Date: 9月 13th, 2013
Cate: ジャーナリズム, 岩崎千明, 瀬川冬樹

「オーディオABC」と「カタログに強くなろう」(その7)

「CDは角速度一定」と書いた人は、
私よりも年上で私よりもオーディオ歴は長くて、
オーディオにつぎこんだ金額も、私よりもずっと多い。

1976年の後半からオーディオの世界に首をつっこみはじめた私よりも、
それ以前からオーディオに取り組んでいるわけで、
それはオーディオブームの最盛期も体験している、ということである。

オーディオの入門書は、私が接することのできた数よりももっと多かったはずだ。
その人が、それらの本を読んできたのかどうかまでは知らない。

でも少なくとも、ある程度のオーディオの知識は持っていたのだから、
まったく読んでこなかった、ということはないはず。

CDの登場も、同時代に体験している。
にも関わらず、もっとも基本的なところで、間違いを記してあったサイトを信じ込んでしまった。

オーディオは、簡単ではない。
とにかく複雑である。
オーディオの知識を身につけるために勉強しようとすると、
その範囲の広さに驚くはずだし、その範囲の広さに気がつかないようであれば、
まだまだ先はそうとうに長い、ということでもある。

もっとも範囲の広さを知っても、先は長いことに変りはないのだけど。

「オーディオABC」、「カタログに強くなろう」、
その両方、もしくはどちらかひとつだけでもいい。
じっくり読んでみれば、わかる。
それも、そこで取り上げられている項目について、
自分で文章を書いて誰か(不特定の読者)に説明しようとしたら、どう書くか。
そのことを考えながら読んでみれば、その難しさがわかるし、
瀬川先生、岩崎先生が、いかに苦労して書かれたのかも理解できる。

そして、もうひとつ理解できるのは、ふたりのオーディオの知識の確かさである。

Date: 9月 12th, 2013
Cate: デザイン

オーディオのデザイン、オーディオとデザイン(ダストカバーのこと・その4)

こんなことを書くと、
そんなことは科学的にありえない、オカルトだ、という人がいるのはわかっている。
それでも書くのだが、オーディオ機器で、アンプにしてもCDプレーヤーにしても、
筐体を密閉もしくはそれに非常に近い状態にしたとき、往々にして音の伸びやかさがおさえられる傾向がある。

アナログプレーヤーの場合も、ダストカバーを閉じた状態の音は、同じところが存在し、
ダストカバーを外した音を聴いたあとでは、ダストカバーを閉じた状態の音を、
すくなくとも私は聴こうとは思わない。

もちろん人によって、求める音は同じところもあれば違うところもあるわけで、
ダストカバーを閉じた状態の音の傾向を、良し、とされることだってある。

もし私がそうだったとしても、ダストカバーを閉じた状態のアナログプレーヤーは、
あまり美しいとは感じない。
プレーヤーのデザインが優れていればいるほど、
ダストカバーを閉じてしまうと、ダストカバーの存在が余計なものとしてしか見えなくなってしまう。
特にプレーヤー本体の厚みに対して、ダストカバーのほうが分厚く感じてしまうと、
もう見るのも嫌になってしまう。
ピカリングのFA145がそうだ。なぜこんなにもダストカバーを厚くしてしまったのか、と思う。

B&Oのアナログプレーヤー、Beogramの一連のシリーズでも、ダストカバーは一般的な形状のアクリル製である。

ダストカバーにまで気を配ったプレーヤーも、数は少ないながらもある。
たとえばエンパイアの598や698。
パイオニアのExclusive P3があり、
少し変ったところではトランスクリプターのSkeletonがある。

Date: 9月 12th, 2013
Cate: 音の毒

「はだしのゲン」(その14)

A氏の録音に対して強い口調で「毒にも薬にもならない」と私に話された人は、
録音に対して非常に造詣の深い人である。
その人が、あえてA氏の名前を出されたことの意味を、考えてしまう。

「毒にも薬にもならない」存在の優秀録音は、案外増えて来つつあるのではなかろうか。
私は、A氏の録音されるジャンルの音楽をほとんど聴かないから、
そのへんの事情については疎いところがある。

でも、この「毒にも薬にもならない」は、何も録音のことだけにとどまらず、
いまのオーディオの聴かせる音についても、あてはまる。

以前は、ひどい音を出すオーディオ機器があった。
現行製品で、そんなオーディオ機器はもうない、といえるだろう。
まったくなくなったわけでもないだろうが、その割合はずっと少なくなっている。

いまのオーディオ機器は、ある水準にあり、
だからこそ、どの製品を買っても、まず大きな失敗ということはない、ともいえる。
優秀な製品が増えた、ということでもある。

これはけっこうなことである。
あるけれども、そのことと「毒にも薬にもならない」再生音・録音が増えてきたことが、
無関係なこととはどうしても思えない。

なんと表現したらいいのだろうか、
「毒にも薬にもならない」音のことを。

いまのところ思いつくのは、薄っぺらな清潔な音だ。

Date: 9月 12th, 2013
Cate: デザイン

オーディオのデザイン、オーディオとデザイン(ダストカバーのこと・その3)

ダストカバーの存在、その使用状態はハウリングマージンにも関係してくるが、
やはり音への影響のほうが気になる。

ダストカバーの大半はアクリル製で、プレーヤー本体とはヒンジで結合されている。
ダストカバーを開けている状態では、ダストカバーはヒンジでのみ支えられているわけだから、
いわば片持ち状態で、あれだけの大きさ(表面積と凹み部分の容積)があれば、
スピーカーからの音圧を正面から捉えてしまうことになるのは容易に想像できる。

閉じた状態では、ダストカバーはヒンジの他に、ダストカバーにちょこんとつけられている小さなゴムで、
プレーヤーのキャビネットに接触する例が多い。
ダストカバーを閉じることで、
カートリッジやトーンアームが直接スピーカーからの音圧にさらされないメリットはある反面、
ダストカバーそのものの振動の影響が、
開けている状態ではヒンジによってのみプレーヤー本体に伝わってきていたのが、
閉じていればゴムを伝わってくることになる。
振動のモードは、閉じている状態と開けている状態とでは、かなり違ってくるはずだ。

そういう共振のシンプル化ということで考えれば、
ダストカバーを取り外した状態がいちばんすっきりとしたかたちになる。
そして、ここで考えてほしいのは、メーカーがプレーヤーを開発するときに、
メーカーの試聴室において、ダストカバーをどういう状態にして試聴しているのか、である。

でき上がってきた製品(プレーヤー)を聴くかぎり、
ほとんどがダストカバーは取り外した状態で試聴されているように思われる。

Date: 9月 12th, 2013
Cate: デザイン

オーディオのデザイン、オーディオとデザイン(ダストカバーのこと・その2)

わたしがいたころは、ステレオサウンドでのアナログプレーヤーの試聴において、
ダストカバーは取り外して聴くのがあたりまえのことになっていた。

ダストカバーを開いた状態とか閉じた状態ではなく、
完全にダストカバーをプレーヤー本体から分離した状態での試聴であった。

ダストカバーは、ハウリングマージンに影響してくる。
1977年に誠文堂新光社から無線と実験別冊として出た「プレーヤー・システムとその活きた使い方」に、
アナログプレーヤー、八機種のハウリング特性の測定結果が載っている。

この測定は、それぞれの機種において、
ダストカバーを開いた状態、閉じた状態、そして取り外した状態での結果が、グラフで表示されている。

プレーヤーの構造や材質によって多少細部は違う結果になっているものの、
全般的にいえるのは、ダストカバーを開いた状態よりも閉じた状態のほうが、
ピークが出にくい傾向にある、ということ。
つまりハウリングを起しにくい、ともいえる。

ただし、この測定は左右両スピーカーの中央、
つまり聴取位置に設置しての測定ゆえに、スピーカーからの音圧をほぼ正面から受けることになり、
ダストカバーの開閉の影響も、実際のリスニングルームにおいて、
ハウリングの少ない位置を探して出して設置したときよりも顕著に出ている、ともいえる。

ダストカバーを取り外した状態は、ダストカバーを閉じた状態に近い。
ただダストカバーの重量とプレーヤー本体の重量の比によって、
最低共振周波数に変化が見られるものもある。
帯域によっては、取り外した状態がよくなるプレーヤーもある。

ハウリングの測定結果においてもこういう結果が出るだけに、
実際に音を聴けば、ダストカバーの状態によって、音は多少なりとも影響を受け、
全般的にダストカバーを取り外して、しっかりとした台に、ハウリングの起きにくい場所に設置するのが、
音質的には好ましい結果が得られる。

Date: 9月 12th, 2013
Cate: デザイン

オーディオのデザイン、オーディオとデザイン(ダストカバーのこと・その1)

最初に使ったアナログプレーヤーはデンオンの普及型だった。
その次がマイクロの糸ドライブ、RX5000 + RY5500に、SMEの3012-R Specialの組合せ、
その次がEMT・930stのトーレンス版である101 Limited、
そしてEMTの927Dstも使った。

いま手元には二台のアナログプレーヤーがある。
927Dstと較べると、どちらもずっとコンパクトなモデルだ。

私のアナログプレーヤー遍歴の中で、
いわゆるダストカバーがついていたモデルは、最初のデンオンだけである。
それから後に使ってきたプレーヤーには、どれもダストカバーはついてなかった。

930stにはオプションでプラスチック製のダストカバーがあることが、
カタログをみればわかるものの、実物をみたことはないし、
あえて欲しいと思わせるものだはなかった。
カタログをひっぱり出して確認すればいいのだが、
たしか930-900(930st専用のインシュレーター)との併用を前提としていて、
ヒンジはないから、上からかぶせておくだけのものだった。

レコードをかけるときには取り外して、どこかにダストカバーを置くしかない。
そういうものだったから、欲しい、とは思わなかったし、
形もつくりも一般的なダストカバー的だった。

なにもダストカバーがないのを意識して選んできたわけではなくて、
たまたま選んできたモデルに、ダストカバーなしが大半だった、ということだ。

ダストカバーは、文字通りホコリよけのカバーである。

Date: 9月 11th, 2013
Cate: フルレンジユニット

シングルボイスコイル型フルレンジユニットのいまにおける魅力(その4)

音像についての感じ方は、じつに人さまざまだ、ということに気がついたのは、
ステレオサウンドで働くようになってからだった。

感じ方もそうなのだが、それ以降思うようになったのは、
音像そのものの捉え方が人によって、これもさまざまだということである。

これについては、いずれ音場と音像をテーマにして書くつもりでいる。
だから、ここではこれ以上深くはふれないが、
音像について、私のように非常に気にする人もいれば、まったくそうでない人もいる。
その中間ぐらいの人もいる。

だから私のように気にする人のいうことは、
まったく、もしくはあまり気にしない人にとっては、
マルチウェイのスピーカーシステムの音像に対して、安定さを欠くようには思わないだろう。

それにスピーカーシステムだって、20年前、30年前のモノからすれば、
この点も改善されているのはわかっている。
それでも、よくできた小口径から中口径のフルレンジユニットを素直に鳴らしたときの、
音像の良さの安定感は、安心して聴ける、という点で、やはりはっきりとした違いをいまも感じてしまう。

聴く音楽によっても違ってくるのだが、
音像に不安定さを感じさせるスピーカーシステムで聴く場合、
あえてセンターから外れたところで聴きたくなるときもある。
センターに坐れば、それだけシビアに気になってしまう。
ならばいっそのことセンターからある程度外れたところで聴けば、
特にセンター定位の音像の不安定さに心を惑わされずに、気にすることなく聴けるということもある。

Date: 9月 11th, 2013
Cate: 進歩・進化

拡張と集中(その4)

現在市場に出廻っているスピーカーシステムで世評の高いモノすべてとはいわないが、
多くのスピーカーシステムの物理特性は、はっきりと向上している。

周波数特性については既に述べている。
見事というしかない周波数特性を実現しているスピーカーシステムも、もう珍しくなくなってきている。

周波数特性だけではなく、歪率も減ってきている。
サインウェーヴによる測定項目だけでなく、パルスによる測定項目においても特性の改善は著しい。

それだけそれまでの技術の集積があり、それをベースとした向上があるからこその、
物理特性の向上である。
ここまでの物理特性の向上は、オーディオを工業製品ととらえれば、はっきりと進歩であるわけだ。

これらのことは、別の言葉で表現すれば、リニアリティ(直線性)の向上である。

周波数特性は、あらゆる帯域の音に対してのリニアリティであり、
歪率にしても、どれだけ低歪にできるかはリニアリティを向上させていくことだし、
そのリニアリティの領域をどこまで(周波素的にも、レベル的にも、位相的にも、など)
のばしていくことができるか、ともいえる。

だとすれば、スピーカーシステムにおける物理特性の向上は、リニアリティの向上であり、
リニアリティの向上とはリニアリティの領域を拡げていくこと、
つまり、進歩は、拡張といいかえたほうが、しっくりくる。

Date: 9月 11th, 2013
Cate: ジャーナリズム, 岩崎千明, 瀬川冬樹

「オーディオABC」と「カタログに強くなろう」(その6)

インターネットがなかったころには、こういう入門書の必要性は高かっただろうが、
いまではインターネットに、どこからでもアクセスできるようになり検索できるわけだから、
昔ほどには必要性はない──、
そういうことになれば、わざわざ項目をたてて書く必要もないわけだが、
むしろ昔よりも、いまのほうが必要性は増している、と私は考えている。

もう10年近く前のことだ。
ある人が、CDについて自身のサイトで公開していた。
そこには「CDは角速度一定だから」という記述があった。
たまたま、その人とは面識があったから、間違いの指摘の電話をした。

彼いわく、
今回のことを書くためにインターネットであれこれ調べた。
いくつかのサイトを見つけて、その中でいちばん信頼できると判断したサイトに、
「CDは角速度一定」と書いてあった、と。

何かについて書くときに調べてから、というのは理解できる。
けれど、わざわざ間違いが書いてあるサイトを、他のサイトよりも正しいと思い込み、
そのまま「CDは角速度一定」と信じ、文章を書く。

どのサイトに書いてあることを信用するのか、
それを見極めるに必要なものが、彼には欠けていた、といえるわけだが、
たまたま私が知っている例が彼だというだけの話であって、
この手の話は意外にも少なくないように思う。

Date: 9月 11th, 2013
Cate: 日本の音

日本の音、日本のオーディオ(その33)

イソダケーブルの考え方のヴァリエーションとして、合金を使うという手もある。
イソダケーブルは銅線、アルミ線などといった複数の金属導体を使っている。
ただしそれらは独立した導体である。
これもブレンドのひとつの手法であるのならば、
すべての金属を混ぜてしまい合金にしてしまうというブレンド手法もあるわけだ。

合金のブレンドをどうするのか、
いったい何種類の金属をどういう比率で混ぜ合わせるのか、
そういうことを追求していくことで、
いままで銅の純度を極限まで高めていこうとしている現在のケーブルとは、
まったく違った音を聴かせてくれるのかもしれない。

同時に、まったく聴きなれない音に拒否反応を示す可能性だって考えられる。
われわれはそのくらい、ケーブルといえば銅線が、はっきりとした基準(ベース)になっているからだ。

銅の純度を上げていくことが、ケーブルの音を無色透明としていくのか、
それともいくつもの金属素材を混ぜ合わせて、
最良のブレンドを探しだすことがケーブルの音を無色透明にするのか、
どちらが正しいのかは、いまところなんともいえない。

ただピアノの音について考えるときに、
これまでに世の中に登場してきたすべてのピアノの音を混ぜ合わせたとしたら、
そこで得られる音こそが、製造メーカーによる個性を消し去ったピアノの音とは考えられないのか。

それこそが無色透明なピアノの音、
このいい方は、やはりおかしいから、無垢なピアノの音ということになるのかもしれない。

Date: 9月 10th, 2013
Cate: ジャーナリズム, 岩崎千明, 瀬川冬樹

「オーディオABC」と「カタログに強くなろう」(その5)

「オーディオABC」と「カタログに強くなろう」のすごさがわかるようになるには、時間が必要である。

だからといって、オーディオをやり始めたばかりのとき、
いいかえれば、このふたつのすごさがよく理解できないときに、
「オーディオABC」と「カタログに強くなろう」を読まなくてもいい、というわけではなく、
むしろ、その反対で、できるだけ早い時期に読んでいて、
とにかく理解しようとすることがなければ、その後、どれだけ時間が経とうとも、
「オーディオABC」と「カタログに強くなろう」のすごさはわからない。

「オーディオABC」、「カタログに強くなろう」からオーディオの基礎・基本を出発することで、
いずれ、そのことがどれだけ確かなことをベースにしてこれたのか、に気づくだろうし、
「オーディオABC」、「カタログに強くなろう」を書くことの難しさにも気づくはずだ。

だから、岡先生が「オーディオABC」ではなくて「オーディオXYZ」と題した方がよかった、
と書評に書かれたことが理解できる。

「オーディオABC」も「カタログに強くなろう」も、
タイトルからも、編集者の意図からかも、掲載されたFM誌の性格からしても、
オーディオ入門者に向けてのものではあったはずだ。

けれど、一般的な意味でのオーディオ入門書では、決してない。

Date: 9月 10th, 2013
Cate: 日本の音

日本の音、日本のオーディオ(その32)

イソダケーブルの音は、ステレオサウンドの試聴室で聴いている。
銅だけ、銀だけ、つまり単一導体を使用したケーブルとは、あきからに違う音が、
当時の試聴室のリファレンススピーカーだったJBLから、してきた。

不思議な音だな、という印象が、とにかく強かった。
このケーブルの開発者の磯田氏も一緒の試聴だった。

磯田氏が、このときのJBLの音をどう感じられていたのかは、私にはなんともいえないけれど、
あの時の音をふり返ってみると、
イソダケーブルのブレンドは、JBLのスピーカーシステムには不向きだった、とはいえる。

磯田氏がどういうスピーカーシステム、どういうシステムで聴かれているのか、
つまりそのシステムで、このケーブルのブレンドは決定されているわけだから、
磯田氏のシステムにぴったりとブレンドされたケーブルであればあるほど、
試聴室のスピーカーシステムに接いで聴く、という条件は、うまく合う可能性が低い方に傾いている。

つまり、この時のイソダケーブルのブレンドよりも、
もっといい方向へもっていってくれるブレンドがある、
つまり普遍的なブレンドがある、ということである。

結局、ステレオサウンドでイソダケーブルを取り上げることはなかったが、
ラジオ技術ではときどき取り上げられていて、五十嵐一郎氏は積極的に評価されていたし、
海外での評価は高い、ともきいていた。

いまどうなっているのだろう、とインターネットで検索してみると、
活動を停止していた時期があったようだが、いまもイソダケーブルは健在であることがわかった。

あのとき以来、イソダケーブルの音は聴いていない。
けれど、これだけ長く、ある評価を得ているということは、
あのときのブレンドよりも、普遍的なブレンドへと変っていったのかもしれない。

Date: 9月 10th, 2013
Cate: 日本の音

日本の音、日本のオーディオ(その31)

たとえばコーヒー。
コーヒー豆の種類はいくつもある。
産地(生産地、集積・出荷地)によって、名前がついている、
コロムビア、キリマンジャロ、モカ、マンデリンなどである。

コーヒーを淹れるとき、豆を一種類のみ使うのか、
数種類の豆を混ぜて使う場合とかがある。

後者で淹れたコーヒーをブレンドコーヒーといい、前者で淹れたコーヒーはストレートコーヒーという。
決して前者を、ピュアコーヒーとはいわない。

オーディオ的、いまのオーディオ・ケーブル的な言い方をするならば、
一種類のコーヒー豆のみは、他のコーヒー豆が混じっていないわけだから、
豆の種類がコロムビアにしろ、モカにしろ、
コロムビア100%、モカ100%というわけだから、
それこそピュア・コロムビア、ピュア・モカといおうとすればいえるわけだ。

だがそんな言い方はせずに、ストレートという言葉が使われている。

コーヒーとオーディオのケーブルを一緒くたにはできないところはある。
けれど、銅の純度を追求して99.9999…としていくことは、
たしかにピュア(純度)を高めているわけだが、
結果としての音がピュアになるのかは、また別のことになることだって考えられる。

そういえば1983年ごろ、あるケーブルがステレオサウンドに持ち込まれたことを思い出す。
イソダケーブルという、そのケーブルは銅だけでなく、アルミやその他の金属を使った、
いわばコーヒーでいうところの、ブレンド・ケーブルだった。

Date: 9月 9th, 2013
Cate: 日本の音

日本の音、日本のオーディオ(その30)

ピアノの音色が無色透明であるということは、いったいどういうことなのだろうか。
そういうことはありえるのだろうか。

ピアノの音色が無色透明になるとしたら、それは純度を極限まで高めていくことなのか。
とにかく、そう考えた。

純度を高めていく──。
そんなことがピアノの音色において、果して可能なのだろうか。

純度を高めていっているものとして、オーディオですぐに例として挙げられるのは、
ケーブルの素材である。
1970年代に無酸素銅が登場し、’80年代にはいり銅線の純度を高めていくことが追求されていった。
99.9%、99.99%、99.999%……と小数点以下の9の数が増えていった。

不純物を銅から取り除く。
そうやってすこしずつ銅の純度を高めていく。
99.9%の銅よりも99.99%の銅のほうが純度は高くなるわけだが、
銅の純度を高くしていくということは、音の純度を高くしていくことと、完全に一致することなのだろうか。

こんな考えもできる。
銅の純度を99.9999%(6N)、99.99999%(7N)、さらには8Nまで登場しているわけだが、
これは銅という素材のもつ音が、より強く出てくることにもなる──、
そうはいえないだろうか。

銅の純度を高くしていくということは、銅の固有の音を純殿の低いものよりも高いもののほうが、
よりストレートに出してくる──、
この可能性を否定できるだろうか。

Date: 9月 9th, 2013
Cate: ジャーナリズム, 岩崎千明, 瀬川冬樹

「オーディオABC」と「カタログに強くなろう」(その4)

私のところに届いた「カタログに強くなろう」の記事は20本あった。
音をテーマにした記事、スピーカーをテーマにした記事が含まれた20本だった(1本抜けがあった)。

いつごろ連載されていたのかは、送ってくださった人もはっきりとはわからない、とのことだった。
記事の裏側に載っていた広告からすると、この連載の1974年ごろから始まったと思われる。

「カタログに強くなろう」、
いかにも初心者向きの記事といったタイトルのつけ方だ。

中学生のときの私だったら、素直に読み始めただろう、
でもこの記事が届いたときの私は、もう中学生ではなかった。
この「カタログに強くなろう」を書かれていたころの岩崎先生よりも、少し上になっていた。

軽い気持で読み始めた。
おもしろい。
私が担当編集者だたら、「カタログに強くなろう」というタイトルはつけない、と思った。

中学生のとき読んでいたら、いま感じている、この連載の価値はよくわからなかったはずだ。

岡先生は瀬川先生の「オーディオABC」について、
「オーディオXYZ」と題した方がよかった、と書かれている。

正直、「オーディオABC」を最初に読んだ時は、
岡先生がそこまでいわれることが、まだ理解できていなかったところもあった。

「オーディオABC」はたしかにいい本である。
でも、中学生にとっては、岡先生と同じようには読み込むことができていなかった。
それは、ふり返ってみれば、当然のことなのだが、当時はそんなことには気がつかない。

瀬川先生の「オーディオABC」、岩崎先生の「カタログに強くなろう」のすごさがわかるようになるには、
読み手側の勉強と経験が必要だということだ。