Date: 5月 12th, 2014
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(その19)

このことも別項「ある写真とおもったこと」に書いたことと重なるけれど、
オーディオと「ネットワーク」について考えていくと、共通体験の提供がある。

録音されたものは、そのままでは音は鳴ってこない。
レコードを頭の上にのせようと、耳にくっつけようと、
それだけでは音楽は聴こえてこない。しかるべき再生装置があって、そこに記録されている音楽を聴ける。

この再生装置(オーディオ)が、実に千差万別。
しかも同じオーディオ、仮に同じつくりの部屋で鳴らしたとしても、
鳴らす人が違えば同じ音が出ることはない。

人の数だけの音が鳴っている。

高価なオーディオでも、カセットテープに録音して外出時に聴くような場合でも、
人の数だけの音が鳴っている。

それがいま共通体験が可能になりつつある、といえるようになってきた。
本格的なオーディオでのみしか聴かない、という人を除けば、
つまりiPodで音楽を聴く、iPodでも音楽を聴くという人たちには、共通体験としての音楽が提供されている。

これはいままでなかったことであり、これからますます拡大していくことだろう。

オーディオと「ネットワーク」、ネットワークオーディオについて考えていくとき、
私は、分岐点(dividing)と統合点(combining)、フィルター(filtering)、
最終点と出発点の関係と境界、共通体験、これらのことばで対象を解体していくことになる。

Date: 5月 11th, 2014
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(その18)

それから、別項「LINN EXAKTの登場の意味するところ」でも書くことになることがある。

以前、「中点(その12)」で、
レコードは、レコードの送り手側にとっては最終点であり、
レコードの受け手(聴き手)にとっては出発点になる、という黒田先生が、かなり以前に書かれたことを引用した。

オーディオと「ネットワーク」について考えていくとき、
この最終点が最終点でなくなりつつある。

このことはレコード(録音されたもの)に関してだけではない。
スピーカーシステムに関しても、
これまではメーカーがいわゆる「最終点」として出してきたモノを、
使い手は購入し、それを出発点としていたわけだ。

だがオーディオのシステムが、いま以上にインターネットとの結びつきを深め、
単にプログラムソースを配信するサイトとの接続にとどまらず、
オーディオメーカーとのサイトにも接続されるようになり、
さらにはソフトウェア専門のメーカーも登場し、そこへも接続する、ということになっていけば、
もうスピーカーシステムは、最終点とはいえなくなる。

つまりユーザーのリスニングルームに設置されてしまえば、
基本的にメーカーは何も手を出すことはできない。
その意味で最終点だったわけだが、
インターネットを通じて、そのリスニングルームで鳴っている情報をメーカーにフィードバックすることで、
メーカーはその部屋に応じたプログラム(調整方法)を送り返してくれ、
スピーカーシステム側で自動的に補整する、ということは、もう夢物語ではなくなっている。

Date: 5月 11th, 2014
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(その17)

録音側がつくったモノ(LPであったりCDだったり、SACDだったりする)は、
流通系路にのせられてレコード店に届き、そこから聴き手の手に届く。

この流通も、またネットワークであり、
流通そのものに詳しいわけではないが、
それでもあれこれこうではなかろうかとみていくと、流通のネットワークも、
オーディオにおけるネットワークと同じことがいえることに気づく。

前回(その16)を書いて、約二年半。
書いた本人が、こんなことを書いてたはずだけど、どうだっけ? と確認するために、
ざっと目を通しているくらいだから、読まれている人は、とっくに忘れていて当然。

ばっさりと、これまで書いたことを要約すると、
録音側、再生側、それに流通にもネットワークがそこにある、ということ。
そのネットワークには、
分岐点(dividing)と統合点(combining)、それにフィルター(filtering)がある、ということ。

この三つのキーワードから、オーディオとネットワーク、
それに、いまネットワークオーディオと呼ばれているものについて書いていく。

Date: 5月 11th, 2014
Cate: 広告

広告の変遷(を見ていく・1969年)

the Review (in the past)で、おもにスイングジャーナルに掲載されたオーディオの広告を公開しはじめている。

これを書いている時点で450本。スキャンし終っている広告の一〜二割程度。
レタッチ作業に馴れて効率が良くなれば、もう少し公開のペースもあげられるけれど、
いまのところは、こんな調子でやっている。

レタッチ作業をしていると、漫然と広告を見ていたときには気づかなかったことも目に入ってくる。
今日午後に公開したスタックスのヘッドフォンSR3の、1969年のステレオに載った広告
SR3がプロフェッショナルの現場でも使われていることを謳った広告で、
右側にそれぞれの会社での、使われ方を撮った写真が四枚並んでいる。
その中の一枚に、東芝レコードのものがある。

この一枚だけが、他の三枚とは少し違っている。
女性が何人もレコードプレーヤーの前にすわり、スタックスのSR3で、
レコードの検聴と思われる作業をとらえた写真である。

おそらくプレスされたレコードから、どの程度なのかは検討がつかないけれど、
ある程度の枚数をピックアップして、問題がないのか、実際に再生してチェックしているのであろう。

目視でのチェックはやっているような話は、以前聞いたことがあったけれど、
こうやって耳でも確かめているとは、まったく思っていなかった。

レコードの値段は昔も今もそう変っていない。
物価は変化していても、レコードの値段は二千〜三千円していた。

1969年は、いまよりもレコードは、ずっと高価なモノであり、
レコードもまた工業製品である以上、品質管理が必要となる。

そんなことを思い起こさせたスタックスの広告だった。

Noise Control/Noise Designという手法(45回転LPのこと・その2)

そのコメントには、こんなことが書いてあった。

クラブミュージック(ダンスミュージック)で、DJがテクノやハウスといわれる種類の音楽をかける。
従来は当然のことながらアナログディスクだったのが、
時代の流れにでCD、さらにはMP3に変っていった。

となると音も変る。
その違いが小さいものであったなら、問題となることもなかったけれど、
あまりにも違いが大きすぎるということで、
DJはあれこれ試行錯誤をした結果、アナログディスク特有のノイズを、
CD、MP3で音楽を鳴らす時にミックスすることにしたそうだ。

ここでのアナログディスク特有のノイズとは、プチッ、パッといったパルス性のノイズではない。
音溝をダイアモンドの針先が擦ることによって生ずる音(ノイズ)のことである。

何も録音されていない無音溝のレコードを、そのために製作して、
そのアナログディスクを再生して得られるノイズが、ここでいうアナログディスク特有のノイズのことである。

このノイズを加えることにより、アナログディスクをかけている感じに近づけることができた、とあった。

私自身は、これを試したことはないけれど、
私が5月7日に話したことも、基本的にはこれと同じことである。
だから、この話にはそのとおりだ、と思っている。

Date: 5月 10th, 2014
Cate: 4345, JBL

JBL 4345(その4)

ステレオサウンドは季刊誌だから、次の号が出るまで三ヵ月ある。
56号で4345が近い将来登場するのを知ってからは、その三ヵ月間が待ち遠しく感じられた。
57号には間に合わなかったので、また三ヵ月間、その待ち遠しい時間を送った。

この待ち遠しい時間は、いまではなかなか味わえなくなりつつある。
少なくとも私は、ステレオサウンドの次の号が出るのを待ち遠しい、とは、もう感じなくなっている。

いまはそんな私でも、あのころはほんとうにステレオサウンドの新しい号の発売は待ち遠しかった。
おまけに、そのころのステレオサウンドは発売日の15日に書店に並ぶことはまったくなかった。
必ず遅れていた。

だから15日が過ぎたら、毎日書店に通っていた。
今日も出ていない、次の日もまた出ていない。
そんな空振りを何度も味わって、やっと三ヵ月待った新しい号のステレオサウンドを手にする。

そこに読みたかった記事が、読みたかった人によって、
しかも充分な量の文章が、そこに載っている。

待たされたけど、何度も書店に足を運ばされたけど、そんな憾みはどうでもよくなる。

ステレオサウンド 58号で、4345について、瀬川先生の文章で読めた。
しかも58号を読まれた方ならば、思い出されるはず。
ここでの4345についての瀬川先生の文章は、
4345のページだけでなく、SMEの3012-R Specialのところでも読めたのだから。

Date: 5月 9th, 2014
Cate: 4345, JBL

JBL 4345(その3)

ほとんどの新製品は、読者にとってはいきなり誌面に登場する。
いまではあれこれいろんな情報が事前に流れてくることも多いけれど、
4345が登場した1981年は、そんなことはなかった。

オーディオ業界にいる人ならば、何人かはそういう情報を耳にした人もいるだろうが、
ふつうの人にとってはオーディオ雑誌に登場するまで、ほとんど何の情報も耳にすることはない。
だからこそ新製品のページは、ステレオサウンドを手にする度に、もっとも期待して開くページであった。

4345は56号で予告されていた。
これは、映画の予告編のようなものだった。
こんなものなのか、ではなく、
映画でいえば話題作、大作の予告編と同じで、それを見ることで本編への期待が高まるし、
映画が上映日を迎えるまでの数ヵ月間は待ち遠しい。

4345はまさに私にとってはそういう新製品だった。

56号で4345が登場することを知ったときから、
ステレオサウンドの新製品紹介のページに4345が登場するとき、
書かれるのは絶対瀬川先生のはず、という期待もあった。

しかも56号からステレオサウンドは新製品紹介のページを大きく変えていた。
56号でのトーレンスのリファレンスの記事と同じくらいの内容で、
4345の新製品紹介の記事を読めるはず──、
この期待も4345の登場と同じくらいか、それよりも少し大きかった。

Noise Control/Noise Designという手法(45回転LPのこと・その1)

毎月第一水曜日に四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記で行っているaudio sharing例会

夜7時からなのだが、時間が許せば一時間くらい前に喫茶茶会記に着くようにしている。
何もその日のテーマについてじっくり考えておきたいから、ではなく、
店主の福地さんとの話を楽しんだり、
常連のお客さんがいるときに福地さんが紹介してくれて、その方と話がはずむこともある。

先日(5月7日)もそうだった。
18時40分ごろだったか、フルート奏者のMiyaさんという方が来られた。
Miyaさんはそれまでオーディオを介して音楽を聴くことにはあまり関心がなかったけれど、
少し前にステレオサウンドの試聴室において、いわゆるハイレゾ音源を聴く機会があって、
そこからオーディオに目覚めてきた、ということだった。

そういうことで話が弾んだ。
audio sharing例会の19時までは20分ほどだから、あれもこれもというわけにはいかなかったけれど、
CD(デジタル)とLP(アナログ)の音の違いについてきかれた。

この日話したことのひとつだけを書けば、ノイズが関係している、ということについて説明した。
それもaudio sharing例会の開始時間が迫っていたので、充分な説明はできなかった。

翌日、このブログで、ホールのバックグラウンドノイズについて書いた。
ブログにはコメントをなかったけれど、facebookにはコメントがあった。
そこにはアナログディスクのノイズについてのものがあった。

Date: 5月 8th, 2014
Cate: Noise Control/Noise Design

Noise Control/Noise Designという手法(望むもの・その3)

いわゆる音が収録されているものをなぜ望むのか。
ホールのバックグラウンドノイズを収録したもの (SACDだったりネット配信だったり)を、
そのまま再生して聴こうと考えているのではない。

一度はボリュウムをあげて聴くだろうが、
私が試してみたいのは、メインの2チャンネル(左右)のスピーカーの他に、
最低でも部屋の四隅に別個にスピーカーシステムを設置して、
たとえばウィーンのムジークフェラインザールで録音された演奏を聴くときに、
演奏の音はあくまでもメインの2チャンネルのスピーカーでのみ再生して、
四隅のサブスピーカーから、ムジークフェラインザールのバックグラウンドノイズの再生する──、
こんなことをやってみたいからである。

バイロイト劇場での録音にはバイロイト劇場のバックグラウンドノイズ、
日本のサントリーホールでの録音にはサントリーホールのバックグラウンドノイズ、
こんなことをいくつか試してみたい。

これで何らかの変化が得られるのであれば、
次のステップとしてムジークフェラインザールの録音のときに、
バイロイト劇場とかサントリーホールのバックグラウンドノイズを鳴らしてみたら、
いったいどういう変化が出るのか、
さらには複数のホールのバックグラウンドノイズをミックスしてみたら、いったいどういうことになるのか。

Date: 5月 8th, 2014
Cate: Noise Control/Noise Design

Noise Control/Noise Designという手法(望むもの・その2)

さまざまなホールのバックグラウンドノイズを収録したものを、いま望んでいる。
人がだれもいないホールにマイクロフォンをたて、
DSD録音、PCm録音ならばサンプリング周波数、ビット数はCDの44.1kHz、16ビットよりも高い値で、
できるだけ録音機材のS/N比の高いものを使って、
ホール特有のバックグラウンドノイズと呼べる領域の音(あまり意識にはのぼってこないような類のもの)を、
そのまま収録してほしい。

どこかひとつだけのホールではなく、
世界各国の、著名なホールのバックグラウンドノイズをおさめたものが出て来てくれないだろうか。

音楽を収録したものにもホールのバックグラウンドノイズは収録されているといえばされている。
けれどあくまでもメインはステージの上で演奏されている音の収録であり、
バックグラウンドノイズは、おそらくステージ上の音によってマスキングされているはず。

その聴こえ難いホールのバックグラウンドノイズに焦点を絞ったものが欲しい。
完全な無音は、世の中に存在しないのだから。

Date: 5月 8th, 2014
Cate: オーディオ観念論

オーディオの現実に対しての観念論の必要性

いいたいことは、タイトルそのまま、である。

Date: 5月 8th, 2014
Cate: Noise Control/Noise Design

Noise Control/Noise Designという手法(望むもの・その1)

望むもの地上のどこにも完全な無音の空間は存在しないわけで、
コンサートに行く、そこでホールに足を踏み入れると、そのホール特有のざわめきがまず感じとれる。

会場直後にホールに入れば、まだ人はまばら。
ざわめきも少なく、そこでの、耳に入ってくる、いわゆるノイズはホール特有のものを、少しとはいえ感じとれる。

ステレオサウンドは1980年代にデジタルディレイを再生系に取り入れたSSSという方式を提唱していた。
菅野先生、柳沢氏のふたりが熱心に取り組まれていた。
同じころ、というか、ステレオサウンドよりも少し早くラジオ技術も同様のことを誌面でたびたび取り上げていた。

このころから30年近く経過して、デジタル信号処理に必要な機器のS/N比は格段に向上している。
あのころはわずかとはいえデジタル特有のノイズを無視できるレベルには至ってなかった。

いまハイレゾという、安易な略語がオーディオマニアの間だけでなく、
一般的な言葉として使われるようになってきた。
ハイレゾリューションといえばいいではないか、と思うし、
このハイレゾリューションにしても、それほどいい言葉とは感じられない。

とにかくデジタル(PCM)に関して、サンプリング周波数は100kHzを超えることが可能だし、
ビット数も拡大してきている。

PCMの場合、ビット数が増えていくことはS/N比の改善になる。
だがサンプリング周波数に関しては安易に高くしていくと、S/N比は劣化していく。
高くするメリットはもちろんあるのだが、ただ高くすればすべて良し、というものではない。

とはいうものの確実にデジタルは高S/N比を実現している。
それにDSDでの収録もいまでは特別なことではなくなっている。

こういう時代・状況になって、ひとつ、この項に関することで望みたいことがある。

Date: 5月 8th, 2014
Cate: オーディオ観念論

澄明(その1)

瀬川先生が、透明を澄明と書かれていたということは以前書いた。

澄明の「澄」は澄む(すむ)。
すむは、澄むの他に、住む、棲む、済むなどがある。

透明ではなく澄明な音は、なにかを済ませることで得られるのかもしれない、と思うようになってきた。

Date: 5月 7th, 2014
Cate: オーディオ観念論

音源

音源ということばがある。

再生側において音源とは、いわゆるプログラムソースのことである。
LP、SPなどのアナログディスク、CD、SACDなどのデジタルディスク、
オープンリール、カセットなどのテープといったメディアに収録したものの総称として使われる。

録音側はその収録の現場であり、ここでの音源とはマイクロフォンがとらえる音を発しているもののことを指す。
つまりは楽器ということになる。

音を発するという意味では、スピーカーも音源である。

音源ということばについて、これまではこれ以上深く考えることはなかった。
音はなにかを伝えるものであり、なにかを伝えるものとして文字がある。

この文字には、音源に似たことばとして字源がある。
字源とは、個々の文字の起源、と辞書にはある。

白川静氏が、字源についてこう語られている。
     *
字源が見えてくるならば、漢字の世界が見えてくるはずである。従来、黒いかたまりのように見られていた漢字の一字一字が、本来の生気を得て蘇ってくるであろう。漢字は記号の世界から、象徴の世界にもどって、その生新な息吹きを回復するであろう。
     *
音源を、字源ということばのようにとらえなおすことはできないのだろうか。

Date: 5月 6th, 2014
Cate: 素朴

素朴な音、素朴な組合せ(その24)

フィリップスのフルレンジユニット以外にも、いくつかのフルレンジユニットの音は、
いまもういちど聴きたい、と思うことがある。
それらのほぼすべては海外製のフルレンジユニットである。

日本にも優秀なフルレンジユニットがあったことは知っているし、
そのいくつかは音も聴いている。

フルレンジユニットだからどんなに優秀であっても、
より優秀なマルチウェイのスピーカーシステムの音と比較すれば、
そしてオーディオマニア的な細かな音の聴き方をすれば、あそこもここもと、いろんなことを指摘できる。

その意味では、マルチウェイのスピーカーシステムの出来のいいモノとそうでないモノとの音の差と比較すれば、
フルレンジユニットの出来のいいモノとそうでないモノとの音の差は小さい。

そういうフルレンジユニットの中で、海外製(それもヨーロッパ製)のモノと日本のモノ、
どちらも優秀なフルレンジユニット同士を鳴らしても、私の耳は海外製のフルレンジユニットに惹かれるのは、
それは素朴な音だから、だけでは語ったことにはならない。

日本製の優秀なフルレンジユニットの音もまた素朴な良さをきちんと持っているからだ。
そのことはわかっている。
わかっていても、私の聴き方では、
海外製のフルレンジユニットが、素朴な音ということで最初にイメージしてしまう。

ここでもその理由は、別項で書いている「薫り立つ」ということに関係してくる。