Mark Levinsonというブランドの特異性(その52)

五味先生がサンフランシスコを旅行された折、
オーディオ専門店に行かれた時のことを「いい音いい音楽」(読売新聞社刊)の中で書かれている。
     *
 なるほどこちらの食指の動くようなものはぜんぜん置いてない。それはいいとして、心外だったのはマークレビンソンのアンプや、デバイダー(ネットワーク)を置いてないどころか、買いたいが取り寄せてもらえるか、といったら、日本人旅行者には売れない、と店主の答えたことである。なんでも、マークレビンソン社から通達があって、アンプの需要が日本で圧倒的に多いので、製品が間に合わない。米国内の需要にすら応じかねる有様だから、小売店から注文があってもいつ発送できるか、予定がたたぬくらいなので、国内(アメリカ人)の需要を優先させる意味からも日本人旅行者には売らないようにしてくれ、そういってきている、というのである。旅行者に安く買われたのではたまらない、そんな意図もあるのかと思うが、聞いて腹が立ってきた。いやらしい商売をするものだ。マークレビンソンという男、もう少し純粋なオーディオ技術者かと考えていたが、右の店主の言葉が本当なら、オーディオ道も地に墜ちたといわねばならない。少なくとも以後、二度とマークレビンソンのアンプを褒めることを私はしないつもりだ。
     *
この文章を読んだ時、マーク・レヴィンソンには、やはりそういう面があるのかと思っていた。
この項の(その50)で引用した瀬川先生の文章にも
「近ごろ少し経営者ふうになってきてしまったが」とある。

経営者としての才がなければ、どんなにいいアンプをつくり出せたとしても成功はしないだろう。
経営者としてのマーク・レヴィンソンがいたからこそ、
マークレビンソンというブランドは成功したともいえる。

けれど、岡先生の文章を読んだ後で、
五味先生の文章を思い出し、
さらに瀬川先生の文章を思い出すと、
それだけでなくステレオサウンドで働くようになって耳にするようになったレヴィンソンに関する、
いくつかのハナシから思うに、
どうもマーク・レヴィンソンは、後から経営者ふうになってきたというよりも、
最初からそうであったようにしか思えないのである。

それでも優れた(まともな)経営者ならば、
シュリロ貿易にサンプル機を送った直後に、
RFエンタープライゼスと契約するようなことはしない。

会社を興したばかりで焦りはあった、と思う。
けれど、商いの理に反するようなことを平気でやってしまう、
その感覚に、そして五味先生の書かれていることが事実だとすれば、
経営者としてよりも、商売人としての「顔」を、私は強く感じてしまう。

マーク・レヴィンソンが狂わなかったのは、
そういう男だったから、というのが、大きな理由のひとつである。

では、なぜ、日本にデビュー直後のマーク・レヴィンソンと会って、
精神科の権威のオーディオマニアの人が、
「あの男、このまま行ったら、いつか発狂して自殺しかねませんな」と口にされたのか。

むしろ、こちらの「なぜ?」を考えてみるべきである。

Mark Levinsonというブランドの特異性(その51)

1992年、中央公論社から別冊 暮しの設計 20号として「オーディオ〜ヴィジュアルへの誘い」が出た。
岡先生と菅野先生が監修されている本だ。

この本に岡先生が書かれている。
     *
 1974年に、とてつもない体験をすることになった。
 1973年暮れにとどいたアメリカのオーディオ専門誌に、従来の常識を破るような新しいデヴァイスを使った斬新な設計と見事なコンストラクションのプリ・アンプについてのテスト・リポートが載っていた。測定データも立派なものだったが、一番びっくりしたのは、値段だった。当時の最高級のプリ・アンプが600〜700ドルぐらいだったのが、これは何と1750ドルである。メーカーは初めて聞く名前。どこかでサンプル入荷したらぜひ聴いてみたいと思っていたら、知り合いのインポーターが、あまり高価なので、サンプルを1台注文。それを聴いたうえで正式契約をしたいとのことで、そのときはまっさきに聴かせてほしいとたのんだ。1974年3月末に、そのサンプル機がついた。音は今まで聴いたことのないようなキャラクターで少々戸惑ったけれど、S/Nがべらぼうによく(つまり静かだということ)、操作性が抜群によいことが印象に残った。ところが、このサンプル機が到着したころ、別なインポーターがメーカーと正式な輸入契約を結んでしまっていたので、サンプルを取った会社は商品として店に出すわけにいかなくなってしまった。
     *
この後も岡先生の文章は続き、
このアンプがどのメーカーの、どのアンプなのかについて書かれている。
あえて書くまでもないのだが、このサンプル機はマークレビンソンのLNP2である。

最初にサンプルを取り寄せたインポーターはシュリロ貿易だった。

岡先生がバウエン・モジュール搭載の、このサンプル機のLNP2を自家用として導入されたことについては、
これまでも何度か書かれていたから知ってはいたけれど、
このときの事情を、ここまで書かれたことはなかった。

この岡先生の文章を読んで、まず感じたのは、
マーク・レヴィンソンの商売人として「顔」である。

Date: 9月 3rd, 2013
Cate: 進歩・進化

拡張と集中(その2)

オーディオ機器は、基本工業製品である。
工業製品の質は、技術の向上にともない本来良くなっていくものである。

ステレオサウンドは1966年に創刊されている。
あと三年で創刊50年となる。

そんなステレオサウンドが創刊された当時は、
工業製品であるオーディオ機器は、まずいい製品を選ぶことから始まる、といわれていた。
ステレオサウンドが測定をやるようになったのも、
実はカタログ掲載のスペックがほんとうなのかどうかを確認する意味合いもあったし、
通り一遍の測定ではなく、
回を重ねるごとに独自の測定方法を考え出しもしていた。

そういう時代を経て、工業製品であるオーディオ機器はよくなっていった、といえるかもしれない。
こんな曖昧な表現をしたくなるのは、
ひどい製品、悪い製品がほとんどなくなったことは確固たる事実であるけれど、
ほんとうに優れたオーディオ機器、いいモノが少なくなっているように感じるからである。

ほんとうに優れたオーディオ機器、いいモノの絶対数は、
実のところ昔も今も、そう違ってきているわけではないのかもしれない。
この数に関しては、私のイメージの中での数でしかない。

でも、少なくなってきている、と感じてしまうのは、
毎年、新製品として登場するオーディオ機器の数が、昔と今ではかなり違ってきている。

たとえいいモノの絶対数が同じだとしても、
全体に占める割合は母数が大きいほど少なく感じしまう。

Date: 9月 2nd, 2013
Cate: 音の毒

「はだしのゲン」(その11)

映画やドラマでの拷問のシーンは、
たいていがなんらかの情報を得るため、だとか、自白を強要するときに、肉体的苦痛を与えるものとして描かれる。

肉体的苦痛を与えるだけの行為は、拷問とはいわないようである。

拷問がそういうものだとすれば、
音楽をきいての、精神的な拷問とは、聴き手になんらかの自白を強要するものということになる。

何を聴き手に自白させるのか。

Date: 9月 1st, 2013
Cate: デザイン

オーディオのデザイン、オーディオとデザイン(整理と省略・その4)

旧い記憶を辿っていくと、
冷水器の使い方は、幼いころ、誰か大人に、ここにコップを当てて押すんだよ、と教わっていた、と記憶している。

コップをレバーに押し当てれば、コップに冷たい水が注がれる。
必要な量がコップに注がれたらレバーからコップをはなせば、水は止る。
片手で行える。

水道の蛇口をひねってコップに(冷水ではない)水を注ぐとき、
水を無駄にしたくなければ片手でコップをもち、反対の手で蛇口をひねる。

冷たい水を飲むためのモノとして、冷水器は優れている、といえなくもない。

コップが紙製や透明の薄いプラスチック製の使い捨てが登場してから、
冷水器のレバーはボタンに変っていったものがある。
レバーに紙コップを押し当ててもコップの方が変形してしまい冷水を注げないからだ。

ボタンに変っていったことで、冷水器は冷水だけを提供するモノではなくなっていった。
冷水の他にお湯、それにお茶も一台の器械で提供可能になった。
つまり機能が増えていった。

機能が増えていったことで、昔のレバー式の冷水器のようには扱えなくなった。
すくなくとも何を飲みたいのか、
その飲みたいものをコップに注ぐには、どのボタンを押したらいいのかを視覚的に確認してから、
という動作が加わる。

Date: 9月 1st, 2013
Cate: audio wednesday

第32回audio sharing例会のお知らせ

今月のaudio sharing例会は、4日(水曜日)です。

テーマは、フルレンジ型のスピーカーユニットについて、話そうと考えています。
ここでのフルレンジ型ユニットは、タンノイ、アルテックといった同軸型ユニットではなく、
シングルコーン、ダブルコーンを含めて、いわゆるシングルボイスコイルのスピーカーユニットのことです。

先日、ボーズ博士が亡くなられたことも、
今回のテーマにフルレンジ型ユニットを選んだことと関係しています。

時間はこれまでと同じ、夜7時からです。
場所もいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

Date: 9月 1st, 2013
Cate: 未分類

何もできない……

9月1日は、防災の日と制定されている。

20数年前、いきつけだったラーメン店で隣にすわっていた人から、
当時のことをきいたことがある。

直下型の地震を体験したことがなかったから、
いきなり下から突き上げてくる強い衝撃に何が起っているのかすぐには理解できず、
驚き、何もできなかった、ということだった。

その記憶も薄れがちになりはじめた2011年に、
関東大震災のような直下型の衝撃とは違っていたものの、
それまで体験したことのなかった、想像もしていなかった強い衝撃を、東京でも受けていた。

身の危険は感じなかったこともあるけれど、
「地震だ! そうとうに強い地震だ……」と思うだけで何かができたわけではなかった。
ただ、揺れがおさまるのを待つしかできなかった。

揺れの後に、今度は視覚的な強い衝撃をうけることになった。
目が、次々と表示される映像に釘づけになってしまっていた。

思っていた──、何ができるんだろうか。

馬鹿げたことを……、と思われそうだが、
この日、この時間に、非常に大規模な地震が発生し、原発の事故も起ることを前以て知っていたとしても、
何かができただろうか。

非現実的なことだが、それこそタイムスリップできたとして、何ができるのだろうか。

その時間の一時間前に戻れたとして、なにができるか。
せいぜいtwitterやfacebookやブログなどで、地震が来る、と訴えることしかできない。
だが、それを誰が信じてくれるだろうか。
誰も信じない、ならば何もできなかったのと同じことである。

その日の一週間前に戻れたら、もう少し時間の余裕はある。
けれど、結果は同じことにいきつく。
一ヵ月前ならば……、一年前ならば……。
けれど結果は同じになったはず。

未来に何が起るか知っていても、何もできないことがある。
無力を実感するだけのこともある。

つまり何かをできるということは、何が起るのかまったくわからないからではないのだろうか。

Date: 9月 1st, 2013
Cate: 音の毒

「はだしのゲン」(その10)

自ら進んで拷問を受けようという人はいない。
肉体的な拷問であれ、精神的な拷問であれ、誰も一度体験してみたい、という人はいない。
前から拷問が迫ってきたら、なんとか回避したい、とするのが人間だろう。

なのに、五味先生は「バルトークの全六曲の弦楽四重奏曲を、ジュリアードの演奏盤で私は秘蔵」されていた。
その理由について書かれているし、この項ですでに引用している。

ジュリアードの演奏盤を秘蔵されているけれど、
この演奏盤は五味先生にとって愛聴盤とはいえないものだった、と思う。

愛聴盤であるはずがない。
けれど、秘蔵されている。

キレイなもの、キレイどこのみで世の中が成り立っていて、世の中をわたっていけるのであれば、
ジュリアードの演奏盤を秘蔵しておく必要はない。

けれど世の中にはバルトークの弦楽四重奏曲がすでに存在しており、
ジュリアード弦楽四重奏団による1963年の演奏盤も存在しているということが物語っている、
世の中は、決してそういうものではない、ということを。

だから五味先生はジュリアードの演奏盤を秘蔵されていた。

Date: 8月 31st, 2013
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(長岡鉄男氏のこと・その4)

「オーディオA級ライセンス」に「重量は、筆者の製品選びの最重要ポイント」ではなく、
「重量は、筆者の製品選びの重要ポイント」と長岡鉄男氏が書かれていたのであれば、
ここにこういうことを書いたりはしていない。

最重要と重要とでは、ずいぶん重みが違ってくる。

文章は時として勢いで書いてしまうことがある。
書いてしまったことを読みなおさずにそのまま出してしまえば、
それが活字になるし、インターネットではすぐさま公開となる。

未熟な書き手であれば、つい勢いで「最重要」と書いてしまうことはある、だろう。
だが長岡鉄男氏は書き手としてはベテランである。
そんな長岡鉄男氏が、意図せずに「最重要」と書かれるとは考えにくい。

最重要と重要の重みの違いもわかったうえで、
「オーディオA級ライセンス」では最重要のほうを使われたとみるべきだろう。

そうだとすると、どこで、いつ、なぜ、
長岡鉄男氏は「重量は、筆者の製品選びの重要ポイント」と書かれるようになったのか。

ここで混同してはならないのは、
長岡鉄男氏は「重量は、筆者の製品選びの最重要ポイント」と書かれてはいるが、
「重量は、筆者の製品選びの最重要ポイント」と考えられていたのかについては、はっきりとしないことだ。

ほんとうは「重量は、筆者の製品選びの重要ポイント」と考えていて、
トータルバランスの重要性を考えながらも、
「重量は、筆者の製品選びの最重要ポイント」と書かれたのではないのか──。

Date: 8月 31st, 2013
Cate: デザイン

オーディオのデザイン、オーディオとデザイン(整理と省略・その3)

1993年のことだと記憶している。
知人とふたりで、彼の家の近くにある中華屋さんに食事に行った。
老夫婦がふたりでやっている、ちいさな店で、特に有名な店でもなく、
地元の人のための、その店は路地を入ったところにあった。

夕食の時間帯ということもあって、満員ではなかったものの混んでいた。
老夫婦ふたりでの店だから、そういう時には、水がすぐには出てこない。
なので冷水器のところに行き、コップを取り冷水を注いだ。

私たちのすぐ後に入ってきた人も、
そんな私たちを見て、自分も、と思われたのだろう、
冷水器のところに行きコップを手にされた。

ここの冷水器は昔からあるタイプで、
コップをレバーに押し当てれば冷水が出てくる。
いわば冷水器としては、もっとも多いタイプだと思う。

ほとんどの人は使い方をあらためて考えることなく,コップをレバーに押し当てる。

けれど私たちのすぐ後に入ってきた人は、
おそらく70過ぎくらいの女性の方だった。
コップをとってみたものの、それから先、どうしたらいいのか迷われていた。

立ち上って冷水器のところに行こうとしたら、店の人が気づいた。

70も過ぎれば視力もかなり落ちてくるだろう。
そういう人にとって、冷水器のレバーは目につきやすいのだろうか、とまず思った。
そしてレバーにコップを当てる動作は、はじめて冷水器を使う人にとって、
当り前の行為となり得るのだろうか、とも思った。

Date: 8月 30th, 2013
Cate: 「オーディオ」考

「音は人なり」を、いまいちど考える(その6)

ジュリアードの演奏盤はなかなかCDにならなかった。
国内盤が最初に出た。1990年ごろだったはずだ。

1GBのメモリーを用意して、そこに一端A/D変換したデータを記憶させて処理を行った、
とブックレットの最後には書いてあった。
いまでこそ1GBのメモリーの価格はそう高価ではないけれど、
いまから20年以上前における1GBのメモリーの価格がどれだけしていたのか、想像がつかない。

気合のはいったCD化だったようだ。

このジュリアードの演奏盤のCDを、ある友人に貸したことがある。
私よりひとつ年下、音楽の仕事(作曲、編曲、演奏など)をしている女性である。
彼女はクラシックの聴き手ではなかった。
彼女の夫(彼も友人)も、クラシックは聴かない。

そんな友人の感想は、
「暗い森の中の妖精」──、たしかそんなことを彼女は言っていた。

1990年にはバルトークの音楽は、もう現代音楽ではなかった。
バルトークについても、ジュリアード弦楽四重奏団についても、
それにこの演奏盤についても、なんの知識(先入観)をもたずに聴いた人の感想がそれだった。

これはひとつの例にしか過ぎない。
けれど、これほど聴き手によって、その音楽の在り方は変ってくることは頭ではわかっていても、
実際に身近でそういう例に接すると、音楽の抽象性の深さ、広さに驚くだけでなく、
ときとしてとまどうことすらある。

五味先生には「精神に拷問をかけるための音楽」であったバルトークの演奏盤が、
年齢も性別も仕事もまるで違う聴き手にとっては、そういう要素はかけらもない音楽となっているし、
私にとっても、すくなくともこれまでは「精神に拷問をかけるための音楽」とまではいえなかった。

だが、もう10数年以上(20年近いかもしれない)、
ジュリアード弦楽四重奏団の1963年の演奏盤は聴いていない。
それだけ歳をとった。
いま聴くとどうなのか──、これはもう聴いてみるしかない。

最初にバルトークの演奏盤を聴いたときとスピーカーも、システム全体もまるっきり違う。
出ている音も同じといえば同じところはあるけれど、違うといえば違ってきている。

Date: 8月 30th, 2013
Cate: 「オーディオ」考

「音は人なり」を、いまいちど考える(その5)

こうやって毎日、複数のテーマで書いていると、
書き始めたころには意識していなかった事柄がつながっていくときがある。

はだしのゲン」というタイトルで書き始めた項で、
バルトークの弦楽四重奏曲と五味先生のことについて書いているところである。

五味先生にとって、ジュリアード弦楽四重奏団によるバルトークの演奏盤こそは、
そういう一枚──つまり己の愚かなところ、醜いところを容赦なく映し出す──だった、
いまそう思えてならない。

だから「バルトークは精神に拷問をかけるために聴く音楽としか思えなかった」と書かれた。
いまはそう思っている。

音楽の聴き手すべての人にとって、ジュリアード弦楽四重奏団による1963年録音のバルトークが、
「精神に拷問をかけるための音楽」ではないはず。

ジュリアード弦楽四重奏団のバルトークの演奏盤をはじめて聴いたとき、
その気魄に圧倒されはしても、
残念ながら、というべきかどうかはわからなかったが、「精神に拷問をかける音楽」ではなかった。

聴き終えるのにものすごいエネルギーを要求される感じはあったけれど、
それは精神の拷問とまではいかなかった。

Date: 8月 29th, 2013
Cate: 「オーディオ」考

「音は人なり」を、いまいちど考える(その4)

オーディオから(スピーカーから、と置き換えてもいいのだが)音を出すには、
なんらかのプログラムソースがいる。

アナログディスクでも、CDでも、FM放送、AM放送、インターネットによる配信、
とにかく種類は問わず、音源となるソースがなければ、
電源をいれたところでスピーカーから音は鳴ってこない。
(レベルを上げていけば、システム全体のノイズは多少なりとも聞こえてくるだろうが)

こんな当り前すぎることを書くのは、
己のオーディオから愚かな音、醜い音を出すのにも、
なんからのプログラムソース、つまり音楽が必要となる、ということであり、
愚かな音、醜い音を出す上で、実は最も重要で、注意深くならなければならないのは、
そういう音を求めるとき、出すときにかける音楽が、なんなのか、ということである。

Date: 8月 29th, 2013
Cate: デザイン

オーディオのデザイン、オーディオとデザイン(整理と省略・その2)

セブンカフェのドリップマシンのボタン配置が気になるのは、
私がオーディオマニアであることも理由として大きいと思うが、
実際にセブン・イレブンに設置されている、このドリップマシンの現場を見ると、
どうもそれだけが理由ではないことがはっきりしてくる。

けっこうあちこちに行く。
セブン・イレブンだけに行くわけではないが、
コンビニエンスストアに寄ることは多い方だと思う。

セブンカフェのドリップマシンはレジの近くに置いてあるところが多いので、
自然と視界に入ってくる。
気づくのは、ほとんどの店舗で、このドリップマシンにその店舗によるシールが貼ってあることだ。

日本語で、熱いコーヒー、サイズ・普通とか冷たいコーヒー、サイズ・大きい、といった具合にだ。
この表記も店舗によって違っている。

このことは一ヵ月ほど前にtwitterで話題になっていた。
最初から、こんなシールを貼ったわけではないはず。

操作の間違いが頻繁するからこそ、店員がすこしでもわかりやすしようと思ってのシールであろう。

このドリップマシンのデザイナーは、
デザインに関心が少しでもある人ならばほとんどの人が知っている著名な人である。
調べれはすぐにわかることだから、誰なのかは書かない。

この人は、著書も出していて、その中に整理術というタイトルのついたものがある。
その本を読んでいない。
それだけでなく、このデザイナーについて、多くを知っているわけでもないし、
他の著書も読んでいない。

だからこの人についてあれこれ、ここで書きたいのではなく、
デザインにおける「整理」とは何か、ということについて、
セブンカフェのドリップマシンを見て操作して感じたことを書いていこうと思っている。

Date: 8月 28th, 2013
Cate: デザイン

オーディオのデザイン、オーディオとデザイン(整理と省略・その1)

コンビニエンスストアのセブン・イレブンが今年にはいり、
セブンカフェというセルフ式のコーヒー販売を始めている。

レジの横にはコーヒーのドリップマシンが置いてある。
これまで三回ほど利用しているけど、
このドリップマシンのデザインには、どこか違和感をおぼえていた。

今日気づいたことがある。
たとえばカップのサイズが二種類ある。
regularとlargeで、regularは頭文字をとってRと表示されたボタン、
largeは頭文字のLと表示されたボタンが左右に並んでいる。

この配置が、オーディオにおける左(L)チャンネルと右(R)チャンネルと逆になっている。
Rのボタンが左に、Lのボタンが右に配置されている。

スピーカーでいえば、左右チャンネルを間違えて配置しているのと同じになる。

しかもこれだけではなく、セブンカフェのドリップマシンはアイスとホットも選べ、
上段のボタンがホットで、下段のボタンがアイスである。
この部分は色づけされている。
ホットが赤で、アイスが青。つまり上段が赤で、下段が青となっている。

これもオーディオにおけるアンプの端子の配置と逆である。
RCAの入力・出力端子を左チャンネル・右チャンネルを上下にわけて配置する場合、
左チャンネルが上段、右チャンネルが下段となる。

通常、左右チャンネルの色分けは、赤が右で、白または青が左を示す。
つまり白(または青)が上段で、下段が赤が一般的である。
オーディオリサーチだけは、ずっと以前から右チャンネルを上に持ってきているけれど。

つまりセブンカフェのドリップマシンのホットとアイスの色分けも、
オーディオの色分け(左右チャンネルの区別)と逆になっている。

おそらく、セブンカフェのドリップマシンのデザイナーは、
オーディオには関心のない人なのだとおもう。
オーディオマニアであれば、こういうボタン配置、色分けはしないはずだからだ。