Date: 8月 2nd, 2012
Cate: イコライザー

私的イコライザー考(妄想篇・その1)

テクニクスが1983年ごろに1/3オクターヴのグラフィックイコライザーSH8065と、
その上級機のSH8075を、それぞれ79800円、100000円で発表した時には、
オーディオ界のちょっとしたニュースになるくらいの、衝撃的な価格設定だった。

それまで1/3オクターヴのグラフィックイコライザーといえばプロ用機器の世界のものであり、
価格も試してみたいから、ちょっと手を出すには充分高価なものだった。

その1/3オクターヴのグラフィックイコライザーを、100000円で出してくれた、と言いたくなる。
もっともいまではもっと安い1/3オクターヴのグラフィックイコライザーがいくつか存在している状況であるから、
10万円のグラフィックイコライザーの登場の衝撃は、
この時を知らない世代にとっては実感として理解しにくいことかもしれない。

SH8075が登場してしばらくたったころに、ばかげたことを考えていた。
あまりにも馬鹿げていたので、当時だれにも話したことはない。
本人もすっかり忘れていた。
それを、別のことを考えていた時に思い出した。

どんなばかげたことかというと、
グラフィックイコライザーの出力を1/3オクターヴで出力するというものだ。
SH8065は16Hzから25kHzまでを33分割している。
だからSH8065のフロントパネルには片チャンネルあたり33個のスライドボリュウムが並ぶ。
この33分割の中心周波数は16Hz、20Hz、25Hz、31.5Hz、40Hz、50Hz、63Hz、80Hz、100Hz、125Hz、
160Hz、200Hz、250Hz、315Hz、400Hz、500Hz、630Hz、800Hz、1kHz、1.25kHz、1.6kHz、2kHz、
2.5kHz、3.15kHz、4kHz、5kHz、6.3kHz、8kHz、10kHz、12.5kHz、16kHz、20kHz、25kHzとなっている。

これらの周波数を中心周波数とする1/3オクターヴの信号を出力する。
つまり片チャンネルあたり33個のライン出力がリアパネルに並ぶことになる。
パワーアンプもその数分用意する。
ということは、もちろんスピーカーユニットも片チャンネルあたり33個並べる、
という妄想をしていたのが、いまから約30年前の私だった。

Date: 8月 2nd, 2012
Cate: the Reviewの入力

the Review (in the past)を入力していて……(続×十一・作業しながら思っていること)

L07C、L07Mは型番にL07がついているにもかかわらず、
発売時期がやや早かったためなのか、アナログプレーヤーのL07Dがケンウッド・ブランドであるのに、
トリオ・ブランドだった。
セパレートアンプのケンウッド・ブランドになるのはL08C、L08Mから、
というより正確にいえば、その後ケンウッド・ブランドのセパレートアンプは登場していないと記憶している。

プリメインアンプに関してはL01A、L02Aときて、
L02Aでやりたいことを実現したためなのか、次に登場したL03Aの印象は、前の2機種と比較すると薄い。
しばらくケンウッド・ブランドにふさわしい内容をもつアンプは、
セパレートアンプにしてもプリメインアンプにしても登場していなかった(はず)。
L03Aから約10年後L-A1を発表している。

ケンウッド・ブランドにおいても、トリオはセパレートアンプよりもプリメインアンプに積極的であった。

他の国内メーカーをみても、トリオのようにプリメインアンプのほうに積極的なメーカーは、そうはない。
テクニクスにしてもパイオニアにしても、プリメインアンプにもセパレートアンプにも積極的だったし、
ヤマハもラックスも、やはりどちらにも積極的であった。

国内メーカーでトリオと同じくらいプリメインアンプに積極的であったのは、サンスイぐらいではなかろうか。
サンスイもセパレートアンプはいくつか出している。
トリオと比較するとその数は多い。
多いけれども、他の国内メーカーと比較した時には、プリメインアンプの方に積極的であったように、
私にとってそう見えるのは、
私がオーディオをやりはじた時期にAU607、AU707、AU-D907が登場したことが重なっているせいもあろうが、
607クラスの普及機から、
AU-X1からはじまったX11、X111、X1111とつづくプリメインアンプの限界に挑むかのようなところまで、
サンスイのラインナップはきっちりとうまっていたことのほうが、やはり大きい。

だからサンスイの全製品の中から、いまでも手に入れたと、ふと思ってしまうのも、
プリメインアンプとなってしまう。
トリオではKA7300Dを選んだように、ここではAU-D607である。
そのあとのD607Fでもないし、D607F Extra、D607X、α607でもなく、
二番目に古いAU-D607が、いい。

Date: 8月 1st, 2012
Cate: High Fidelity

ハイ・フィデリティ再考(続×三十・原音→げんおん→減音)

ハイ・フィデリティ(High-Fidelity)は高忠実度ということで、
ハイ・フィデリティ再生とは、原音に高忠実度再生ということになり、
その原音の定義こそ難しく、あれこれ考えさせられるのだが、
ここでは録音されたものに対しての高忠実度ということにしてみよう。

そうなるとアナログディスクにしろCDにしろ、
なんらかのパッケージメディアを購入してわれわれは家庭で音楽を聴いている。
ここ数年、インターネットでの配信も盛んになってきている。
これから先もっと普及してくるのは間違いないだろう。

これらを介して音楽を再生するということは、
録音されたそのものを再生しているわけではない。
マスターテープに収録された音がそのまま聴き手のところに届くようには、
まだなっていないし、はたしてそれが理想的なことなのかについては、また考えなくてはならないことでもある。

だからこそ、よりよい音を求めてLPならば初期盤、オリジナル盤と呼ばれるものをものを、
CDではリマスター盤が、いくつも登場してそれらを,求める行為にもなっていく。

そうやって、その時点で最上と認められるモノを手に入れたとしても、
マスターテープの音がそこから再生可能なわけではない。
だから、ここでの高忠実度再生は、話を整理するためにも、話を進めていくためにも、
家庭で聴けるフォーマットしてのプログラムソース、
つまりLP、CD、配信ソースとして届けられる録音モノへの高忠実度再生が、
現状のハイ・フィデリティ再生ということになっている、と私は認識している。

とした場合の高忠実度再生とは、もう少し具体的にいうとどういうことなのか。
おそらく、一般的にはLP、CD、配信ソースに含まれている「情報量」(あえて、こう表現する)を、
あますところなく正確に音とすることになろう。

LP、CD、配信ソースに含まれている音は、ひとつとして欠けることなく、
すべて音としてなっていなくてはならない。
しかもそれらの音が録音側が意図したところで意図したように鳴る。
だから、基本的には再生側では色づけや情報量の欠損は認められない、と。
それがより高いレベルにあるのが、文字通りのハイ・フィデリティ再生──、なのだろうか。

そうだとしたら、減音などという考えは、
ハイ・フィデリティ再生とは対極の音楽の聴き方ということに思われるだろうが、
「忠実」という意味を、そして「忠」という漢字の意味を考えれば、
決してそうではないといえるし、さらにどちらが「忠実」なのか、ということになっていく。

Date: 7月 31st, 2012
Cate: D130, JBL

D130とアンプのこと(その22)

電圧伝送・電圧駆動という、いわばひとつの決りごとがある。
この決りごとのおかげがあるからこそ、といえる面があれば、
この決りごとがあるために、といえる面も、少ないとはいえ、やはりある。

電圧伝送・電圧駆動という決りごとがあるからこそ、
これだけのオーディオ機器のヴァリエーションと数がある。
これまでにいったいどれだけのオーディオ機器が世の中に登場したのか、
その数を正確に把握している人はおそらくいないだろう。
そのくらい多くの機種が登場している。

それだけのオーディオ機器が世に登場したことによるヴァリエーションの豊富さがある一方で、
技術的なアプローチとしてのヴァリエーションということになると、
果して電圧伝送・電圧駆動が圧倒的主流で良いのだろうか、と思うわけだ。

特に思うのはスピーカーと、その駆動に関して、である。

世の中のスピーカーは、
電圧伝送・電圧駆動が主流なのと同じくらいにピストニックモーションによるものが主流である。
ホーン型、コーン型、ドーム型、リボン型、コンデンサー型……、
その動作方式にヴァリエーションはあっても、
目指しているのはより正確なピストニックモーションの実現である。

けれど1920年代からドイツでは非ピストニックモーションといえる方式のスピーカーが生まれている。
ベンディングウェーヴと呼ばれるスピーカーである。
ベンディングウェーヴ方式のスピーカーは、ずっと、そしていまでも少数である。

スピーカーに関しては、
ホーン型とかコーン型とか、その動作方式で分類する前に、
まずピストニックモーションかベンディングウェーヴかに分類できる。

そしてスピーカーの駆動についても、
真空管アンプかトランジスターアンプかという分類もあり、
回路や出力段の動作方式によって分類する前に、
定電圧駆動か定電流駆動かに分類できる。

つまりスピーカーとアンプの組合せでみれば、
現在圧倒的主流であるピストニックモーションのスピーカーを定電圧駆動があり、
ベンディングウェーヴのスピーカーを定電圧駆動、
ピストニックモーションのスピーカーを定電流駆動、
ベンディングウェーヴのスピーカーを定電流駆動、
──この4つのマトリクスがある。

Date: 7月 30th, 2012
Cate: 五味康祐

続・長生きする才能(その3・また別の映画のこと)

あるテーマの映画を、これまで公開されてきたすべてを観てきたわけではないけれど、
DVDでの鑑賞を含めると、意外と見ているジャンルのなかに、いわゆるゾンビものがある。

アメリカのドラマ「ウォーキング・デッド」も視ている。

だからゾンビものの映画が好きといわれれば、そうなるのかもしれない。
でも、好きという感情を特に意識したこともなく、それでもわりとみているという事実を、
この項を書いていて、ふと思い出していた。

なかば強引なこじつけということにもなろうが、
ゾンビも、自殺できない人(すでに人ではないわけだが)ということになる。

ゾンビの設定としては、ゾンビに噛まれたり、ゾンビの血液によって感染する。
感染してある一定の時間が過ぎれば、人は死ぬ。そして肉体のみが復活してゾンビとなる。
いちどゾンビになってしまうと、生前の人としての記憶はなくなっており、
ただひたすら食糧を求めてさまよい歩く。

感染したことがわかった上で頭をぶち抜いて自殺、
もしくは誰かに殺されればをすればゾンビになることはない。
けれど自殺できぬまま、誰かに自らの死を依頼することができぬまま死に、ゾンビと化す。

ゾンビとなってしまうと、頭を破壊されない限り、ゾンビのままである。
死ねない(生きてもいない)、人の姿をした者となってしまう。

ゾンビはゾンビを襲わない設定になっている。
ゾンビが襲うのは生きた人間であり、食糧とするためである。
ゾンビとなっても動き回るにはなんらかのエネルギー源が必要であり、
そのための本能だけはいちど死んでしまっても残っている、というべきなのか、
新たにゾンビとしての本能が発生したのかは、はっきりしない。

そういうゾンビだから、ほとんどの映画では醜きものである。
おぞましい存在としてスクリーンに登場する。

あんなゾンビにはなりたくない、と誰しもが思うように描かれている。
にも関わらず、感染したとわかっていても自殺を選択しない人も登場するのは、
そこにはキリスト教が底流にあるからだろう。
自殺が禁じられていれば、ゾンビとなっていくしかない。

自殺のできない男が登場する五味先生の「喪神」。
ゾンビというジャンルの映画が描く「喪神」の世界。

人としての生命活動がとまりゾンビと化すまでわずかな間は、
ほんとうに「死」なのか、とも思ってしまう。
喪神の世界に死はあるのか、と。

Date: 7月 30th, 2012
Cate: D130, JBL

D130とアンプのこと(余談・D123とアンプのこと)

JBLのフルレンジユニットの歴史をふりかえってみると、
最初に登場したD101、
そしてJBLの代名詞ともいえるD130、その12インチ・ヴァージョンのD131、8インチ口径のD208があり、
ここまでがランシングの手によるモノである。
これらに続いて登場したのがD123(12インチ)だ。

D123はD130(D131)とは、見た目からして明らかに異る。
まずコーン紙の頂角からして違う。そしてD130やD131にはないコルゲーションがはいっている。
JBLのスピーカーユニットで最初にコルゲーションを採用したユニットが、D123だ。
しかも岩崎先生によると、D123にはもともと塗布剤が使われていた、とのこと。

さらに裏を見ると、フレームの形状がまったく異る。
ラジカル・ニューデザインと呼ばれているフレームである。

同じ12インチ口径でもD131が4インチのボイスコイル径なのに対し、D123は3インチ。
磁気回路もD130、D131の磁束密度が12000に対し、D123は10400ガウスと、こちらもやや低い値になっている。

同じ12インチのD131と比較するとはっきりするのは、D123の設計における、ほどほど感である。
決して強力無比な磁気回路を使うわけでもないし、ボイスコイル径もほどほど。
フレームにしてもスマートといえばスマートだが、物量投入型とはいえない。
なにか突出した技術的アピールがあるユニットではない。

井上先生はD123はいいユニットだ、といわれていたのを思い出す。

このD123はランシングによるモノではない。
では、誰かといえば、ロカンシーによるユニットで、間違いないはずだ。

ロカンシーがいつからJBLで開発に携わっていたのかははっきりしないようだが、
1952年のLE175DLHはロカンシーの仕事だとされている。
ということは1955年登場のD123もロカンシーの仕事のはず。

となるとD123とJBLのプリメインアンプのSA600を組み合わせてみたくなる。
D123が登場したころは真空管アンプの時代だったし、D123とSA600のあいだには約10年がある。

けれど、どちらもロカンシーの開発し生み出したモノである。
ただこれだけの理由で、D123をSA600で鳴らしてみたい、と思っている。
エンクロージュアはC38 Baronがいい。

Date: 7月 29th, 2012
Cate: D130, JBL

D130とアンプのこと(その21)

電流に注目したところでは、ご存知の方は少ないようだが、
オーディオデバイスのMC型カートリッジ用のヘッドアンプHA1000はI/V変換方式を採ったものである。
I/V(電流・電圧変換)アンプとは、反転アンプの入力抵抗を省いた構成で、
MC型カートリッジのヘッドアンプとして使用する場合には、
カートリッジのインピーダンスがそのままアンプの入力インピーダンスとなり、
このことはヘッドアンプのゲインが接続するカートリッジのインピーダンスによって変化することでもある。

反転アンプのゲインは帰還抵抗を入力抵抗で割ったのだから、
ハイインピーダンスのカートリッジの場合、ゲインはローインピーダンス接続時よりも下る。

海外メーカーではクレルがコントロールアンプとパワーアンプ間の伝送方式、
CAST伝送も電流伝送である。

このCAST伝送をみてもわかるように電流伝送、電流駆動を採用するには、
単独では無理で必ず組み合わせる機器が指定される(専用となる)。

ヤマハのHA2は専用ヘッドシェルとの組合せだし、
ビクター、テクニクスの試作品のスピーカーシステムは、
パワーアンプとスピーカーでトータルのシステムとして設計・開発されている。
クレルのアンプも他社製のアンプと組み合わせるときには通常の電圧伝送しかない。

電流をパラメータとしたほうがいいのか、電圧をパラメータとしたほうがいいのか。
ここには考え方がいくつかあるだろうし、安易に電流をパラメータとすべきとは言い難いところがある。

つきつめていけば電流をパラメータとすべきなのかもしれない、とは考えている。
けれどもしすべてのオーディオ機器が電流伝送を採用し、スピーカーを電流駆動していたとしたら、
オーディオはここまで発展しなかったはず、とは確実にいえる。

電圧伝送、電圧駆動を採用したことにより、
コントロールアンプとパワーアンプの組合せは自由に選択できるし、
コントロールアンプへも、CDプレーヤー、テープデッキ、チューナーなど、
これらの機器を細かいことを気にせずに接続することができている。

スピーカーとパワーアンプの組合せにしても、そうだ。
極端なローインピーダンスのスピーカーを負荷としないかぎり、
スピーカーとパワーアンプの組合せは自由である。

かなり入力インピーダンスの低いパワーアンプが過去を含めてわずかとはいえ存在していたから、
そういうアンプと管球式のコントロールアンプを接続する際には注意が必要となるくらいで、
コンシューマー用機器を使う場合には、
送り出しのインピーダンスが接続される機器の入力インピーダンスよりも十分に低い値となっているので、
原則として、組合せと自由に行える。

この組合せの自由さ、つまりコンポーネントの面白さがあったからこそ、
オーディオはここまで発展してきたといえるわけだから、
電圧伝送・電圧駆動ではダメであるとは、私としてはいいたくない。

Date: 7月 28th, 2012
Cate: 純度

オーディオマニアとしての「純度」(わがまま、でいること)

オーディオマニアとしてわがままでいることを
つまりやりたいことを思い切りやること、やれることだとすれば、
そのためにはやりたくないことも思い切りやらなければならない必要も生じてくる。

オーディオはさまざまなことが要求される。
もっとも現実的な問題としてお金が、かなりの額、必要となってくる。
そのためには、それだけ稼がなければならない。
仕事が、必ずしも、やりたくないことではないにしても、無一文では始まらない。

仕事は、オーディオとは直接関わりのないことだけれども、
オーディオと直接関係のあることでも、やりたくないことを思い切りやることが求められることがある。

オーディオを教えてくれる学校なんてものはない。
だからオーディオマニアは、原則として独学である。
仲間からアイディアやノウハウをもらうことはときにはあっても、独学であることにはかわりはない。

しかもオーディオが要求するものは深く広い。
人には得手と不得手がある。
オーディオマニアにも、オーディオにおける得手と不得手があるはず。

独学では、つい楽なほうに流れてしまいがちになる。
不得手なことは、勉強したくない。
オーディオを仕事としているわけでもないし、趣味として楽しんでいるのだから、
なにも好き好んで不得手を克服することもなかろう──、そういおうと思えばいってしまえる。

それを、オーディオにおけるわがまま、とは私は考えていない。
わがままは、オーディオにおいてやりたいことを思い切りやること、だと考えている。
だから、得手なことだけではなく不得手なことについても独学で克服する必要がある。

わがままの純度を高めていくということは、そういうことでもあると思う。

Date: 7月 27th, 2012
Cate: 純度

オーディオマニアとしての「純度」(わがまま、ということ)

結局オーディオマニアはわがまま、なんだと思う。
そのわがままを、どれだけ貫き通せるか、だと思う。

オーディオをながくやっている人は、わがままを貫き通している人でもあるし、
家族の方の理解・温情が得られているからでもある。

わがままは、オーディオマニアとしての純度なのかもしれない。
だから、音は人なり、ということになっていくのだろう。

だから、これからも(くたばるまで)、わがままを貫き通す、といいたいのではない。

ステレオサウンド 55号が頭に浮ぶ。
55号はベストバイの特集号であったけれど、
それよりもなによりも、55号の「ザ・スーパーマニア」は五味先生だった。
故・五味康祐氏を偲ぶ、とあった。

55号では、巻末の編集後記、
原田勲氏の編集後記に、こうある。
     *
オーディオの〝美〟について多くの愛好家に示唆を与えつづけられた先生が、最後にお聴きになったレコードは、ケンプの弾くベートーヴェンの一一一番だった。その何日かまえに、病室でレコードを聴きたいのだが、なにか小型の装置がないだろうか? という先生のご注文でテクニクスのSL10とSA−C01(レシーバー)をお届けした。
先生は、それをAKGのヘッドフォンで聴かれ、〝ほう、テクニクスもこんなものを作れるようになったんかいな〟とほほ笑まれた。一一一番のほかには二組のレコードが自宅から届けられていた。バッハの《マタイ受難曲》だ。本誌31号に〝自分のお通夜に掛けてほしい〟と先生ご自身が書かれた、ヨッフム盤とクレンペラー盤だった。
     *
五味先生が、どれだけわがままだったのかは、五味先生が書かれたものを読んでいればわかる。
五味由玞子さんによる「父とオーディオ」
(同じタイトルでステレオサウンド 58号と新潮文庫「オーディオ遍歴」に書かれている)、
「父と音楽」(読売新聞社「いい音いい音楽」)からも伝わってくる。

だからこそ、とおもう。
そうおもいながら、ステレオサウンド 55号の原田勲氏の編集後記を読むと、おもうことがある。

原田勲氏の「五味先生を偲んで」(藝術新潮1980年5月号)によると、
テクニクスのプレーヤーとレシーバーを届けられた日の2、3日後には、
「先生はふたたびヘッドホーンをつけられることもなく、病状は悪いほうに無かっていった」とある。

病室での、わずか数枚のレコード──、
ベートーヴェンの作品111とバッハのマタイ受難曲を、
テクニクスの、小型のプレーヤーとレシーバー、AKGのヘッドフォンで聴かれていたとき、
オーディオマニアとしてのわがままは、どこにもなかったのでは、とおもう。

わがままはどこかへ消えてしまうのか、わがままから離れることができるのか、
それとも解脱といっていいのか……、まだ私にはわからない。

純度を高めていったわがままは、もうわがままではないのか。
そのとき聴こえてくる音楽から、なにを聴きとるのだろうか。

そのときの音を、音楽を、私は聴くことができるだろうか。

Date: 7月 26th, 2012
Cate: the Reviewの入力

the Review (in the past)を入力していて……(続×十・作業しながら思っていること)

KA7300とKA7500だけでなく、この時代のトリオのプリメインアンプは、
それぞれに個性がはっきりしていた、と思う。
だからこそKA7500を強く支持する人が少なくとはいえ、いた。

それにくらべるとトリオのセパレートアンプの印象は、正直薄い(あくまでも私にとって、ではあるが)。
私にとってのトリオのセパレートアンプといえば、
瀬川先生が、そのパネルデザインを酷評されたコントロールアンプL07C以降から、である。
パワーアンプはL07M、L05Mからだ。

L07シリーズはセパレート型という形態のメリットを活かして、
コントロールアンプの出力インピーダンスを当時としてはかなり低い値を実現して、
パワーアンプはモノーラル型にすることで、
コントロールアンプ・パワーアンプ間の接続ケーブルを従来よりも延ばし、
パワーアンプをスピーカーシステムの近くに設置することでスピーカーケーブルを極力短くする。
このことを推奨していた。

おそらくトリオの考えとしては、
ラインケーブルよりもスピーカーケーブルによる音への影響が大きいと判断していたように思える。
とくにケーブルの長さが音に与える影響についてのトリオの技術陣の考えた答なのだろう。
だからこそ形態的にスピーカーのすぐ近くに設置できないプリメインアンプのためにも、
そして、できるだけ短くしても残るスピーカーケーブルの影響をさらに少なくするための答が、Σドライブがある。

L07Cが登場した時期は、各社から比較的ローコストのセパレートアンプが登場しはじめた時期でもある。
セパレートアンプがブームになっていた。

だから国内メーカー各社から登場したセパレートアンプの中には、
そのブームに乗るためにプリメインアンプを形態的に分離しただけの、
セパレートアンプとしての存在意義を感じさせない製品が少なからずあらわれていた。

そんななか、L07Cは10万円とけっして高価なアンプではないものの、
セパレートアンプという形態をとることのメリットを感じさせてくれるアンプであることは間違いなかったし、
L07Cはデザインについてつねに否定的であった瀬川先生だが、音に関しては高い評価をされていた。

Date: 7月 25th, 2012
Cate: audio wednesday

第19回audio sharing例会のお知らせ

次回のaudio sharing例会は、8月1日(水曜日)です。

時間はこれまでと同じ、夜7時からです。
場所もいつものとおり四谷三丁目の喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

Date: 7月 25th, 2012
Cate: High Fidelity

ハイ・フィデリティ再考(続×二十九・原音→げんおん→減音)

完璧な録音・再生の系が実現してしまったとき、どうするのか、
オーディオマニアとして、その完璧な系をどう向い合うのかについての答は、すでにあった。

だから答は、すぐに浮んできた。
ただし、これは私にとっての答であり、
必ずしも、すべてのオーディオマニアにとっての答になりうるものではないのかもしれない。

だいたい生きているうちに、そんな時代はやってこない可能性のほうが圧倒的に高いのだから、
そんなことに頭を使って答を出すことそのものが無駄なこと、と思われる人がいても不思議ではない。

けれど、こういう極端な例を考えて、そこにひとつの答を出していくことは、
オーディオとは何か? について考えてゆく、ひとつの手法だと私は考えている。

だから、答を出していく。

もっとも、このことに関しては、答を出した、というのは必ずしも正確ではない。
思い出した、というのが、より正確な言い回しである。

ようするに、私が出した答は、すでにオーディオをやり始めたときに読んでいたものだった。
何度もくり返し読んできた、五味先生の「五味オーディオ教室」に書かれてあったことが、
答として私の裡にすぐさま浮んできた。

この項でもすでに引用しているし、別項でも何度か引用している、
マッキントッシュのパワーアンプMC275とMC3500についてふれられている文章で、
しつこいと思われようが、ここにはまた引用しておく。
     *
 ところで、何年かまえ、そのマッキントッシュから、片チャンネルの出力三五〇ワットという、ばけ物みたいな真空管式メインアンプ〝MC三五〇〇〟が発売された。重さ六十キロ(ステレオにして百二十キロ——優に私の体重の二倍ある)、値段が邦貨で当時百五十六万円、アンプが加熱するため放熱用の小さな扇風機がついているが、周波数特性はなんと一ヘルツ(十ヘルツではない)から七万ヘルツまでプラス〇、マイナス三dB。三五〇ワットの出力時で、二十から二万ヘルツまでマイナス〇・五dB。SN比が、マイナス九五dBである。わが家で耳を聾する大きさで鳴らしても、VUメーターはピクリともしなかった。まず家庭で聴く限り、測定器なみの無歪のアンプといっていいように思う。
 すすめる人があって、これを私は聴いてみたのである。SN比がマイナス九五dB、七万ヘルツまで高音がのびるなら、悪いわけがないとシロウト考えで期待するのは当然だろう。当時、百五十万円の失費は私にはたいへんな負担だったが、よい音で鳴るなら仕方がない。
 さて、期待して私は聴いた。聴いているうち、腹が立ってきた。でかいアンプで鳴らせば音がよくなるだろうと欲張った自分の助平根性にである。
 理論的には、出力の大きいアンプを小出力で駆動するほど、音に無理がなく、歪も少ないことは私だって知っている。だが、音というのは、理屈通りに鳴ってくれないこともまた、私は知っていたはずなのである。ちょうどマスター・テープのハイやロウをいじらずカッティングしたほうが、音がのびのび鳴ると思い込んだ欲張り方と、同じあやまちを私はしていることに気がついた。
 MC三五〇〇は、たしかに、たっぷりと鳴る。音のすみずみまで容赦なく音を響かせている、そんな感じである。絵で言えば、簇生する花の、花弁の一つひとつを、くっきり描いている。もとのMC二七五は、必要な一つ二つは輪郭を鮮明に描くが、簇生する花は、簇生の美しさを出すためにぼかしてある、そんな具合だ。
     *
こういうことだと私は思った。
結局のところ家庭で音楽を聴くという行為は、
完璧なものが目の前に登場してきたとき、オーディオマニアとして私がやることは、
MC3500的花の描き方(つまり音の描写)ではなくMC275的花の描き方(音の描写)だということであり、
ここにこそ”fidelity”のオーディオにおける意味が問われることになる。

Date: 7月 25th, 2012
Cate: High Fidelity

ハイ・フィデリティ再考(続×二十八・原音→げんおん→減音)

オーディオの理想が現実となるとき、
いまわれわれが接しているオーディオというシステムとは、まったく異るシステムになっている可能性もある。

スピーカーは、そういう変化の中で、もっとも大きく変化をとげる、というよりも、
発音原理そのものから変ってしまうのかもしれない。

そういえばステレオサウンド 50号には、
長島先生が小説仕立てで「2016年オーディオの旅」という記事を書かれている。
50号が出たのは1979年3月。そのころは2016年はずっとずっと先のことだと思って読んでいた。

まだCDは登場していなかったけれど、各社からデジタルディスクの試作機は登場していて、
50号にも岡先生が記事を書かれている。
「2016年オーディオの旅」でもプログラムソースは、
すでにテープもディスクも存在せずに固体メモリーになっている、という予測をされている。

長島先生のスピーカーの予測は、個人的には面白く興味深いものだった。
空気を磁化する方法が発見され、スピーカーから振動板がなくなっている。
音響変換効率90%で、50mWの入力で100dB以上の音圧が得られる、というもの。

あのころ、夢物語として読んでいた、この記事の2016年まで、あと4年にまで近づいている。
おそらく4年後も、スピーカーから振動板がなくなっていることは、まずない、と予測できる。
スピーカーの能率も低いままだろう。

でも、いつの日か(私が生きているうちなのかどうかはなんともいえないけれど)、
きっと、長島先生が夢見られ予測された日がきっと訪れることだろう。

そこまで到達できれば、「索漠とした味気ない世界」なのかもしれない、オーディオの理想へと、
そうとうに近づくことだろう。
そして、さらに進歩することで、ほんとうに完璧なオーディオが登場することだろう。

この長島先生の記事を読んでいたからこそ、
ステレオサウンド 52号の瀬川先生の特集の巻頭言を読んだ際に、よけいに考えてしまったわけである。

Date: 7月 24th, 2012
Cate: ユニバーサルウーファー

スーパーウーファーについて(続×五・低音再生とは)

20Hzの低音は1秒間に20回の振幅をくりかえす、
20kHzの高音は1秒間に20000回の振幅をくりかえす。

つまり20Hzに対して20kHzは1000倍の振幅回数であり、その1波長に必要な時間は1/20000秒であり、
20Hzの1波長に必要な時間は1/20秒である、ということだ。

つまり波長が長いということは、
その1波長がスピーカーから出てくるまでにそれだけの時間がかかるということでもある。
20Hzの低音の1波長がスピーカーから放射される時間(1/20秒)あれば、
20kHzの音は、じつに1000波長放射できる。

つまり低音は高音に比べて、遅い。
もちろん音速は、どんな周波数においても同じであるのはいうまでもない。
だからこそ、低音は高音よりも遅い、ということになるわけだ。

20Hzと20kHzの比較は、それほどプログラムソースに含まれているわけでもないし、
20kHzの音といえば、楽器の基音ではなく、倍音、それも高次倍音やノイズてあったりする。
20Hzの基音も、実際にはそう多くはないだろう。

だから下は40Hz、上は基音の最高音域として、4kHzぐらいまでとしても、
40Hzは1/40秒、4kHzでは1/4000秒、それぞれ1波長が放射されるまでに必要とする時間である。
20Hzと20kHzの比較の1/10になったとはいえ、
低音が成り立つ時間がどのくらい必要か、ということでいえば、低音が遅いことには変りはない。

ただこれはあくまでもサインウェーヴの話であって、
実際の音楽の信号がスピーカーに加わり振動板が動き空気の振動へと変換されるときは、
実際にどうなのかは、正直、いまところうまく説明できない。

それでもオーケストラにおいて低音楽器の扱いは、
ほんのわずか、このタイムラグをうまく合わせるために早めに演奏するように指示できるのが一流の指揮者であり、
一流のオーケストラである、ということは昔からいわれている。

またマイルス・デイヴィスも、同じことを語っている、とジャズ好きの知人からきいたことがある。

あとピアノがある。
フェルトハンマーがミュージックワイヤーと呼ばれる鋼線(弦)を叩くことで音を発するわけだが、
低音域と高音域とでは弦の長さは異る。低音域は長い。しかも質量を増すために銅線を巻きつけてある。
この長くて重い低音域の弦と、短くて軽い高音域の弦が同時にハンマーで叩かれたとして、
それぞれの弦の振動の振幅が最大になる(つまり最大音量になる)のにかかる時間は、
低音域の弦のほうが、それはわずかであっても長い。

やはり、低音は遅い、といえよう。
そして、低音が音楽のベースになる。

Date: 7月 23rd, 2012
Cate: High Fidelity

ハイ・フィデリティ再考(続×二十七・原音→げんおん→減音)

減音なんていう言葉をつくって、そのことについてまだ書いている。
この減音ということばを思いついたのは今年になってからだが、
この減音ということを考えるきっかけとなったことはなんだろう、とふりかえってみると、
それはひとつではなくいくつかのことが思い出されてくる。

そのひとつは、瀬川先生がステレオサウンド 52号の特集の巻頭言の最後のほうに書かれていることに関係している。
     *
しかしアンプそのものに、そんなに多彩な音色の違いがあってよいのだろうか、という疑問が一方で提出される。前にも書いたように、理想のアンプとは、増幅する電線、のような、つまり入力信号に何もつけ加えず、また欠落もさせず、そのまま正直に増幅するアンプこそ、アンプのあるべき姿、ということになる。けれど、もしもその理想が100%実現されれば、もはやメーカー別の、また機種ごとの、音のニュアンスのちがないなど一切なくなってしまう。アンプメーカーが何社もある必然性は失われて、デザインと出力の大小と機能の多少というわずかのヴァリエイションだけで、さしづめ国営公社の1号、2号、3号……とでもいったアンプでよいことになる。──などと考えてゆくと、これはいかに索漠とした味気ない世界であることか。
     *
ステレオサウンド 52号はアンプの特集号だから、アンプの理想像(それも極端な)について書かれているわけだが、
これがオーディオの再生系そのものだとしたら、どうなるだろうか、
と読み終ってしばらくしてのちに考えたことがある。

アンプだけではない、カートリッジもターンテーブルも、それにスピーカーも、さらにはケーブルにいたるまで、
完璧なものが世に登場したとする。
もちろん、再生系がそうなる前に、完璧な録音がなされて、その完璧なまま家庭に届けられる、という前提だ。

つまり録音の現場で鳴っていたものすべてを、家庭でそのままに再現できるようになった、とする。
部屋による再生音への影響もすべて取り除ける技術が開発されて、
同じプログラムソースであれば、どんな部屋でもまったく同じに再生される時代が来た──。

そうなってしまったら、それはオーディオの、果して理想が実現した、ということなのか、と考えたわけだ。

それは、瀬川先生がすでにステレオサウンド 52号に書かれているように、
「索漠とした味気ない世界」でもあるように思えてしまう。

オーディオの録音系も再生系も、いまとはまったく違う形態に行き着き、
音楽の聴き手は何の苦労もすることなく、いまの時代では想像できないほどのクォリティで音楽が鳴ってくる。

オーディオそのものに関心のない人にとって、それは素晴らしい、まさに理想のオーディオということになる。
けれど、いま、われわれが取り組んでいる趣味(ときにはその領域からも逸脱している)オーディオにとって、
そういう時代の到来は、やはり「索漠とした味気ない世界」でしかないのではなかろうか。

もし私が生きているあいだ、そういう時代になってしまったら、
オーディオマニアをやめるのか、それともオーディオマニアとして何をするのだろうか……、
いまから30年以上前に、そう考えたことが、いまここで長々と書き続けている「減音」につながっている。