何もできない……
9月1日は、防災の日と制定されている。
20数年前、いきつけだったラーメン店で隣にすわっていた人から、
当時のことをきいたことがある。
直下型の地震を体験したことがなかったから、
いきなり下から突き上げてくる強い衝撃に何が起っているのかすぐには理解できず、
驚き、何もできなかった、ということだった。
その記憶も薄れがちになりはじめた2011年に、
関東大震災のような直下型の衝撃とは違っていたものの、
それまで体験したことのなかった、想像もしていなかった強い衝撃を、東京でも受けていた。
身の危険は感じなかったこともあるけれど、
「地震だ! そうとうに強い地震だ……」と思うだけで何かができたわけではなかった。
ただ、揺れがおさまるのを待つしかできなかった。
揺れの後に、今度は視覚的な強い衝撃をうけることになった。
目が、次々と表示される映像に釘づけになってしまっていた。
思っていた──、何ができるんだろうか。
馬鹿げたことを……、と思われそうだが、
この日、この時間に、非常に大規模な地震が発生し、原発の事故も起ることを前以て知っていたとしても、
何かができただろうか。
非現実的なことだが、それこそタイムスリップできたとして、何ができるのだろうか。
その時間の一時間前に戻れたとして、なにができるか。
せいぜいtwitterやfacebookやブログなどで、地震が来る、と訴えることしかできない。
だが、それを誰が信じてくれるだろうか。
誰も信じない、ならば何もできなかったのと同じことである。
その日の一週間前に戻れたら、もう少し時間の余裕はある。
けれど、結果は同じことにいきつく。
一ヵ月前ならば……、一年前ならば……。
けれど結果は同じになったはず。
未来に何が起るか知っていても、何もできないことがある。
無力を実感するだけのこともある。
つまり何かをできるということは、何が起るのかまったくわからないからではないのだろうか。