Date: 3月 12th, 2013
Cate: audio-technica

松下秀雄氏のこと(その2)

オーディオテクニカがどういう会社だったのか、
というより松下秀雄氏がどんな方だったのかについて語るのに、
私がいつも思い出すのは井上先生に関することだ。

井上先生は若いころ、
おそらくステレオサウンドがまだ創刊される前のことなのだと思う、
そのころオーディオテクニカのショールームで仕事をされていた。
これは井上先生に確認したことがあるので、ほんとうのことである。

ショールームだから、オーディオテクニカのカートリッジを聴きに人が来る。
そこで井上先生は、オーディオテクニカのカートリッジを一通り鳴らした後、
オルトフォンのSPUにつけ換えてレコードを鳴らされる。
そして、あの井上先生独特のぼそっとした口調で「こっちのほうがいいでしょう」ということをやられていた。

いま、こんなことを一回でもやったら、すぐに辞めさせられる。
それがオーディオテクニカのショールームでは黙認されていた。
誰も知らなかったわけではない。
おそらく松下氏も、井上先生がショールームで何をやられていたのかはご存知だったのではなかろうか。

私はおもう。
松下秀雄氏はオーディオテクニカの創業者であっただけでなく、
オーディオの発展のために土になられたのだ、と。

ステレオサウンド創刊当時のメンバー、
井上先生、菅野先生、瀬川先生、岩崎先生、長島先生といった才能ある人たちを、
新しい種として芽吹かせ育てるための「土」となられた、そうおもえてならない。

松下秀雄氏という、それまでになかった「土」があったからこそ、
新しい芽として誕生しオーディオ評論家という、それまではなかった木として実を結んでいった。
もし松下秀雄氏という土がなく、それまでと同じ土しかこの世になかったら、
井上先生にしても、瀬川先生にしても、ほかの方にしても、他の道を歩まれていたかもしれない。

この時代、松下秀雄氏だけではない。
グレースの創業者、朝倉昭氏もそうだったと私はおもっている。
ステレオサウンドも、またこの時代、新しい芽を誕生させ、新しい木を育てた「土」であった。

Date: 3月 12th, 2013
Cate: audio-technica

松下秀雄氏のこと(その1)

夕方ごろだったか、twitterでオーディオテクニカの創業者である松下秀雄氏が逝去されたことを知った。
松下氏のことを書こう、とおもった。

松下氏にお会いしたことはない。
ステレオサウンドにいたころに、数人の方から松下氏について断片的なことをきいていたくらいであるから、
なにかを書けるわけでもないのだが、それでも書かなければならない、とおもっていた。

オーディオテクニカはVM型のカートリッジで知られる。
VM型はいわばMM型カートリッジに属していても、
シュアー、エラックがもつMM型の特許には関係なく海外で販売されている。

シュアー、エラックによるMM型カートリッジの特許は日本では認められていない。
この件に関する、いわゆる裏話を瀬川先生からきいたことがある。
どんなことなのかはここで書くようなことではないから省くけれど、
日本のメーカーが大慌てで、シュアー、エラックの特許に対抗したわけだ。

特許は認められなかったけれど、
海外各国では認められているわけだから、日本製のMM型カートリッジは海外では販売できない。
それではカートリッジ専門メーカーであるオーディオテクニカは世界に進出できない。
そこでオーディオテクニカは独自のVM型を開発、特許をとり堂々と海外で販売してきた。

シュアー、エラックの特許申請に対して日本の大メーカー各社がとった手段と、
それら大メーカーと比較すれば小さな会社といえたオーディオテクニカがとった行動、
ここにオーディオテクニカという会社の気骨とでもいおうか、スピリットといったらいいだろうか、
それに近いものを感じる。

Date: 3月 11th, 2013
Cate: SME

SME Series Vのこと(その5)

SMEのSeries Vと同じく絶賛したいのは、タンノイのウェストミンスターだ。
私がまだステレオサウンドにいたころ、それもはやい時期に登場した、このウェストミンスターは、
数度の改良が加えられ、ほんとうにいいラッパ(ウェストミンスターにはラッパのほうがにあう)になった。

最初のウェストミンスターをステレオサウンドの試聴室で聴いた時から、
いいラッパだな……、とおもっていた。
当時はまだ若かったし、ウェストミンスターをおさめられるだけのスペースの部屋には住んでいなかったから、
手に入れたい、とは考えなかったし、
それに何度か書いてきているように、五味先生の文章からオーディオにはいってきた私にとって、
ウェストミンスターの原型となるオートグラフには、特別な思い入れがあり、
どうしても心の中で、ふたつのラッパを比較してしまう。

オートグラフの存在がなかったら、ウェストミンスターにいつかは手を出していたかもしれない。
これも書いているけれど、ウェストミンスターは一年に一度は、その音を聴きたい。

ウェストミンスターは高価なスピーカーシステムである。
しかも大きなスピーカーであるから、
このラッパを買えるくらいの予算ができたとしても、
それだけでは不充分で、やはりウェストミンスターに見合うだけの空間も用意する必要もある。
それはさほど大きな空間でなくてもいい、けれどある程度の空間は欲しい。
だから、そのための費用も必要となる。

この点がSeries Vよりも、手に入れるまでが人によっては大変になる。
けれどウェストミンスターはずっと現役のラッパとして存在してくれている。
まだまだこれからも存在してくれはずだ。
夢を持ち続けられる。
この素晴らしさを与えてくれる。

今日は二年目である。
このラッパを、あの日失った人もおられるだろう、きっと。
ウェストミンスターは、もう一度手に入れることができる。
このことがもつ意味は決して小さくない。
だからずっと現役であってほしい。

Date: 3月 10th, 2013
Cate: アナログディスク再生

ダイレクトドライヴへの疑問(その15)

ステレオサウンド 48号、146ページのグラフは、
フォルテシモからピアニシモに変化していく様を描いている。

フォルテシモからピアニシモへの移る途中で、いくつかの小さな山が発生しているのだが、
この部分がEMT・930stとローコストのダイレクトドライヴ型プレーヤーとでは顕著に違っている。

山の数がまず違う。930stの方が多い。
ローコストのダイレクトドライヴ型プレーヤーが何なのかはわからない。
そのプレーヤーの音を聴いたことがあるのかどうかもわからないから、
音の比較ではなにもいいようがないけれど、
これだけ山の数がローコストのダイレクトドライヴ型プレーヤーで減っている(消失している)のをみると、
音楽のディテールの再現においては、930stの方が優れている、といってよいだろう。

それに山の形も同じとはいえない。
930stでは小さな山となっているのに、
ローコストのダイレクトドライヴ型では山になりきれずに平坦に近かったりする。

どちらのプレーヤーで聴いても、同じ「熱情」であることには違いない。
けれど、これほど異る形を描くグラフを見比べていると、
実際の音は、視覚の差以上に大きいものとしてあらわれるように思えてくる。

長島先生も指摘されているように、
これらのグラフはペンレコーダーによるもので、
ペンの自重の影響その他に若干の問題が残っている。
そのためあくまでも参考データとして掲載されていて、
48号で測定した全機種についての発表は控えられている。

けれど「レコードの音楽波形レベル記録」として5分ちょっとグラフを圧縮した形で掲載されている。
146ページのグラフのように拡大されていないから、
ぱっと見た感じではどれも同じレベル記録のように見えなくもないが、
細かく見ていけば、それぞれのプレーヤーによって違いが出ていることがわかる。

Date: 3月 10th, 2013
Cate: スピーカーの述懐

あるスピーカーの述懐(その3)

辻村寿三郎氏が、ある対談でこんなことを語られている。
     *
部屋に「目があるものがない」恐ろしさっていうのが、わからない方が多いですね。ものを創る人間というのは、できるだけ自己顕示欲を消す作業をするから、部屋に「目がない」方が怖かったりするんだけど。
(吉野朔実「いたいけな瞳」文庫版より)
     *
辻村氏がいわれる「目があるもの」とは、ここでは人形のことである。
つづけて、こういわれている。
     *
辻村 本当は自己顕示欲が無くなるなんてことはありえないんだけど、それが無くなったら死んでしまうようなものなんだけど。
吉野 でも、消したいという欲求が、生きるということでもある。
辻村 そうそう、消したいっていう欲求があってこそもの創りだし、創造の仕事でしょう。どうしても自分をあまやかすことが嫌なんですよね。だから厳しいものが部屋にないと落ち着かない。お人形の目が「見ているぞ」っていう感じであると安心する。
     *
人形作家の辻村氏が人形をつくる部屋に、「目があるもの」として人形をおき、
人形の目が「見ているぞ」という感じで安心される。

オーディオマニアの部屋、つまりリスニングルームに「目があるものがない」恐ろしさというのは、
「耳があるものがない」恐ろしさということになろう。

リスニングルームになにかをおいて、
それが「聴いているぞ」という感じになるものはなにか。

録音の世界では耳の代りとなるのはマイクロフォンであるけれど、
だからといってリスニングルームにマイクロフォンを置くことが、
ここでの人形の目にかわる意味での「耳があるもの」を置くことになるとはいえない。

では「耳があるもの」とは──。
それは、やはりスピーカーなのだとおもう。

Date: 3月 10th, 2013
Cate: ジャーナリズム,

賞からの離脱(その24)

ステレオサウンド誌選定《’77ベストバイ・コンポーネント》は、
テープデッキを除く、スピーカーシステム、アンプ、プレーヤー関係では、
6人の選者(井上、上杉、岡、菅野、瀬川、山中)のうち5人が選出したものに与えられている。

たとえばスピーカーシステムでは、
セレッションのUL6(6人)、ダイヤトーン(DS25B(5人)、ビクターSX3III(5人)、B&W DM4/II(5人)、
テクニクスSB7000(5人)、ヤマハNS1000M(5人)、スペンドールBCII(5人)、QUAD ESL(5人)、
タンノイArden(5人)、アルテック620A(5人)が選ばれている(括弧内は選出した人数)。

プリメインアンプでは、
ヤマハCA2000(6人)、サンスイAU607(5人)、サンスイAU707(5人)、ラックスSQ38FD/II(5人)、
コントロールアンプでは、
ビクターP3030(5人)、ラックスCL32(5人)、ヤマハC2(5人)、
パワーアンプでは、
ダイヤトーンDA-A15(5人)、QUAD 405(5人)、パイオニアM25(5人)、パイオニアExclusive M4(5人)。

チューナーは、トリオのKT9700(5人)のみ。

プレーヤーシステムでは、
ビクターQL7R(6人)、テクニクスSL01(6人)、
カートリッジでは、
オルトフォンMC20(6人)、グレースF8L’10(5人)、デンオンDL103S(5人)、
エレクトロアクースティック(エラック)STS455E(5人)、フィデリティ・リサーチFR1MK3(5人)、
エンパイア4000D/III(5人)、
ターンテーブルはビクターのTT101(5人)、
トーンアームはビクターUA7045(6人)となっている。

これらステレオサウンド誌選定ベストバイコンポーネントに、
ひじょうに高価なモノはなにもない。

スピーカーシステムで620Aが最も高価だが、1本358500円するが、
評論家の選ぶ’77ベストバイ・コンポーネント(つまり選者が4人以下のモノ)には、
もっと高価なモノがいくつも登場している。

アンプで高価なのはExclusive M4の350000円だが、
これも評論家の選ぶ’77ベストバイ・コンポーネントには、倍以上の価格のモノがいくつも選ばれている。

Date: 3月 9th, 2013
Cate: ジャーナリズム

あったもの、なくなったもの(その11)

この項を読まれている人のなかには、
「なんだ、結局、昔はよかった」といいたいだけなのか、と受けとめられている方もいるかもしれない。

はっきりいおう、たしかに「昔はよかった」。
「昔はよかった」といえば、相対的に「いまはだめ」「いまはあまりよくない」ということになる。
そのことを強調したいわけではない。

いまがいいところもあるにはある。
それでも……、とおもう。

昔があれだけよかったのだから、いまはもっとよくなってほしい、とおもう。

数年前に、こんなことをオーディオ関係者から聞いたことがある。
いま輸入商社につとめている若い世代の人たちは、
オーディオ全盛時代をまったく知らない。だから、オーディオ業界とはこういうものだと受けとめている。
一方、オーディオ全盛を体験してきた世代の人たちは「昔はよかった」というばかり……。

この話をしてくれた人は、そういうオーディオ全盛を体験してきた世代の人たちよりも、
若い世代のほうがまだいい、ということだった。

「昔はよかった」と懐かしんでいるばかりの、オーディオ全盛を体験してきた世代の人よりは、
たしかに現状をこういうものだと受けとめている若い世代の人たちがいいというのは、頷ける。

けれど、どこかそこに消極的な、熱量の少なさみたいなものを私は感じてしまう。
どこかに、最初から「こんなものだろう……」というあきらめがはいっているような気がしないでもない。

Date: 3月 9th, 2013
Cate: ジャーナリズム,

賞からの離脱(その23)

井上先生菅野先生瀬川先生の「私はベストバイをこう考える」は、それぞれのリンク先をお読みいただくとして、
ほかの方の見出しを拾っていく。

上杉佳郎:オーディオ機器に要求されるいくつかの条件を満たすコンポーネント製品こそがベストバイといえる
岡 俊雄:オーディオ製品の水準が上がってきた現在、さまざまな使われ方を考慮してベター・バイ的な選び方をした
菅野沖彦:〝最上の買物〟の条件は、価格、性能の差だけでなくそのもののオリジナリティと存在理由の有無にある
瀬川冬樹:魅力ある製品はもちろんのこと、現時点で水準以上のものはベストバイといえるのではないだろうか
山中敬三:ベストバリューこそを判断の大きなポイントにおきたいと思う

小説は最初のページから読み始め読み進める。
けれど雑誌となると、パラパラとめくって目に留まった(興味のある)ページから読んでいく、
そういう読み方もできるし、最初から読んでいくこともできる。

当時の中学三年生にとって、1500円の本は安い買物ではない。
それに次の号が出るまで三ヵ月ある。
あせることなく最初のページからじっくりと読み進めていけばいい、
そのほうがいい、と思っていた。

実際にそれがよかったわけである。
選者すべての人の「私はベストバイをこう考える」を読んだ後で、
実際にどういうコンポーネントが選ばれているのかを読んでいった。

43号では二部構成になっていた。
選者の投票数のほとんどを獲得したコンポーネント46機種のページが、まずあった。
このページの扉にはこうある。
「ステレオサウンド誌選定《’77ベストバイ・コンポーネント》」と。

このページのあとに広告がはさまり、「評論家の選ぶ’77ベストバイ・コンポーネント」のページが、
各ジャンルごとにはじまっていた。

Date: 3月 9th, 2013
Cate: ジャーナリズム,

賞からの離脱(その22)

あのころはステレオサウンドを買ってきたら、
最初のページから読んでいた。
ステレオサウンド 43号で、だから最初に読んだのは「私はベストバイをこう考える」だった。

このときの選者は、井上卓也、上杉佳郎、岡俊雄、菅野沖彦、瀬川冬樹、山中敬三の六氏の他に、
テープデッキ部門だけ大塚晋二、三井啓の二氏が加わる。

「私はベストバイをこう考える」は五十音順に掲載されているから、
井上先生の「私はベストバイをこう考える」をまず読んだ。

ステレオサウンドのベストバイ・コンポーネントの特集は35号が最初で、43号は2回目。
35号と43号のあいだに41号が発売されていて、
この41号の特集は「世界の一流品」である。

この41号のあいだに出たことで、
井上先生は35号でのベストバイ・コンポーネントの選出と43号でのベストバイ・コンポーネントの選出とでは、
すこしばかり考え方を変えられていることがわかる。
     *
今回は、選出にあたり、ある程度の枠を設定して、本誌41号でおこなわれたコンポーネントの一流品と対比させることにした。
     *
こう書かれ「業務用途に開発された製品は、特別を除いて対象としない」、
「コンポーネントのジャンル別に、価格的なボーダーラインを設定して、一流品とベストバイを区分する」、
井上先生の「私はベストバイをこう考える」の見出しは
「家庭用として開発された製品から、多くのオーディオファンにとってベストバイたり得るものを選んだ」
とつけられている。

Date: 3月 8th, 2013
Cate: 「オーディオ」考

「音は変らない」のおかしさ

「音は変らない」も、おかしな表現だということに気がつく。
「音は変らない」が何をいおうとしているのかはわかっているけれど、
それでもこの「音は変らない」だけを取り出してみると、おかしなことだと感じる。

音はいうまでもなく一瞬たりとも静止しない。
つねに変動・変化しているから音である。
そんな性質の音をとらえて、「音は変らない」はおかしい。

「音は変らない」の音とは、音楽を構成する音である。
音楽もまた、つほに変動・変化する音から構成されるものであるから、
音楽もまた一瞬たりとも静止することは、絶対にない。

よくよく考えてみると、この世の中に「変らない」ものなんて、
なにひとつ存在しないことに気がつかされる。

音のように変動・変化がはやいものもあれば、
たとえば非常に硬く安定している物質は長年に亘り変化しない──、
人間の目にはそう見えても微視的にみれば、まったく変化していないわけではない。
ただ、その変化があまりにも遅いために人間の生きている時間内ではなかなか認識しにくいだけのことであって、
未来永劫まったく変化しないものなど、この世の中に存在しない。

つまり「音は変らない」は、
正しくは「変らないように聴こえる」であり、
「変らないように聴こえる」には人間の能力に関係していることだから、個人差もあるということだ。

たとえ「変らないように聴こえる」のだとしても、
それはその人にとってのことであり、ほかの人にとっては必ずしもそうではない。

「音は変らない」と言い切ってしまうことほど、非科学的なこともない。

Date: 3月 8th, 2013
Cate: アナログディスク再生

ダイレクトドライヴへの疑問(その14)

ターンテーブルのワウ・フラッターが充分に小さければ、
カートリッジが同じであれば、プレーヤーシステムの違いによって音が変ることはない、
こんなことを強弁する人は、決って測定しても違いが現れない、ともいう。

測定の多くの場合につかわれる信号は、ほとんどがサインウェーヴである。
われわれがケーブル(アンプ)によって音が変る、
さらにはターンテーブルによって音が変る、という場合に聴いているのは音楽である。

カートリッジがおなじであれば、ほんとうにターンテーブル(プレーヤーシステム)による音の違いは、
測定結果として現れないのだろうか。
そんなことはないことは、いまから35年も前のステレオサウンドに載っている。

ステレオサウンド 48号、プレーヤーの特集の中、146ページに載っている。

囲み記事として掲載された「プレーヤーシステムによって再生能力はこんなに違う」では、
ふたつのグラフがある。
ベートーヴェンのピアノソナタ「熱情」のレベル記録を、一部拡大したグラフである。

グラフのひとつはEMT・930stによる再生波形、
もうひとつは1973年ごろに発売されたローコストのダイレクトドライヴ型プレーヤーによる再生波形。
カートリッジはどちらもオルトフォンのSPU-G/Eを、針圧3gで使った、と記事にはある。

いくつかの山・谷が描かれている、ふたつのグラフは、
「熱情」の同じ箇所を再生しているのであるから、相似形ではある。
けれど細部までまったく同じというわけではない。

Date: 3月 8th, 2013
Cate: アナログディスク再生

ダイレクトドライヴへの疑問(その13)

世の中には、いまだケーブルによって音が変るなんてことは絶対にない、
さらにはアンプで音が変ることもない、
こんなとんでもないことを平気で強弁している人がいる。

ケーブルを交換すれば、音が変るのは事実であるし、
アンプを替えれば音は変る。
ただ、その時の音の違いは、人によって、それに価値観の相違によって、
それほど重要ではない、という言い方ならば納得できる。

それにある人にとって容易に聴き分けられる音の違いが、
別の人にとっては違いがわからない(わかりにくい)ということはある。
その逆もまたある。

自分が聴き分けられないから、
ケーブルを交換しても(アンプを替えても)音は変らないということにはならない。

ケーブルによる音の違いはわからないから、
いまのところケーブルによる音の違いは、私には存在しないといえる、
ケーブルによる音の違いよりももっと重要なことがあり、そちらから音を追求していきたい、
そういう考えから「ケーブルによって音は変らない」といわれているのであれば、
その方のオーディオの取組みを尊重したい。

だがインターネットで、匿名なのをいいことに、
自分の考え(というよりも耳)が正しい、とばかりに、
ケーブルによって(アンプによって)音は変るという人に噛みつくばかりの人は、
ターンテーブル(アナログプレーヤー)によって音が変ることはない、というだろう。

Date: 3月 7th, 2013
Cate: アナログディスク再生

私にとってアナログディスク再生とは(デザインのこと・余談)

マイクロのSX8000IIが登場したとき、
音はともかくとして、ひとつ疑問に感じていたのが、
トーンアームベース、モーターユニットをふくめたベースの塗装の色だった。

あれはなんという色と表現したらいいのだろうか。
糸ドライヴの最初のモデルRX5000 + RY500のベースは黒、
次のモデルSX8000では青に変っていた。
それがSX8000IIでは、基本としての緑と表現できる色なのだろうが、
ひどい色とまではいわないものの、決していい色とは思えなかった。

最初見た時も、それからあとステレオサウンドの試聴室に常備されるようになっても、
実際に使われているユーザーのリスニングルームで見たときも、
一度もいい色と感じたことはなかった。

そうなると疑問がわく。
なぜ、この色(こんな色)にしたのだろうか。
デザイナーの指定した色だとしたら、いったい誰なのだろうか。

ヒントはあった。
具体的なことは書かないけれど、そのことから、
たぶん、SX8000IIの色を決めたのは、この人なんだろうな、と思っていた。

いまステレオサウンド 186号が書店に並んでいる。
特集は「欲しくなる理由、使いたくなる理由」。
この特集記事を読んでいて、やっぱりSX8000IIの色を決めたのは、
この人だったんだ、と確信に変った。
おそらくSX8000IIのデザインもそうであろう。

この確信が間違っていなければ、
あえてぼかして書くけれど、あれもそうなのか、ということになる。

Date: 3月 7th, 2013
Cate: D130, JBL

D130とアンプのこと(続×八・音量のこと)

岩崎先生にとってビリー・ホリディの”Lady Day”が、特別な一枚であったことは、
「オーディオ彷徨」おさめられている「仄かに輝く思い出の一瞬──我が内なるレディ・ディに捧ぐ」、
それに「私とJBLの物語」を読めばわかる。
     *
その時には、本当にビリー・ホリディを知っていてよかったと心底思ったそして、D130でなくてもよいけれどそれはJBLでなければならなかった。
     *
このとき岩崎先生は、D130で”Lady Day”を聴かれている。
「JBLによって、ビリー・ホリディは、私の、ただ一枚のレコードとなり得た」、
その”Lady Day”を聴かれた音量は、ひっそりとしたものだったではないか、
そういう音量でも聴かれたのではないか、とおもうことがある。

Date: 3月 6th, 2013
Cate: ジャーナリズム,

賞からの離脱(その21)

熱心にステレオサウンドのアンケートハガキに記入していたときには気づいていなかったけれど、
読者が選ぶベストバイ・コンポートはいい企画であったことに、こういうことを書いていると気がつく。

当時のステレオサウンド編集部がそこまで意識・意図していたのかどうかはわからないが、
単なる読者による人気投票という表面的な企画の裏には、
読者にベストバイということを考えさせるという面があったからだ。

アンケートハガキに記入する人のどのくらいの割合かはわからないけれど、
単なる人気投票的に捉えての人もいれば、
ベストバイ・コンポーネントの意味をその人なりに考え、
自分にとってのベストバイ・コンポーネントとは何か──、
そのことを記入した人もいる。

そしてアンケートハガキの集計結果が掲載されるステレオサウンドには、
オーディオ評論家によるベストバイ・コンポーネントとともに、
それぞれのオーディオ評論家による「私はベストバイをこう考える」が載っていて読めるわけである。

アンケートハガキを単なる人気投票として受け取っていた人にとって「私はベストバイをこう考える」は、
どうでもいい文章かもしれない。
でも、その人なりにベストバイ・コンポーネントとは、ということを考えて記入した人にとって、
「私はベストバイをこう考える」は、自分の考えと照らし合せて読むことができる。