バーンスタインのベートーヴェン全集(その8)
(その6)に引用したカラヤンの、(その7)に引用したブレーストの発言からわかることは、
同じベートーヴェンを録音しても、カラヤンとバーンスタインの対照的な姿である。
カラヤンのやりかたでは、バーンスタインと同じライヴ録音はとうていできないだろうし、
バーンスタインにカラヤンがやったような緻密なスタジオ録音をやらせたら、
もちろんプロの音楽家としてやりとげるであろうが、ブレーストの発言にあるように、
エキサイティングな要素は失われていたはす。
ブレーストは徹底した完璧主義者のカラヤンだから、ライヴ・レコーディングは望めない、と、
だからバーンスタインは演奏会場(ライヴ)で、カラヤンはスタジオでというのが、
DGGの基本的な姿勢だともつけ加えている。
バーンスタインのベートーヴェンの全集は持っている。
カラヤンの、1975年から’77年にかけて録音されたカラヤンの全集は持っていない。
ずっと以前に、いくつかの曲を聴いた記憶で書けば、
カラヤンのこの時代のベートーヴェンは、精緻なスタジオワークだからこそ可能になった精妙な表現、
バーンスタインのベートーヴェンには、カラヤンの精妙さはないかわりに、熱気が伝わってくる。
カラヤンを静、とすれば、バーンスタインは動、であり、
カラヤンの演奏を楷書とすれば、バーンスタインのは草書、でもある。
音楽通信の取材には、動であり草書であるバーンスタインの演奏が選ばれている。
この取材がおこなわれていたころに録音されていたカラヤンの三度目(最後)のベートーヴェン全集は、
精妙さという言葉では語れない印象を受ける。