Date: 7月 30th, 2012
Cate: 五味康祐
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続・長生きする才能(その3・また別の映画のこと)

あるテーマの映画を、これまで公開されてきたすべてを観てきたわけではないけれど、
DVDでの鑑賞を含めると、意外と見ているジャンルのなかに、いわゆるゾンビものがある。

アメリカのドラマ「ウォーキング・デッド」も視ている。

だからゾンビものの映画が好きといわれれば、そうなるのかもしれない。
でも、好きという感情を特に意識したこともなく、それでもわりとみているという事実を、
この項を書いていて、ふと思い出していた。

なかば強引なこじつけということにもなろうが、
ゾンビも、自殺できない人(すでに人ではないわけだが)ということになる。

ゾンビの設定としては、ゾンビに噛まれたり、ゾンビの血液によって感染する。
感染してある一定の時間が過ぎれば、人は死ぬ。そして肉体のみが復活してゾンビとなる。
いちどゾンビになってしまうと、生前の人としての記憶はなくなっており、
ただひたすら食糧を求めてさまよい歩く。

感染したことがわかった上で頭をぶち抜いて自殺、
もしくは誰かに殺されればをすればゾンビになることはない。
けれど自殺できぬまま、誰かに自らの死を依頼することができぬまま死に、ゾンビと化す。

ゾンビとなってしまうと、頭を破壊されない限り、ゾンビのままである。
死ねない(生きてもいない)、人の姿をした者となってしまう。

ゾンビはゾンビを襲わない設定になっている。
ゾンビが襲うのは生きた人間であり、食糧とするためである。
ゾンビとなっても動き回るにはなんらかのエネルギー源が必要であり、
そのための本能だけはいちど死んでしまっても残っている、というべきなのか、
新たにゾンビとしての本能が発生したのかは、はっきりしない。

そういうゾンビだから、ほとんどの映画では醜きものである。
おぞましい存在としてスクリーンに登場する。

あんなゾンビにはなりたくない、と誰しもが思うように描かれている。
にも関わらず、感染したとわかっていても自殺を選択しない人も登場するのは、
そこにはキリスト教が底流にあるからだろう。
自殺が禁じられていれば、ゾンビとなっていくしかない。

自殺のできない男が登場する五味先生の「喪神」。
ゾンビというジャンルの映画が描く「喪神」の世界。

人としての生命活動がとまりゾンビと化すまでわずかな間は、
ほんとうに「死」なのか、とも思ってしまう。
喪神の世界に死はあるのか、と。

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