Date: 12月 29th, 2010
Cate: 選択

オーディオ機器を選ぶということ(その14・補足)

SMEのトーンアームの特徴は、軸受け部のナイフエッジということの、そのひとつとしてあげられる。
この構造上、SMEのトーンアームの調整で重要なのは、ラテラルバランスを必ずとる、ということ。

SMEも、3012-Rになり、このラテラルバランスの機構が調整しやすくなった。
ただ、それでもラテラルバランスがきちんととれているのかどうか、
どうやって判断したらいいのか、と訊かれたことが何度かある。

広く知れ渡っていることだと思っていただけに、ちょっと意外だったが、判断方法は簡単だ。
プレーヤーの片側を持ち上げて傾けて、トーンアームのパイプが流れなければいい。
もちろんカートリッジをとりつけて、ゼロバランスをとってから、であることはいうまでもない。
それからインサイドフォースキャンセラー用のオモリも外しておくこと。
そんなに大きく傾ける必要はない。目見当で10度から15度くらいで十分だ。

こう答えて、さらに訊かれたのは、傾けられないくらい重いプレーヤーだったらどうするんですか、だった。
そのころはまだステレオサウンドにいたし、ステレオサウンドの試聴室のリファレンスのアナログプレーヤーは、
マイクロのSX8000IIにSMEの3012-R Proの組合せ。
その人は、このマイクロは傾けられないだろう、ということだった。
SX8000IIの総重量は正確には憶えていないが、ベースを含めると100kg近かった。
この重量を傾けられる人もいるだろうが、ふつうは、まあ無理だ。
なにもベースごと傾ける必要はないし、ターンテーブル本体部分ですむことだが、
それでも軽いとはいえない重さだし、
トーレンスやリンのようなフローティング型からすると大変なことに変りはない。

でもマイクロはアームベースが取り外せる。
カートリッジをつけてゼロバランスをとって、針圧は印可しない状態で、
アームベースごとはずして、これを傾ければいい。

Date: 12月 29th, 2010
Cate: 選択

オーディオ機器との出逢い(その3)

オーディオ機器との出逢いには、ふたとおりあると思う。

ひとつは、もちろんオーディオ機器と使い手・聴き手との出逢い。
オーディオ機器と人との出逢いだ。

もうひとつは、オーディオ機器とオーディオ機器との出逢いがある、といえないだろうか。
これも、オーディオ機器と人とオーディオ機器との出逢いというべきだろうが、
それでも所有しているオーディオ機器が、
なにか、それと組み合わされるべき相手となるオーディオ機器と出逢う、ということがときとしてある。

モノがモノを呼び寄せる、そのようなものだろうか。

私の場合では、The Goldを手に入れてしばらくして、GASのThaedraを手に入れることができた。
それも初期のThaedraの、ひじょうにコンディションのいいモノだった。

よく世間ではGASのアンプの音は、男性的という表現で語られる。たしかにそういう面を強く持っていた。
でも、それは必ずしもGASのアンプすべて、すべての時期についていえることではないくて、
ごく初期のGASのアンプの音は、そういう男性的な、と語られるところをうまく抑制して、
素直で表情豊かな音を聴かせてくれていた。
というよりも一般に語られているGASの男性的と表現される性格は、
やや意図的に出されてきたものではないかとも、私は思っている。

サイケデリック風のロゴがアンプのパネルに描かれるようになってから、音の印象があきらかに変化している。

だから、初期のThaedraが入手できたことは、うれしかった。
それにThe Goldと組み合わせたときの音、これはいまでも憶えている。

The Goldが、いままで見せてくれなかった、生き生きとした表情で鳴ってくれた。
こういうふうに鳴りたかった──、そんなことが伝わってきそうな感じだった。

The Goldは、というよりもボンジョルノのつくるパワーアンプは、基本的に素直な性格をもつ。
コントロールアンプの違いを、よりはっきりと出す。
相手を選り好みする、というのではなくて、わりとストレートにコントロールアンプの性格を音として出す。

それはパワーアンプとしての性能が高くなってきたThe Goldにおいて、もっとも顕著だった。

オーディオ機器とオーディオ機器との出逢い、それに立ち合えた経験を一回でもお持ちなら、
いま書いたことを理解してくださると信じている。

Date: 12月 29th, 2010
Cate: 書く

改めて、毎日書くということ

ブログは10日以上更新できないままだった。

毎日書いていて、長い時もあれば短い時もある。
けれど長い文章のときが必ずしも、そのために時間を多く必要とするわけでもなく、
短い時の方が、意外に時間を必要としたりする。

ブログを書かなければ時間が、その分浮く。
しかもいまは瀬川先生の「本」づくりの作業の真っ最中。
ブログを書かないだけ、その作業が捗ったかというと、そうじゃない。
むしろ滞っていた。ブログを書かない、書かなくてもいい、書こうとしても書きこめない、ということが、
なにか気合いを抜けさせるところがあって、はやく再開させねば、と思っていた。

なぜ書くのだろうか。

アウグスティヌスの有名なことばに、
私に誰も問わなければ、私は時間とは何かを知っている。
しかし時間とは何かを問われ、説明しようと欲すると、私は時間とは何かを知らない。
──がある。

「時間」をオーディオに置き換えてみる、音に置き換えてみる。
私に、誰かが問うているわけではない。

問いには、ことばで説明していくしかない。

「ことばが思考の着物ではなくて、思考の肉体であるとは、
私たちが思い、考える場合に概念と論理だけによるのではなく、
イメージと想像力にもよるのだ、ということである。」
──中村雄二郎氏のことばである。

Date: 12月 28th, 2010
Cate: よもやま

お知らせ

新規投稿をしようとするエラーが発生するようになり、なにをやっても解決できず、
新規投稿をせずにそのままにしておいたもうひとつのブログ “the Review (in the past)” を今日から再開しました。
公開できないあいだも入力作業はつづけていたので、ストックはけっこうあります。

今月14日に、こちらのブログ、”audio identity (designing)” でもエラーが出るようになり、
原因はわかったものの、こちらもどうやっても解決できずしばらく書込ができない状態が続いてしまいました。

結局、レンタルサーバー会社を変え、ブログを管理しているソフトをMovableTypeからWordPressにして、
25日からやっと再開しています。

ブログになにかトラブルが生じた時は、Twitterに書きこんでいますので、そちらもご覧ください。

“the Review (in the past)” のほうは、MovableTypeでやっていきますが、
レンタルサーバー会社の変更によって、これからは問題なくやっていけそうです。

Mark Levinsonというブランドの特異性(その46・さらに補足)

もともと人間という動物は、最少限度の、自分の考えに共鳴してくれる仲間を求め、集団を作る。それはいわば相手の中に自己の類型を発見する、つまり自己の存在を確認するひとつの手段なので、こうした手段の得られない完全な孤立の状態には耐えることができない。この状態は、もっと複雑な社会の中では、特に、過渡期といわれる時期に目だってあらわれる。物ごとのゆれ動いている過渡期の状態では、人は方向を見失う、すなわち孤立するという怖れにつきまとわれる。それは何か確定したひとつの形式を求める気持、あるいは画一性の必要悪となって現われる。その形式に従っているかぎり自分は方向を見失わないのだ、という安心感。周囲のどこを見回しても、他人が自分と同じ形式に従って行動しているという安定感。つまり類型の発見が、自己の存在を確認するための確かな安心感となってあらわれるので、これは日常のことばづかい、行動、服装の流行などに端的にあらわれている。
いまこれと逆に、周囲の誰もが自分と違った形で行動している、というようなことが起きると、彼はひどく不安になり、孤立感が彼を苦しめる。孤立の怖れの強い人ほどそれを打消したいという意識も当然強く、孤立感の裏がえしの行動としての自己拡大欲、征服意識が強く、それが他人への積極的なはたらきかけ、あるいは命令となってあらわれる。自己と他との間に存在するギャップを埋めようとする意識のあらわれである。つまり〈弱い犬ほどよく吠える〉ということである。
     *
上記の文章は、11月7日に公開した瀬川先生の「本」のなかにもおさめたからお読みになった方もおられるだろう。
ラジオ技術、1961年1月号に掲載された「私のリスニングルーム」のなかで書かれている。
瀬川先生、25歳の時の文章。

Date: 12月 27th, 2010
Cate: 瀬川冬樹

続・思い浮かんできたこと

「音は人なり」が意味するところは、結局のところ、
レコードにおさめられている音楽は、決して不動でも不変でもない、ということ。

同じ1枚のレコードが、聴き手が100人いれば100とおりの鳴り方をする。
1000人いても、10000人いても、ひとつとして同じ音では鳴ることはない。
そこにオーディオが介在しているからだし、再生(演奏)する人がいるからだ。

その意味でも、オーディオは「虚」だと思う。

オーディオは、「虚」の純粋培養を、ときとして行ってくれる。
そのために必要なことはなんだろうか、と考えてゆくことを忘れてはならない。

Mark Levinsonというブランドの特異性(その46・補足)

瀬川先生は趣味をどういうふうに捉えられていたのか。

スイングジャーナルの1972年1月号の座談会のなかで語られている。
     *
人との関係なくして生きられないけれども、しかしまた、同時に常に他人と一緒では生きられない。ここに趣味の世界が位置しているんだ。逃避ではない自分をみつめるための時間。趣味を逃避にするのは一番堕落させる悪い方向だと思う。
     *
こんなことを語られている。
     *
仲間達と聴く。そのときはいい音に聴こえる。しかし、それは趣味そのものではなくて、趣味の周辺だと思うのです。趣味の世界は常に孤独なのです。
     *
1972年の1月号ということは前年の12月に出ているわけだから、この座談会は、亡くなられる10年前になる。
だから、それからさきに、この考えを改められたのか、ずっと変らずだったのか。どちらだったのだろうか。
私のなかでは、答は出ている。

瀬川先生の書かれたものを読んで、ひとりひとりが自分の答を出していくものだろう。

Date: 12月 25th, 2010
Cate: 瀬川冬樹

思い浮かんできたこと

このブログをはじめたころに「再生音は……」と短い文章を書いている。

そこに「生の音(原音)は存在、再生音は現象」と書いた。

じつはこのときは、なかば思いつきで書いた。
だが8月からの瀬川先生の「本」づくりに集中していて、このことが頭にとつぜん浮かんできた。
そして、「現象」だからこそ、それは虚構世界へとつながっていく。

はっきりと言葉として表現されているわけではないが、瀬川先生も、こう捉えられていたのだろうか。

Mark Levinsonというブランドの特異性(その46)

レコードの音は、徹底的に嘘であるところが好きだ。虚構だから好きだ。日常的でないから好きだ。そしてそれを鳴らすメカニズムには、レコードの虚構性、非日常性をさらに助ける雰囲気があるから好きだ。
一人の人間を幸せにする嘘は、人を不幸にする真実よりも尊い。「百の真実にまさるたったひとつの美しい嘘」というのは私の好きな言葉で、これを私は、レコードの演奏やそれを鳴らすメカニズムやそこから出てくる音にあてはめてみる。レコードの音は、ほんらい生とは違う。どこまで行ってもこの事実は変わらない。オーディオの技術がこの先どこまで進んだとしても、そしていまよりもっと生々しい音がスピーカーから出せるようになったとしても、ナマとレコードは別ものというこの事実は変わらない。
だからナマと同じ音など求めるのはバカげている、という考え方がある。どこまでナマに近づけるかという追及などナンセンスじゃないか、という意見がある。一面もっともだが、私は違う。たとえば小説が虚構の中で現実以上の真実をみせてくれるように、映画が虚構の中で実生活以上の現実感を味わわせてくれるように、私は、スピーカーが鳴らす虚構の音にナマ以上の現実感を求める。生の音と同じ、ではない、いわば生以上の生、を求めるのである。虚構の世界のこれは最も重要な機能である。虚構は日常性を断ち切ることによって、虚構にいよいよ徹することによって、真実を語ることができる。(「人世音盤模様」より)
     *
瀬川先生が、なぜLNP2の音に惹かれたのか、が、この文章につながっていっていると思う。
そして、もうひとつのなぜ──ここまで虚構世界に追い求められるのはなぜなのか。
その答はここにあるのではなかろうか。
     *
なぜ、趣味が人を純粋にさせるのか。それは、趣味というものは実生活のあらゆる束縛から解き放たれた虚構の世界のものであるからだ。虚構の世界では、人は完全に自由である。実生活上の利害とも無縁だ。これを買ったらトクかソンかなんていう概念は、趣味の世界にありえないコトバなのだ。外から強制されるものではなく、自らが自らのルールを(虚構の中で)定め、虚構世界の束縛の中に、束縛による緊張の世界に、自発的に参加する。そこに無限の飛躍と喜びがある。これはある意味で子供たちの遊びの世界に似ている。子供たちは遊びの世界で——というより遊びこそが子供たちの全宇宙と言うべきなのだが——、石ころや木の葉をさえすばらしい宝ものに変えてしまう。子供たちは魔法つかいだ。(「続・虚構世界の狩人」より)
     *
私がなぜ、そう感じたのか、その理由については、まだ書きたくないし、書くべきでもないよう気がする。
だからあえて舌足らずのままにしておくことをお許し願いたいが、それでもひとつだけ書いておく。
「子供」──、このことばこそ、ここでは、とても大事な意味を持っているはずだ。

Date: 12月 23rd, 2010
Cate: 組合せ

妄想組合せの楽しみ(その34・余談)

オラクルのプリメインアンプ、Si3000(S3000でもかまわない)は、
ジャーマン・フィジックスのUnicornをぜひ鳴らしてみたい、とも考えていた。
つい過去形で書いてしまったが、いまでもぜひ鳴らしてみたい、とつよく思っている。

それもUnicornIIではなくて、初代のUnicornを、だ。
この組合せを思いついたときも、Si3000をプリメインアンプではなくて、パワーアンプとして使うつもりでいた。
どうしてもUnicornにサブウーファーを足したいから、で、そのためにはコントロールアンプがあったほうがいい。
ならば別にSi3000でなくても、単体のパワーアンプを選べばいいという声もあるだろうが、
Si3000のフォルティシモでも吹き上げてくるような音の豊かさに、
スレッショルドの800Aの清楚な凄みに共通するなにかを感じるし、
そして意外にもクリーミーな印象のある音触は、チタン膜振動板のDDDユニットの肌ざわりに寄りそう予感がある。

それにサブウーファーが使わないにしても、Si3000にはあえてコントロールアンプを、
あれこれぴったり合うモノを見つけたくなる。

Si3000と規模も価格もぐんと身近なものになっているけども、
同じようにプリメインアンプなのに、ついパワーアンプとして捉えたくなるものに、ビクターのAX900がある。

AX900にはフォノイコライザーアンプも搭載されていて、どこから見てもプリメインアンプなのだし、
出力は70W×2と、プリメインアンプとしても最近のなかでは少ないほうだ。
それでもAX900をパワーアンプとして使ってみると、意外におもしろい。

話がそれてしまったが、UnicornもSi3000、どちらも手に入れる前に製造中止になってしまった。
UnicornはII型になって、まだ健在とはいうものの、現実には日本に輸入代理店はなくなってしまった。

それだけの購入力はいまのところない。
でもないながらも、いつか手に入れたいと思っているモノから、
消えてなくなってしまうのは、なんともサビシイ……。

ジャーマン・フィジックスのDDDユニットは、現代のグッドマンAXIOM80といえよう。

Date: 12月 22nd, 2010
Cate: 選択

オーディオ機器を選ぶということ(その16)

SMEの3012の誕生は、オルトフォンのSPU-Gのためであることは、
瀬川先生がなんども書かれていることからもわかるし、
SME純正のヘッドシェルの形状が、オルトフォンのGシェルに似ていることからも推測できる。

つまりオーディオクラフトのAC3000のように、
コンプライアンス、自重、適正針圧、発電方式などがさまざまに異る多種多様なカートリッジを、
一本だけで使いこなすためのトーンアームではなく、
たったひとつのカートリッジを使いこなすためのトーンアームが、3012であり、
SMEのトーンアームは基本的に、その思想を貫いている。

3012のあとに出た3009はシュアーのV15に合わせたものだし、
さらに軽量化を徹底的に進めた3009/SIIIは、
V15よりもさらにハイ・コンプライアンス、軽針圧のカートリッジに適合するように、
チタンのごく細いパイプを使い、ヘッドシェルも一体化(しかも孔あき)、
カートリッジの交換はアームパイプごと行う仕様になっている。

交換のための機構がアームパイプの先端にあるほど実効質量が増すのをなくすために、
軽量化した機構を、アームの軸受け部近くに持ってきているし、後部のウェイトもコンパクトにまとめられている。

3012は優美な美しいトーンアームなのに、3009/SIIIのとなりにあるとたくましさを感じるほど、
30009/SIIIのパイプは細く(軽く)、見た目も華奢だ。
このトーンアームでMC型カートリッジは使えない。
     *
SMEのユニバーサリティとは、一個のカートリッジに対して徹底的に合わせ込んでゆくその多様な可能性の中から一個の「完成」を見出すための、つまり五徳ナイフ的な無能に通じやすい万能ではなく、単能を発見するための万能だといえるのだと思う。(ステレオ 1970年4月号)
     *
いまから40年も前に、瀬川先生が書かれているこのことは、
オーディオにおける「ユニバーサル」の意味を考えてゆくうえで、本質だ。

Date: 12月 21st, 2010
Cate: 選択

オーディオ機器を選ぶということ(その15・余談)

オーディオクラフトの社長は、花村圭晟氏だった。
花村氏とお会いしたことはない。
けれど、どういう経歴の人であったかは、なんどかきいたことがある。

瀬川先生はステレオサウンド 58号に次のように書かれている。
     *
社長の花村圭晟氏は、かつて新進のレコード音楽評論家として「プレイバック」誌等に執筆されていたこともあり、音楽については専門家であると同時に、LP出現当初から、オーディオの研究家として長い経験を積んだ人であることは、案外知られていない。日本のオーディオ界の草分け当時からの数少ないひとりなので、やはりこういうキャリアの永い人の作る製品の《音》は信用していいと思う。
     *
菅野先生も、花村さんは、ぼくらの大先輩だ、とおっしゃっていた。

この花村氏の名前を、なぜか、なんら関係のない人が名乗っていることを、数年前に知った。
花村圭晟から一文字だけ削った、そんなまぎわらしい名前で、
オーディオ、ジャズについて、あれこれ言っている人だ。
本名はまったく違う人だ。

詳細は伏せておくが、そのことでオーディオ関係者が憤慨されていたことも知っている。
そのときの名前の使い方からすると、あえて利用しているとしか、私には思えなかった。

Date: 12月 20th, 2010
Cate: 選択

オーディオ機器を選ぶということ(その15)

SMEの3012-Rとほぼ同じ時期に、オーディオクラフトのAC3000 (4000)シリーズの存在もあった。
AC3000はアームパイプを根元から交換する構造で、
アームパイプは材質、形状にいくつもの種類を用意して(ストレート型が5本、S字パイプが3本)、
ハイ・コンプライアンスのカートリッジからロー・コンプライアンスのモノまで、
ひとつのトーンアームでの対応を目ざした、いわゆるユニバーサルトーンアームとして開発されている。

その前身のAC300のころから、瀬川先生は愛用され、高く評価されていた。
AC300のころはアームパイプの交換はできなかったが、3000になり採用。
このときから、ヤボったさの残っていた外観の細部が変化して、ずっと洗練された見た目になっていった。
おそらくデザイナーとして瀬川先生が手がけられたのだ、と私は思っている。
色、仕上げもAC3000 Silverになり、また良くなった。
使いこなしてみたい、とおもわせる雰囲気をまとってきた。
欲をいえば、もっともっと洗練されていくことを期待していたけれど、
瀬川先生がなくなり、オーディオクラフトから花村社長が去り、この有望なトーンアームも姿を消す。

当時のカタログや広告をみれば、AC3000シリーズには、豊富な、
日本のメーカーらしいこまかなところに目の行き届いた付属アクセサリー(パーツ)が用意されていた。
カートリッジに対してだけでなく、取り付けるプレーヤーシステムのことを考慮して、
アームベースは、フローティングプレーヤー用に軽量のものもあった。
出力ケーブルも、MC型カートリッジ用の低抵抗型、MM型カートリッジ用の低容量型もあった。

これはもう、日本のメーカーだから、というよりも、当時の社長であった花村氏のレコードに対する愛情から、
そしておそらく瀬川先生の意見されてのことから、生れてきたものというべきであろう。

AC3000を使う機会は、残念ながらなかった。
101 Limitedを買っていなければ、AC3000か4000を買っていた、と思う。

状態のいいモノがあれば、ぜひ、いま使ってみたいトーンアームでもある。

Date: 12月 19th, 2010
Cate: 選択

オーディオ機器を選ぶということ(その14)

オーディオ機器の中で、ユニバーサルということばがつくものといえば、トーンアームがまずあげられる。
ユニバーサルトーンアーム、という言い方がある。
その代表としてあげられるのが、SMEの3012である。

たしかに3012は、調整のポイントをしっかり把握した上で使いこなせれば、
かなり融通のきくトーンアームの、数少ないモノである。
私自身も3012-Rを使っていた時期があるし、
ステレオサウンドの試聴室のリファレンス・プレーヤーのマイクロのSX8000IIに3012-R Proだった。
カートリッジの試聴において使用するトーンアームは、私がいたころは、この3012-R Proだけだった。
3012-Rだけで、ハイ・コンプライアンスのカートリッジからオルトフォンのSPUまで、
MM型からMC型まで、じつにさまざまなカートリッジを取り付けては調整し、また交換しては試聴してきた。

だから私にとって、 SMEの3012-Rはもっとも手に馴染んでいるオーディオ機器である。
だからこそ、信頼して使えるオーディオ機器でもあった。

話はすこしそれるが、アナログディスク再生において、もっとも重要なことのひとつに、
この、手に馴染む、ということがあると、私は考えている。
もちろん基本性能の高いことはいうまでもないが、それだけではアナログディスクを再生、というよりも、
演奏するオーディオ機器としては不十分ではないだろうか。

たとえばカメラ。ライカのカメラの評価は素晴らしいものがある。
でもすべてのカメラ好きの人の手に、ライカが馴染むかどうかはどうなのだろうか。
最初にさわったときからすっと手に馴染む人もいるだろうし、
愛着をもってつかいこなしていくうちに、手に馴染んでくる、ということもある。
でも、世の中にひとりとして同じ人がいないのだから、
どうしても、どうやってもライカが手に馴染まない人もいて、ふしぎではない。

そんな感覚が、アナログディスクを演奏するオーディオ機器にはある。
とくにトーンアームこそ、そうである。

アナログディスクの演奏においてこそ、手に馴染む、手に馴染んでくるモノを使うべきである。
それを見極めるのも、アナログディスク演奏には重要なことでもある。

Date: 12月 18th, 2010
Cate: 欲する

何を欲しているのか(その10)

私は、というとそれほど多くのカートリッジを所有していたわけではない。
学生時代、最初に買ったのはエラックのSTS455E、そのあとにオルトフォンのMC20MKII。
このときも、ほとんどMC20MKIIでだけ聴いていた。
STS455Eに付け替えたのは、ほんの数回だったような気がする。

なにもエラックのカートリッジの音が気にくわなかったわけでもないし、
オルトフォンのほうがすべての点でまさっていたわけでもない。
ときどきエラックの、あの艶っぽさの濃厚な音を聴きたくなっても、
どうしても聴きたい、という気持があるところまでつもってくるまでは交換しなかった。
基本的に、カートリッジを頻繁に交換するのは、好まない。
ひとつの気に入ったカートリッジを、きっちりと調整したら、
できるだけそのままにしておきたい、という気持がつよい。

ステレオサウンドで働くようになってからは、わりと早い時期にトーレンスの101Limitedを手に入れたから、
カートリッジはほぼ自動的に、最初はトーレンスのMCH-I、
それからEMTのTSD15、そのファインライン針版のTSD15SFLになっていった。

仕事で、ステレオサウンドの試聴室でさまざまなカートリッジを聴くことができるということも重なって、
自宅ではEMT以外のカートリッジを取り付けることはほとんどなかった。

それでも、いくつかのカートリッジは試している。
オーディオテクニカからEMTのトーンアーム用のヘッドシェルが出ていたから、
それを使っていくつか気になるカートリッジを使ってみた。
それからフィデリティ・リサーチのFR7のEMT用も試したことがある。

でも結局、EMTのカートリッジがあれば、他は要らない、というわけではないけれど、
これひとつでもいいかな、という気持になっていた。

そんな私でも、カートリッジを交換したときの楽しみは知っているし、
ステレオサウンドで働いてなかったら、もう少し、カートリッジの数は増えていたはずだ。

カートリッジは、スピーカーシステムやアンプなどとは違い、買い換えでなくても、
買い足していくことが、当時の価格であれば、わりと気楽にできた。だからこその、カートリッジの楽しみだった。

それがいまのカートリッジの価格では、あれこれ気軽に買い足していくことはかなりしんどい。
それにカートリッジの音のヴァリエーションも、アナログ全盛時代とくらべると狭くなっている。