Date: 9月 9th, 2013
Cate: 日本の音

日本の音、日本のオーディオ(その29)

この項を書き始めると同時に考えていることがある。

ピアノの音色とは?、である。

われわれはピアノの音を聴けば、それがコンサートでの生の音であっても、
小型ラジオについている貧弱なスピーカーから流れてくる音であっても、
きちんとしたオーディオから流れてくる音であっても、ピアノの音はピアノと認識して、
ヴァイオリンや他の楽器の音は間違える人は、およそいない。

生の音もラジオの音も、オーディオの音も、
聴きようによってはずいぶん違うといえるのに、ピアノの音として聴いている、認識できる。
その一方で、スタインウェイのピアノ、ベーゼンドルファーのピアノ、ヤマハのピアノの音を区別もしている。

スタインウェイのピアノの音はヤマハのピアノからは聴けない、その逆もまた聴くことできない。
どちらもピアノという楽器と認識しているにも関わらず、にだ。
スタインウェイのピアノにはスタインウェイの、
ベーゼンドルファーにはベーゼンドルファーの、
ヤマハにはヤマハの、それぞれの独自の音色がある。

つまり、オーディオ的にこのことを捉えるならば、無色透明なピアノの音は存在しないのか、
こんなことを考えている。

Date: 9月 9th, 2013
Cate: ジャーナリズム, 岩崎千明, 瀬川冬樹

「オーディオABC」と「カタログに強くなろう」(その3)

「オーディオABC」は、FM fanでの、同タイトルの連載記事に訂正・補足をくわえ、まとめたものである。
「オーディオABC」のあとがきには、昭和51年12月、とある。
1976年、この年の秋に、私は「五味オーディオ教室」に出逢っている。

オーディオ関係の雑誌を読み始めるようになったのは1976年の冬あたりからなので、
FM fanでの連載を直接読んでいたわけではない。

音楽之友社がそのころ出していた週刊FMは、FM fanのライバル誌であった。
「オーディオABC」がいつごのFM fanから載り始めたのか、は調べていない。
でも上巻、下巻、二冊にまとめられているのだから、一年くらい連載ではなかっただろう。
もっと長かったはずだ。

FM fanも週刊FMも月二回の発行だから、一年で24回の連載。
そうなると数年は連載が続いていた、と思われる。

とすると、週刊FMに連載されていた「カタログに強くなろう」と「オーディオABC」は連載時期が重なる。

「カタログに強くなろう」は岩崎先生による連載記事のタイトルである。
この連載があったことも、実は当時は知らなかった。
「カタログに強くなろう」を知ったのは、たしか2011年の冬ごろだった。

このブログを読んでくださっている方から連絡があり、
記事の切り抜きを送ってくださったおかげである。

Date: 9月 8th, 2013
Cate: 日本の音

日本の音、日本のオーディオ(その28)

かなり以前に、キース・ジャレット(もしかすると他のジャズ・ピアニストかもしれない)が来日した際に、
スイングジャーナルのインタヴューに、
いまいちばん欲しいモノとして、ヤマハのピアノを挙げている。

そんなのは社交辞令だろう、と思う人がいる。
私も、その記事が載ったころに読んでいれば、そう思っただろう。

でも、いまは違う。
おそらく本音での、ヤマハのピアノが欲しい、だったはずだ。

ピアノといえば、まっさきに浮ぶのはスタインウェイの存在だ。
それからベーゼンドルファーがある。
クラシックを聴く私にとっては、そんなイメージである。

ヤマハのピアノは、スタインウェイとベーゼンドルファーからすれば、
特にこれといった理由はないのだが、昔から下に位置するピアノとして捉えていた。

グールドがヤマハのCFにする以前から、
リヒテルがヤマハのピアノにしていたことは知ってはいても、
それは例外中の例外というふうに勝手に捉えていた。

ピアノという楽器としての音色の魅力ということでは、
スタインウェイ、ベーゼンドルファーのピアノは、ヤマハのピアノとは根本的に違うものがあるとは思う。
それは他に変え難い魅力でもあるから、よけいにそう感じてしまうのかもしれない。

それほど音色の魅力は大きい。

Date: 9月 8th, 2013
Cate: ジャーナリズム, 岩崎千明, 瀬川冬樹

「オーディオABC」と「カタログに強くなろう」(その2)

瀬川先生の著書「オーディオABC」の上巻は1977年に共同通信社から出ている。
この本の、岡先生に書評がステレオサウンド 43号に載った。
(下巻の書評は46号に載っている。こちらも岡先生)

43号は、私にとって3号目のステレオサウンド。
オーディオに興味をもちはじめて、基礎的・基本的なことを吸収し始めたばかりのころにあたる。

岡先生はこう書かれていた。
     *
オーディオ・ブームといわれる現象がおこる以前からオーディオ入門書といった類の本はいくつかあり、最近はブームを反映してますますその種の出版物が賑わっている。瀬川さんの新著も「オーディオABC」というタイトルから、そういう類の本だろう、とおもわれてしまうにちがいないが、内容はさにあらずだ。むしろ「オーディオXYZ」と題した方がよかった。つまり音楽再生のためのオーディオのゆきつかなければならぬところを想定して、それがオーディオ機器のハード的なふるまいとどんな風にむすびついているのかというアプローチがこの本の根本的なテーマになっている。こういう書き方というものはやさしいようで実は一ばんむずかしいのである。
     *
この書評を読んで、「オーディオABC」は買わなければならない本、
しっかりと読まなければならない本だとおもい、手に入れた。

運が良かった、とおもう。
オーディオの、ごくはじめの段階で、「オーディオABC」という本があった。

オーディオにはいったきっかけとして、まわりにオーディオをやっていた人がいたから、
ということを挙げる人は少なくない。
そういう場合、まわりの人が、いわば師匠となることが多い(らしい)。

らしい、と書いたのは、私にはまわりにそういう人がいなかった。
だから、本だけが頼りだった。質の高い本だけを頼りにしていた。

Date: 9月 8th, 2013
Cate: ジャーナリズム, 岩崎千明, 瀬川冬樹

「オーディオABC」と「カタログに強くなろう」(その1)

書店に行くと、オーディオ関係のムックがときどき置いてある。
ステレオサウンド、音楽之友社など、これまでもいまでもオーディオ関係の本を出している出版社のではなく、
ほとんどオーディオとは関係のない出版社から出ているのを見れば、
オーディオは、いま静かなブームなのか、とも思えてくる。

売れないとわかっている本をわざわざ出すわけはないのだから、
出す側としては、ある程度の部数はさばけるという読みがあってのことだろう。
ならば、いまはオーディオ・ブームが始まろうとしているのか、ともいえることになる。

オーディオ・ブームが始っている(始まろうとしている)、として、
私がオーディオに関心をもち始めたころと、つい比較してしまうと、
いわゆる入門書と呼べる存在がないことに気づく。

いまはインターネットがある。
だから、そういった本はいらない、という見方もある。
けれど一冊の本で、きちっとまとめられた内容のものは、やはり必要である。

難しい理屈はいらない、いい音が簡単に得られればいい、と考える人に、
基本から丁寧に説明していってくれる内容の本は不必要だろうが、
そうでない人、さらに深い領域に自らはいっていこうとしている人にとっては、
昔もいまも必要とすべき本がなければならない。

とはいえ、昔も、そういう本がいくつもあったわけではない。
けれど、少なくともいくつかはあった。

Date: 9月 7th, 2013
Cate: 日本の音

日本の音、日本のオーディオ(その27)

グレン・グールドは、ゴールドベルグ変奏曲の再録音に使ったヤマハのピアノ、CFについてこう語っている。
「これはコンピューターにまさるとも劣らぬエレクトロニック・マシーンだ。ぼくはチップ一枚はずんでやればいい」

ヤマハのCFが、こういうピアノであったからこそ、
グールドはゴールドベルグ変奏曲の反復指定を、再録音では行った、とは考えられないだろうか。

グールドはヤマハのCFを絶賛していた。
そういうピアノであったからこそ、それまでのピアノ、
それが気に入っていたピアノであったにしても、ヤマハのCFはそれ以上であったとしたら、
それまでのピアノでは困難だった表現も容易になった。

そう考えると、もし以前のピアノが運送途中で壊されることがなかったら、
グールドはかわりとなる新しいピアノを探すことはなかっただろう。
つまりヤマハのCFと出逢うことはなかった。

ヤマハのCFは、グールドにとって、音色のコントロールが非常に容易なピアノでもあったのではないのか。

これはあくまでも私の仮説でしかないのだが、
そう考えると、再録音で反復指定の前半を行っていること──、
反復指定では音色を意図的に自由に変えることもできるピアノがあり、
その微妙な音色の変化を、すくなくともそれまで以上にはっきりと録音できるようになった──、
だからグールドは反復指定を省かなかった。

Date: 9月 6th, 2013
Cate: 日本の音

日本の音、日本のオーディオ(その26)

菅野先生の録音として知られる「SIDE by SIDE」は、A面とB面で、録音に使っているピアノが違う。
ピエール=ロラン・エマールによる「フーガの技法」では、
ピアノの調律をピエール=ロラン・エマールが求める音色に応じて変化させてある。

この音色の違いを出すことは、「SIDE by SIDE」よりも「フーガの技法」の方が、
調律はいくつか変えてあるというものの、同じピアノであるだけに、より微妙で難しい面がある。

それはなにも再生だけがそうであるわけではなく、
録音においてもそうだったはずだ。

そして、より微妙で難しい音色の鳴らし分けは、一台のピアノで調律を途中で変えずに、
ピアニストの演奏テクニックによってのみ音色を変化させていく場合である。

グレン・グールドは、よく知られているように最初の録音、
つまりバッハのゴールドベルグ変奏曲では反復指定を大胆にも省いている。
それが晩年の再録音では反復指定の前半は行っている。

その理由は、決してひとつではないように思う。
グールドも旧録音と再録音のあいだ分だけ歳を重ねている。
そういうことによるグールド自身の変化もあっただろうが、
録音の変化・進歩があり、ピアノも違ってきていることも、無視できない理由のひとつのように思えてくる。

つまり録音に関してはモノーラルからステレオになり、機材の進歩があり、
録音方式自体もアナログからデジタルへの変化を迎えている。

このことによってテープに記録される情報量は、
旧録音と新録音とでははっきりとした違いがある。
その違いが、旧録音では捉えることができなかった(もしくは困難だった)、
グールドの演奏テクニックによる音色の変化をうまく捉えることができなかったのではないのか。

しかも、このことには録音だけではなく、ピアノそのものも大きく関係してくる。

Date: 9月 6th, 2013
Cate: 会うこと・話すこと

会って話すと云うこと(その3)

四谷三丁目の路地裏にひっそりとあるジャズ喫茶、喫茶茶会記。
店の奥に、大小ふたつのスペースがあり、おもに小さなスペースの方で毎月第一水曜日に、
audio sharingの例会をやっている。

つまり私にとって、最低でも月一回は人と会ってオーディオ、音楽のことを話すことになる。
話していると気づくことがある。

今回もいくつかあって、その中のひとつは驚き、とまではいかないものの、
こんなにも捉え方が違ってくるのか、というおもいがした。

ある人のブログに、アナログプレーヤーの調整を六時間かけておこなった、という記述があったそうだ。
私はその人のブログを知らないから読んではいない。

そのことを話してくれた人は、アナログプレーヤーの調整に六時間かけた、
ということに、ブログを書いている人のことを、プロだなぁ、と思った、ということだった。

前後の文章を私は読んでいない。
アナログプレーヤーの調整に六時間かけた、ということだけから、そんな私が思うことは、
この話をしてくれた人とは反対のことで、熱心なアマチュアの方だなぁ、だった。

アナログプレーヤー調整に六時間かける──、
このことをひとりはプロのやることだ、と受けとめ、ひとり(私)はアマチュア的だ、と受けとめる。
正反対の感じ方をしている。

ブログを書かれている人が、どう思って書かれたのかはわからない。
でも、確実にいえるのは、読み手によって受けとめ方がまるで違うことがある、ということだ。

Date: 9月 5th, 2013
Cate: 「オーディオ」考

オーディオとは……(その3)

この時代にフルレンジユニットで音を聴く、
古き良き時代の高能率のナロウレンジのスピーカーシステムで音を聴く、
これらの行為も、私には「確認」でもある。

Date: 9月 5th, 2013
Cate: 進歩・進化

拡張と集中(その3)

いいモノの絶対数が増えて、
毎年登場する、多くの新製品の数に対して、
いいモノが占める割合が以前よりもあきらかに高くなっていたとしても、
オーディオに関しては、進歩・進化ということばを使う際に、ためらいを感じてしまう。

スピーカーシステムにしても、昔と今とでは特性ひとつとってみても、ずいぶんと違う。
周波数特性をみても、はっきりと向上しているのがわかる。
これは、もう誰の目にもあきらかなことで、このことを否定する人はいない、と思う。

周波数特性は大型スピーカーが主流だったモノーラル時代からすれば、
低域・高域ともに伸びているし、
昔のスピーカーシステムはナロウレンジだったわけだが、
そのナロウレンジの帯域だけを比較してみても、現代の優れたスピーカーシステムは、
昔のスピーカーの周波数特性のグラフが手描き(それも拙い手描き)だとすれば、
現在の優秀なスピーカーの特性は、少々大袈裟にいえば定規を使ったかのように平坦に仕上っている。

このまま特性が向上していけば、スピーカーシステムの周波数特性は、
いまのアンプの周波数特性並になるのかもしれない──、
そんな予感さえ思うほどに精確な特性へと確実になっている。

ならば、もう古き良き時代のスピーカーシステムなんて用済みであり、
そんな時代のスピーカーシステムを欲しがる者は、懐古趣味の沼にどっぷりはまっているだけのこと。
いまや、スピーカーシステムも、すべてにおいて古き良き時代のスピーカーシステムを上回っている。

私だって、心の底からそういいたい。
だが、現実にはなかなかそうはいえない。
そういえる日が、あと10年くらいで訪れるのだろうか。

Date: 9月 5th, 2013
Cate: フルレンジユニット

シングルボイスコイル型フルレンジユニットのいまにおける魅力(その3)

最初はラジオだった、その次にラジカセで音楽を聴いてきた。
ラジオもラジカセも、私が子供のころにはモノーラルが当り前だった。

ステレオ仕様のラジカセはあったのか。
あったのかもしれないが、手が出せる価格ではなかっただろう。
とにかく小遣いを貯めて買える価格のラジオ、ラジカセは、どれもモノーラルで、
スピーカーはフルレンジユニットだった。

トゥイーターなんてものは、ついてなかった、そういう時代に音楽を聴き始めている。

そういえばテレビもそうだ。
音声多重放送が始る前からだから、モノーラル。
こちらもスピーカーはフルレンジである。
そんなテレビで歌番組を見て(聴いて)育ってきている。

そのためなのかどうかはなんともいえないが、
とにかくステレオ再生において、音像定位に不安定さを感じてしまうのが、どうしてもいやである。

オーディオには、人それぞれ優先順位といえるものがある。
すべてを完全に満足させられる音が得られるのであれば、
こんな優先樹医的なものはいらなくなるけれど、
現実には、この部分には目をつぶれるけど、こちらの部分はそうはいかない──、
それは人によって違っても、みな持っているはず。

私ももっている。
そのひとつが音像定位の良さの安定感である。
もちろん、これだけではないけれど、
いくつかの項目とともに、このことは絶対に譲れないところである。

Date: 9月 5th, 2013
Cate: フルレンジユニット

シングルボイスコイル型フルレンジユニットのいまにおける魅力(その2)

いま私はJBLのD130をC40エンクロージュアに入れて聴いている。
内蔵のネットワークN1200とドライバー175DLHを使えば2ウェイとしてもすぐに鳴らせるのだが、
D130をソロで鳴らす魅力に、いまのところぞっこんである。

とはいえ、15インチ(38cm)口径の、このD130をフルレンジユニットの代表として、
誰かにすすめられるかとなると、一般的なフルレンジユニットということでは、
別のユニットをすすめる。

ここでいう別のユニットとは、おもにD130よりも口径の小さなフルレンジユニットという意味合いが強い。

D130もフルレンジユニットとして認識されているけれど、
この項で私が触れたいフルレンジユニットということになると、
その下の12インチ(30cm)でも、まだ大きいと感じる。
ぎりぎり10インチ(25cm)より小さな口径から、一般的な、という意味でのフルレンジユニットになってくる。

つまり、もっと小口径のものもあるのは知っているが、
ここでは4インチ(10cm)、6.5インチ(16cm)、8インチ(20cm)口径のフルレンジユニット、
それも最初に書いたように同軸型構造ではなく、シングルコーンであってもダブルコーンであっても、
ボイスコイルがひとつ(シングルボイスコイル)のモノのことである。

シングルボイスコイルのフルレンジユニットの魅力は、
人によって異ってくるところもあれば共通するところもある。

私がフルレンジユニットの音を聴いて、改めて感じるのは音像定位の良さ、
というよりも、その安定感の良さである。
しかも、この安定感の良さは、口径が小さくなるほどに増してくるところを感じる。
口径が小さくなるにつれて、音のスケールは小さくなっていく傾向にあっても、
こと音像定位の安定感の良さとなると、小口径フルレンジユニットの魅力は増していく。

Date: 9月 5th, 2013
Cate: フルレンジユニット

シングルボイスコイル型フルレンジユニットのいまにおける魅力(その1)

別項「素朴な音、素朴な組合せ」で書いていることと重なることにもなるが、
フルレンジユニット(シングルボイスコイルのユニット)のことについて、いくつか書きたいことがある。

2013年のいま、フルレンジユニットの存在・価値を認めるか、認めないか、
これは、その人のオーディオに対する考え、概念、そして姿勢を現すことにもなる──、私はそう考えている。

ここでいうフルレンジユニットは、
一般的なコーン型のフルレンジユニットのことである。
ユニットの口径は8cm程度から38cmまで、いくつもサイズがある。
そういうユニットについてのことだ。

ジャーマン・フィジックスのDDD型ユニット、マンガーのBWTユニット、コンデンサー型スピーカーなどは、
あえてここではフルレンジユニットには含めていない。

コーン型の、昔からある、
それこそ世界ではじめてつくられたライスとケロッグによるユニットから、ということになると、
百年弱の歴史をもつ、もっとも見慣れたユニットのことである。

小口径のものだと金属製の振動板も使われているが、
昔から現在にいたるまで、コーン型ユニットの振動板は、まず紙である。

この紙をコーン(円錐)状にし剛性を確保した振動板をもつ、この手のユニットは、
現代のスピーカーシステムの中におけば、周波数特性、歪率、リニアリティ、指向特性など、
測定できるすべての項目において、限界がそれほど高いところにあるわけではない。

Date: 9月 5th, 2013
Cate: 音の毒

「はだしのゲン」(その13)

五、六年前のことだ。
あえて詳細はぼかして書くのは、このことで個人攻撃・否定をしたいわけではないからだ。

ある会話の中で、ある録音エンジニアの名前が出た。
仮にA氏としておく。
「A氏の録音を聴いたことがあるか」ときかれた。

オーディオに関心のある人、録音に関心のある人ならば、
いちどは聞いたことのある名前だった。

A氏の録音の話になった。
そこでの結論は、A氏の録音は「毒にも薬にもならない」ということだった。

そのときからも、そしていまも、A氏の録音は優秀録音という世評を得ている。
音にこだわった録音ということでもある。

たしかに、聴けば、よく録れている、と誰もが感じる。
私もそう感じるし、その時A氏の録音についてきいてきた人(私よりも年上)も、同感だった。

よく録れているから、いわゆるキズのある録音ではないし、ケチのつけられる録音ということでもない。
でも、どこまでも、そこまで止りなのである。
それ以上のもの、それこそsomethingが感じられない。

そんな意味も含めての「毒にも薬にもならない」録音だ、という結論になったのだった。

Date: 9月 4th, 2013
Cate: 音の毒

「はだしのゲン」(その12)

五味先生も「バルトーク」の中で書かれている。

《およそ音楽というものは、それが鳴っている間は、甘美な、或は宗教的荘厳感に満ちた、または優婉で快い情感にひたらせてくれる。少なくとも音楽を聞いている間は慰藉と快楽がある。快楽の性質こそ異なれ、音楽とはそういうものだろう。》

そうだと思う。多くの人がそう思っていることだろう。

なのに聴き手に何かを自白させる──精神的な拷問──ために音楽をかける、
それも自白を要求する者と自白を強要される者とが、ここでは同じである。
こんな理不尽な音楽の聴き方は、本来の音楽の聴き方とはいえない──、
そう思う人のほうが多いだろうけれど、ほんとうにそうだろうか。

自分自身に精神的拷問をかける──、
ここにオーディオを介して音楽を聴く行為の、もうひとつの姿が隠れている。
そのことに気づかず、音楽を聴いて浄化された、などと軽々しく口にはできない。

忘れてしまいたい、目を背けたい、そういったことを己の裡からえぐり出してくる。
それには痛み・苦しみ・気持悪さなどがともなう。

つまり、バルトークの、ジュリアード弦楽四重素団による演奏盤は、
五味先生によって、「毒」でもあったのかもしれない。

こんな音楽との接し方・聴き方は、やりたくなければやらずにすむのがオーディオである。
毒など、強要されてもイヤだ、まして自らすすんで……など、どこか頭のおかしい人のやる行為だ、
世の中の趨勢としては、はっきりとそうだと感じている。

そして増えてきているのが「毒にも薬にもならない」──、
そんなものである。