Date: 5月 19th, 2013
Cate: 日本のオーディオ

日本のオーディオ、これから(その3)

ジムテックが作っていたのはスピーカーシステムばかりではない。
管球式のコントロールアンプとパワーアンプ、それにMM型カートリッジも作っていた。

コントロールアンプのM1はアンペックスのオープンリールデッキAG440のエレクトロニクス部に似ている。
パワーアンプのM100SLはシャーシーのつくりだけでなく、トランスのカバーなど、
明らかにマッキントッシュの管球式パワーアンプの意匠そのままである。
型番は憶えていないが、マランツのModel 500に似たパワーアンプもあったはず。

カートリッジのV-III、V-II ProfessionalはシュアーのM75そっくりである。

ジムテックの技術力がどの程度なのかは、知らない。知る機会もなかった。
実物を見たこともないし、ステレオサウンドでも22号で#1000が取り上げられているだけだ。
私の手もとに22号にはないので、どういう評価だったのかはなんともいえないけれど、
なんとなく想像はつく。

それにしても、と思う。
カートリッジからコントロールアンプ、パワーアンプ、スピーカーシステムまでラインナップとして揃える。
なのにすべて、高い評価を得たモノからの「無断借用」である。

たしかに日本のオーディオの黎明期には、
海外製品をコピーすること(マネ)からスタートしたメーカーはいくつもあった。
ジムテックも、それらのメーカーと同じじゃないか、と思われるかもしれない。

何かに追従するのは日本のメーカーの悪い癖とも、よくいわれていた。
アメリカでマークレビンソンのJC2が登場し話題になった時、
日本のメーカーからいっせいに薄型シャーシーのコントロールアンプがいくつも登場した。

598のスピーカーシステムにしても、その傾向は確かにある。

それでもジムテックのやり方は、
1970年代という、日本のオーディオブームのただ中でこういうことをしてしまうということ、
岩崎先生が指摘されているように自主性・主体性の、あまりな欠如が問題である。

Date: 5月 19th, 2013
Cate: 日本のオーディオ

日本のオーディオ、これから(その2)

スイングジャーナルのオーディオのページにはオーディオ相談室というコーナーがあった。
最初のころは岩崎先生がひとりで担当されていて、
途中から長岡鉄男氏とふたりでの担当、その後斎藤宏嗣氏も担当になられた。

スイングジャーナル 1972年8月号のオーディオ相談室に、こんな質問が読者から寄せられている。
     *
質問:トリオPC300、TW61でサンスイSP100を6畳洋間にて鳴らす。20万円台でグレード・アップしたいが、アンプとスピーカーをそろえたいと思っています。店でジムテックの音を聴いてみて、好みにあった音なのでNo.1000を予定。ラックス507Xに組み合わせようと思いますが、SJでジムテックをとりあげないのはなぜでしょうか。音も評判もいいと思いますが。
     *
オーディオ雑誌の相談のコーナーは、他のオーディオ雑誌にもあった。
読んでいても参考になることはあまりなかったし、
相談コーナーに何か質問しようと思ったこともない。
あるオーディオ雑誌の相談コーナーは、当り障りのないことばかりだった。
少なくとも私が読みはじめたころのオーディオ雑誌の相談コーナーはそうだった。

けれどスイングジャーナルのこのころの相談コーナー、
というよりも岩崎先生の答は、そんなぬるい回答ではなかった。
     *
回答:組み合わせに対してのお答えは、キミがイイと思ったらそれが一番イイ。ひとにいいといわれたってその気になれるもんじゃないし、やはり自主性、主体性がなにより先決なのは人生すべてそう。
「ジムテック」についても自主性、主体性の欠如が問題なのであって、音の良し悪し以前の問題。商品として、金をとって売る品物としての自主性が完全に欠如しているのでは? ひとの名声の無断借用的根性が、SJをしてとりあげさせない理由だろう。音楽にひたる心のふれあいのひとときを演出するのが、ハイファイ・パーツ。そこに気になるものがわずかなりとも存在することに平気なら、どうぞジムテックを。何10万もする高価な海外製品を使うのも心の安らぎと、ぜいたくに過ごしたいという夢からなのだ。ハイファイというのはそういうぜいたくが必要なのである。しかし、それはたとえ少しでもまがい者的ではいけないのだ。
     *
1971年8月号のジムテックの広告にコメントを書いていた「一流の耳をお持ちの方」とは、
気概から何もかも違う人もいた。

Date: 5月 19th, 2013
Cate: 日本のオーディオ

日本のオーディオ、これから(その1)

昔、ジムテック(JMTEC)というオーディオメーカーが日本にはあった。
私がオーディオに興味をもった1976年には縮小に向っていたから、
この会社の詳細についてはほとんど知らない。

おそらく1971年ごろ登場した会社で、秋葉原にあった。
最初はスピーカーシステムだった。
型番の他に名称をあえてつけていた。

LING OF KING(#7000)、QUEEN OF QUEEN(#5000)、JACK OF JACK(#1000)、
それぞれ121000円、99000円、69000円だった(括弧内が型番)。

KING OF KINGという名称をもつ#7000はアルテックのA7によく似ている。
ウーファーの外観もアルテックの515にそっくりである。
ホーンの形状は違うものの、ジムテックという会社名からして、
アルテックとJBLのいいとこどりをしよう(しています)的な臭いがしてくる。

そういう会社なのにJMTECのロゴにはⓇがついている。

けれど、世の中にはこういう会社の、そういう製品を褒める人もいる。
1971年のジムテックの広告には、
「一流の耳をお持ちの方にテストしていただきました──その結果は?」という見出しの下に、
ジムテックにとって「一流の耳をお持ちの方」のコメントが載っている。

誰が書いているのかまでは、ここで晒すつもりはない。

Date: 5月 18th, 2013
Cate: スピーカーとのつきあい

複数のスピーカーシステムを鳴らすということ(その6)

オーディオのコンポーネントの中で、特にスピーカーシステムは擬人化されて語られることがある。
昔からあったし、いまもある。

オーディオをやっているのは女性よりも圧倒的に男性が多いこともあってなのだろうが、
スピーカーシステムの擬人化は、女性としての擬人化であることもまた多い。
ステレオサウンドにおいて、そう語られることが幾度かあった。

例えば黒田先生はJBLの4344のことを、4343のお姉さんと表現されている(ステレオサウンド 62号)。
菅野先生もそれまでのJBLの3ウェイのシステムというメインとなるスピーカーをもちながら、
新たにマッキントッシュのXRT20を迎え入れられてから、
これらふたつのスピーカーを女性にたとえられている。

黒田先生による擬人化と菅野先生による擬人化は、まったく同じというわけではない。
黒田先生の場合、
もし4344が4343よりもやんちゃな音の性格だったとしたら、4343の弟と表現されたはず。
4344という、4343の後継機の音の性格が、黒田先生にとってお姉さんと呼ぶにふさわしかったからである。

菅野先生の場合は、音楽を聴いていく人生の伴侶としてのスピーカーの擬人化だから、
女性、つまり妻としてたとえられたわけであり、
仮に菅野先生が男性ではなく女性だったとしたら、伴侶という意味ではスピーカーを男性にたとえられたであろう。
ここでの女性としての擬人化は、それぞれのスピーカーシステムの音が女性的であるとか、
そういった意味とはニュアンスが異る。

ところが上杉先生の場合は、はっきりとした女性としての擬人化で、
自宅で鳴らされているスピーカーシステムについて語られている。

Date: 5月 18th, 2013
Cate: アナログディスク再生

アナログディスクの回転数

LPの回転数は1分間33 1/3で、これは3分間でちょうど100回転になるから、
そんなふうな説明がずっと前からあった。
私もこの説をかなり以前から聞いていたし読んでもいた。

けれどなぜ3分間なのか、その理由がわからなかった。
シングル盤の45回転は3分間の回転数にしても5分間の回転数にしても、
LPのように3分間で100回転というふうに、ぴったりとくる数字があるわけではない。

SPの78回転にしてもそうだ。
となると、実は3分間で100回転が理由ではなく、他に技術的な理由があるはず。
そう思っていても、実際に資料にあたって調べていくということはしなかった。

それでもいろんなものを読んでいくと、偶然にそのヒントに遭遇することがある。

それはSPの回転数に関することだった。
シンクロナスモーターの1分間の回転数は3600。これを46で割った値が78回転ということである。
だから正確には78.26回転ということになる、とあった。

そこにはここまでしか書いてなかった。
でも、すくなくともSPの回転数がシンクロなロモーターの回転数から決っていることはわかった。
ならば3600回転をLP、シングル盤の回転数、33 1/3回転、45回転で割ってみれば、
それぞれ108と80という、ぴったり割り切れる数字が出てくる。

それにしてもシンクロナスモーターの回転数(3600)を煩悩の数(108)で割った値が、
LPの回転数であるということに、
オーディオの苦悩が、すでにLPの規格が決った時点で顕れていた、と、
そんなふうに受けとめることもできよう。

Date: 5月 17th, 2013
Cate: plus / unplus

plus(その10)

ダイレクトドライヴプレーヤーに導入されたサーボ回路は、
回路ムラという変動要素をできるだけ小さくするためのものである。
けれど実際には、サーボ回路が安定するまでに時間を要するという、
別の変動要素(この場合はサーボ回路という電子回路のウォームアップ)を生じさせている。

もっともサーボ回路は、速度の検出とかけ方が適切でなければ、
回転ムラに対しても有効とは成り得ないことも当然ある。

レコードの回転のためにモーターがまず加わり、
性能向上のためにいくつかの方式が加わってきた。
それによる性能向上・機能向上という大きなメリットの裏に、
小さなデメリットが必ず発生していることを見逃すわけにはいかない。

いまのところ100%メリットだけという、都合のいい技術は生れていない。
これからも先も、そんなものは生れてこないであろう。

同じことはスピーカーシステムにもある。
最初はフルレンジではじまったスピーカーは、
高域を伸ばすためにトゥイーターが加えられ、さらには低域をもっと伸ばすためにウーファー、
といった具合に、大きな流れとしてマルチウェイ化の道を進んできた。

フルレンジから2ウェイになり、3ウェイ、4ウェイとなれば、
うまくシステムとして設計されてまとめられていれば、
設計の意図通りに周波数帯域は拡大していくし、歪率も全帯域にわたって抑えられる。
また指向特性も周波数によって変化することなくカバーできる、などのメリットがある。

けれどシステムとしてのまとめは難しくなる。

井上先生はよくいわれていた。
2ウェイは二次方程式、3ウェイは三次方程式、4ウェイは四次方程式なのだから、
帯域分割が増えるほど、それを適切に解いていくのは難しくなっていく、と。
しかも、まだわれわれはこれらの方程式を完全に解いたわけではない。

つまりオーディオは矛盾のシステムといえるし、
矛盾を抱えながら、ときには矛盾を増やしながら進んできたシステムともいえる。

Date: 5月 17th, 2013
Cate: アナログディスク再生

ダイレクトドライヴへの疑問(その17)

使いこなしのこと(その17 続×十一 補足)」の最後のところで、
EMTの930st、927Dst、トーレンスのインナーターンテーブルのシルエットはコマであると書いた。

コマは、その加工精度が高いほど回転が安定し回転している時間も長くなる。
つまりターンテーブルをコマと見立てるのであれば、
ブレることのないシャフトをもつ、ターンテーブルプラッターのどこにも偏りが存在せず、
というのがターンテーブルの在り方となる。

コマは高速回転しているほど、
そして加工精度が高ければ高いほど、止っているようにも見える。
それは回転しているから静止しているようにも見えるわけである。

回転が遅くなってくると、コマはブレはじめる。不安定状態になる。
やがて倒れてしまう。

ターンテーブルとコマと完全に同一視してしまうのはどうかとも思いながらも、
安定した回転、静止したようにも見える回転状態を考えると、
アナログディスク再生の難しさのひとつは、
ターンテーブルプラッターが低速で回転していることにある、といえるのではないだろうか。

1分間で33 1/3回転(つまり3分間で100回転)は、コマの回転速度としては遅い。
コマとターンテーブルプラッターとの直径の違い、重量の違い、
シャフトが軸受けに収まっているかどうかという違いがあるのはわかっている。

それでも回転体としての安定ということについては、
加工精度と回転速度が大きく関係しいてることには変りはない。

LPの回転数は33 1/3回転と決っているのだから、
ここで回転数(回転速度)が遅いのがアナログディスク再生の問題ではないか、
といったところでどうにかなるわけではない。

それでも高速回転しているコマは、コマ同士をぶつけ合った際にも回転の弱いコマ、
精度の落ちるコマをはじき飛ばすことができる。
ということは高速回転することで、外乱要素に対しても強いのではないのか。

回転数が遅いほど、外乱要素を受けやすくなる──、
そんな気もしてくる。

Date: 5月 16th, 2013
Cate: ジャーナリズム, 岩崎千明, 瀬川冬樹

岩崎千明と瀬川冬樹がいた時代(はっきり書いておこう)

岩崎千明という「点」があった。
瀬川冬樹という「点」があった。

人を点として捉えれば、点の大きさ、重さは違ってくる。

岩崎千明という「点」が書き残してきたものも、やはり「点」である。
瀬川冬樹という「点」が書き残してきたものも、同じく「点」である。

他の人たちが書いてきたものも点であり、これまでにオーディオの世界には無数といえる点がある。

点はどれだけ無数にあろうともそのままでは点でしかない。
点と点がつながって線になる。

このときの点と点は、なにも自分が書いてきた、残してきた点でなくともよい。
誰かが残してきた点と自分の点とをつなげてもいい。

点を線にしていくことは、書き手だけに求められるのではない。
編集者にも強く求められることであり、むしろ編集者のほうに強く求められることでもある。

点を線にしていく作業、
その先には線を面へとしていく作業がある。
さらにその先には、面と面とを組み合わせていく。

面と面とをどう組み合わせていくのか。
ただ平面に並べていくだけなのか、それとも立体へと構築していくのか。

なにか、ある事柄(オーディオ、音楽)について継続して書いていくとは、
こういうことだと私はおもっている。
編集という仕事はこういうことだと私はおもっている。

Date: 5月 16th, 2013
Cate: 岩崎千明, 瀬川冬樹

岩崎千明と瀬川冬樹がいた時代(その4)

私が勝手におもっているだけのことなのだが、
実のところ、ステレオサウンドもそれほど売れるとは思っていないのではなかろうか。

定期刊行物でもないしムックでもないから広告は入ってこない。
そういう書籍を、いまあえて出すのはなぜなのか、と考えてしまう。

本は読者に向けてのものであるわけだが、
「オーディオ彷徨」の復刊と、いまになっての瀬川先生の著作集の刊行は、
読者に向けてのものとして当然あるわけだが、それだけとは私には思えない。

それは深読みしすぎだといわれるだろうが、
「オーディオ彷徨」の復刊と、いまになっての瀬川先生の著作集の刊行は、
いまステレオサウンドに執筆している人たちに向けてのものなのではなかろうか。

そして、さらにもっとも深読みすれば、ステレオサウンド編集の人たちに向けてのもののようにもおもえてくる。

なぜ、私がそうおもっているのかは、勝手に想像していただきたい。

Date: 5月 16th, 2013
Cate: 岩崎千明, 瀬川冬樹

岩崎千明と瀬川冬樹がいた時代(その3)

「オーディオ彷徨」、それに瀬川先生の著作集がどれだけ売れるのか。
売れてほしい、とはおもう。
特に岩崎千明の名も瀬川冬樹の名もまったく知らない世代に読んでもらいたい、と思う。

だから売れてほしい。

けれどそう多くは売れない、とも思ってしまう。
それはしかたないことかもしれない。
おふたりが亡くなられて30年以上が経っている。
私がaudio sharingをつくったときですから、
「いまさら岩崎千明、瀬川冬樹……」といわれた。

私より年齢が上の人数人から、そういわれたものだ。
そのときから13年が経っている。

この13年間のオーディオ界の変化をどう捉えているのかは、人それぞれだろう。

ステレオサウンドがどれだけの売行きを見込んでいるのかは、私にはわからない。
実際の売行きがどうなるのかも、正直わからない。
ステレオサウンドの売行きの見込みよりもずっと売れるかもしれないし、そうではないのかもしれない。

どちらになるしても、「オーディオ彷徨」と瀬川先生の著作集は、
とにかくずっと売っていてほしい。
5年後も、10年後も、20年後もステレオサウンドに注文すれば入手できる。
そうあってほしい。

Date: 5月 16th, 2013
Cate: 素朴

素朴な音、素朴な組合せ(その22)

素朴とは、粗末で飾り気のないことをいう。
私がここでつかっている素朴には、粗末という意味は込めていない。
飾り気のない、ありのままというニュアンスで使っているわけであり、
飾り気のない、ありのままの意味では、化粧をしない顔、つまり素顔が、
やはり「素」がつく言葉である。

フィリップスのフルレンジユニットの音は、個性的だと書いた。
確かにいま思い出してみても個性的とはいえる。
けれど、その音が化粧の濃い、いわばややけばけばしいところを感じさせる音だったかというと、
けっしてそういうふうには感じていなかった。

化粧の濃い音だったわけではない。
むしろ化粧をほとんどしていない顔のような音だったのかもしれない。
あの音を、いま聴いたら、そう判断するような気がしてならない。

つまり日本人の顔しか見ていない目で見た時の、
非常に彫りの深い欧米人の顔を見た時のような、
いわば化粧をしていなくともメリハリのきいた顔とでもいおうか、
そういうところを感じさせる音が、フィリップスのフルレンジユニットの特徴だったような気がする。

そうだとしたら、フィリップスの、あの個性の強い音も実は素朴な音のひとつだったような気がするし、
対照的な日本人の顔的な素朴な音のフルレンジユニットは、やはりダイヤトーンのP610ということになる。

Date: 5月 15th, 2013
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(その21)

MC型カートリッジの性能はカンチレバー、針先、ダンパー、コイルなどによって決まっていくものであり、
コイルからの引出し線の引き出し方は性能ということには影響しないとも考えられる。
けれど、その性能の中に音を含めると、コイルの引き出し線の引き出し方は影響するといえるる。

このことについて長島先生は、こう解説されている。
     *
MCカートリッジは、強い磁界の中をコイル引出し線が通る場合、リード線の振動によって発電が行なわれ、この信号が出力に混入してしまうことがある。こうなると、種として高域にコイルリード線の鳴きの影響が生じ、再生音を濁らせる結果となりやすい。その点、このカートリッジのように、コイルリード線の振動部分をダンパーでダンプした構造にしておけば、そのような害はほとんど防止することができるのである。
     *
二重ダンパーを採用しているカートリッジであれば、細かな配慮をすることで、
この部分の問題をほぼ解消できるわけでもあり、
このコイルの引出し線がカートリッジ内部で振動によって発電する問題は、
そのままスピーカーエンクロージュア内部の配線材に関してもあてはまることである。

スピーカーエンクロージュア内部にはスピーカーユニットからの洩れ磁束があり、
しかも互いに干渉しているわけでもある
そんな中をネットワーク本体からレベルコントロールまでの配線材は通っている。
しかもスピーカーエンクロージュア内部は、ウーファーの音圧によって振動の影響は大きい。
音量を上げれば、それだけ内部の振動も大きくなる。

さらにネットワークのコイルからのノイズの影響もある。
コイルはその性質上、定常状態を保とうと働く。
信号が流れていない状態から信号を流そうとすると、流すまいとしてパルス状のノイズを発生するし、
それまで流れていた信号をとめると、今度は流そうとして、今度もパルス状のノイズを出す。

そういういくつもの音に影響の与える環境の中を配線材は引き回されているわけだから、
配線材の引き回し方、固定の仕方は音のクォリティに関係してくるし、
引き回しがなくなれば、それだけ音質的には有利であるし、ずっと楽になるともいえよう。

Date: 5月 15th, 2013
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(その20)

長島先生によるステレオサウンド別冊HIGH-TECHNIC SERIES 2、
「図説・MC型カートリッジの研究」には「世界のMC型いろいろ」という記事で、
当時(1978年)市販されていたMC型カートリッジの代表機種の内部構造図が21機種、掲載されている。

この内部構造図は資料的価値も非常に高い。
この内部構造図は目次にもあるように、神部(かんべ)明さんによるものだ。
以前、神部さんにこのときのことを聞いている。

21のカートリッジすべてひとつひとつ分解して、細部の寸法を計測して描いたものだ、と。

この内部構造図を見比べていくと、ダンパーひとつとっても、
各メーカーによってずいぶん違うことがわかる。
いくつかのメーカーはダンパーを二枚用いる二重ダンパーを採用している。
具体的に名をあげれば、フィデリティ・リサーチのFR7、ハイレクトの2017、ナカミチのMC1000、
スペックスのSD909、EMTのTSD15、オルトフォンのSPUとMC20、フィリップスのGP922だ。

二重ダンパーといっても、TSD15の場合、二枚のダンパーを前後で重ねてるタイプではなく、
内側と外側の二重ダンパーなので、その他の二重ダンパーとは、やや異る。

これら二重ダンパーのカートリッジはふたつのグループにわけられる。
FR7、2017、SPU、MC20というグループとMC1000、SD909、GP922のグループとである。

この二つのグループの違いは、コイルからの引出し線をどう引き出しているかの違いであり、
FR7、2017、SPU、MC20は二重ダンパーの構造を活かし、
コイルからの線をいったん二枚のダンパーではさんだ上で引き出されている。

MC1000、SD909、GP922はコイルからそのまま引き出されているし、
二重ダンパー以外のMC型カートリッジもそうなっている。

Date: 5月 15th, 2013
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(その19)

限られたコストのなかで、物量投入が要求されるとなれば、
どこかを削っていかなければどうにもならない。
削れるところはどこか。
削っても、そのことに対して批判の声を受けにくいところ、
削ることによって、そのことが音質向上に寄与していると言い換えられるところ、
それはスピーカーシステムにとってレベルコントロールが、まずあげられる。

レベルコントロールを設けることによって、
国産のスピーカーシステムの場合、内蔵のネットワークの配置はリアバッフルであることが多く、
レベルコントロールはフロントバッフルあることが多いわけだから、
ネットワーク本体とレベルコントロールのあいだ(エンクロージュアの奥行きにほぼ相当する)は、
配線の引回しが必要となる。

レベルコントロールを廃すれば、レベルコントロールを構成する連続可変のアッテネーターを、
抵抗によるアッテネーターに置き換えられる。こちらは抵抗、二本で構成できる。
それにレベルコントロールのパネルもいらなくなるし、
ネットワーク本体とレベルコントロール間の配線材も不必要になる。
レベルコントロールを設けることによる手間も省ける。

それにもうひとつメリットもある。

スピーカーシステムのエンクロージュアの中はいくつもの磁界がある。
スピーカーユニットすべてが内磁型であればそれほどではないけれど、
外示型の磁気回路で防磁対策がなされていなければ、
それにマルチウェイのスピーカーシステムはいくつものスピーカーユニットを取り付けているため、
それぞれの磁界が干渉しているともいえる。

そういう中をスピーカー内部の配線材は引き回されている。

Date: 5月 14th, 2013
Cate: 岩崎千明, 瀬川冬樹

岩崎千明と瀬川冬樹がいない時代(その1)

いまは──、そして当り前すぎることを書くことになるが、
これからさきもずっと「岩崎千明と瀬川冬樹がいない時代」が続いていく。
もうすでに30年以上「岩崎千明と瀬川冬樹がいない時代」が続いてきているのに。

「岩崎千明と瀬川冬樹がいない時代」に終りは訪れない。
どれだけ待っていても終りは来ない。

ならば……、とおもう。
オーディオの世界を「豊か」にしていくことを。