〝言葉〟としてのオーディオ(その5)
phonogramの転換としてのgramophoneであり、
gramophoneは日本語で蓄音器、蓄音機、チクオンキだったりする。
蓄音器も、音を表現する言葉として使われることがある。
蓄音器的な音、といったりする。
この蓄音器的な音を、読み手はどう解釈しているのか。
私は、この「蓄音器的な音」は、誰が使うかにもよるが、
私が信頼している人の文章において、「蓄音器的」は、いわゆる褒め言葉である。
けれど、その同じ人の文章を読んでも、「蓄音器的」とあることで、
そう書かれたオーディオ機器は、むしろ貶されている、と受けとめている人がいることを知った。
そんなふうに受けとめてしまった人が、まだ10代であり、
ほんとうに優れた蓄音器の音を聴いたことがないのであれば、
「蓄音器的」という表現を誤解してしまうのもうなずけないことはない。
それまではそんなふうに思っていた。
でも、現実には逆なのかもしれない。
私より上の世代のほうが、「蓄音器的」という表現をそう受けとめる人が多いのかもしれない。
私は何度も書いているように「五味オーディオ教室」からオーディオを始めた。
そこにも「チクオンキ的」が出てくる。
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ところが、EMTのプレーヤーに内蔵されたイクォライザーによる音を聴いてアッと思ったわけだ。わかりやすく言うなら、昔の蓄音機の音がしたのである。最新のステレオ盤が。
いわゆるレンジ(周波数特性)ののびている意味では、シュアーV15のニュータイプやエンパイアははるかに秀逸で、EMTの内蔵イクォライザーの場合は、RIAA、NABともフラットだそうだが、その高音域、低音とも周波数特性は劣化したように感じられ、セパレーションもシュアーに及ばない。そのシュアーで、たとえばコーラスのレコードをかけると三十人の合唱が、EMTでは五十人にきこえるのである。
私の家のスピーカー・エンクロージァやアンプのせいもあろうかとは思うが、とにかく同じアンプ、同じスピーカーで鳴らしても人数は増す。フラットというのは、ディスクの溝に刻まれたどんな音も斉しなみに再生するのを意味するのだろうが、レンジはのびていないのだ。近ごろオーディオ批評家の言う意味ではハイ・ファイ的でないし、ダイナミック・レンジもシュアーのニュータイプに及ばない。したがって最新録音の、オーディオ・マニア向けレコードをかけたおもしろさはシュアーに劣る。
そのかわり、どんな古い録音のレコードもそこに刻まれた音は、驚嘆すべき誠実さで鳴らす、「音楽として」「美しく」である。あまりそれがあざやかなのでチクオンキ的と私は言ったのだが、つまりは、「音楽として美しく」鳴らすのこそは、オーディオの唯一無二のあり方ではなかったか? そう反省して、あらためてEMTに私は感心した。
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ここでの「蓄音機の音」「チクオンキ的」の蓄音器とは、
電気蓄音器ことではなく、その前のアクースティック蓄音器のことであるのはあらためていうまでもないことだ。