Date: 4月 22nd, 2012
Cate: 境界線

境界線(余談・続々シュアーV15 TypeIIIのこと)

瀬川先生はいわれた。
つまり、シュアーのV15 TypeIIIはひとつの目安となるカートリッジである、と。

V15 TypeIIIと同クラスのカートリッジを比較して、V15 TypeIIIのほうがうまく鳴ったとしたら、
その装置はまだ調整が足りない、不備があるか、装置自体のグレードアップの必要性がある、と考えていい、
V15 TypeIIIよりも同クラスの他のカートリッジがうまく鳴るのであれば、まずまずうまく鳴っている、
──そういう判断に使えるカートリッジがV15 TypeIIIなんだ、と。

これはあくまでも瀬川先生が好んで聴かれる音楽に対して、ということも忘れてはならないし、
瀬川先生が音に求められているものがどういう性質のものであるのかも理解していなければ、
V15 TypeIIIは、音の良くないカートリッジだと誤解されることにもなろう。

このときのシステムは、スピーカーシステムはJBLの4341、
アンプは少し記憶が曖昧なのだが、マークレビンソンのLNP2とSAEのMark2600だった。
プレーヤーはラックスのPD121にオーディオクラフトのAC300C。

たしかに、このとき聴いたV15 TypeIIIの音は、そういう感じの音だった。
V15 TypeIIIでならではの音は確固としてあるものの、
それが必ずしも、このときのシステムの向っている方向と同じところを向いているとは言い難い、
かといって反対方向を向いているわけではないのだが、どこかしら違うところに向っているという感じがあり、
他のカートリッジの個性が魅力として聴こえるのには反対に、
V15 TypeIIIの音の個性はアクの強さとして感じられたのが、いまも記憶に残っている。

ただし、もう一度ことわっておくが、
これは瀬川先生好みのシステムで、しかも瀬川先生が持参されたレコードを聴いての印象であり、
システムとレコードが大きく傾向が異ってくれば、違う印象になる可能性はある。

だからダメなカートリッジというわけではなくて、
あくまでもV15 TypeIIIは、
瀬川先生がいわれるようにターゲットをうまく絞って音づくりしたがゆえに大成功したカートリッジであるし、
それは、うまいつくりのカートリッジということでもある。

Date: 4月 21st, 2012
Cate: 境界線

境界線(余談・続シュアーV15 TypeIIIのこと)

これらのカートリッジを交換し調整されながら、それぞれのカートリッジについて説明されていた。
このとき、V15 TypeIIIを評価されていないのか、についても話された。

私がステレオサウンドを買いはじめて、3冊目にあたるのが43号。
ベストバイが特集だった(このころは夏の号がベストバイだった)。

43号でV15 TypeIIIをベストバイ・カートリッジとして選ばれていたのは、
井上卓也、上杉佳郎、山中敬三の三氏。
43号で、瀬川先生はほかのシュアーのカートリッジ、M75G TypeII、M44G、SC35C、M24Hは選ばれているのに、
シュアーを代表するV15 TypeIIIは選ばれていない。
43号でシュアーのカートリッジを最も多く選ばれているのは瀬川先生である。

次の年のベストバイの特集号の47号でも、V15 TypeIIIにもTypeiVにも票は入れられていない。
決してシュアーが嫌い、といった理由でないことは、43号を見ればわかる。
なのに、なぜ……と思っていたとき(47号とほぼ同じ時期の開催だった)だけに、
V15 TypeIIIの音と、瀬川先生がなんと言われるかは、楽しみだった。

V15 TypeIIIはベストセラー・カートリッジである。
それは日本国内だけでなく、アメリカでも高い評価を得ていた、はずのカートリッジに対して、
瀬川先生はあえて沈黙されていたようにも思えていた。

その理由は、シュアーのカートリッジづくりのうまさにある、ということだった。
シュアーは自社のカートリッジのトラッキング能力の高さをアピールするために、
トラッカビリティという造語を広めることに成功していた。

そのトラッカビリティという言葉のうまさだけでなく、
シュアーは市場を調査した上で製品を作っている、とも話された。
そういうシュアーらしさがもっともうまく成功したのがV15 TypeIIIということだった。

つまりシュアーは世の中のオーディオの水準を調査し把握した上で、
その平均的な音、装置においてうまく鳴るようにV15 TypeIIIを仕上げている、
だからシュアーがV15 TypeIIIのターゲットしている層では、V15 TypeIIIよりも優れたカートリッジよりも、
V15 TypeIIIのほうがうまく鳴ってくれて、V15 TypeIIIの方がいい、ということになる。

けれど、その水準をこえた音、装置では、むしろV15 TypeIIIの音の個性が、癖として気になってきて、
今度はカートリッジの評価が逆転してしまう、ということだった。

Date: 4月 21st, 2012
Cate: 境界線

境界線(余談・シュアーV15 TypeIIIのこと)

今日Twitterを見ていたら、カートリッジのことが話題になっていて、
シュアーのV15のことも話題になっていた。

私がオーディオに関心をもったのは1976年だから、V15はすでにTypeIIIになっていた。
当時の価格は34500円。
このころはエンパイアの4000D/III(58000円)、テクニクスの100C(60000円)、
ピカリングのXUV/4500Q(53000円)、AKGのP8ES(42000円)などがあって、
V15 TypeIIIは価格的には高級カートリッジというよりも、中級クラスのカートリッジという感じを受けていた。

V15の最初のモデルは1964年、TypeIIは1967年、TypeIIIが1973年、TypeIVが1978年、TypeVが1982年で、
1983年にTypeVは針先の形状変更でTypeV MRとなっているし、
1996年にTypeV MRは、V15 TypeV xMRと改称され復活している。息の長いシリーズであるが、
この中で、やはりもっとも知られているのはTypeIIIではなかろうか。

実際にどれだけ売れたのか、その数を知っているわけではないけれど、
V15の中で数が出ているのもTypeIIIがいちばん多いと思う。
1970年代に熱心にオーディオに取り組まれている人なら、
シュアーのV15 TypeIIIは常用カートリッジにされていたかは別として、
カートリッジ・コレクションに加えられていた方は多いはず。

そんなV15 TypeIIIなのに、私は欲しいと思ったことは一度もなく、
結局シュアーのカートリッジを自分で使ったことも一度もない。

V15 TypeIIIを聴いたのは、
瀬川先生が熊本のオーディオ販売店で定期的に行われていたオーディオ・ティーチインで、であった。
その時はカートリッジがテーマであり、V15 TypeIIIの他に、エンパイアの4000D/III、
ピカリングのXUV/4500Q、EMTのXSD15、オルトフォンMC20MKII、テクニクス100C、グラドのシグネチャーII、
エラックSTS455E、デンオンDL103とDL103Dなどを持ってこられていた。

Date: 4月 20th, 2012
Cate: Glenn Gould

グレン・グールド著作集(その1)

今年は2012年、グレン・グールド没後30年だから、ふたたび読みはじめたわけでもないけれど、
今日、ひさしぶりに(ほんとうにひさしぶりに)にグレン・グールド著作集を本棚からとり出した。

グレン・グールド著作集の翻訳本がみすず書房から出たのは1990年、I集、II集ともすぐに買って読んだ。
二冊あわせたボリュウムはけっこうなもので、一度読んだだけだった。
なので、二冊の著作集に書かれてあることがどの程度しっかり頭にはいっているかというと、いささか心もとない。
いつかは、じっくり読もう、と思いながら、
グールドの書いたものを読むのはけっこうなエネルギーを必要とするから、ついついそのままにしていた。

それが、今日、ふと目に留まり手を伸ばした。
すくなくとも一度は読んだ本だから、気になるところだけを読むということもできるわけだが、
22年ぶりの二度目だから、ほとんどはじめて読むに近いといえるところもあるから、
これはもう最初から読み進めていくしかない。

ティム・ペイジによるまえきががあり、
グールドによる文章(内容)は、
 プロローグ
 第一部 音楽
 第二部 パフォーマンス
 間奏曲
 第三部 メディア
 第四部 そのほかのこと
 コーダ
からなっていて、プロローグは、1964年11月にトロント大学王立音楽院の卒業生への祝辞である。

1964年だから、1932年生れのグールドは32歳。
ここで話している内容は──グールドが残した録音で我々は彼がどれだけすごい人かを知っているわけだが──
やはり驚く。

いくつか引用しておきたい。
     *
諸君がすでに学ばれたことやこれから学ばれることのあらゆる要素は、ネガティヴの存在、ありはしないもの、ありはしないように見えるものと関わり合っているから存在可能なのであり、諸君はそのことをもっと意識しつづけなければならないのです。人間についてもっとも感動的なこと、おそらくそれだけが人間の愚かさや野蛮さを免罪するものなのですが、それは存在しないものという概念を発明したことです。
     *
プロローグから、いきなり考え込まされる……。

Date: 4月 19th, 2012
Cate: 境界線

境界線(その10)

私はコントロールアンプを、オーディオの系の中点として考えているわけだが、
CDプレーヤーが登場し、そのライン出力がチューナーやカセットデッキよりも高かったため、
コントロールアンプを省いて、フェーダーに置き換えることが流行とまではいかなかったものの、注目された。

ゼネラル通商が当時輸入していたP&Gのフェーダーを使った製品が、その走りで、
つづいてカウンターポイントからも(こちらはロータリー型アッテネーターを使用)出た。
現在もいくつかの製品が出ている。

増幅度を持たないフェーダー、
つまり電源を必要としない受動素子(ボリュウム)のみで構成されている、このフェーダーは、
コントロールアンプの位置にくるものであるが、
だからそのままコントロールアンプと同じようにオーディオの系の中点としてみることができるのだろうか。

フェーダーを使った場合、
CDプレーヤー、フェーダー、パワーアンプ、スピーカーシステムとなるわけだが、
受動素子のフェーダーは、オーディオの系全体を眺めたとき、アンプの類ではないし、CDプレーヤーの類でもない。
こういう区分けをすれば、フェーダーはケーブルと同じ類といえる。

となるとCDプレーヤーとパワーアンプのあいだには、ケーブル、フェーダー、ケーブルが存在するわけだが、
このケーブル+フェーダー+ケーブルは、
実のところ減衰量をもつ(自由に可変できる)ケーブルとして考えられるし、
そうなるとコントロールアンプとフェーダーは、オーディオの系において同じ位置において使われるものの、
存在自体の役割は異り、当然コントロールアンプの領域とフェーダーの領域は同じではなくなる。
そうなるとフェーダーは、オーディオの系の中点とは呼べない、と私は考えている。

Date: 4月 18th, 2012
Cate: モノ

モノと「モノ」(その12)

いまはどうなのかわからないが、一時期、レコードのことを缶詰音楽といっていた人たちがいた。
もちろん、この缶詰音楽は蔑称であり、
この表現を使う人たちの多くはコンサートを、音楽鑑賞における最上のもの、絶対的なものとして、
レコードで聴く音楽(つまりオーディオを介して聴く音楽)は、
どこまでいっても代用でしかない、という意味が込められていた。

そんな使われ方をされてきた「缶詰音楽」だが、
この「缶詰音楽」という形態がほんとうに実現できれば、素晴らしいモノだと思う。

実のところ、缶詰音楽がよく使われていたころ(つまりLPの時代)にしても、
それがCDになっても、「缶詰音楽」とはいえないほど、複雑な仕組みの再生機器を必要とする。

缶詰は、缶の中に食べ物が詰められていて密閉されたものを指す。
つまり缶切りがあれば(最近では、その缶切りすら不要になっている)、
蓋さえ開ければ、その缶に詰められている食べ物はすぐに食べることが出来る。

さすがに手づかみで食べるわけにはいかないから、スプーンなり、フォークなり、箸を使うものの、
基本的には缶詰の中の食べ物を食べるためには、なんら道具を必要としない。
道具を使わないということは、そこでなんらかの処理を行う必要もない、ということである。

その点、缶詰音楽といわれても、実際にはLPにしてもCDにしても、
たとえばLPやCDを耳にあてれば、音楽を聴こえてくるわけではないし、
レコードが缶詰の形態をしていて、蓋を開ければ音楽が素晴らしい音で鳴り響くわけでもない。

LPならばレコードプレーヤーのうえにのせ、カートリッジを音溝に降ろして、アンプのボリュウムをあげる。
すくなくともこれだけの操作は必要で、レコードの溝がスピーカーから音として出てくるまでには、
実にさまざまな変換や処理がオーディオ機器のシステムの中でなされている。

しかも、そうやって出てくる音は同じではない。
缶詰は誰が蓋を開けようと、基本的には同じ味がする。
なのに缶詰音楽とよばれるレコードは、そうではない。

そうなるとLPもCDも缶詰音楽とは呼びにくくなるし、
LPやCDは「音楽の器」なのか、という疑問もわいてくる。

Date: 4月 17th, 2012
Cate: the Reviewの入力

the Review (in the past)を入力していて……(写真のこと)

もうひとつのブログ、the Review (in the past)で、
今日黒田先生がテクニクスのSB007について書かれた文章を公開した。

こんなことを書かれている。
     *
マニア訪問とか、あるいはオーディオ装置のある部屋とかいったページが、オーディオ雑誌等には、かならずといっていいほどある。そして、いわゆる名器といわれるアンプやプレーヤーがみがきあげられて棚に並んでいる写真がのっている。しかもごていねいに、カラーであることさえすくなくない。ぼくもこれまでに、そういう写真を何度か、とられたことがある。恥しかった。それに、なんとなく、無駄をことをしているように思えてしかたがなかった。その写真をうつす人の腕が、いかにすぐれていても、この部屋でなっている音はうつせないのだから、うつされていて、申しわけなかった。
その雑誌の編集者だって、本当は、音そのものをうつしたかったのだろうが、それができないので、やむをえず、再生装置というものとか、それをつかっている人間といういきものをうつさざるをえなかったのだろう。音はみえないので、あくまでもやむをえずの処置だったにちがいない。
     *
誌面からは音は出てこない、とはつい最近も書いたばかりである。
文章であっても写真であっても、そこから音は鳴ってこない。
鳴ってこないこと、つまり音は写せないことが当り前になりすぎていたことを、
今日黒田先生の文章を読んでいて気がついた。

写したいのは、目に見えない音であること。
その人が使っているオーディオ機器ではない。
音が写せないから、部屋の雰囲気だったりオーディオ機器だったり、
ときにはそのリスニングルームの主があまり人に見られたくないようなところまで写真におさめたりする。

カット数を多くして、あれこれ撮った(撮ってもらった)ところで、その写真からは音は鳴ってこない。
写真から音が鳴ってくれれば、それこそ1カットだけで、いい。

「音そのものをうつしたかった」けれど、それが不可能だから……、という気持を、あの頃は忘れていた。
だから、今日、黒田先生の文章を入力していて、どきっ、とさせられた。

Date: 4月 17th, 2012
Cate: 井上卓也

井上卓也氏のこと(その35)

アンプやCDプレーヤーなどの天板の振動をうまく抑えたいときがある。
そういうときにアセテートテープをつかったり、
ときにはアナログプレーヤー用のスタビライザーを乗せたりすることもあるわけだが、
あれこれ試してみて、
いちばんいい方法はアセテートテープを貼ることでもなくスタビライザーを乗せることでもなく、
自分の手を乗せることだった。

このことも井上先生に言ったことがある。
「手がいちばんいいですよね」と。「うん、そうなんだよ」という返事だった。

あくまでもこれは試聴だから使う方法であり、
自分の部屋で聴くときに常にアンプ、CDプレーヤーの天板の上に手を乗せてたりはしない。
だいたい聴取位置から手の届くところにアンプやCDプレーヤーは置いていないから無理なのだが。

ステレオサウンドでの試聴は椅子の前にヤマハのラックGTR1Bが4つあり、
そこにアンプやCDプレーヤーを置くわけだから、手を伸ばせばすぐに天板に手は届く。

自分の手だから振動を指先や手のひらから感じとれるし、耳では音を聴いている。
それに天板との接触面積もかなり大幅に変えられるし、
同じ面積でもぐっと力を加えれば重量を増すのと同じことになる。

しかも手の内部には骨がある。
いわば硬い芯があるわけで、このことも、
ただ硬いものを置いたり柔らかいものでダンプしたり、とは違う意味をもつ。

実際、井上先生は試聴中に天板の上に手を置かれていたし、
その置き方も置く位置も音の変化に応じて変えられていた。

そして井上先生はアンプの試聴の時、必ずボリュウムだけでなく、あらゆるツマミの感触を確かめられていた。

Date: 4月 16th, 2012
Cate: ワイドレンジ

ワイドレンジ考(続々ウェストミンスターとグールドのブラームス)

ウェストミンスターを6畳で鳴らす人はいないだろう。私だってそんなことはしない。
では、どのくらいの部屋の広さがあればいいのか。
私が働いていたころのステレオサウンドの試聴室は約20畳ほどの広さだった。

私がウェストミンスターに求めるホールの大きさであれば20畳あればいける。
ぎりぎり15畳でも──部屋の形にもよるけれど──いける気もする。

ウェストミンスターを置くにしてはすこし狭い感じのするくらいの部屋で、
ウェストミンスターの濃厚な(というよりも濃密な)響きを身近に感じながらブラームスを聴きたいと思う。

グールドの「間奏曲集」を聴くのであれば、よけいにそうだ。

グールドが「間奏曲集」を録音したのは1960年。
コンサートをドロップアウトしたのは1964年だから、「間奏曲集」のころはまだコンサートを行っていたわけだが、
だからといって、グールドの「間奏曲集」を大ホールで聴くような鳴らし方をしてしまうのは、
間違っている、とまではいわないけれど、そういう聴き方をする演奏ではない。
ウェストミンスターの大きさがまったく気にならないほど広い部屋で、
ウェストミンスターからの距離も十分にとって、という聴き方を、私はとらない。

アンプだって、最新のパワーアンプもいいけれど、
グールドの「間奏曲集」だけにかぎっていえば、真空管アンプの良質なものを組み合わせたい、と思う。
しかもウェストミンスター同様、濃密な響きをもつモノをもってきたい。
そういうアンプが市販されている製品の中にあるのかは、
すべてのアンプを聴いているわけではないからなんともいけないけれど、
心情的にはウェスターン・エレクトリックの300Bのシングルアンプを、
ウェストミンスターのためにつくることになるかもしれない。
(300Bのシングルアンプといっても人によってイメージする音は大きく違っている。
私がいう300Bシングルアンプの音は、伊藤先生の300Bシングルアンプの音である。)

ウェストミンスターは能率は高い。
しかも広くない部屋で聴くわけだし、グールドの「間奏曲集」を鳴らすのだから何の不足はない。
不足を感じる聴き方にこそ疑問をもつべきかもしれない。

Date: 4月 16th, 2012
Cate: ワイドレンジ

ワイドレンジ考(続ウェストミンスターとグールドのブラームス)

菅野先生は、タンノイウェストミンスターの音を評して
「ウェストミンスター・ホールで音楽を聴く」という表現を使われている。

そのとおりだ、と思う。
ウェストミンスターというスピーカーシステムで音楽を聴くことは、
聴く音楽がなんであろうと、ウェストミンスター・ホールという、特有の響きをもつホールで聴く印象が強い。
スピーカーシステムには、どんなモノであろうとそれ固有の音、響きをもっているものだから、
どれひとつとして同じ音のするモノは存在しないし、ステレオ再生で聴き手の前にひろがる音場も同じではない。
だから、すべてのスピーカーシステムにもそういう傾向はある、といえるものの、
ウェストミンスターのその傾向は、ひときわ濃い。

他のスピーカーシステムでは、その固有の音、響きがホールをイメージさせるほどのものではない。
だから、型番のあとにホールをつけたくなるようなスピーカーシステムは、
現行のモノではウェストミンスターだけ、といえるし、過去のモノでもそう多くは存在しない。

ホールというと、どうしても大きな空間をイメージする。
現行のウェストミンスター・ロイヤル/SEの寸法は980(W)×1395(H)×560(D)mm、
内容積は530リットルと発表されている。
そうとうに大型の堂々としたサイズだから、
ウェストミンスター・ホール・イコール・大ホールとイメージされる方は少なくないと思う。
けれど、私の印象では決して大ホールではない。
中ホール、もしくは鳴らし方や組み合わせるアンプなどによっては、小ホールとイメージする。
サイズは小さいけれど、響きは濃密でステージとの距離もそれほど遠くない。
眼前で鳴る、というほど近くはないけれど、遠くない、というよりも近い、ともいえよう。

もちろんウェストミンスターを、たとえば40畳とかそれ以上の部屋に設置して鳴らすのであれば、
ホールの大きさに対するイメージは変ってくるにしても、それにしても大ホールという感じはしない。
そこがウェストミンスターというスピーカーシステムの、このラッパならではの良さだと思っている。

ウェストミンスターは大きなスピーカーシステムではあっても、
意外にも親密な音楽の接し方の出来るラッパであり、
だからこそウェストミンスターに関してはオートグラフほど部屋の広さを要求しないようにも感じている。

Date: 4月 15th, 2012
Cate: ワイドレンジ
1 msg

ワイドレンジ考(ウェストミンスターとグールドのブラームス)

グレン・グールドが残した録音で、好きだけど滅多に聴かないようにしているのがブラームスの2枚。
「間奏曲集」と「4つのバラード、2つのラプソディ」の2枚である。

グールドのブラームスは、グールドによって弾かれたほかの作曲家、
バッハでもモーツァルト、ベートーヴェン、シェーンベルク……、
とにかくブラームス以外の作曲家の演奏とは、なにか違うものを感じている。
間奏曲集を最初に聴いたときから、そう感じていて、
グールドの没後に発売になった「4つのバラード、2つのラプソディ」を耳にしたときにも、同じものを感じた。

グールドのブラームスは、グールドの他の作曲家の演奏よりも、なまなましい感じ、印象がある。
なまなましいを生々しい、と表記すると、
私がグールドのブラームスに感じているなまなましい感じとは微妙に違ってくるようにも感じるので、
ひらがなで、なまなましい、としたい。

そのなまなましい感じのためか、グールドのブラームスを聴いていると、
聴いているこちらが頬が紅潮してくる。ひとりなのに赤面してしまう。
だからグールドのブラームスは、絶対にひとりで聴く。
どこか、グールドのなまなましい独白をきいているような気になるからだろうか。

私にとって、そういうなまなましい感じのグールドのブラームスから、
なまなましい感じ、印象を削ぎ落としてしまう音がある、と思う。
グールドのブラームスは、試聴用ディスクとして使ったことがないから、
そんなスピーカーシステムが存在するというのは想像でしかないのだが、間違いなく存在している、といえる。
どれがそんなスピーカーシステムなのか、どのスピーカーシステムのことを思い浮べているのか、
それについては書かない(意外に少なくない、と思っているのも理由のひとつ)。

グールドのブラームスを聴いてみたい数少ないスピーカーシステムのひとつが、タンノイのウェストミンスターだ。
ウェストミンスターでは、「4つのバラード、2つのラプソディ」よりも「間奏曲集」を聴きたい。

とはいえグールドのブラームスは、ひとり聴くものだと決めている。
つまりウェストミンスターでグールドのブラームスを聴くには、
ウェストミンスターを自分のモノとしなければならないわけだから、聴く機会がないのは仕方のないこと。

それでも、こういうふうに鳴ってくれるだろうな、と想像しているだけでも楽しいし、
タンノイのウェストミンスターは、私にとってそういう存在である。

Date: 4月 15th, 2012
Cate: audio wednesday, 岩崎千明

第16回audio sharing例会のお知らせ(再掲)

次回のaudio sharing例会は、5月2日(水曜日)です。

テーマは、3月の例会に予定していた「岩崎千明氏について語る」です。
いまfacebookで、岩崎先生のページ「オーディオ彷徨」を公開しています。
そちらに3月の例会の告知をしたところ、
岩崎先生の娘さんの岩崎綾さんからのコメントがあって、
5月の例会に来てくださることになりました。息子さんも来られる予定です。

時間はこれまでと同じ、夜7時からです。
場所もいつものとおり四谷三丁目の喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

喫茶茶会記の店主福地さんが、茶会記・店主日記の4月10日のところもお読みください。

Date: 4月 14th, 2012
Cate: 岩崎千明

「オーディオ彷徨」(熟読ということについて)

辞書には、熟読とは、内容をじっくり味わいながら読むこと、内容を深く読み取る、といったことが書かれている。
熟読がこのとおりであれば、一回だけ読んでも、
きっちりと書かれている内容を読み取ることが出来れば熟読したことになる。
何度読んでも、そのためには時間もより多く必要になるわけで、
だからといって内容を読み取れなければ熟読とはいわない。

ようするに本を読むための時間と熟読のあいだには深い関係はない、とつい最近まで思っていた。
早く読んでも熟読できる人もいれば、そうでない人もいるのだから。

けれど、熟読には、もうひとつ意味があるように感じはじめていて、
そうなると熟読には、やはり時間が、それもかなりながい時間が必須だ、と思うようになってきた。

岩崎先生の「オーディオ彷徨」に収められているものにエレクトロボイス・パトリシアンIVを、
アメリカ建国200年の1976年に導入された文章がある。
この文章のタイトルがじつにいい。
そして、熟読とはこういうことであると、
パトリシアンIVのついて書かれた文章のタイトルは語っている、と私は勝手にそう受け取っている。

「時の流れの中でゆっくり発酵させつづけた」

数は少ないけれど、私にははっきりと「時の流れの中でゆっくりと発酵させつづけた」本がある。
これらの本に関してのみ、やっと熟読した、といえよう。

Date: 4月 13th, 2012
Cate: 菅野沖彦

菅野沖彦氏のスピーカーについて(その8)

現在日本に輸入されているマッキントッシュのスピーカーシステムは、
XRT2K、XRT1K、XR200の3機種で、菅野先生が愛用されているXRT20とはずいぶん違った形になってしまった。

XRT20と型番上は同じXRTシリーズということになるのだろうが、XRT20と現在のXRT2K、1Kの共通点は、
トゥイーターの使用個数が近い、ということぐらいだと私は思う。
そのトゥイーターもXRT20はソフトドームを採用していた。
初期のXRT20はフィリップス製のソフトドーム型だったが、
事情により比較的早い時期からフィリップス製ではなくなっている(と聞いている)。

現在のXRT2K、1Kに使われているトゥイーターはチタン・ダイアフラムのハードドーム型である。

マッキントッシュのXRTシリーズを、
単にトゥイーターを多数使用したスピーカーシステムぐらいにしか捉えられない人にとっては、
ソフトドーム型だろうとハードドーム型だろうと、大きな違いはない、と考えるだろう。
けれど、ゴードン・ガウが、あえてソフトドーム型トゥイーターを24個使うことで実現したものは、
いったいなんだったのかを考えてみると、ハードドームかソフトドームかの違いは、
XRTシリーズの特徴的なトゥイーター・コラムの変えてしまう、とさえ思っている。

同じドーム型振動板をもつトゥイーターでも、
振動板が金属を使った硬い振動板のハードドーム型と樹脂系や布などの柔らかい素材のソフトドームでは、
振動板の動き・挙動はまったく同じとはいえない。
コーン型ユニットでも紙の振動板もあれば金属の振動板のユニットがあるけれど、
コーン型における振動板の素材の違いによる動作・挙動の違いは、
ドーム型における動作・挙動の違いに比べれば小さい、と考えられるのは、ユニットそのものの構造からくる。

Date: 4月 12th, 2012
Cate: モノ

モノと「モノ」(その11)

オーディオでは、アンプ、スピーカーシステムといったオーディオ機器はハードウェアであり、
LP、CD、ミュージックテープなどはソフトウェアである。

ハードウェアの価格は、その製品の開発費、製造コスト、流通コストがかかっているものは価格も高い。
ごくまれには、これでこの価格? と疑いたくなるような値がつけられている商品もあるにはあるが、
総じて価格と、その製品のコストは比例関係にある、といえる。

ところがソフトウェアとなると、
有名な音楽家によるものも新人の演奏家によるものも、値段は同じである。
さらにオーケストラを録音したものも、ピアニストのソロ演奏のものも、
録音にかかわっている演奏家の人数には大きな開きがあっても、レコードの値段は同じである。

レコードというソフトウェアの値段は、そういうものだと思っていた。
音楽の内容と値段は直接の関係はないもの、と。

この価格設定の違いが、ハードウェアとソフトウェアのもっとも大きな違いなのだ、とも思っていた。
けれど、1991年からMacを使うようになると、
パソコンの世界においては、ソフトウェアの価格がレコードの価格のように、
すべて同じではないことを最初から(なぜだか)当り前のように受けとめていた。

当時はまだCD-ROMはほとんど普及していなかったし、インターネットという単語も聞くことはなかった。
ソフトウェアは、だから3.5インチのフロッピーディスクでの供給だった。
つまりソフトウェアの容量の大きなものはフロッピーディスクの枚数が増えていく。
当時、Photshopのヴァージョン2か2.5だったと思うが、
フロッピーディスク10数枚を何度も入れ替えしながらインストールしていった。

レコードでも組物は当然価格は増す。
ワーグナーの「指環」は、だから他の1枚で収まる音楽にくらべると価格は高い。
とはいうものの、例えば10枚の組物でも、
1枚のレコードの10倍の価格ではなく、もう少し安い価格がつけられている。

パソコンのアプリケーションはフロッピーディスク1枚で供給されるものでも、価格はかなり違っていた。
フロッピーディスク10数枚のアプリケーションは、
フロッピーディスク1枚のアプリケーションの10倍の価格になる、とは、だからならない。