「私はベストバイをこう考える」

菅野沖彦

ステレオサウンド 43号(1977年6月発行)
特集・「評論家の選ぶ ’77ベストバイ・コンポーネント」より

 ベスト・バイは、一般的な邦訳ではお買得ということになる。言葉の意味はその通りなのだが、ニュアンスとしては、ここでの、この言葉の使われ方とは違いがある。日本語のお買得という言葉には、どこかいじましさがあって気に入らない。これは私だけだろうか。そこで、ベスト・バイを直訳に近い形で言ってみることにした。〝最上の買物〟である。これだと、意味は意図を伝えるようだ。つまり、ここでいうベスト・バイとは、その金額よりも、価値に重きをおいている。
 価値というのは、きわめて複雑な観念であるから、ものの価値判断というものも、そう簡単に決めるわけにはいかないだろう。本当の意味での価値というものは、観念という精神的なものであるからだ。ものそのものの価値というのは、むしろ、値打というべきだと私は思っている。価値というものは、本来、形や数値で表わせるものではないのはいうまでもないことだ。言語学的には、価値という言葉も、もっと現実的な唯物論的な意味なのかもしれないが、甚だ独善的で申し訳ないが、私は、価値と値打を使い分けるように心がけている。ものの値打などというものは、値下りすればそれまでだ。ほとんどのものは、買った途端に中古になる。中古は新品より安くなる。値打の下落である。オーディオ・コンポーネントで、持っていて値上りするなどというものは滅多にない。オーディオ機器に限らず、本当に値打のあるものなどはそうあるものではない。だから、けちはものを買わないのである。けちが買うのは、儲かるものだけだ。
 しかし、価値は違う。どんなに高額でも、また、日々値上りしても、そのものが、ウィンドウの中に置かれていて価値を発揮することはない。ものの価値は、そのものが人と結びついたときに、その人によって発揮されるものなのだ。あるいは、その人の中に芽生えたものなのだ。価値は、人の価値観によって決まる。価値観は教養と情操の問題である。価値観は、よきにつけあしきにつけ、他人の侵すべからざる領域である。ものには値段がつきものだから、それに支払う代価の数値と、この価値との間の問題はきわめて複雑だ。ある人にとっては、100万円の代価を払っても価値あるものも、別の人にとっては無価値かもしれぬ。また、同じような価値観を持った人同志でも、もし、その二人の経済力に大きな差があれば、価値の評価がかわってくる。
 ここで、大変重要な問題について考えねばならない。お金持ちが、そのものが自分にとって価値ありと認め、100万円を高くないと感じて買ったとする。そして、それほど金持ちではない別の人が、その同じものに価値を見出し高い! と思いつつ、無理をして100万円を出したとする。つまり、同じものに価値を見出した二人だが、果して、この経済力の違う二人にとって、そのものの価値は同じであろうか。ごく単純に考えても、同じには思えない。金持ちにとっての100万円より、貧乏人にとっての100万円は、はるかに高い価値への代価であるはずだ。ポケットマネーと全財産のちがいが同じ重味であるはずはない。つまりこの話には無理がある。金持ちと貧乏人が、代価を払わなければ所有できないものについて、同じような価値観を持つことは不可能に近いことだ。そして、もう一つの無理は、ものの価値を代価という数値で表現していることである。値打は同じでも、価値は大違いたということだ。価値とはこういうものだろう。だから、価値を考えれば、同じものでも、金持ちからは100万円とっても貧乏人からは10万円しかとらないという理屈も成立つ。昔の職人や芸人には、こういう考え方を持っていて、実行したという話を聞くのである。一概に、それが美徳だとは思わないが、一理はある。
 しかし、大量生産、つまり、工業化時代の現代では、こういうことは起り得ないのだ。ベスト・バイの価値基準などないといっても過言ではない。1台のアンプを値段なしで市場へ出し、それぞれの人の価値判断と経済力で、100万円になったり10万円になったりすることはあり得ないのだ。かかったコストを基準に、諸経費・諸利益を上乗せして価格が決められる。考えてみれば公正なようでいて、決してそうとはいえない。材料費や労賃は大同小異にしても、それを生みだした人の英知や能力、そしてセンスはまちまちであるはずだ。量産では、生産量が価格を大きく変動させるが、同時に、製品の出来具合にも大きな影響がある。大量生産ならではのよさもあるし、小量、手造りならではのよさもある。これらを総合して考えてみると、価格の高低で、そのものの価格はもちろん、値打を判断することすら困難である。
 ベスト・バイ、最上の買物が、金額より価値に重きをおくと先に書いた。しかし、今まで述べた価値の難しさからいって、そんなベスト・バイ製品をどう選んだらよいのだろうか。コスト・パフォーマンスという言葉が一時流行ったが、あれは、リッター何キロ走るかという経済性だけで車のすべての値打や価値を判断するのとそっくりの、ドライで貧しい発想である。車なら、まだ、それも許されるとして、音楽を聴くオーディオ機器に──趣味の世界に──そんな発想を平気てするのは空恐しい。ベスト・バイというからにはむろん、値打を無視することはできない。つまり、経済的であるにこしたことはない。しかし、それだけで判断できるとすれば、オーディオなど、絶対に心の対象として存在し得るはずがないだろう。
 私が考えるベスト・バイの条件は、ただ、値段の高低による値打、性能の差という縦の線のみならず、要は、そのもののオリジナリティと存在理由の有無である。オーディオ機器は、性能の高い低いという縦のバリエーションも幅広くあると同時に、音がちがうという横のバリエーションが無限にある。それぞれの機器が、その値段の範囲で、水準以上の性能を発揮し、かつ、魅力ある製品であることが、私の考えるベスト・バイの条件である。その魅力とは、もちろん音の美しさ、仕上加工の水準、デザインなどの総合で、つまるところ、その製品に感じられる創った人間の中味の密度と次元の高さと誠実さである。100万円と10万円の同ジャンルの製品を縦割だけで考えることはナンセンスである。100Wのアンプより、はるかに音の美しい50Wのアンプだってある。数十万円の大型スピーカーがすべてではあるまい。数万円の小型スピーカーが、よりしっくりと、その時々
の音楽的欲求を満たしてくれることだってあるだろう。そして、逆に、どうしても大型スピーカーで大パワーアンプでなければ得られない、音の世界が存在するのである。
 いずれにしても、最終的な価値判断は、それぞれの人の問題だ。そして、価値の発見とその必要性と、それを得る可能性は、全くそれぞれに別問題であろう。この三つの結びつきのコントロールは読者に任せる他はない。ここにあげたベスト・バイ製品のそれぞれに、私は相応の価値を見出してはいるが、だからといって、そのすべてを必要とはしないし、また、それを所有する力もない。
 編集部から渡された、各コンポーネントの膨大なリストの中から、かなり客観的な思惑を交えながら、出来るだけ広範囲に選んだが、その結果、あまりに多くの製品になってしまい、正直のところ困り果てている。それぞれの製品について、短いコメントをつけるだけでも、気の遠くなるような仕事になってしまった。実に、トータルで190機種にも及ぶ。しかし、これだけの数の機器に、それなりの価値と、存在理由とオリジナリティを見出せるということは、たとえ、かなり客観性をもって選んだとしても、オーディオの楽しさを今さらながら感じさせられる。相互的に組合せて、システムを構成したとすると、うまくいかない組合せをのぞいても、かなりの数の優れたシステムが誕生することになるであろう。そして、それらは、一組として同じ音色やニュアンスで鳴るものはないのである……。

Leave a Comment


NOTE - You can use these HTML tags and attributes:
<a href="" title=""> <abbr title=""> <acronym title=""> <b> <blockquote cite=""> <cite> <code> <del datetime=""> <em> <i> <q cite=""> <s> <strike> <strong>

このサイトはスパムを低減するために Akismet を使っています。コメントデータの処理方法の詳細はこちらをご覧ください