十分だ、ということはあり得るのか(その4)
「レコードにおけるマーラーの〈音〉のきこえ方」に、こう書いてある。
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レコーディング・エンジニア側での思いやりがあってできたレコードであるから、ききての側で、そのレコードをかけるにあたってのことさらの苦労はいらない。そのレコードをきくかぎり、再生装置についての心配は、ほとんどいらない。ロジャースLS3/5Aモニターという、幅十八・五センチ×高さ三十センチ×奥行き十六センチという小さなスピーカーできこうと、JBL4343というフロア型スピーカーできこうとその一九四七年に録音されたワルターのレコードをきいているかぎりでは、そのいずれできいてもことさらの差はない。
ところが、一九六三年に録音されたバーンスタインのレコードとなると、事情は少なからず変わってくる。たいした差はないとはいいがたい。ロジャースできいたものと、高さが一メートル五センチあるJBL4343できいたものとでは、あきらかに違う。ここでは、先ほどの言葉でいえば、レコードを録音する側でのききてに対しての思いやりが薄れている。あたかもそこでの音は、これだけの大がかりなシンフォニーをきこうとしているあなたなら、それ相応の再生装置でおききになるのでしょう——とでもいいたがっているかのようである。
大太鼓のとどろきだけを取りだしていうと、そのバーンスタインのレコードでは、pからppへ、そしてppからpppへの変化が、歴然である。ただそれは大きい方のスピーカーできいたときにいえることで、小型スピーカーできいた場合には最後のpppによるとどろきはひどく暖昧なものとなってしまう。
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1947年のワルターと1963年のバーンスタインにおいて、これだけの差がある。
バーンスタインの10年後のカラヤンにおいてはどうなのか。
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大太鼓の三つのとどろきのうちのpのとどろきとppのとどろきは小型スピーカーのほうでも、どうやらききとれるが、最後のpppのとどろきは精一杯に音量をあげてもほんの気配程度にしかきこえない。そこにその音があるということを知っていれば、耳をすましてなんとか感知できなくもないが、さもなければききのがしても不思議はないほどの微妙な音である。大きいほうのスピーカーできけば、そのようなことはない。バーンスタインのレコードでよりも、さらにはっきりと、pとppの差を、ppとpppの差を、示す。大太鼓がオーケストラの一番奥にいることも、誰がきいてもわかるように、きこえる。そこで示されるひろがりは大変なものである。
しかし——、そう、しかしといわなければならない。最後のとどろき、つまりpppのとどろきをきくためには、かなり音量をあげなければならない。このレコードのレコーディング・エンジニアには、ワルターのレコードのレコーディング・エンジニアにあったききてに対しての思いやりが欠けているとでもいうべきか。本来は微弱であるべき音を少し大きめにとってききてにその音の存在をわかりやすくさせようとするより、できるかぎりもともとの強弱のバランスに近づけようとしている。むろんそれは間違ったこととはいえない。ハイ・フィデリティの考えにたっての録音というべきであろう。たしかにその一九七三年に録音されたカラヤンのレコードは、一九四七年に録音されたワルターのレコードより、そして一九六三年に録音されたバーンスタインのレコードより、録音ということでいえば、抜きんでて素晴らしい。
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引用ばかりになるけれど、もうひとつステレオサウンド別冊「コンポーネントステレオの世界 ’76」の巻頭、
岡先生と瀬川先生、黒田先生による座談会、「オーディオシステムにおける音の音楽的意味あいをさぐる」で、
カラヤンのマーラについてふれられている。
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黒田 最近出たカラヤンのマーラーの第五番、この第一楽章の結尾で大太鼓の音が入っているんだけど、あるレコードコンサートでたいへん優れた録音の例としてその部分をかけたら、なぜか大太鼓が鳴らない(笑い)。
(中略)
ぼくの装置だとちゃんとピアニッシモに入っているんです。ここのところでこのレコードの録音がよいのかわるいのかというのが、ひじょうに微妙になってくる。
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1947年のワルターから26年のあいだで、これだけ違ってきている。
1973年のカラヤンのあとに、アバド/シカゴ交響楽団による第五交響曲が出て、
インバル/フランクフルト放送交響楽団による録音が出、その後も多くの第五交響曲がいま市場にはある。