Date: 12月 17th, 2010
Cate: 言葉

造詣

今月9日に上杉先生が亡くなられていることが、ニュースになっていた。
兵庫にお住まいだったから、他の評論家の方ほどお会いする機会はなかった。

それでもいくつかの想い出はある。それを書くこともできるが、
それよりも書いて置きたいことは上杉先生の不在により、
ステレオサウンドの筆者から真空管に造詣の深い人がいなくなってしまったということ。

以前は長島先生の存在もあった。長島先生と上杉先生、おふたりとも真空管への造詣は深かった。
おふたりの違いは、造詣の深さの違いではなく、もうすこしべつのところにあった。

いまはインターネットに接続できれば、手軽に真空管に関する情報は厖大な量を手にすることができる。
以前はネットに接続するにはパソコンからだったけど、
いまやiPadやiPhoneからでも、外出先からでも簡単に高速に接続できる。
もしかすると、真空管に関しても、長島、上杉先生よりもくわしい人、それも若いひとがいてもふしぎではない。

そういう時代をインターネットは可能にしている。

だがそういう人が、真空管に関して、造詣が深い、かとなると必ずしもそうではない。
造詣の深さには、もちろんある量の知識は必要である。だが知識の量だけでは、造詣は得られない。

こういう時代だからこそ「造詣」とはなにかを、もういちどはっきり見直しておきたい。
そして真空管に関してだけではない。
私個人としては、アナログディスク再生に造詣の深い人が、
いまのステレオサウンドの筆者のなかには、いない……、そう感じている。

真空管、アナログディスク──、これらのことはオーディオにつながる、ある項目である。
その項目に関して造詣の深い人の不在。これが意味することはなんであるのか。

Date: 12月 16th, 2010
Cate: 欲する

何を欲しているのか(その9)

昔、カートリッジは、「音の宝石」とたとえられたこともあった。
針先のダイアモンド、オーディオ・コンポーネントの中でももっとも小さなパーツでありながら、
音を大きく変えてくれるカートリッジは、まさに「音の宝石」といえた。

いまはどうだろう……。

そういった意味よりも、むしろ価格の面で「音の宝石」となりつつある。

以前のように手軽に手を出せる価格のモノが減ってきて、非常に高価なモノの比率が増えてきた。
モノの価格がどうやって決められていくのか、それを知らないわけではないけれど、
いまのカートリッジの高価格化に、誰も疑問を抱かないのだろうか。

カートリッジは、オーディオの中で、数少ない消耗品である。

どんなに高価なカートリッジでも針先のダイアモンドの寿命は、大きく変ってくるものではない。
数万円のカートリッジよりも数十万円のカートリッジは、針先の寿命が10倍になるわけではない。
ほとんど同じである。
カートリッジの針先の寿命は、同じ製品でもバラつきによって異ってくる。

天然ダイアモンドを採用しているならば、カットしたときに生じるバラつきによって、
驚くほど長持ちするモノがあるし、反対にえっ、もう……と言いたくなるほど寿命が短いものもある。

いまはどうなのか知らないが、EMTのカートリッジはとくに、この差が大きかった。
きくところによる、その違いはダイアモンドのカットする時の結晶の方向に関係することらしい。

Date: 12月 15th, 2010
Cate: 欲する

何を欲しているのか(その8)

いま現在市場にでまわっているヘッドフォン(イヤフォン)の数はどのくらいあるのだろうか。
オーディオがブームだといわれた1970年代のころよりも、ずっと多くの機種、
そしてヴァリエーションも豊富になっているように感じられる。

そんな状況をみていて思うのは、
アナログ全盛時代のカートリッジがヘッドフォンに変っていったのではないのか、ということ。
CDが登場するまでは、カートリッジを複数個もつのは、音に関心のある人ならば当り前のことだった。

1個のカートリッジしか所有したことがない、という人はおそらくいないと思う。
少ない人でも数個、多い人では何十個というカートリッジを持っている人もいた。
瀬川先生はヘッドシェルに取り付けて、
すぐに聴ける状態にあるものだけで80個をこえて所有されていた、と書かれている。

製造される国が違い、発電方式もさまざまな違いがあった、それぞれのカートリッジ。

まめな人ならば、レコードごとにカートリッジを交換していた人もいたときいている。
レコードのジャケット裏の片隅にカートリッジの機種名をメモしておいて、
そのレコードを演奏する時には、かならずそのカートリッジにつけかえる。
そこまでまめな人でなくても、常用カートリッジはひとつときめていた人でも、
季節の変り目であったり、気分を大きく変えたい時、あるいはふだん聴かないジャンルを音楽を鳴らすとき、
その音楽がふだん聴いている音楽と大きく異る性質のものであるならば、カートリッジの交換によって、
うまくいけば、その性質の違いは際立ってくることになる。

一部、非常に高価なカートリッジはあったものの、アナログ全盛時代においては、
カートリッジの価格はそう高価なわけではなく、手の出しやすいモノが多かった。

Mark Levinsonというブランドの特異性(その45)

この項(その32)に、瀬川先生のKEFの105の試聴記を引用している。
そこに「組合せの方で例えばEMTとかマークレビンソン等のようにツヤや味つけをしてやらないと、
おもしろみに欠ける傾向がある。」と書かれている。
このことは、瀬川先生がマークレビンソンのアンプ(このときはML7はまだ登場していない)の音を、
どう感じておられたかがわかる。

もしこのとき、LNP2やJC2(ML1)、ML2などがとっくに製造中止になっていて、ML7とML3だけになっていたら、
こんなことは書かれなかったと思う。
ステレオサウンドの1981年夏の別冊の巻頭原稿「いま,いい音のアンプがほしい」に、どう書かれているか。
     *
その当時のレヴィンソンは、音に狂い、アンプ作りに狂い、そうした狂気に近い鋭敏な感覚のみが嗅ぎ分け、聴き分け、そして仕上げたという感じが、LNP2からも聴きとれた。そういう感じがまた私には魅力として聴こえたのにちがいない。
そうであっても、若い鋭敏な聴感の作り出す音には、人生の深みや豊かさがもう一歩欠けている。その後のレヴィンソンのアンプの足跡を聴けばわかることだが、彼は結局発狂せずに、むしろ歳を重ねてやや練達の経営者の才能をあらわしはじめたようで、その意味でレヴィンソンのアンプの音には、狂気すれすれのきわどい音が影をひそめ、代って、ML7Lに代表されるような、欠落感のない、いわば物理特性完璧型の音に近づきはじめた。かつてのマランツの音を今日的に再現しはじめたのがレヴィンソンの意図の一端であってみれば、それは当然の帰結なのかもしれないが、しかし一方、私のように、どこか一歩踏み外しかけた微妙なバランスポイントに魅力を感じとるタイプの人間にとってみれば、全き完成に近づくことは、聴き手として安心できる反面、ゾクゾク、ワクワクするような魅力の薄れることが、何となくものたりない。いや、ゾクゾク、ワクワクは、録音の側の、ひいては音楽の演奏の側の問題で、それを、可及的に忠実に録音・再生できさえすれば、ワクワクは蘇る筈だ──という理屈はたしかにある。そうである筈だ、と自分に言い聞かせてみてもなお、しかし私はアンプに限らず、オーディオ機器の鳴らす音のどこか一ヵ所に、その製品でなくては聴けない魅力ないしは昂奮を、感じとりたいのだ。
     *
「その当時のレヴィンソン」とは、ジョン・カールと組んでいた頃のマーク・レヴィンソンだ。

Date: 12月 13th, 2010
Cate: 名器

名器、その解釈(その3)

そう、ほとんどの機種は、感覚的にも直感的にも名器だと納得できる。
それはステレオサウンド 50号を最初に読んだとき、まだ16歳だったけれど、
それぞれの写真から伝わってくるもの、それぞれの筆者の書かれたものから伝わってくるのはわかった。

それでもJBLのオリンパスS7R、ARのAR3aは、これもなのか……と思うところも正直あった。

オリンパスが選ばれるのであれば、なぜ同じJBLのハークネスがないのか。
柳沢氏の文章を読んでも、完全には納得できなかった。
私は、オリンパスよりもずっとハークネスが、スピーカーシステムとして美しいと思っている。
それにハークネスは、JBLのスピーカーシステムとしてはじめて左右対称に作られたモノでもある。
ステレオ再生ということを念頭に置いて作られた、それほど大きくもなく、
いま見ても美しいスピーカーシステムが、ない。

オリンパスに較べるとAR3aは、まだ納得がいく。
ARのスピーカーシステムが登場した時代を体験しているわけではないが、
それでもいくつか、このころについて書かれた文章を読めば、
ARのアコースティックサスペンション方式のもたらした衝撃がどれほど大きかったのかは理解できる。
ブックシェルフ型スピーカーは、ARがつくりだした、ひとつのジャンルであるのだから。
だから、頭では理解できる……。

あとひとつあげれば、マッキントッシュのMC240。
MC3500、MC275が選ばれているし、この2機種と比較すると、
なんとなく影が薄い、そんな存在のMC240がなぜ選ばれているの? という疑問がないわけじゃない。
それでも、理解できないわけでもない。

ステレオサウンド 50号が出たのは、31年前。
いま同じ企画を行ったら、それでも50号で選ばれたオーディオ機器の多くは、また選ばれるだろう。
そして、何が加わるのだろうか。

Date: 12月 12th, 2010
Cate: 名器

名器、その解釈(その2)

ステレオサウンド 50号の旧製品 State of the Art 賞の扉にはこう書いてある。
     *
往年の名器の数々の中から、〝ステート・オブ・ジ・アート〟賞に値する製品を選定していただいた。
以下に掲載した製品がその栄誉ある賞を獲得した名器たちであるが、いずれもその後のオーディオ製品に多大な影響を与えた機種であり、また今日のオーディオ発展のための大きな原動力ともなったものである。ここではこれらの名器がなぜ名器たり得たのか、そこに息づいているクラフツマンシップの粋、真のオーディオ機器の精髄とは、を探っている。
     *
ここには名器という言葉の他に、クラフツマンシップの粋、という言葉もある。

古い読者の方なら「クラフツマンシップの粋」ときいて、
このころステレオサウンドに連載されていた同盟の記事を思いだされるはずだ。
「クラフツマンシップの粋」の1回目は37号(1975年12月発売)に載っている。
とりあげられているのはマランツの#7、#9、#10B。
2回目は38号。JBLのSG520、SE400S、SA600。3回目は39号で、ガラード301、トーレンスTD124。
4回目は41号。JBLのハーツフィールド。
5回目は43号、QUADの管球アンプ、6回目は44号、アンペックスのデッキ。
7回目は45号でエレクトロボイスのパトリシアン・シリーズ、
8回目(最終回)はノイマンDSTなどのカートリッジだ。

この「クラフツマンシップの粋」でとりあげられたオーディオ機器は、
ほとんど旧製品 State of the Art 賞として選ばれている。

50号で掲載されているの機種は以下のとおり。カッコ内は執筆者。
●スピーカーシステム
 エレクトロボイス Patrician 600(山中)
 JBL D30085 Hartsfield(柳沢)
 タンノイ Autograph(岡)
 KEF LS5/1A(瀬川)
 シーメンス Eurodyn(長島)
 JBL Olympus S7R(柳沢)
 ローサー(ラウザー) TP1(上杉)
 AR AR-3a(岡)
●スピーカーユニット
 ウェスターン・エレクトリック 594A(山中)
 グッドマン AXIOM 80(瀬川)
 ジェンセン G610B(長島)
●コントロールアンプ
 マランツ Model 7(山中)
 JBL SG520(菅野)
 フェアチャイルド Model 248(岡)
●パワーアンプ
 マランツ Model 9(長島)
 マッキントッシュ MC3500(山中)
 マッキントッシュ MC275(菅野)
 マッキントッシュ MC240(上杉)
 マランツ Model 2(井上)
 QUAD QUAD II(岡)
 ラックス MQ36(井上)
●FMチューナー
 マランツ Model 10B(長島)
●プレーヤーシステム
 EMT 927Dst(瀬川)
●ターンテーブル
 ガラード 301(柳沢)
 トーレンス TD124(岡)
 T.T.O R-12(瀬川)
●カートリッジ
 ノイマン DST(山中)
 デッカ MKI(岡)
●トーンアーム
 SME 3012(瀬川)
 グラド Laboratory Tone-Arm(瀬川)

ほとんどが、名器として個人的にも納得できるモノばかりである。

Date: 12月 11th, 2010
Cate: 名器

名器、その解釈(その1)

「名器」と呼ばれるモノが、どんなジャンルにおいてもある。
もちろんオーディオにも、名器と呼ばれたモノは、いくつもあった。

名器と呼ぶにふさわしいオーディオ機器とは、いったいどういうものなのだろうか。
一流品、高級品と呼ばれるものが、名器とはかぎらない。
名器は一流品ではあっても、必ずしも高級品(高額品)ではない。

あれは名器だ、といったことを口にすることもあるし、耳にすることもある。
納得できるときもあれば、口に出して反論はしないまでも首を傾げたくなるときもある。
私が名器としているモノを、ある人はそうは受けとっていないかもしれないし、また反対のこともある。
そういうモノは、果して名器と呼べるのか。
すくなくとも名器と呼ばれる以上は、私も他の人も、ほとんど多くの人が認めるモノでなくてはならないのだろうか。
そんなモノ、そういう名器は存在してきただろうか。

そして、ずっと名器の名を欲しいままにしてきたモノは、あるのだろうか。

1978年の暮に出たステレオサウンド 49号の特集は”State of the Art” 賞だった。
その2年前の41号で、コンポーネントステレオ 世界の一流品、という特集をやっているのが、
49号の前身ともいえる。

State of the Art は数年後に Component of the year 賞に名称がかわり、
さらにステレオサウンド・グランプリとなり、現在も年末に出る号の特集として定着している。
これらの号で取り扱っているのは現行製品だけだが、49号のすぐあとに出た50号は、
ステレオサウンド創刊50号記念特集として、栄光のコンポーネント 旧製品 State of the Art として、
過去の製品、スピーカーシステムではJBLのハーツフィールド、タンノイのオートグラフ、
エレクトロボイスのパトリシアン600、マランツ、マッキントッシュの管球アンプ、
ガラード301にトーレンスTD124、ノイマンのDSTなどが選ばれている。

この50号に登場するモノは、ステレオサウンドの筆者が選んだ「名器」といえる。

Date: 12月 10th, 2010
Cate: 黒田恭一

バーンスタインのベートーヴェン全集(その9)

カラヤンのベートーヴェンの精妙さは、どこから生れてくるものだろうか。

録音された時期は、ちょうどマルチマイク・マルチトラックの録音手法が十分に消化された時代でもあり、
その前の録音と比べると、真空管を使った録音機材からトランジスターへの転換も経て、
初期のトランジスターを使った機材にあった音の不備(音の固さやノイズの多さ)もほぼ消えたころでもある。

真空管時代の名録音──マイクの数もすくなくことも関係して、暖かく柔らかい響き──に対して、
この時代には、細部に音のピントをあわせていき、やや冷たい肌ざわりながら、
混濁感のない解像力の良さ、周波数レンジ、ダイナミックレンジの広さなど、新しい音の魅力を安定して、
聴き手に届けてくれるようになっていた。

録音の歴史の中で、この時代は、録音(機材をふくめて)の、ひとつの完成度の高さがあった。
新しい録音が完成された、ともいえよう。
そういう時代に、たっぷりの時間をかけて、カラヤンのベートーヴェンは録音されている。
しかもカラヤンは、録音に知悉していた、といわれている。

どちらも同じドイツ・グラモフォンによるカラヤンとバーンスタインのベートーヴェン全集。
このふたつの録音の違い、つまりスタジオ録音とライヴ録音の違いは、枠の有無だと感じる。

バーンスタインのライヴ録音にも、枠はある。
けれど、カラヤンのスタジオ録音の枠とは、性質が違う。

いわゆる「枠」は、録音の限界によってどうしても生じてしまう。
だから録音機材、録音手法が向上にともなって枠が広がり薄れていくことはあっても、なくなることはない。
そういう意味での枠が、バーンスタインのベートーヴェンにある枠だ。

一方カラヤンの録音にある枠は、制作者側が、ではなく、演奏者(つまりカラヤン)がはっきりと意識している。
だから、あの精妙さが生れてきたのだと思う。

Date: 12月 9th, 2010
Cate: 黒田恭一

バーンスタインのベートーヴェン全集(その8)

(その6)に引用したカラヤンの、(その7)に引用したブレーストの発言からわかることは、
同じベートーヴェンを録音しても、カラヤンとバーンスタインの対照的な姿である。

カラヤンのやりかたでは、バーンスタインと同じライヴ録音はとうていできないだろうし、
バーンスタインにカラヤンがやったような緻密なスタジオ録音をやらせたら、
もちろんプロの音楽家としてやりとげるであろうが、ブレーストの発言にあるように、
エキサイティングな要素は失われていたはす。

ブレーストは徹底した完璧主義者のカラヤンだから、ライヴ・レコーディングは望めない、と、
だからバーンスタインは演奏会場(ライヴ)で、カラヤンはスタジオでというのが、
DGGの基本的な姿勢だともつけ加えている。

バーンスタインのベートーヴェンの全集は持っている。
カラヤンの、1975年から’77年にかけて録音されたカラヤンの全集は持っていない。
ずっと以前に、いくつかの曲を聴いた記憶で書けば、
カラヤンのこの時代のベートーヴェンは、精緻なスタジオワークだからこそ可能になった精妙な表現、
バーンスタインのベートーヴェンには、カラヤンの精妙さはないかわりに、熱気が伝わってくる。

カラヤンを静、とすれば、バーンスタインは動、であり、
カラヤンの演奏を楷書とすれば、バーンスタインのは草書、でもある。

音楽通信の取材には、動であり草書であるバーンスタインの演奏が選ばれている。

この取材がおこなわれていたころに録音されていたカラヤンの三度目(最後)のベートーヴェン全集は、
精妙さという言葉では語れない印象を受ける。

Date: 12月 8th, 2010
Cate: 選択

オーディオ機器を選ぶということ(その13)

ユニバーサル(universal)がつく言葉に、ユニバーサルデザイン(universal design)がある。
ユニバーサルデザインの定義については、川崎先生の「デザインのことば」のなかに、こうある。
     *
「誰でもが使いやすいモノやコトのデザイン」という定義が一般化してしまったことは、この言葉の本質を訴求するうえでは、大きな誤用であったと指摘しておきたい。7原則である、公平性・自由性・単純性・省力性・安全性・情報性・空間性は、我が国においては、その内容を大きく変容させる必要がある。まして、「誰もが使えるモノ」などあるわけがなく、高齢者や幼児、障害者すべてに対するデザインが、いわゆるユニバーサルデザインの本質において、デザインの理想主義の確信を強調させた意味を持っているだけである。この意味が重要である。
     *
ここに引用したところだけでなく、ぜひ全文を読んでいただきたい。

川崎先生の「デザインのことば」を念頭において、「ユニバーサルサウンド」について考えてゆく。

Date: 12月 8th, 2010
Cate: 604-8G, ALTEC, ワイドレンジ

同軸型ユニットの選択(その23)

この項の(その18)でふれているが、同軸型ユニットにおいて、
ウーファー用とトゥイーター用のマグネットが独立していた方がいいのか、
それともひとつで兼ねた方がいいのか、どちらが技術的には優れているのか、もうひとつはっきりしない。

タンノイのリビングストンは、ステレオサウンド別冊「世界のオーディオ」のタンノイ号で、
アルテックの604との比較、それにマグネットを兼用していることについて語っている(聞き手は瀬川先生)。
     *
これ(604のこと)に比べてタンノイのデュアル・コンセントリックは全く違います。まず、ホーンでの不連続性はみられません。第二にコーンの前に障害物が全くないということです。第三に、マグネティックシャントが二つの磁束の間にあるということです。結局、タンノイは一つのマグネットで二つのユニットをドライブしているわけですが、アルテックは二つのマグネットで二つのドライバーユニットを操作しているわけで、この差が大きなものになっています。
     *
第三の理由として語られていることについては、正直、もうすこし解説がほしい。
これだけではなんともいえないけれど、
少なくともタンノイとしては、リビングストンとしては、
マグネットを兼用していることをメリットとして考えていることは確実なことだ。

そのタンノイが、同軸型ユニットなのに、
ウーファーとトゥイーターのマグネットを独立させたものも作っている。

そのヒントとなるリビングストンの発言がある。
     *
スピーカーの基本設計の面で大事なことは、使われているエレメントが、それぞれ独立した思想で作られていたのでは、けっしていいスピーカーを作り上げることはできないと思うのです。サスペンションもコーンもマグネットも、すべて一体となって、それぞれがかかわり合って一つのシステムを作り上げるところに、スピーカーの本来の姿があるわけです。例えば、ボイスコイルを研究しているエンジニアが、それだけを取り上げてやっていると、トータルな相関関係が崩れてしまう。ボイスコイルだけの特性を高めても、コーンがそれに十分対応しなかったり、磁束密度の大きいマグネットにしても、それに対応するサスペンションがなかったりするわけで、そこでスピーカーの一体感というものが損なわれてしまう。やはりスピーカーを作る場合には各エレメントがそれぞれお互いに影響し合い、作用し合って一つのものを作り上げているんだ、ということを十分考えに入れながら作る必要があると思います。
     *
「一体」「一体感」「相関関係」──、
これらの言葉が、いうまでもなく重要である。

Date: 12月 7th, 2010
Cate: 現代スピーカー

現代スピーカー考(その22)

瀬川先生の「本」づくりのために、いま手もとに古いステレオサウンドがある。
その中に、スピーカーシステムの比較試聴を行った号もあって、掲載されている測定データを見れば、
あきらかに物理特性は良くなっていることがわかる。

ステレオサウンドでは44、45、46、54号がスピーカーの特集号だが、
このあたりの物理特性と、その前の28、29、36号の掲載されている結果(周波数特性)と比較すると、
誰の目にも、その差はあきからである。

36号から、スピーカーシステムのリアル・インピーダンスがあらたに測定項目に加わっている。
20Hzから20kHzにわたって、各周波数でのインピーダンス特性をグラフで表わしたもので、
36号(1975年)と54号(1980年)とで比較すると、これもはっきりと改善されていることがわかる。

インピーダンス特性の悪いスピーカーだと、
周波数特性以上にうねっているものが1970年半ばごろまでは目立っていた。
低域での山以外は、ほぼ平坦、とすべてのスピーカーシステムがそういうわけでもないが、
うねっているモノの割合はぐんと減っている。
周波数特性同様に、全体的にフラット傾向に向っていることがわかる。

この項の(その21)でのアメリカのスピーカーのベテラン・エンジニアの発言にある数年前は、
やはり10年前とかではなくて、当時(1980年)からみた4、5年前とみていいだろう。

アンプでは増幅素子が真空管からトランジスター、さらにトランジスターもゲルマニウムからシリコンへ、と、
大きな技術的転換があったため、性能が大きく向上しているのに対して、
スピーカーの動作原理においては、真空管からトランジスターへの変化に匹敵するようなことは起っていない。
けれど、スピーカーシステムとしてのトータルの性能は、数年のあいだに確実に進歩している。

Date: 12月 6th, 2010
Cate: 朦朧体

ボンジョルノのこと、ジャーマン・フィジックスのこと(その36)

私がつくろうとしていた349Aのプッシュプルアンプは、伊藤先生が発表されたもので、
回路はウェストレックスのA10とほぼ同じ。
出力段は349Aを五極管接続で使う。UL接続でもなく、三極管接続でもない。
伊藤先生からは、349Aは、五極管接続で使いなさい、といわれたことがある。
しかもNFBは出力段の手前から初段管に返す。
出力段、出力トランスはNFBのループに含まれない。

つまり出力インピーダンスは、そこそこ高い値になる。
いわゆるダンピングファクターは、この値を気にする人にとっては、まったくの論外といえるアンプである。
だから、どんなスピーカーでも鳴らせるものではない。
出力も8Wだし、ダンピングファクターも低い。

PM510がうまく鳴るのか、は結局試さなかったが、うまく鳴ったと思う。
もちろんボリュウムはあまりあげられない。あくまでもひっそりと鳴らす。

けれどPM510にふくよかなよさがあるし、349Aの音の良さからして、
音量をぐんと絞ったときでも、決して音がやせることなく、つつみこむ良さは発揮された、はずだ。
だが、これではカザルスのベートーヴェンを、そのとき私が望んだようには聴けない、という予感もあった。
たった1枚のレコードによって、スピーカーを変える。
もう少し、あときの部屋が広くて、経済的に余裕があればPM510は手放したくなかった。

Date: 12月 6th, 2010
Cate: 朦朧体

ボンジョルノのこと、ジャーマン・フィジックスのこと(その35)

スレッショルドの800Aからすると、349Aのアンプは、トランジスターと真空管、
規模も大きく違うし、出力も違いすぎる。
349Aのアンプには、800A的「凄さ」はない。
それでも、清楚な音ということでは、このふたつのアンプは、少なくとも私の中では共通しているものがあった。

いつかは800A、という気持は残っていた。
もし800Aを手に入れることができたとしても、この349Aのアンプだったら、そのまま手もとに置いておける。
季節や気分によって、800Aと接ぎかえて聴くのも楽しいだろうな、とも思っていた。

そうPM510のために、スタンドをつくろう、とも計画していた。
KEFのLS5/1Aの鉄製のスタンドを参考にして、響きのよい木を使って、ほぼ同じ形にする。
そしてパワーアンプの置き台も、LS5/1Aのスタンドと同じように途中にもうけて、そこに349Aのアンプを置こう。
そんなことをあれこれ考えて、楽しんでいた時期だ。

これらをすべて実現するにはけっこうな時間がかかっていただろう。
けれど、一枚のレコードと出会ってしまい、スピーカーを変えることになる。

カザルスのベートーヴェンの第7番と出会ってなければ、PM510をずっと使い続けていたかもしれない。
このとき、シーメンスのコアキシャルにした。

Date: 12月 6th, 2010
Cate: 朦朧体

ボンジョルノのこと、ジャーマン・フィジックスのこと(その34)

このとき鳴らしていた私のスピーカーシステムは、ロジャースのPM510。
このスピーカーは、はっきりと女性的な表情をもつ。
まだハタチそこそこたった私にとって、PM510のやわらかい、その表情は年上の女性であった。

そういうスピーカーからの音に、「凄さ」を持たせようとして800Aを組み合わせたかった。
けれど前に書いたように、そこまでの余裕はなかった。
別項で書いたウェスターン・エレクトリックの五極管349Aのプッシュプルアンプをつくろう、としていたのは、
ちょうどこのころの話である。

あるところで、350Bのプッシュプルアンプと349Aのそれを聴いた。
堂々として、音にゆとりがたっぷりとあったのはやはり350Bのアンプで、
349Aは真空管のサイズも小さくなるし、出力も減る(プッシュプルで8Wだった)。

けれど、私の当時の耳には、349Aアンプの音の消え際、
そしてデクレッシェンドしていくときの音のグラデーションが、350Bのアンプだけでなく、
それまで聴いたアンプの中でも出色の美しさであった。
349Aのアンプの後では、デクレッシェンドしていくときの音の減り方に、余分なものがまじって、
素直に減っていかない印象が残る。
なぜそんなふうに聴こえるのか。
音が減衰していくときの階調表現が、なにか書の名人がさーっと書いたものに見事にグラデーションがある、
そんな感じで、けっして鳴ってくる音自体に色数は少ないけれど、その音の美しさは聴くほどに耳に残っていく。

349Aのアンプも、350Bのアンプと比較するまでもなく、はっきりと女性的な、しかもこじんまりした音である。

このアンプとPM510と組み合わせたら、世界は限定される方向に行くけれど、
なにかすごく魅力的な音が、しんみりと聴けそうな予感があった。
だから、349Aのアンプをつくろうと決心した。