うつ・し、うつ・す(その1)
録音はひとつの記録行為であるから、視覚的記録行為である写すといえよう。
再生は写されたものを聴き手によって映すといえよう。
写すも映すもどちらも「うつす」であり、
写されたものを映す側のところに届ける行為もまた移す(うつす)である。
録音物(レコード)はいわば写しであり、
再生されて聴き手の前に現れる音は映しである。
「うつし」は現し、顕し、でもある。
録音はひとつの記録行為であるから、視覚的記録行為である写すといえよう。
再生は写されたものを聴き手によって映すといえよう。
写すも映すもどちらも「うつす」であり、
写されたものを映す側のところに届ける行為もまた移す(うつす)である。
録音物(レコード)はいわば写しであり、
再生されて聴き手の前に現れる音は映しである。
「うつし」は現し、顕し、でもある。
(その13)の最後で書いた「エキゾティシズムへの憧れ」とは、
これまで書いてきたエキゾティシズムとはまったく異るエキゾティシズムではないのか、と思うようになっている。
(その13)を書いたのが二年前なので、少しくり返すが、
1970年代、私がオーディオに関心をもち始めたころ、
オーディオ雑誌では国による音の違い、風土による音の違いが存在することを語っていた。
アメリカにはアメリカならではの音があり、ヨーロッパにはヨーロッパの音があり、
さらに同じアメリカでも西海岸と東海岸では、ひとつのアメリカンサウンドとして語られながらも、
はっきりとした性格の違いがはっきりとあり、
同じことはヨーロッパのスピーカーでも、イギリス、ドイツ、フランスでは違っている。
だからステレオサウンドは創刊15周年記念として、
60号ではアメリカ、61号ではヨーロッパ、62号では日本の、それぞれのスピーカーの特集を行っている。
この企画を、もしいま行うとしたら、ずいぶんと違う切り口が必要になる。
ステレオサウンド 60号の時代からの変化があるからだ。
このエキゾティシズムとは別に、時代の違いによるエキゾティシズムもある、といえるだろう。
原体験として聴いたことのない時代の音を若い人が求める理由のひとつには、
時代のエキゾティシズムが関係しているように感じられる。
このふたつのエキゾティシズムは、変な言い方になるが、まっとうなエキゾティシズムであるといえよう。
けれど、私がこの項でいいたいのは、もうひとつのエキゾティシズムがあり、
このエキゾティシズムはやっかいな性質のものであり、
このエキゾティシズムをもつスピーカーシステムの音を「新しい」と感じ高く評価する人もいれば、
私のように「欠陥」スピーカーとして受けとめる者もいるわけだ。
このエキゾティシズムは、私の耳には音楽を変質させてしまうエキゾティシズムであり、
認めることのできないエキゾティシズムである。
新製品といっても、大きく分ければふたつある。
ひとつは、いわゆる新製品である。
それまでなかった製品が、あるメーカーから発売になる。
もしくは新顔のメーカーのデビュー作も、この新製品である。
もうひとつは評判の高いオーディオ機器の改良モデルといえる新製品である。
こういう新製品は、型番の末尾にMK2とついたり、アルファベットがつけられたりして、
基本となった製品との区別がつくようになっている。
同じ新製品であっても、まったくの新製品に対して、いったいどういうモノだろうという期待がある。
既存のメーカーのそういった新製品であれば、ある程度の予測ができないわけではないが、
まったくの新ブランドの新製品となると、そういう期待はふくらむ。
改良型としての新製品に対しては、
以前の製品とどう変ったのかについての興味の方が強くなる。
それはこういった製品の記事を読む側にとっても、そのはずだ。
以前のモデルと技術的にどう違って(進歩して)いるのか、
デザインの変更はあるのか、
そしていちばん肝心なことは音がどう変ったのか、である。
改良型が出るモデルは、少なくとも一定の評価を得ているモデルである。
まったく不評だったモデルの改良型を出すようなことは、メーカーはまずやらない。
EMTの930stで聴いた松田聖子のレコードは、
それぞれの演奏者が適切な位置関係で鳴っている、という感じがあった。
松田聖子がアカペラで歌っていたら、
930stとガラードの301を中心としたプレーヤーシステムのどちらがいいのかを判断する時には、
松田聖子の熱心な聴き手ではない私でも、松田聖子の声のみにフォーカスすると思う。
けれどこの時聴いた松田聖子のレコードは、そんなアカペラのレコードではなかった。
(松田聖子にアカペラの曲があるのかも実は知らない)
当然楽器の演奏者が複数いる。
松田聖子は歌手だから、中央に位置しているし、しかも横一列の中央ではなく、
バックの演奏者、という表現がすでに示しているように、
彼らよりもすこし前に位置している。
その上で、松田聖子のバックにそれぞれの演奏者がいる。
この位置関係が、そしてそれぞれの距離関係が、930stで聴いていると、実に適切であるように聴こえる。
実際のレコーディング風景を知っているわけではないから、
930stが提示する松田聖子のレコードでの位置関係が、ほんとうに正しいものかどうかは断言はできない。
それでも930stが示す位置関係を聴いていると、そこに不自然さは感じないどころか、
くり返しになるが、適切な位置関係と感じられる。
そしてこのことと関係して、広いスタジオで歌っている感じが伝わってくる。
アクースティック蓄音器には、いっさい電気は使われていない。
機械仕掛けだけでSPレコードを回し、そこに刻まれている溝を音へと変換する。
ボリュウム調整も、だからできない。
いわば原始的な再生装置である。
周波数レンジも広くないし、ダイナミックレンジだって狭い。
ノイズも多い。
電気の恩恵が一切ないことが、こういうものなのか、とネガティヴな方向に感じる人がいる。
反対に、電気仕掛けが一切ないことは、こういう音なのか、とポジティヴな方向に感じる人がいる。
どちらが正しいのか、それについて書かない。
その人が過去に、もしくは現在でもいい、
どういうアクースティック蓄音器を聴いてきたかに大きく関係していることであるし、
それだけでなく、その人が聴く音楽によっても、どう感じるかはまるで反対の方向を向く。
それによって、「蓄音器的」という表現の受けとめ方(それに使い方)は異る。
20代のころからずっと見続けている夢がある。年に数回見ている。
夢の中である場所に行こうとしている。
そこへはいくつかの道がある。けれどどの道を通っても、近くまでは行くことはできても、
その場所(目的地)へは一度もたどり着けなかった。
夢の中での話だが、その場所は、坂の下にある実際にある場所である。
今月の二日未明にも、そこへ行く夢を見ていた。
そこへ降りる階段、
それがなぜか鉄パイプの梯子であり、ひどく華奢で手摺をしっかりと握っても降りるのが困難だった。
なんという階段なんだろう……、と実感したことだけが記憶に残っている。
降りている途中で、なぜか違う場面に変ってしまった。
また今回もたどり着けなかった。
いつものことだから、くやしいとか残念という気持はない。
いつものことだと目が覚めて思っていた。
三日未明にも、そこへ行こうとしている夢をみた。
20代のころから見ている夢だから、もう30年近く見ているけれど、連続してみるのは初めてのことだった。
どの道を通ったのかは、不思議なことに憶えていない。
けれど、いままでそこへたどり着けなかったのがウソのようにすんなり行けた。
ただ着いただけでなく、予期せぬことも夢の中であった。
私が夢の中でずっと行こうとしていた場所とは、14歳のころと関係している。
きわめてプライヴェートなことだから、これ以上は書かないけれど、
ご想像におまかせするし、そういう場所である。
こんな夢をみて、その日なにをおもっていたのかというと、
結局のところ、私という人間は、13、14のころにであったもの・ことから離れずに生きていた、ということだった。
13の秋に「五味オーディオ教室」を読んだ。
14のときに……(想像におまかせします)。
起きているときはオーディオのことばかり、
夢のなかでは、その場所のこと。
13の秋から一年のあいだのことを忘れたくないのだろう、おそらく……。
オーディオをやっているかぎり、その場所のことも忘れない気がする。
各社からメーターユニットが出ていた時代、
ステレオサウンドから出ていたHI-FI STEREO GUIDEの1977年度版を買った。
このHI-FI STEREO GUIDEのアンプ関係のページに、OTHERSというのがあり、
そこにメーターユニットが掲載されていたのを見て、
中学生の私は、このメーターユニットが欲しいなぁ、
このメーターユニットを買ったら、システムのどんなふうに組み込もうかな、などと夢想していた。
メーターがついているアンプが必ずしも欲しいと思えるアンプではなかったりするから、
メーターユニットが別に欲しくなったのだろう。
これは私ひとりの、たったひとつの例ではあるけれど、
確かにメーターが、システムのどこかにあるということは、マニアックな心理をくすぐっていた。
とはいえ中学生のマニアックな心理など、マニアックなことに憧れている心理でしかなかったのかもしれない。
それでもメーターがあるのはいいかも……、そう思っていたことは確かだった。
メーターユニットといっても、
メーターの種類で区別すればふたつにわけられる。
いわゆる昔ながらの針の振れるタイプのメーター、
それとLEDその他の発光体を採用した点灯式のメーターである。
phonogramの転換としてのgramophoneであり、
gramophoneは日本語で蓄音器、蓄音機、チクオンキだったりする。
蓄音器も、音を表現する言葉として使われることがある。
蓄音器的な音、といったりする。
この蓄音器的な音を、読み手はどう解釈しているのか。
私は、この「蓄音器的な音」は、誰が使うかにもよるが、
私が信頼している人の文章において、「蓄音器的」は、いわゆる褒め言葉である。
けれど、その同じ人の文章を読んでも、「蓄音器的」とあることで、
そう書かれたオーディオ機器は、むしろ貶されている、と受けとめている人がいることを知った。
そんなふうに受けとめてしまった人が、まだ10代であり、
ほんとうに優れた蓄音器の音を聴いたことがないのであれば、
「蓄音器的」という表現を誤解してしまうのもうなずけないことはない。
それまではそんなふうに思っていた。
でも、現実には逆なのかもしれない。
私より上の世代のほうが、「蓄音器的」という表現をそう受けとめる人が多いのかもしれない。
私は何度も書いているように「五味オーディオ教室」からオーディオを始めた。
そこにも「チクオンキ的」が出てくる。
*
ところが、EMTのプレーヤーに内蔵されたイクォライザーによる音を聴いてアッと思ったわけだ。わかりやすく言うなら、昔の蓄音機の音がしたのである。最新のステレオ盤が。
いわゆるレンジ(周波数特性)ののびている意味では、シュアーV15のニュータイプやエンパイアははるかに秀逸で、EMTの内蔵イクォライザーの場合は、RIAA、NABともフラットだそうだが、その高音域、低音とも周波数特性は劣化したように感じられ、セパレーションもシュアーに及ばない。そのシュアーで、たとえばコーラスのレコードをかけると三十人の合唱が、EMTでは五十人にきこえるのである。
私の家のスピーカー・エンクロージァやアンプのせいもあろうかとは思うが、とにかく同じアンプ、同じスピーカーで鳴らしても人数は増す。フラットというのは、ディスクの溝に刻まれたどんな音も斉しなみに再生するのを意味するのだろうが、レンジはのびていないのだ。近ごろオーディオ批評家の言う意味ではハイ・ファイ的でないし、ダイナミック・レンジもシュアーのニュータイプに及ばない。したがって最新録音の、オーディオ・マニア向けレコードをかけたおもしろさはシュアーに劣る。
そのかわり、どんな古い録音のレコードもそこに刻まれた音は、驚嘆すべき誠実さで鳴らす、「音楽として」「美しく」である。あまりそれがあざやかなのでチクオンキ的と私は言ったのだが、つまりは、「音楽として美しく」鳴らすのこそは、オーディオの唯一無二のあり方ではなかったか? そう反省して、あらためてEMTに私は感心した。
*
ここでの「蓄音機の音」「チクオンキ的」の蓄音器とは、
電気蓄音器ことではなく、その前のアクースティック蓄音器のことであるのはあらためていうまでもないことだ。
オーディオの世界における「音色」には、大きくふたつのことを指しているといえる。
ひとつは楽器の音色のことであり、もうひとつはオーディオ機器固有の音色のことである。
音色という単語ひとつで語られるとき、どちらの音色のことを指しているのかがはっきりしないことがある。
このふたつのことを一緒くたにしている人もいる。
そうなると話はややこしくなり噛み合わなくなる。
オーディオ機器固有の音色は、これから先もとうぶんの間はなくならないだろう。
というよりもおそらく永遠になくならないであろう。
オーディオを介して音楽を聴くという行為には、
つねにこのオーディオ機器固有の音色とつき合うということでもある。
このオーディオ機器固有の音色は、必ずしも悪とはいえないところがあり、魅力ともなっている。
だからわれわれはそんな音色の美しさに一喜一憂してきている。
話をややこしくしないためにオーディオ機器固有の音色と書いているが、
それだけではなくレコード固有の音色も存在する。
自由とは──、
そのことについて考えていると、別項「何を欲しているのか」で書いたホロヴィッツの言葉とつながってくる。
「何を欲しているのか(その16)」に書いている。
「頭はコントロールしなければならないが、人には心が必要である。感情に自由を与えなさい」
マルチアンプをやるにあたって、その聴き手(使い手)に求められることも、これであるはずだ。
ふたりの絵描きがいる。
絵描きは、いわばオーディオのことでもある。
造花を造花として忠実に描くオーディオがある。
造花を造花としてではなく、ほんものの花のように描くオーディオがある。
一般的にハイ・フィデリティと評価されるのは、
造花を造花のまま描くオーディオである。
造花をほんものの花として描いては、それはオーディオによる色づけ、もしくは歪曲ともいえるだろう。
ここで考えなければならないのは、録音された音楽というのは、造花にあたるかどうかである。
たとえば映画やテレビドラマの撮影では、
その場面にふさわしいロケーションを探して、そこに出かけて撮影することもあるし、
スタジオ内にセットを組んでの撮影もある。
どこかに出かけての撮影であれば、そのロケーションにあるものすべてが基本的には背景となる。
もちろんカメラのアングルを変えてみたり、
何かで隠したりして写り込まないよう工夫することも少ないないだろうが、
演じている役者の後に見える背景はそのまま、その場面の背景となっていく。
一方、スタジオ内のセットでの撮影では、たとえば部屋のセットの場合、
どういう広さの部屋で、どういうインテリアで、どういう人が住んでいるような部屋なのか。
そのためのスタッフがいて、細部・小物にいたるまでつくりあげていく。
マンガにおける背景は、このスタジオ内のセットに近いところがある。
セットの細部にどこまでこだわるのか。
適当なところですませてしまうのか。
マンガの背景も徹底的にこだわって描いていくのか、
それともこんな感じでいいや的な描き方なのか。
マンガにおいては、そのマンガを描いている漫画家が監督でもあり脚本家でもあり美術スタッフでもある。
部屋の中に、どういう家具や小物を描くのか、
窓から見える風景はどう処理するのか。
場面は部屋の中だけではない。
外に出かけての場面もあるし、現実とはまったく異る世界を描くマンガでは、
そういう背景を描かなければならない。
1987年か88年ごろだったと記憶している。
黒田先生のリスニングルームにうかがったときに、ケーブルの話になった。
こんなことを黒田先生はいわれた。
「こういうケーブル(金子式ケーブルのこと)にステレオサウンドが否定的なのはわかっている。
でも、ぼくはこのケーブルを使うのは、音のためだ」
ずいぶん昔のことだから細かなことまで正確に記憶しているわけではないが、
概ねこんなことをいわれた。
このころの黒田先生のスピーカーはアポジーにはなっていなかった。
アクースタットのModel 6だったこととも、金子式ケーブルを使われていたこととは関係しているはずだ。
黒田先生が金子式ケーブルをいつごろから使われなくなったのかは、
そのあたりで私はステレオサウンドを離れてしまったのでわからない。
おそらくスピーカーをアクースタットからアポジーのDivaに換えられてからではないだろうか。
黒田先生の音の評価を読んでいて感じるのは、音楽の聴き手としての強さである。
この強さはオーディオマニアからすれば、憧れる強さでもある。
少なくとも私というオーディオマニアにとっては、そうであったし、
そういう強い聴き手になろう、ならなければと思ってもいた。
手に入れなかったという、いわば不完全燃焼からの未練もないわけではない。
でも、それよりもずっと強いのは、私にとっての、あの時代のマークレビンソンのアンプは、
すべて瀬川先生と、その文章と深く結びついているということである。
ステレオサウンド 41号の瀬川先生のLNP2、JC2に関する文章。
*
最近の可変抵抗器に新型が採用されたLNP2やJC2では、従来の製品よりもいっそう歪みが減少し解像力が向上し、音がよりニュートラルになっていることが明らかに聴きとれ、パーツ一個といえども音質に大きな影響を及ぼすことがわかる。レベルコントロールのツマミの向う側に何もついてないかのようにきわめて軽く廻ることで見分けがつく。
*
ツマミの向う側に何もついてないかのようにきわめて軽く廻る──、
このことを確認できたのは三、四年後だった。
熊本に新しくできたオーディオ店にLNP2が置いてあった。
「触らないでください」とは、どこにも書かれていなかった。
それでもこっそりとLNP2のレベルコントロールのツマミを廻してみた。
確かに瀬川先生の書かれていたとおりに、何もついてないかのように軽く廻る。
たったそれだけのことでどきどきしていた時期があった。
まだ音は聴いたことがなかった。
こんなふうにして、
瀬川先生がマークレビンソンのアンプについて書かれたことを確認していくことが始まった。
ようするに私にとって、この時代のマークレビンソンのアンプに触れ、その音を聴くことは、
記憶を喚起すること以上に、記憶そのものといえるところがある。
いわば、この時代のマークレビンソンのアンプは外部記憶なのだろう。
ゆえに未練が断ち切れない、断ち切れるはずがない。
なぜ、初期のマークレビンソンのアンプへの未練を断ち切れないのか。
私にとって初期のマークレビンソンのアンプとは、
コントロールアンプでいえばJC2(ML1)、LNP2、ML6のことであり、
パワーアンプはML2のことである。
ML2は故障してもまだ修理は可能である。
ただ出力段のトランジスターは他のトランジスターに置き換えられるようだが。
だがコントロールアンプとなると、アンプそのものはモジュール仕様で、
ピッチでがっちりと固められている。
そのため修理とはモジュールを交換することであり、
もうマークレビンソンではLNP2、ML1用のモジュールの製造は行っていない。
マーク・レヴィンソンは、ずっと以前モジュール構成にした理由を、
故障した際に各国の輸入ディーラーや販売店などでいいかげんな修理をされたくないから、と答えている。
モジュールにしておけば、モジュールそのものを交換すれば、ほとんどの故障は修理できる。
モジュールの交換にはハンダ付けの技術も必要としない。
モジュールが製造され続けていればレヴィンソンのいうとおりなのだが、
実際にはモジュールにしたばかりに、ほぼ修理不能状態に陥っている。
いまマークレビンソンの初期のコントロールアンプを買うことには、このリスクがつきまとう。
そういうアンプに対して、いまだ未練が断ち切れないのは、それが記憶に関係しているからである。