Date: 3月 19th, 2014
Cate: 930st, EMT

EMT 930stのこと(ガラード301との比較・その6)

EMT・930stで松田聖子の歌が鳴ってきたとき、
少しばかり粗いところが残っている気もした。

でも、聴く前にしばらく930stを使っていなかったことを聞いていたし、
自分でも使っていたアナログプレーヤーであるから、
細かな調整を行うことで、そして通常的に使っていくことで、
いま気になっている点は解消できるという確信があったので、
松田聖子に特に思い入れをもたない聴き手の私は、その点はまったく気にしていなかった。

けれど私の隣で聴いていた松田聖子の熱心な聴き手は、
その点がとても気になっていた、そうだ。

930stからガラード301のターンテーブルの上に松田聖子のLPが載せかえられ、
301とSPUの組合せでの音が鳴った時に、熱心な聴き手の彼は、満足していたようだった。

つまり彼は930stの松田聖子の歌に関しては評価していなかった。
だから、両者の音を聴いた後で、私が「やっぱり930st」といったのをきいて、
「なぜ?」と思ったらしい。

930stがなぜ良かったのかについて、前回書いたことを話すと、彼もそのことには同意する。
それでも松田聖子の歌(声)の質感がどうしても930stのそれはがまんできない、とのこと。

私も彼のいうことは理解できる。
互いに相手のいうこと・評価を理解していても、
松田聖子の熱心な聴き手の彼はガラード301とオルトフォンSPUの組合せによるシステム、
松田聖子の熱心な聴き手ではない私はEMT・930stというシステムを、ためらうことなくとる。

Date: 3月 18th, 2014
Cate: レスポンス/パフォーマンス

一年に一度のスピーカーシステム(その2)

タイトルに「一年に一度の」とつけてしまったからではないのだが、
その1)を書いたのが昨年の三月。

続き(その2以降)を書こう書こうと思いつつ、すっかり忘れてしまっていて、一年が経ってしまった。
このテーマ自体も「一年に一度」になろうとしている。

私が「一年に一度」のスピーカーシステムとして、
この項で書いていくのはダイヤトーンのDS1000である。

DS1000は型番についている1000という数字があらわしているように、
ダイヤトーンがヤマハのベストセラーモデルNS1000Mのライバル機種として、
世に送り出した(問うた)スピーカーシステムである。

NS1000Mと同じ3ウェイのブックシェルフ型。
ウーファーの前面に保護用の金属製ネットはないし、
エンクロージュアの仕上げもNS1000Mのブラック塗装に対して、木目となっているにもかかわらず、
見た印象は、NS1000Mよりも新しいスピーカーシステムとしての精悍さが、それなりに感じられる。

ダイヤトーンは、DS1000にどれだけ力を入れていたのかは、実機を前にすると伝わってくる。
時代が違うとはいえ、よくこの値段で、これだけのスピーカーシステムをつくれるものだ、と感心する。

いま、DS1000を一から開発するとしたら、どういう価格設定になるのか。
ずいぶん高価なスピーカーシステムになると思う。

そういうDS1000なのだが、決して評価が高いわけではなかった。
スピーカーとしての高性能ぶりは認めるものの……、という評価が少なくなかった。

Date: 3月 17th, 2014
Cate: 「オーディオ」考

豊かになっているのか(その1)

オーディオの世界は豊かになっているのか。

オーディオにのめり込んで30年以上が経つ。
1970年代後半と、世紀が変り2014年となった今とでは、
ずいぶんとオーディオをとりまく状況に変化があるのはわかっている。

1970年代後半に当り前のように身の回りにあったモノのいくつかはいまでは消えてしまっているし、
当時は、こういうモノが登場するのはずっと先──、
そんなふうに思い込んでいたり、想像もしなかったモノが当り前のように身の回りにある。

それらのモノ自体の変化もそうだが、モノの値段も昔の価値観ではいまの価格は理解できないところもある。
携帯電話、スマートフォンの価格は、1970年代の人にはそうであろう。

なぜ、こんな値段で買えるのかの理由は知ってはいても、
ほんとうのところを理解しているとはいえないところもある。

それが高度に発達した資本主義なんだよ、といわれても「そうなんですか」としかいえない私は、
結局のところ、資本主義の世の中がよくなるには、
ほんとうにいいモノが増えていくこと以外にないのでは、とも思う。

スティーヴ・ジョブズがAppleに復帰したころだったか、
「世の中が少しだけまともなのはMacがあるからだ」と言っていたのを思い出す。

これは裏を返せば、「世の中がこんなにひどいのは……」ということになるわけだ。

Date: 3月 16th, 2014
Cate: 瀬川冬樹

瀬川冬樹という変奏曲(その2)

ステレオサウンド 3号の特集「内外アンプ65機種─総試聴記と選び方 使い方」に登場するアンプには、
いまではメーカーが存在していないモノもある。

こんなメーカーがあったのか、と思うメーカー製のアンプも載っていれば、
いまも名器として評価されているマッキントッシュのC22とMC275、JBLのSG520とSE400S、SA600、
QUADの22とIIなども載っていて、時代の流れによって何が淘汰され、何が語り継がれていくのかを、
時代を遡って実感できた。

マッキントッシュのC22とMC275の瀬川先生の試聴記には、こうある。
     *
こういう音になると、もはや表現の言葉につまってしまう。たとえば、池田圭氏がよく使われる「その音は澄んでいて柔らかく、迫力があって深い」という表現は、一旦このアンプの音を聴いたあとでは至言ともいえるが、しかしまだ言い足りないもどかしさがある。充実して緻密。豊潤かつ精緻である。この豊かで深い味わいは、他の63機種からは得られなかった。
     *
瀬川先生はしばしば透明を澄明と書かれることがある。
ステレオサウンド 3号の、この試聴記を読むと、マッキントッシュの、このペアの音を聴かれたからこそ、
あえて澄明と書かれるのか、と私などはおもってしまう。

池田圭氏の「その音は澄んでいて柔らかく、迫力があって深い」という表現と、
マッキントッシュのC22とMC275の音がもしなかったなら、透明感と書かれていったのかもしれない。

Date: 3月 15th, 2014
Cate: カタチ

趣味のオーディオとしてのカタチ(その10)

「4343よりも4333の方が……」、
こんなことをいう人のスピーカーの鳴らし方はたいてい幅が狭い、とでもいおうか。

4343や4333のところをほかのスピーカーに置き換えてもいい。
とにかくこんな言い方をする人は多くはないけれど、少ないとはいえない。
しかもそういう人に限って、自分はスピーカーの鳴らし手として優れている、と思い込んでいる節がある。

けれど、私に言わせれば、こういう人のスピーカーの鳴らし方は、
少し極端な表現をすれば、ワンパターンである。
だから、幅が狭い、と書いた。

オーディオとは自分の好きな音を出すこと、だと、この手の人はいう。
自分の音を持っていなければ、いい音は出せない、と力説される。

このことを完全否定はしないけれど、はたしてそうだろうか。
彼は「自分の音」という幅の狭い鳴らし方に嵌っているだけのような気がしてならない。

ほんとうに優れたスピーカーの鳴らし手は、決してワンパターンな鳴らし方をしない。
瀬川先生がそうだったし、井上先生もそうだった。

あくまでもそのスピーカーシステムの個性・特性を活かしながら、うまいこと鳴らす。
もちろん、そこには瀬川先生ならではの音があり、井上先生ならではの音があるから、
そのスピーカーらしい、うまい鳴らし方であっても、決して瀬川先生が鳴らした音と井上先生が鳴らした音が、
同じになることはありえない。

私は車の運転はしないけれど、これは車の運転と同じなのではないか、と思う。

Date: 3月 15th, 2014
Cate: 930st, EMT

EMT 930stのこと(ガラード301との比較・その5)

930stのあとに、ガラード301のシステムで松田聖子を聴いていて、すぐに感じて思い出していたのは、
五味先生が930stについて書かれていた文章だった。
     *
 いわゆるレンジ(周波数特性)ののびている意味では、シュアーV15のニュータイプやエンパイアははるかに秀逸で、EMTの内蔵イクォライザーの場合は、RIAA、NABともフラットだそうだが、その高音域、低音とも周波数特性は劣化したように感じられ、セパレーションもシュアーに及ばない。そのシュアーで、たとえばコーラスのレコードをかけると三十人の合唱が、EMTでは五十人にきこえるのである。
     *
ガラード301にはオルトフォンのSPUがついていた。
SPUもシリーズ展開が多過ぎて、ぱっと見ただけでは、SPUのどれなのかはわかりにくい。
少なくともSPU Classicではなかった。もっと高価なSPUだった。
それにフォノイコライザーに関しても、
930stは内蔵の155stで、ガラード301のほうはコントロールアンプ内蔵のフォノイコライザーであり、
301のほうのフォノイコライザーの方が155stよりも新しい設計である。

155stには昇圧用と送り出しの二箇所にトランスが使われている。
ガラードの301のシステムにはかなり高価な昇圧トランスが使われていた。
このトランス自体も155stに内蔵のトランスよりも新しいモノだった。

だからというわけでもないが、周波数レンジ的にはガラード301+オルトフォンSPUのほうがのびていた。
けれど五味先生が書かれているように、
シュアーのV15での三十人の合唱がEMTでは五十人に聴こえるのと同じように、
私が聴いていたシステムでも、930stの方が広かった。

三十人が五十人にきこえる、ということは、それだけの広い空間を感じさせてくれるということでもある。
その意味で930stは、録音に使われた空間が広く感じられる。

こう書いていくと、930stが完璧なアナログプレーヤーのように思われたり、
私が930st至上主義のように思われたりするかもしれない。

けれど930stは欠点の少ないプレーヤーではないし、私自身、930st至上主義ではない。
ガラード301とSPUで聴けた松田聖子の声は、実にしっとりとなめらかだった。

Date: 3月 13th, 2014
Cate: LNP2, Mark Levinson

LNP2の音について思ったこと(その2)

はっきりと書いておくが、瀬川先生はLNP2の音を、麻薬的とか魅惑的な音色といったことは書かれていないし、
話されてもいない。

そんなことはない、読んだ記憶がある、という方は、
瀬川先生がLNP2について書かれたものを読み返してみればいい。
the Review (in the past)で読み返されるのもいいだろう。
それに瀬川先生の文章はかなりの分量をePUBにして公開している。
どちらにしても紙の本にはない機能としての検索がある。

LNP2の音を、麻薬的、魅惑的な音色だと思い込んでしまっている人には意外なことになろうが、
LNP2についての文章に、麻薬的とか魅惑的な音色につながるフレーズは出てこない。

少しだけ引用しておけば、おそらくLNP2について書かれたものでは最後になってしまった、
「’81世界の最新セパレートアンプ総テスト」の「いま、いい音のアンプがほしい」には、こうある。
     *
 レヴィンソンがLNP2を発表したのは1973年で、JBLのSG520からちょうど十年の歳月が流れている。そして、彼がピュアAクラスのML2Lを完成するのは、もっとずっとあとのことだから、彼もまた偶然に、プリアンプ型の設計者ということがいえ、そこのところでおそらく私も共感できたのだろうと思う。
 LNP2で、新しいトランジスターの時代がひとつの完成をみたことを直観した。SG520にくらべて、はるかに歪が少なく、S/N比が格段によく、音が滑らかだった。無機的などではない。音がちゃんと生きていた。
 ただ、SG520の持っている独特の色気のようなものがなかった。その意味では、音の作り方はマランツに近い──というより、JBLとマランツの中間ぐらいのところで、それをぐんと新しくしたらレヴィンソンの音になる、そんな印象だった。
 そのことは、あとになってレヴィンソンに会って、話を聞いて、納得した。彼はマランツに心酔し、マランツを越えるアンプを作りたかったと語った。
     *
マランツのModel 7の音について、瀬川先生は「中葉」と表現され、
《JBLよりもマッキントッシュよりも、マランツは最も音のバランスがいい。それなのに、JBLやマッキントッシュのようには、私を惹きつけない。私には、マランツの音は、JBLやマッキントッシュほどには、魅力が感じられない。》
とも続けられている。

そういうマランツのModel 7に近い音であるLNP2には、だからSG520の「独特の色気」はない。

もしLNP2の音に「独特の色気」があったならば、麻薬的とか魅惑的な音色という表現もでてこようが、
これらの言葉は、実際のLNP2の音をあらわしているとはいえない。

なのに、なぜLNP2の音をそう思う人がいるのだろうか。

Date: 3月 12th, 2014
Cate: LNP2, Mark Levinson

LNP2の音について思ったこと(その1)

そういう意図で書いたつもりではないのに……、ということはままある。
そういうとき、私の書き方が拙かったかな、とは一応思うようにしている。
どう書けば、きちんと伝わるようになるのか、そのことを考えないわけではない。

でも、どんなに考え尽くしても、そうして書いた文章を読んだ全ての人に伝わるかといえば、
まずそんなことはない、といえる。

それはお前の文章が拙いだけだろう、といわれるかもしれないが、
これまで五味先生、瀬川先生の文章を読んできたという人と話してみると、
えっ、そこの文章をそういうふうに受けとめるの? と思うことは少なからずあった。

私が間違って(歪んで)受けとめている可能性もある。
どちらがどうということよりも、五味先生、瀬川先生の文章ですらそうなのだから、ということに少々驚く。

先頃もそんなことを考えさせられることがあった。
マークレビンソンのLNP2を最近聴く機会のあった人が、こんなことをいっていた。
「巷で云われているような、麻薬的、魅惑的な音ではないんですね」

LNP2は、麻薬的でも魅惑的ともいえる音色をもっているアンプではない。
瀬川先生もそういうことは書かれていない。

けれど、「巷で云われているような、麻薬的、魅惑的な音ではないんですね」といった人は、
どうも瀬川先生の書かれたものから、そういうふうに読みとっているように、私には感じられた。

これははっきりと確認したわけではないから、私が話していてそう感じただけのことで、
決してそんなことはない、そういうアンプではない、と言おうかとも思ったけれど、
ここで書くことにした。

Date: 3月 11th, 2014
Cate: 書く

毎日書くということ(三年が経ち……)

書くことにつまる日は、それまでにも何度かあった。
それでもなんとか一行目を書ければ、ある程度の量の文章はかけなくもない。

でも、この日だけは違った。
何を書けばいいのたろうか、
それよりも書くべきなのだろうか、とも考えてしまった。

音楽とオーディオに関することしか書いていないブログである。
そういうブログを、こういう日に更新する意味があるのか、
あったとしても、何を書いたらいいのか……。

納得いく答が出せるまで考えていては日付が変ってしまう。

三年前の14時46分以降、ずっとMacの前にはりついていた。
テレビをもっていなから、インターネットとMacによる情報しかなかったからだ。

東京にいても、いままで体験したことのない、しかも恐怖を感じた揺れだった。
とてつもないことが起った、起っている、ということはなんとなく感じてはいても、
Macのディスプレイに表示される映像は、すぐには何が起っているのかわからなかった。

しばらくして何が起っているのかわかった。

時間はあっという間にすぎさっていく。
日付が変るまでそんなに時間がない、というときに、何を書いたらいいのか、わからなくなってしまった。

日付が変り、すぐさまGoogle Analyticsでアクセスログを見た。
東北からのアクセスは、少なかった。
もともと東北からのアクセスは多くはなかった。けれどほんのわずかだった。
おそらく14時46分以前のアクセスだけだったのだろう。

次の日、東北からのアクセスはなかった。
次の日もなかった。三日目もなかった、と記憶している。

四日目か五日目だったか、やっとアクセスがあった。
とても少なかった。

でもアクセスがあったことに、なんといったらいいのだろうか、ほっとした面があった。
次の日も次の日もブログを書いていた。

オーディオのサイトやブログをやっている人の中には、
こういう事態だから、更新していくこと自体が不謹慎だとの理由でしばらく休む人も少なくなかった。

なのに音楽とオーディオのことを、毎日書いていることを、
どう受けとめられるのかについて考えていたからだ。

私は不謹慎だとは思っていなかった。
だが、それはあくまでも私がそう思うだけであって、読み手側がどう感じるかのはわからない。
それを間接的に伝えてくれるのは、Google Analyticsが毎日表示するドライな数字だった。

一週間経つと、もう少し増えた。
それでも以前よりもずっと少ない。
勝手に、以前の数字には戻らないのか、戻るとしても長い時間がかかるのではないか。

どうなるのかはわからなかった。
ただ書いていくだけである。

アクセスは増えていった。
半年ぐらい経ったころだったか、以前のアクセスよりも多くなっていた。

いまでは、東北からのアクセスは、あの日以前の倍以上になっている。
正直、まったく予想できないほどアクセスは増えた。

だから東北が復興したとはおもっていない。
まだオーディオを再開できていない人もおられるとおもう。

はっきりとしたことを何か言えるわけではない。
それでも、少なくともあの日もふくめて、それ以降も毎日書いてきたことが、不謹慎ではなかった、
不謹慎と思われていたわけではなかった。
これだけはいえる。

Date: 3月 11th, 2014
Cate: ステレオサウンド

3.11とステレオサウンド(その1)

ここに書くことは、2011年6月に書こうと思ったこと。
たいてい、書きたいと思ったこと、書けると思ったことは、すぐに書き始めるようにしている。
なのにどうしていままで書かなかったかというと、書かない方がいいかも、という気持が強かったからだ。

2011年6月から約三年が経って、やはり書くことにしたのは、
その時感じたことを、より強く感じるようになってきたからだ。

2011年6月に出たステレオサウンドは、3.11のあとの最初のステレオサウンド(179号)である。
巻頭エッセイとして「今こそオーディオを、音楽を」が載っている。

2011年3月11日にステレオサウンド 178号は出ている。
それはたんなる偶然でしかないのかもしれないが、はたしてそうだろうか、ともおもう。

178号は編集長が、現在の染谷氏に変って最初のステレオサウンドである。

実はステレオサウンドの編集長が交代する、という噂はその二年前ごろから耳にしていた。
ほんとうかどうかは、部外者の私にはわからない。
一年前になると、こういう理由で交代する、というまことしやかな噂も入ってくるようになってきた。
それにステレオサウンドの奥付をみていると、交代の噂はほんとうなのかな、と思わせていた。

これらの噂が事実だったのかどうかは私にはどうでもいい。
とにかく2011年からステレオサウンドの編集長が変った、ということ。

それはおそらく急な交代ではなく、ある程度の準備期間があっての交代であったはずだと思っている。
ということは現在の染谷編集長は、
編集長になったら……、ということを、それだけの期間考えつづけてきたことだと思う。

そうやってつくられた、染谷編集長にとっての最初のステレオサウンドが2011年3月11日に出た。

それまで編集者として携わってきたステレオサウンドと、
編集長としてのはじめてのステレオサウンドとでは、それが書店に並んだときの感慨は同じではないはず。
そういう日が、3.11だった。

三ヵ月後の179号は、3.11を無視した号ではないことは、誰もが思っていたはず。
編集部もそういう気持でつくっていたことだとおもう。

「今こそオーディオを、音楽を」が載っていた。
この記事については特に書かない。
私が思ったのは、これだけなのか……、だった。

Date: 3月 10th, 2014
Cate: 瀬川冬樹

瀬川冬樹という変奏曲(その1)

1981年夏にでたステレオサウンド別冊「’81世界の最新セパレートアンプ総テスト」は、
瀬川先生の「いま、いい音のアンプがほしい」ではじまる。

「いま、いい音のアンプがほしい」の最後は、こう結ばれている。
《レヴィンソンのいまの音を、もう少し色っぽく艶っぽく、そしてほんのわずか豊かにしたような、そんな音のアンプを、果して今後いつになったら聴くことができるのだろうか。》

この文章を読んだ時は、ステレオサウンドの古いバックナンバーを読んだことはなかった。
41号から買いはじめた私にとって、創刊号から10号あたりまでのバックナンバーは、
いつの日か読む機会が訪れるかもしれないけれど、いったいそれはいつになるのだろうか、と思っていた。

その機会は、1982年1月からステレオサウンドで働くようになったので、拍子抜けするほどあっさりと訪れた。

ステレオサウンドが3号において、国内外のアンプをそろえ、いわゆる総テストを行っていたことは、
ステレオサウンド 50号その他の号を読んで知っていた。
ここでの総テストが、その後のステレオサウンドの特集におけるスタンスの基になっていったことも知っていた。
それだけでなく、このアンプテストは瀬川先生の自宅で行われて、
そこでマッキントッシュのC22とMC275と出逢われている。

エリカ・ケートのモーツァルトの歌曲のために、このアンプを欲しい、とさえ思ったものだ、と、
「いま、いい音のアンプのほしい」の中で書かれている。

そういう3号だから、バックナンバーの中でもっとも読みたい一冊であった。

Date: 3月 9th, 2014
Cate: 930st, EMT

EMT 930stのこと(ガラード301との比較・その4)

松田聖子は、CBSソニーというレコード会社にとって稼ぎ頭であったはずだ。
であれば、松田聖子のレコーディングには、それなりのお金も手間もかけていたように思う。

昔既オーディオ雑誌で、CBSソニーのスタジオが記事になったことがある。
そこで、かなり広いスタジオがあった、と記憶している。

930stで松田聖子を聴いていて、実はそんなことを思っていた。
CBSソニーは、松田聖子をアイドル歌手としてではなく、稼ぎ頭の歌手として扱っている。
だから録音も丁寧に行っているし、贅沢にも行っている。

930stでの松田聖子では、広いスタジオで歌っているように聴こえるのだ。

だからといって、ここで書いたことが事実なのかどうかは知らない。
松田聖子がどういうスタジオで録音していたのかの詳細は何も知らない。

知らないけれど、そこで鳴っていた音は、そう感じさせてくれたし、
このことがガラード301を中心としたシステムとの、いちばんの音の違いでもあった。

Date: 3月 9th, 2014
Cate: 「うつ・」

うつ・し、うつ・す(その2)

「うつし」を現し、顕しとも書くことが、
「音は人なり」につながっているようにおもえてならない。

そして「うつ」という漢字には、全、空、虚がある。

Date: 3月 9th, 2014
Cate: LNP2, Mark Levinson

Mark Levinson LNP-2(続々続バッファーアンプについての考察)

瀬川先生はLNP2のトーンコントロールを使われていた。
“EQ”スイッチのポジションは、だからINであったはずだ。

少なくともOUT 0dBポジションでは使われなかった、とみていいだろう。
となると、パッファーアンプを追加したLNP2の場合、
片チャンネルあたり四つのLD2モジュールは、NFBのかかり方が違うことになる。

JC2(ML1)の1dBステップの左右独立のレベルコントロールは、
何度か書いているようにラインアンプのNFB量を増減していて、
NFB量による音の変化を聴くことができる。
LNP2でもインプットアンプのゲインを切り替えることで、NFB量による音の違いを耳で確かめられる。

どのポジション(どのくらいのNFB量)が音がいいのかは、人によって違ってくるようで、
私はJC2を使っていたときは最大にしていたが、ここで絞る(NFB量を増やしてゲインを落す)ほうが、
いいという人もいることは知っている。

とにかくNFB量が変れば音は変化する。

LNP2に、NFB量100%のバッファーアンプを追加することで、
LD2へのNFBのかけ方のヴァリエーションが揃うことになる。
これによりLD2の表情は変化していっている。

つまりバッファーアンプを追加することで、LD2の新たな表情が加わるといえるのではないのか。

こう考えていくと、もし瀬川先生がLNP2のトーンコントロールを使われずに、
“EQ”スイッチをOUT 0dBポジションにされていたならば、
バッファーアンプを追加することで、バッファーアンプが二段重ねになってしまい、
バッファーアンプ追加による音の変化をよい方向とは認められなかった可能性も出てくる。

JC2でもフォノイコライザーアンプとラインアンプでは回路構成が違っていた。
国産、海外のコントロールアンプのほとんどが、そうであった。
その中にあってLNP2はすべてLD2というひとつのモジュールだけで構成していた。

この特殊性も、バッファーアンプ追加による音の変化と少なからず関わっている、といえる。

Date: 3月 9th, 2014
Cate: LNP2, Mark Levinson

Mark Levinson LNP-2(続々バッファーアンプについての考察)

LNP2のアウトプットアンプはトーンコントロール機能をそなえている。
高低音域だけでなく中音域もコントロールできる3バンドのトーンコントロールであり、
このトーンコントロールもNF型のはずだ。

ということはトーンコントロールを使うことで、
この段のLD2にかかるNFB量は変化していく。

LNP2には”EQ”というスイッチがある。
3ポジションで、トーンコントロール機能のON/OFFにあたるINとOUTのポジションの他に、
OUT 0dBというポジションもある。

OUT 0dBのポジションにすれば、トーンコントロールの三つのツマミをフラットにしていても、
アウトプットアンプのゲインに違いがでる。

いいかえればOUT 0dBポジションで使えば、
アウトプットアンプがバッファーアンプということになる。

バッファーアンプとは、buffer amplifierであり、bufferとは緩衝もしくは緩衝装置ということになる。
そしてバッファーアンプのゲインは0dBであることが特徴だ。
LNP2のように他のアンプ段と同じモジュールを使う場合、
100%NFBをかけることで、ゲインを0dB(増幅度:1)にする。