼ間違いなく「禅」のはず。
Zen Amplifierは、どのヴァリエーションも、増幅素子の数は極端に少ない。
基本的にはFET1石による、ブリッジ構成のヴァリエーションもあるがSingle-Ended Class Aアンプである。
実際の回路は増幅部はFET1石だが、
定電流回路を構成するトランジスターとFETが1石ずつあり、
最初のZen Amplifierはチャンネルあたり3石が使われている。
この定電流回路をライト(電球)に置き換えたヴァージョンもある。
しかも±両電源ではなく+電源のみだから、
直流カットのため出力には大容量の電解コンデンサー(2200μFが2本並列)が入ることになる。
いまでは当り前になっているOCL(output condenser less)アンプでもないわけだ。
FETのドレインから出力を取り出している。
NFBはごくわずかにかけてある反転アンプである。
出力インピーダンスは1Ωを少し切る程度であり、2kHz以上ではやや上昇していく。
出力は10W。
最新の、高度な回路に物量を投入したアンプを見慣れた目には、
このZen Amplifierは、なんとも古めかしい、アンプ作りの腕の発揮しようのないアンプのように映るだろう。
そういうZen AmplifierからALEPHのパワーアンプが誕生し、
ファーストワットのSIT1とSIT2へと進化でもあり深化していった、といえるだろう。
直熱三極管のシングルアンプの音として、
私は、いかにも日本的な音の世界というイメージが根底にある。
けれどアンプの歴史をふりかえってみると、最初のアンプはシングルアンプである。
アメリカでつくられている。
プッシュプルプが登場するのは、もう少し先のことである。
プッシュプルアンプが主流となって時代に、
ウェスターン・エレクトリックは91という300A(300B)のシングルアンプをつくっている。
何度も書くけれど、伊藤先生の300Bシングルアンプは、
このウェスターン・エレクトリックの91型アンプを範とされている。
だから、つまりシングルアンプ・イコール・日本的な音の世界、と捉えるのはおかしい、といえばそういえる。
けれど、ウェスターン・エレクトリックの25Bや91が登場した時代と、
現在とではオーディオの状況は様変りしている。
当時は大出力アンプといえども数10Wクラスがせいぜいだった。
そのかわりスピーカーの能率が、いまとは比較にならないほど高く、
91型アンプの8W程度の出力でも中程度の規模の映画館であれば充分な音量が得られていた、ときいている。
もちろん、このころのスピーカーの周波数レンジは狭い。
いまのスピーカーシステムのような周波数特性の広さのまま、
当時の高能率を両立させることはそうとうに困難なことであり、
スピーカーシステムの周波数レンジが広くなるとともに能率は低下し、
その低下分を補うかのごとくアンプの出力は増していく一方である。
いまでは500W以上の出力を安定して得られる時代になっている。
そういう時代に直熱三極管のシングルアンプを使うということは、
25Bや91といったアンプが登場した時代に使うのとは意味あいが違っていて当然である。
当時は当り前の数字であった数Wの出力は、いまではきわめて小さな出力である。
しかもプログラムソースのダイナミックレンジも、周波数レンジとともに拡大している。
そうなると、いま直熱三極管のシングルアンプと高能率スピーカーとの組合せは、
スピーカーシステムの規模が大きかろうと、ある種の諦観が聴き手に要求される。
これを、私は日本的な音の世界と捉えているのである。
真空管アンプにおけるシングルとプッシュプル、
このふたつの回路構成の違いによる音の、本質的な違いはいったいどういうものなのか。
池田圭氏は、著書「盤塵集」でこう書かれている。
*
油絵では日本の松は描けないという。確かに今までの僕の見てきた油絵の松は、まさしく松の木には見えるが、それを眺めていても松籟は聞こえてこなかったように思う。もっとも、自信をもっていえるわけではない。有名な松を描いたセザンヌの「ヴィクトリア山」の原画などは見たこともないし、フランスの松の木の下で休んだこともないからである。
3極管アンプも、松籟の聞こえるような気のするシングルから、P.P.(プッシュプル)のに変えると、何となく油絵の松を思い出す。タッチが太くて、東洋の絵のように細筆で松の葉の1本1本が見え、そのあいだを幽かに風の通う音が聞こえるような風情が感じられない。
*
この池田氏の文章を、私は実際にいくつかの真空管アンプの音を聴く前に読んでいた。
松籟ということばも、このとき知った。
そして伊藤先生製作の300Bシングルアンプの写真が伝えてくれるイメージから、
私の中では、直熱三極管のシングルアンプのイメージはできあがっていった。
伊藤先生のシングルアンプのたたずまいは、一輪の花を生けて愛でるのに通じるものである。
松籟と一輪の花。
これらをつくり出すイメージこそが、私のなかで生れてきたシングルアンプの存在そのものである。
300Bなのか、Edなのか──、
それは一輪挿しに生ける花の違いである。さらにいえば一輪挿しの違いでもある。
池田圭氏の単段アンプは、伊藤先生による真空管アンプをタブローとすれば、
エチュード的アンプともいえる。
だからといって、単段アンプに関心がないわけではなかった。
単段アンプの記事は、けっこう楽しく読んでいた。
単段アンプは池田圭氏のオリジナルのアイディアではない。
池田氏自身、記事に書かれていたはずだが、ウェスターン・エレクトリックの25B型アンプからの発想である。
25Bは205D出力管を2本使っている。
ただし1本は整流管として使っているため信号増幅部は205Dが1本のみで、
入力にトランスがあり205Dのスウィングに必要な電圧まで昇圧している。
これをプッシュプルにしたアンプが42Aである。
このアンプも入力トランスのすぐ後に205Dという構成である。
これらのアンプがいつの時代のアンプなのか、はっきりした年代を私は知らないけれど、
相当に古いものであることは確かである。
ウェスターン・エレクトリックがプッシュプル増幅を考案し特許を取得したのが1915年のことらしい。
1935年には300Aプッシュプルの86Cが登場しているし、300Aの登場は1933年。
だから1910年後半から20年のあいだに登場したのだろう。
いわばアンプの原型といえる単段アンプ。
それを池田圭氏は1980年代に実際に追試され、25Bの登場からほぼ100年後の今日、
最新の増幅素子を使った単段アンプ(SIT1)が登場している。
しかも型番にもなっているSITは、Static Induction Transistorの略で、
三極管に近い特性をもつトランジスターであることが、
SIT1は、25Bアンプの100年後の姿と、思わずいいたくなるところでもある。
205Dは、いうまでもなく直熱三極管だ。
ファーストワットのSIT1、SIT2に関する資料を眺めていると、
つい1980年代のラジオ技術で一時期流行っていた(といっていいだろう)単段アンプを思い出す。
単段アンプとは池田圭氏が始められた、と記憶している。
文字通り増幅段が1段しかない真空管アンプのことである。
池田氏は6GA4を使われていたように記憶している。
6GA4は三極管であっても、300BやEdとは違い、スウィングに必要な電圧はそれほど高くなくてもよい。
五極管なみの入力電圧で定格出力が取り出せる。
少し話が脱線するが、よく出力段の前段の増幅管のことをドライバーと呼ぶ人がいる。
私は伊藤先生のシーメンスのEdのプッシュプルアンプの記事で真空管アンプの自作に強い関心をもった男だから、
その記事に書かれてあったことは、当時は完全には理解できなかったことでも、
とにかく書いてあることは、ほぼそのまま憶えようとしていた。
その記事には、こう書いてあった。
*
余談になりますが、クラスA、或はABのパワー管の前段の増幅管はドライバーとは称しません。終段がクラスBの場合、つまり入力側のトランスの2次側に多量のグリッド電流が流れる構成の時、前段にクラスAの電力増幅管を使用した時にのみ、これをドライバーと呼ぶのです。終段がクラスAの場合の前段は電圧増幅です。電圧増幅の動作ではドライバーとはいいません。
*
だから伊藤先生は出力管をドライブする、といった表現はもちろん使われない。
スウィングする、という表現を使われる。
話を戻そう。
6GA4はそういう真空管でも、たとえばCDプレーヤーの出力をそのまま入力しただけでは電圧不足になる。
だから池田氏は入力にトランスをいれて必要な電圧にまで昇圧したうえで出力管だけのアンプをつくられた。
池田氏だけでなく、ラジオ技術の他の筆者の方も追試されていた、と記憶している。
単段アンプは、これ以上簡略化できない構成である。
ファーストワットのSIT1の概略図をみると、このアンプの構成もまた、これ以上簡略化できないものとなっている。
傅さんから聞いた話だと記憶しているが、
ネルソン・パスは1970年代の終りごろに、スピーカーの開発を行っていた。
コーン型ユニットを使ったモノでもなく、コンデンサー型やリボン型でもなく、
金属線を張り、そのまま振動させて音を出す、というものだったらしい。
つまりリボン型スピーカーのリボンを金属線にしたようなものだろう。
信号は、この金属線を流れる。
いわゆる振動板のない構造の、このスピーカーはどう考えても能率の低いものだろう。
かなりのパワーを必要とすることは容易に想像できる。
そしてパワーを入れれば入れるほど金属線の温度は増していく。
温度が増していけば、金属は膨張し弛んでいくことになる。
弛めば音は変化していく。
だからパスは金属線の温度が上昇しないようにヘリウムガスで冷却するという手段をとったらしい。
大掛かりなスピーカーだ、と思う。
かなり以前に聞いた話だから記憶違いもあると思うが、
パスはこのスピーカーの実験のために1kWの出力のパワーアンプまでつくったそうだ。
それでも、満足すべき音量は得られなかった、らしい。
私の勝手な想像だけれども、おそらく能率は80dBよりもっと低かったのだろう。
70dB/W/mにも達していなかったのかもしれない。蚊の鳴くような音量しか得られなかったのか……。
パスは、この金属線スピーカーの開発にどのくらいの期間、とりくんでいたのだろうか。
ヘリウムガスまでもちこんで、
アンプも当時としては、どのメーカーも実現していなかった1kWの出力のモノまでつくっているのだから、
なんらかの可能性を感じていたはず、パスが求める音の片鱗を聴かせていたはず……、と思う。
結局、この金属線スピーカーは実用まで到らなかったのか。
パスがマーチンローガンのコンデンサー型スピーカーを使っていたのは、
この流れからすると自然なことであり、だからこそアルテックのA5へと切り替えたパスをみていると、
日本のベテランのオーディオマニアが遍歴のすえに、
高能率のスピーカー(ラッパ)を直熱三極管のシングルアンプで鳴らす境地に辿り着くのと、
共通するなにかを感じてしまう。
ALEPHのアンプ、それに現在のファーストワットのSIT1は、
どこか直熱三極管のシングルアンプ的でもあるからだ。
SIT1は、どこか、どころか、はっきりと直熱三極管のシングルアンプ的である。
ネルソン・パスによる、ふたつのアンプの動作。
ステイシス回路とALEPHの非対称回路。
どちらが、より理想的なのか、どちらが優れているのか、どちらが音が良いのかは、
決められるような性質のものではない。
ネルソン・パスはパス・ラボラトリーズではいまXシリーズ、XAシリーズを出している。
Xシリーズは、Super Symmetric回路を採用している。
この方式がどういう構成なのかははっきりしないが、
Symmetricとついているわけだから対称動作であることは間違いないはず。
いまパス・ラボラトリーズのラインナップにはALEPHはなくなってしまったが、
ネルソン・パスのもうひとつのブランド、ファーストワットのパワーアンプが、
そのかわり的な存在として、ある。
現在のパス・ラボラトリーズのラインナップは、いわばスレッショルド時代のラインナップ的ともいえよう。
ALEPHやファーストワットのアンプと比較の上でいえば、
アンプ単体での理想動作を追求している設計方針といっていいだろう。
アンプの規模も、以前のSTASIS1を超えるモノもラインナップされている。
パス自身、どちらかひとつに絞っているわけではない。
大きくみて、ふたつの方向から、アンプの理想を追求している、と私は感じている。
パワーアンプが鳴らすスピーカーシステムには、
アルテックのA5のような古典的な高能率のアンプもあれば、正反対の性格のスピーカーシステムもある。
スピーカーはからくりだ、と、よく井上先生はいわれていた。
その通りだ、と思う。
これまでにいくつものからくりのスピーカーが存在してきたし、存在している。
そのからくりが、一番なのかは、誰が決められようか。
結局、いまの自分にとって最適のからくりを選ぶしかない。
そして、そのからくりをうまく動かしてくれるパワーアンプを選ぶしかない、ともいえる。