Date: 5月 18th, 2014
Cate: 4350, JBL

JBL 4350(その3)

狂気をはらんだ物凄さ──、
こういう音は1970年代後半に存在した、いわば時代の音だったのかもしれない、といまは思う。

1980年代にはいり、そういう時代ではなくなってきたようにも思える。
だからJBLの1980年代のスピーカーシステムは、4345、4344もそうだし、
4350の後継機4355にも、狂気をはらんだ物凄さは影をひそめていた、というべきか、
そこにはもう存在しなくなりつつあった、というべきか、
とにかく4350Aと4355との音の違いには、そういうことを私は感じる。

そうだとしたら、いまの時代に4350を鳴らすことは、どういうことなのか。
狂気をはらんだ物凄さなど、どこにもありませんよ、といった風情で鳴らすのが、いまの時代なのだろうか。

4350の、狂気をはらんだ物凄さをいささかもおさえることなく、
かといってあからさまにすることなく、そうやって鳴らすのはいまの時代にそぐわないのか。

だとしたら、私が角を矯めて牛を殺すのたとえのように4350を鳴らすのも、
いまの時代のひとつの鳴らし方なのか。

そんなことを思いながらも、違うだろう、と私はいうわけだ。
ならば、ほかのスピーカーでいいじゃないか。
むしろ、ほかのスピーカーのほうがいいはずだ。

4350が登場してもう40年経っている。
40年前のスピーカーを、いまも鳴らしている理由(わけ)はなんなのか。

私がいま4350を鳴らすのであれば、はっきりという、
あの時代の「狂気をはらんだ物凄さ」を聴きたいからであり、
角を矯めて牛を殺すような音を、4350からは聴きたくない。

Date: 5月 18th, 2014
Cate: JBL, Studio Monitor

JBL Studio Monitor(型番について)

4350は最初白いコーン紙のウーファー2230を搭載し1973年に登場している。
1975年にウーファーが2231Aに置き換えられ、4350Aとなる。

1980年、ウーファーとミッドバスが、
アルニコマグネットからフェライトマグネットに置き換えられた2231H、2202Hに変更され、4350Bとなる。

4300シリーズのほかのシステム、4331と4333も、おもにエンクロージュアの改良で4331A、4333Aとなり、
1980年にやはりウーファーがフェライト化され4331B、4333Bとなっている。

4311にも同じで、4311、4311A、4311Bという変遷がある。

つまり4300シリーズの型番末尾のアルファベットは、いわゆるMKI、MKII、MKIIIと同じで、
改良を意味している。

1980年にコバルトの世界的な枯渇によりアルニコマグネットからフェライトマグネットに変更されたときに、
4300シリーズの型番にはすべてBがついた。

4343にもBがついた。
そのためか型番末尾のAがアルニコ仕様だと勘違いしている人がいる。
そういう人は、4343のアルニコ仕様モデルを、4343Aと書いたり言ったりする。
だが4343には、4343Aというモデルは存在しない。

あるのは4343と4343Bである。
同じような間違いは、実はステレオサウンドもやっている。

4345が登場したときに、4345BWXとしている。
4345BWXという型番は実際にはない。
あるのは4345である。

4345は最初からウーファーとミッドバスはフェライトマグネットだから、
Bタイプとしたのはわかるし、ウォールナット仕上げだからさらにWXをつけたのもわかる。

だが4345には、サテングレー仕上げはなくウォールナット仕上げのみである。
だから仕上げを区別するためのWXはつかない。
改良モデルでもないから型番の末尾にアルファベットもつかない。

Date: 5月 18th, 2014
Cate: 4350, JBL

JBL 4350(その2)

角を矯めて牛を殺す、というたとえがある。
JBL・4350について書こうとおもったときに、このたとえがまず浮んできた。

ウーファーがアルニコマグネットの2231Aから2235Hになり、
ミッドバスは同じくフェライト仕様の2202H、
ミッドハイは2440から、ダイアフラムのエッジが大きく変更になった2441へと変った4355は、
そういう傾向は抑えられているけれど、
4350Aには瀬川先生が指摘されているように「手のつけられないじゃじゃ馬」的なところがあった。

4350Aほどのスピーカーが、日本家屋のあまり広くない空間で、
そういうふうになったら、まず聴けたものじゃない。

となると人は抑え込もうとする。

購入したスピーカーはその人のモノであるから、どう鳴らそうとその人の自由であり、
まわりが口をだすことではないとわかっていても、それでも「角を矯めて……」のたとえが浮ぶ。

「どこか狂気さえはらんでいる」と瀬川先生は書かれている。

こう書かれたステレオサウンド 43号のセクエラのModel 1のところには、こうも書かれている。
     *
 スピーカーならJBLの4350A、アンプならマークレビンソンのLNP2LやSAE2500、あるいはスレッショールド800A、そしてプレーヤーはEMT950等々、現代の最先端をゆく最高クラスの製品には、どこか狂気をはらんだ物凄さが感じられる。チューナーではむろんセクエラだ。
     *
4350Aは、確かに1970年代後半において「時代の最先端」をゆくスピーカーシステムであったし、
「狂気をはらんだ物凄さ」を、その音に感じさせてくれるスピーカーシステムでもある。

Date: 5月 18th, 2014
Cate: 「うつ・」

うつ・し、うつ・す(その3)

音は人なり、ということから、その人が鳴らす音は鳴らし手をうつす鏡であるということは、
ずっと昔からいわれ続けている。

鏡といえば、鏡ともいえよう。

だが鏡には、実のところ何もうつってはいない。
鏡が正面にある。
そこには自分の姿が映っている。

けれど鏡を斜めから見ている人と正面から見ている人とで、
鏡に見ているものは違っている。

鏡が映画のスクリーンのように何かを映し出しているのであれば、
正面の人も斜めの人も同じものを見れるはずだが、そんなことはない。
それが鏡である。

誰も鏡のほんとうの姿をみることはできない。

だから音を鏡にたとえることには完全には同意できないでいる。
でも、その反面、そういう鏡だからこそ、オーディオ(2チャンネル方式)の音と似ている、ともおもえてくる。

Date: 5月 17th, 2014
Cate: 4343, JBL

JBL 4343(その9)

4343のメクラ板がブラックなのは、コスト削減のためだろう。
そう安易に決めつける人はいる。

だがすでに書いてきたようにコスト削減が目的ならば、もともと余分な穴など開けなければメクラ板は不要になる。

それに4343に限らずJBLの4300シリーズのスタジオモニターは仕上げの違いに応じて、
ある箇所の細工も変えている。
これは多くの人が知っている(気づいている)ことだと思っていたけれど、
意外にも10年ほど前、
JBLの4300シリーズを使っていた人(この人は時期は違うがどちらの仕上げも使っていた)は、
私が指摘するまで気づいていなかった、ということがあった。

JBLはデザインに気をつかっている──、
ふだんからそういっている人がそのことに気づいていなかったことが私にはよほど意外だったけれど……。

現在の4300シリーズはフロントバッフルと側板とのツラが合うように作られているが、
以前の4300シリーズはフロントバッフルが少し奥まっていた。
つまり両側板、天板、底板の木口による額縁が形成されていた、ともいえる。

その額縁はサテングレー仕上げとウォールナット仕上げとでは、木口の処理が違っている。
サテングレーでは四角い板をそのまま組み合わせたつくりだが、
ウォールナットでは木口を斜めにカットしている。

天板の木口を真横からみると、サテングレーでは垂直になっているのに対して、
ウォールナットでは下部のわずかなところは垂直なのだが、そこから天板にかけては斜めになっている。

ただ仕上げを変えているだけではない。

そういうJBLがメクラ板をコスト削減だから、といって、どちらの仕上げも同じブラックにするわけがない。
ブラックにしているのは、そこにおさまるトゥイーターの2405がブラック仕上げだからである。

Date: 5月 17th, 2014
Cate: 4343, JBL

JBL 4343(その8)

JBL・4300シリーズの最初のモデル4320のエンクロージュアの仕上げは、いわゆるグレーだった。
グレーは灰色、鼠色なわけだが、JBLのグレーはそんな感じではなく、もっと明るい。
JBLではずっと以前から、この明るいグレーのことをサテングレーと呼んでいる。

4320はサテングレーの仕上げだった。
4320にもメクラ板はある。
トゥイーターを追加するために設けられている穴をふさいでいる。

4320のメクラ板の色はサテングレーである。
フロントバッフルもサテングレーである。

JBL・4300シリーズの仕上げにウォールナットが加わることになる。
両サイド、天板、底板の四面(もしくは底板をのぞく三面)がウォールナットになり、
フロントバッフルの色はブルーになっている。

このころからサテングレー仕上げはフロントバッフルの色を、
それまでのサテングレーからブラックに変更している。

1981年に登場した4345からサテングレー仕上げはなくなった。
4343が最後のサテングレーとウォールナット仕上げの両方があったモデルになってしまった。

メクラ板の色。
4320ではサテングレーだったが、4343では違う。
サテングレー仕上げ(フロントバッフルはブラック)であっても、
ウォールナット仕上げ(フロントバッフルはブルー)であっても、メクラ板はブラックである。

これがもしウォールナット仕上げではフロントバッフルと同じブルーであったら、どんな印象になるのか。
そして、なぜ4343のメクラ板はブラックなのか。

Date: 5月 16th, 2014
Cate: High Fidelity

ハイ・フィデリティ再考(モーツァルトのレクィエム)

モーツァルトのレクィエムを聴きおわると、よくおもうことがある。

私達が聴けるレクィエムは、誰かの補筆が加わっている。
ジュースマイヤーであったり、バイヤーであったり、ほかの人であることもある。

モーツァルトの自筆譜のところと誰かの補筆によるところとの音楽的差違はいかんともしがたいわけだが、
ならばその音楽的差違をはっきりと聴き手に知らせる(わからせる)演奏が、
ハイ・フィデリティなのだろうか、と思う。

そこには音楽的差違がある以上、
それをはっきりと音にするのが演奏家としてハイ・フィデリティということになる──。

それでも思うのは、誰かの補筆が加わっていてもモーツァルトのレクィエムとして聴きたい気持があるからだ。
音楽的差違をはっきりと示してくれる演奏よりも、そうでないほうがいいとも思う。

Date: 5月 15th, 2014
Cate: 「オーディオ」考

十分だ、ということはあり得るのか(その5)

1973年録音のカラヤンのマーラーを過不足なく聴かせるシステムであれば、
1963年録音のバーンスタインのマーラーも、
1947年録音のワルターのマーラーも過不足なく聴かせてくれる、といえる。

1963年録音のバーンスタインのマーラーを過不足なく聴かせるシステムは、
1947年録音のワルターのマーラーも過不足なく聴かせてくれるけれど、
1973年録音のカラヤンのマーラーとなると、必ずしもそうとはいえない。

1963年録音のバーンスタインのマーラーを過不足なく聴かせるシステムの中には、
1973年録音のカラヤンのマーラーを過不足なく聴かせるシステムもあれば、そうでないシステムもある。

1973年録音のカラヤンのマーラーを過不足なく聴かせるシステムが、
1980年録音のアバドのマーラーを、1986年録音のインバルのマーラーを過不足なく聴かせてくれるとはかぎらない。

今日のマーラーを過不足なく鳴らせたとしても、
それは明日のマーラーを過不足なく鳴らせるという保証とはなり得ない。

レコード(録音されたもの)をオーディオを介して聴く、という行為には、常にこの問題がつきまとう。
これから先、どれだけ時間が経ち、技術が進歩しようとも、この問題がなくなることはまずありえない。

Date: 5月 15th, 2014
Cate: 「オーディオ」考

十分だ、ということはあり得るのか(その4)

「レコードにおけるマーラーの〈音〉のきこえ方」に、こう書いてある。
     *
 レコーディング・エンジニア側での思いやりがあってできたレコードであるから、ききての側で、そのレコードをかけるにあたってのことさらの苦労はいらない。そのレコードをきくかぎり、再生装置についての心配は、ほとんどいらない。ロジャースLS3/5Aモニターという、幅十八・五センチ×高さ三十センチ×奥行き十六センチという小さなスピーカーできこうと、JBL4343というフロア型スピーカーできこうとその一九四七年に録音されたワルターのレコードをきいているかぎりでは、そのいずれできいてもことさらの差はない。
 ところが、一九六三年に録音されたバーンスタインのレコードとなると、事情は少なからず変わってくる。たいした差はないとはいいがたい。ロジャースできいたものと、高さが一メートル五センチあるJBL4343できいたものとでは、あきらかに違う。ここでは、先ほどの言葉でいえば、レコードを録音する側でのききてに対しての思いやりが薄れている。あたかもそこでの音は、これだけの大がかりなシンフォニーをきこうとしているあなたなら、それ相応の再生装置でおききになるのでしょう——とでもいいたがっているかのようである。
 大太鼓のとどろきだけを取りだしていうと、そのバーンスタインのレコードでは、からppへ、そしてppからpppへの変化が、歴然である。ただそれは大きい方のスピーカーできいたときにいえることで、小型スピーカーできいた場合には最後のpppによるとどろきはひどく暖昧なものとなってしまう。
     *
1947年のワルターと1963年のバーンスタインにおいて、これだけの差がある。
バーンスタインの10年後のカラヤンにおいてはどうなのか。
     *
 大太鼓の三つのとどろきのうちののとどろきとppのとどろきは小型スピーカーのほうでも、どうやらききとれるが、最後のpppのとどろきは精一杯に音量をあげてもほんの気配程度にしかきこえない。そこにその音があるということを知っていれば、耳をすましてなんとか感知できなくもないが、さもなければききのがしても不思議はないほどの微妙な音である。大きいほうのスピーカーできけば、そのようなことはない。バーンスタインのレコードでよりも、さらにはっきりと、ppの差を、pppppの差を、示す。大太鼓がオーケストラの一番奥にいることも、誰がきいてもわかるように、きこえる。そこで示されるひろがりは大変なものである。
 しかし——、そう、しかしといわなければならない。最後のとどろき、つまりpppのとどろきをきくためには、かなり音量をあげなければならない。このレコードのレコーディング・エンジニアには、ワルターのレコードのレコーディング・エンジニアにあったききてに対しての思いやりが欠けているとでもいうべきか。本来は微弱であるべき音を少し大きめにとってききてにその音の存在をわかりやすくさせようとするより、できるかぎりもともとの強弱のバランスに近づけようとしている。むろんそれは間違ったこととはいえない。ハイ・フィデリティの考えにたっての録音というべきであろう。たしかにその一九七三年に録音されたカラヤンのレコードは、一九四七年に録音されたワルターのレコードより、そして一九六三年に録音されたバーンスタインのレコードより、録音ということでいえば、抜きんでて素晴らしい。
     *
引用ばかりになるけれど、もうひとつステレオサウンド別冊「コンポーネントステレオの世界 ’76」の巻頭、
岡先生と瀬川先生、黒田先生による座談会、「オーディオシステムにおける音の音楽的意味あいをさぐる」で、
カラヤンのマーラについてふれられている。
     *
黒田 最近出たカラヤンのマーラーの第五番、この第一楽章の結尾で大太鼓の音が入っているんだけど、あるレコードコンサートでたいへん優れた録音の例としてその部分をかけたら、なぜか大太鼓が鳴らない(笑い)。
(中略)
 ぼくの装置だとちゃんとピアニッシモに入っているんです。ここのところでこのレコードの録音がよいのかわるいのかというのが、ひじょうに微妙になってくる。
     *
1947年のワルターから26年のあいだで、これだけ違ってきている。
1973年のカラヤンのあとに、アバド/シカゴ交響楽団による第五交響曲が出て、
インバル/フランクフルト放送交響楽団による録音が出、その後も多くの第五交響曲がいま市場にはある。

Date: 5月 15th, 2014
Cate: アナログディスク再生

アナログプレーヤーの設置・調整(その2)

最初にいっておきたいのは、オーディオのプロフェッショナルではないのだから、
すべてのアナログプレーヤーを使いこせるようになる必要はない、ということ。

自分の使っているアナログプレーヤー、
それは愛着がもてて信頼できるプレーヤーを見つけて手に入れて、
そのアナログプレーヤー、ただ一機種の使いこなしに長けていればいい。

ターンテーブルの駆動が、
ベルドドライヴ、リム(アイドラー)ドライヴ、ダイレクトドライヴ、どの方式でもあってもいい、
トーンアームもダイナミック型なのかスタティック型なのか、軸受けはどの方式なのか、
これもきちんとしたモノであれば、それでいい、
カートリッジも同じである。MC型でなければならないとか、そんなことはここでは関係ない。

とにかくこれが自分のアナログプレーヤーだといえるモノを見つけ出すことである。
それを手に入れる。

このアナログプレーヤーだけを使いこなせるようになれば、それでいい。

Date: 5月 14th, 2014
Cate: アナログディスク再生

アナログプレーヤーの設置・調整(その1)

このブログで、アナログプレーヤーの設置・調整に関することは書く必要はない──、
と最初のころは思っていた。
それが2008年のころ。

その後SNS(twitter、facebookなど)が日本でも急速に広まっていった。
どちらもやっている。
audio sharingというサイト、このaudio identity (designing)というブログをやっている関係から、
私がフォローする人、私をフォローする人は、オーディオに関心のある人が多い。

そうすればその人たちがSNSに書きこむものを毎日目にする。
そこにはオーディオ以外の話題のほうが多いのだが、オーディオのこともやはりある。
そしてアナログディスク、アナログプレーヤーに関するものも目にする。

これらを目にして思うのは、アナログプレーヤーの設置・調整に関して、
このブログで基本的なことを含めて、こまかなことにまで書いていく必要があるのかもしれない、と感じている。

世代によってはCDが身近な存在であり、
アナログディスク(LP)というものを後から知ったという人もいる。
私よりずっと長いアナログディスク歴の人もいる。

長いからすごい、というわけでもないし、短いから未熟ともいえない。
これは以前から感じていたことだが、SNSの普及でますますそれは強くなっている。

これはもう書いていく必要がある──、
そんなことを知っているよ、という人に対して、実のところ書いていく必要がある、と思っている。

Noise Control/Noise Designという手法(45回転LPのこと・その3)

私がアナログディスク固有のノイズに注目したのは、
CDが登場したばかりのとき、サンプリング周波数が44.1kHzだから、20kHz以上はまったく再生できない。
だからアナログディスクよりも音が悪い。
人間の耳の可聴帯域は20kHzまでといわれているけれど、実はもっと上の周波数まで感知できる。

とにかく、そんなことがいわれていた。

確かにサンプリング周波数が44.1kHzであれば、
アナログフィルターの遮断特性をふくめて考えれば20kHzまでとなる。
それで十分なのか、となれば、サンプリング周波数はもっと高い方がいい。

だからといって、サンプリング周波数が44.1kHzで20kHzまでだから……、というのは、
オーディオのことがよくわかっていない人がいうのならともかくも、
少なくとも音の美を追求してきた(している)と自認する人が、
こんなにも安易に音の美と周波数特性を結びつけてしまうことはないはずである。

FM放送のことを考えてみてほしい。
FM放送でライヴ中継を聴いたことが一度でもある人ならば、
その音の良さ、美しさを知っているはずだ。

この体験がある人はFMの原理、チューナーの仕組みを大ざっぱでいいから調べてみてほしい。
FM放送の周波数特性はCDよりも狭いのだから。

それでもライヴ中継の音の良さには、陶然となることがある。

Date: 5月 13th, 2014
Cate: 現代スピーカー

現代スピーカー考(その33)

リボン型、コンデンサー型、その他の全面駆動型のスピーカーユニットがある。
これらは振動板の全面に駆動力がかかっているから、振動板の剛性は原則として必要としない、とされている。

駆動力が振動板全体に均一にかかっていて、その振動板が周囲からの影響をまったく受けないのであれば、
たしかに振動板に剛性は必要ない、といえるだろう。

だがリボン型にしろコンデンサー型にしろ、一見全面駆動のように見えても、
微視的にみていけば駆動力にムラがあるのは容易に想像がつく。
だいたい人がつくり出すものに、完全な、ということはない。
そうであるかぎり完全な全面駆動は現実のモノとはならない。

ボイスコイルを振動板にプリントし、振動板の後方にマグネットを配置した平面型は、
コンデンサー型よりももっと駆動力に関しては不均一といえる。
そういう仕組みを、全面駆動を目指した方式だから、
さも振動板全体に均一に駆動力がかかっている……、と解説する人がいる。

コーン型やドーム型に対して、こうした方式を全面駆動ということは間違いとはいえないし、
私もそういうことがある。だが完全なる全面駆動ではないことは、ことわる。

もし全面駆動(つまり振動板全体に駆動力が均一にかかっている状態)が実現できていたら、
振動板の材質の違い(物性の違い)による音の差はなくなるはずである。
現実には、そうではない。ということは全面駆動はまだ絵空事に近い、といえる。

ただこれらの方式を否定したいから、こんなことを書いているのではない。
これらのスピーカーはピストニックモーションを追求したものであり、
ピストニックモーションを少しでも理想に近付けるには、振動板の剛性は高さが常に求められる。

剛性の追求(剛の世界)は、力まかせの世界でもある。
ジャーマン・フィジックスのDDD型ユニットを聴いてから、頓にそう感じるようになってきた。

Date: 5月 13th, 2014
Cate: 「オーディオ」考

十分だ、ということはあり得るのか(その3)

黒田先生の著書「レコード・トライアングル」に「レコードにおけるマーラーの〈音〉のきこえ方」がある。
1978年に書かれた、この文章で、黒田先生は三枚のマーラーの第五交響曲のレコードをとりあげられている。

一枚目は、ブルーノ・ワルター指揮ニューヨークフィルハーモニーによるもので、1947年録音。
二枚目は、レナード・バーンスタイン指揮ニューヨークフィルハーモニーで、
ワルターと同じコロムビアによるもので、1963年録音。
三枚目は、ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ベルリン・フィルハーモニーで、
1973年、ドイツ・グラモフォンによる録音。

一枚目は二枚目には16年、二枚目と三枚目には10年の開きがある。
一枚目のワルターによるマーラーは、当然モノーラルで、録音機材はすべて真空管式。

二枚目のバーンスタインからステレオ録音になるわけだが、
バーンスタインのころだと録音機材のすべてがトランジスターになっているかどうかは断言できない。
一部真空管式の機材が含まれていてもなんら不思議ではない。

三枚目のカラヤンにおいては、おそらくすべてトランジスター式の録音機材といえるだろう。
それにマイクロフォンの数も、同じステレオでもバーンスタインよりも増えている、とみていい。

録音機材、テクニックは、カラヤン/ベルリン・フィルハーモニーのマーラー以降も、
変化(進歩)しつづけている。

カラヤンの10年後の1983年ごろにはデジタル録音が主流になっているし、
さらに10年後の1993年、もう10年後の2003年、2013年とみていくと、
ワルターのマーラーから実に半世紀以上経っている。

マーラーの音楽に興味をもつ聴き手であれば、ワルターによるものももっているだろうし、
バーンスタイン、カラヤンも持っていて、さらに結構な枚数のマーラーのレコード(LP、CD)を持っている。
そして、それらを聴いている。

Date: 5月 13th, 2014
Cate: 4343, JBL

JBL 4343(その7)

JBLの4ウェイは4350が最初であり、次に4341、4343と登場していて、これら三機種は、
何度か書いているようにパット・エヴァリッジの設計ということが、もうひとつの共通項でもある。

4350にもメクラ板がある。
2405用だけでなくミッドハイを受け持つ2440ドライバーとそのホーンの取り付け用もある。
4350の後継機4355にも同じようにメクラ板がある。

だが4350、4355を購入した人が、
2405とミッドハイを入れ替えて、左右対称のユニット配置にしたという話は聞いていない。

JBLのスタジオモニターは4345以降、リアバッフルが二分割され(といっても8:2ほどの割合)、
上部のサブバッフルはネジ止めされている。
ここを外すことで、2420、2405のダイアフラム交換のための取り外しが容易になっている。

けれどそれ以前の4350では2440、2405のダイアフラムを交換する、
もしくは取り付け位置を左右で入れ替えるとなると、けっこう大変な作業である。

まずウーファーを外す。
2440の真下に前後のバッフルをつなぐ補強棧があり、
この補強棧に金具にとって2440が固定されている。

2420の重量は5kg、24401は11.3kgあり、
バッフルに取り付けられたホーンだけでは支えきれないからである。

この補強棧が2440の取り外しの際にじゃまになる。
しかも2440は重く持ちづらい。しかもエンクロージュアの中ということで持ちづらさは増す。
それだけでなく補強棧の下にはバスレフポートがあり、これによりまた難儀させられる。

そういう構造だから、一度でも4350でユニットの左右の入れ替えをやっている人ならば、
その大変さを語ってくれるはずなのだが、そんな話はいままで一度も聞いたことはない。
ということは4350、4355は左右対称でJBLから出荷されているわけだ。

とすると4350、4355のメクラ板はいったい何のためにあるのか、と考えることになる。
4343のメクラ板とあわせて考えれば、自ずと答は出てくる。