Date: 12月 28th, 2010
Cate: Mark Levinsonというブランドの特異性, 瀬川冬樹
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Mark Levinsonというブランドの特異性(その46・さらに補足)

もともと人間という動物は、最少限度の、自分の考えに共鳴してくれる仲間を求め、集団を作る。それはいわば相手の中に自己の類型を発見する、つまり自己の存在を確認するひとつの手段なので、こうした手段の得られない完全な孤立の状態には耐えることができない。この状態は、もっと複雑な社会の中では、特に、過渡期といわれる時期に目だってあらわれる。物ごとのゆれ動いている過渡期の状態では、人は方向を見失う、すなわち孤立するという怖れにつきまとわれる。それは何か確定したひとつの形式を求める気持、あるいは画一性の必要悪となって現われる。その形式に従っているかぎり自分は方向を見失わないのだ、という安心感。周囲のどこを見回しても、他人が自分と同じ形式に従って行動しているという安定感。つまり類型の発見が、自己の存在を確認するための確かな安心感となってあらわれるので、これは日常のことばづかい、行動、服装の流行などに端的にあらわれている。
いまこれと逆に、周囲の誰もが自分と違った形で行動している、というようなことが起きると、彼はひどく不安になり、孤立感が彼を苦しめる。孤立の怖れの強い人ほどそれを打消したいという意識も当然強く、孤立感の裏がえしの行動としての自己拡大欲、征服意識が強く、それが他人への積極的なはたらきかけ、あるいは命令となってあらわれる。自己と他との間に存在するギャップを埋めようとする意識のあらわれである。つまり〈弱い犬ほどよく吠える〉ということである。
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上記の文章は、11月7日に公開した瀬川先生の「本」のなかにもおさめたからお読みになった方もおられるだろう。
ラジオ技術、1961年1月号に掲載された「私のリスニングルーム」のなかで書かれている。
瀬川先生、25歳の時の文章。

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