Date: 2月 2nd, 2015
Cate: アクセサリー

オーディオ・アクセサリーとデザイン(その3)

以前、メガネを増永眼鏡のMP649にしたことを書いた。
当時は日本橋の三越本店別館のメガネサロンでしか川崎先生デザインのフレームは扱ってなかった。

東京にいったい何軒のメガネ店があるのかしらないが、1998年の時点では、ここだけだった。

ここでメガネをつくったことのある人なら、
その他多くのメガネ店とは雰囲気が違うことを感じとられると思う。

私がMP649を取り寄せてもらうため注文していた横で、
あるご婦人が完成したメガネを受けとっていた。
そのとき支払っていた金額に驚いた。

私が購入しようとしていたMP649とレンズを合わせた値段の約十倍もの金額だった。
MP649が届いて受けとりにいったときも、別のご婦人がメガネを受けとっていた。
その金額は、さらに高額だった。

どちらも鼈甲のフレームだった。
鼈甲のフレームは、こんなにも高額なのか、と驚きながらも、
ふたりのご婦人にとってメガネはアクセサリー(装飾品)でもあることに気づいた。

私の視力は左右とも0.1くらい。
メガネがないと不便である。
つまり私にとってメガネは医療機器であり、生活必需品である。
そこに装飾品の要素は求めていない。

けれど世の中には装飾品としてのメガネを買う人もいる。
そんなことを書きながらも、お前も川崎先生デザインのフレームというこだわりをもっているじゃないか、
と読まれている方にいわれそうだが、ここにデザインとデコレーションの違いがあると考える。

Date: 2月 2nd, 2015
Cate: アクセサリー

オーディオ・アクセサリーとデザイン(その2)

マークボーランドがどういう会社なのか、いまも詳しくことはしらない。
最初なんとなくアメリカの会社なのかなぁ、と思っていたけれど、どうも日本で作っていたようだ。
その後、どうなったのかも知らない。

私が聴くことができたマークボーランドの製品は、
朝沼予史宏さんがステレオサウンド試聴に持ち込んだスピーカーケーブルだけである。
このケーブルの型番すら知らない。

外観はおよそ30万円もするケーブルには見えなかった。
それでも朝沼さんは自信たっぷりにみえた。
とにかくマークボーランドのケーブルを、何も知らないわれわれ編集部に聴かせたかったようだった。

当時使っていたケーブルからマークボーランドのケーブルに変える。
その音の違いは、それまで聴いてきた、さまざまなケーブルの音の違いよりもはるかに大きかった。
これだけはっきりと音が変化すれば、ケーブルで音は変らないと頑なに主張しつづけている人でも、
あっさりとケーブルによる音の変化を認めるであろう。
そのくらいの違いがあった。

逆にいえば、スピーカーケーブルを変えただけでこれだけの音の変化があることが不自然に思えるほどだった。

スピーカー側からみれば、アンプとはスピーカーケーブルを含めた範囲であり、
パワーアンプ側からみればスピーカーとはスピーカーケーブルを含めたものが負荷となる。
だからスピーカーケーブルが変ることでアンプにとっての負荷も変動する。

マークボーランドのスピーカーケーブルに変えての音の差は、
アンプの動作が、それまでのスピーカーケーブル使用時とは違ってきているような、そんな印象さえあった。

だからといってすべての点で、それまで使っていたケーブルよりも良かったのかというと、
そこに関しては保留をつけたくなっていた。
それに30万円という価格にも、当時はかなりの抵抗を感じていた。

Date: 2月 2nd, 2015
Cate: 公理

オーディオの公理(Nutubeのこと)

ノリタケとコルグの共同開発による新たな真空管、Nutube。
オーディオと直接関係のない、ニュース系サイトでも取り上げられている。

話題になるのはいいことだが、そこに、こんな記述があった。
GIZMODOの記事だ。
《真空管ならではのちょっとナロー》、
真空管アンプの音は、オーディオに特に関心のない人にとっては、ナローということになるのか。

この記事を書いた人がどういう人なのかはまったくわからないし、
これを一般的な人の意見と受けとめていいものかはっきりとしないが、
それでもナローという印象が、真空管アンプの音に対してあることが、私には意外なことだった。

Date: 2月 2nd, 2015
Cate: 同軸型ウーファー

同軸型ウーファー(その3)

次に考えたのは、小口径ウーファーの周囲を大口径ウーファーで取り囲むように配置する、だった。
4インチ口径のウーファーのまわりに、8インチ口径もしくは10インチ口径のウーファーを複数配置する。

10インチならば、4インチの上下左右に、計四発配置する。
8インチならば六発くらい周囲に配置する。
いわば仮想同軸的配置である。

これも10インチと4インチの組合せだと、かなりおおがかりになる。
8インチと4インチでは、口径差がそれほどない。
なにかバカげている気がしてくる。
うまくいきそうにもない。
でも実際にやってみないと結果はなんともいえないのはわかっているのだが……。

もう一度考えたのは、最初の案である。
昔、ワトソン・オーディオのModel 10というスピーカーシステムがあった。
このモデルの最大の特徴は、ウーファーのエンクロージュア内にヘリウムガスを充填していることだった。

ヘリウムガスの音速は、空気の1/3程度。
ということはエンクロージュアの容積はヘリウムガスを充填することで27倍に相当する、というものだった。

そんなにうまくいくのかどうかは、私は音を聴いたことがない(実物も見てない)ためなんともいえないが、
確かにメーカーのいうように、驚くような低音が鳴っていた、らしい。
ただし新品の時だけであり、次第にヘリウムガスが抜けていき、ふつうのスピーカー並の低音になるそうだ。

どんなにエンクロージュアの密閉度を高めても、スピーカーユニット側から抜けていく。
振動板のところ、エッジから少しずつガスは抜けていくわけだ。

だが同軸型ウーファーの実験には必要な時間くらいはおそらくもつであろう。
そうであれば大口径ウーファーの前に小口径ウーファーを配置する。
小口径ウーファーのバックキャビティは200mlぐらいしか確保できないとしても、
ヘリウムガスを充填することで、計算上は5.4literになる。
これならば、なんとか工夫することで実験できるのではないか。

Date: 2月 2nd, 2015
Cate: 同軸型ウーファー

同軸型ウーファー(その2)

まず考えたのは小口径ウーファーと大口径ウーファーを組み合わせた同軸型ウーファーである。
それならば何も同軸型にすることなく、
大口径ウーファーと小口径ウーファーに同じ帯域を受け持たせればいいのではないか。
そう思われるかもしれない。

それでもなんらかの効果は得られるだろうが、
私が、わざわざ複雑な構造の同軸型にしてまで欲しているものは、
どうもそれでは得られないような気がしている。

技術的な根拠が特にあるわけではない。
あくまでも直感にすぎないのだが、
小口径と大口径のウーファーを組み合わせるのは、
大口径ウーファーのもつ、特有の欠点をなくしたいと考えるからである。

15インチ口径のウーファーがある。
そのセンターに4インチ口径ほどのウーファーを同軸上にもってくる。
これが最初に考えた構造である。

それならば15インチ口径ウーファーの前面にフレームをわたして、
そこに4インチ口径のウーファーを取り付ければ、簡易的ではあったも実験できるのでは? となる。

けれどこの構造では4インチ口径のウーファーの背面の音をどう処理するかが問題になる。
バックキャビティを持たせてしまうと、15インチ口径ウーファーの前面を覆い隠してしまう。
これでは無理である。

Date: 2月 2nd, 2015
Cate: 広告

広告の変遷(ARの広告)

1970年ごろのアコースティックリサーチ(AR)の広告には、演奏家が登場している。
マイルス・デイヴィスジュディ・コリンズ、それにヘルベルト・フォン・カラヤンが、
ARのスピーカーシステムを自宅で使っている、と広告にはある。

この手の広告のやり方は昔からあり、ほかの会社もやっている。
同時期、アルテックの輸入元であったエレクトリは、渡辺貞夫の自宅の写真を掲載、
そこにはアルテックのMalagaが置かれていた。

以前は、この手の広告は、あくまでも広告だから、という感じでしかみてなかった。
真剣に受けとめることはしていなかった。

けれど、カラヤンにしてもマイルスにしても、ジュディ・コリンズ、渡辺貞夫にしても、
すでに著名な演奏家である。
つまりARが、彼らの知名度を広告として利用しているわけで、
そこにはなんからの謝礼が生じているのであろうが、
それでもマイルスにしてもカラヤンにしても、
ARのスピーカーシステムに良さを見出していたからこそ、ではないのか。

そう思いはじめると、
一度はカラヤンのこのころのアナログディスクは、ARのスピーカーシステムで聴いてみたい、
そう思うようになってきた。

カラヤンが、このころどういうシステムを使っていたのかはわからない。
ARの、シンプルなフロントパネルのプリメインアンプとアナログプレーヤーだった可能性もある。
トーンアームはSMEの3009で、カートリッジはシュアーだったのだろうか。

少なくともカラヤンはARのスピーカーで、発売されている自分のレコードを聴いていた、と考えられる。
そして、どれだけ満足していたのかはわからないものの、
決して大きな不満はなかったからこそ、ARの広告に登場したのだろう。

ARのシステムで聴くカラヤンが最上のカラヤンの再生ではないけれども、
少なくとも標準となるカラヤンの再生といえるのかもしれない。

Date: 2月 1st, 2015
Cate: 価値・付加価値

オーディオ機器の付加価値(その3)

付加価値の付加とは、付け加えられる、付け加えられたという意味である。
ある製品が完成した後に付け加えられた価値が、付加価値ということになるのか。

さらには付け加えられた価値であるのならば、
その価値を不要とする使い手が取り除くことができる価値なのだろうか。

私にとって、(その2)で挙げたJBLのHarkness、トーレンスのTD224、そのほかの機種から、
岩崎先生が使われていたモノということは取り除くことはできない。

傍から見れば、岩崎先生が使われていたスピーカー、アナログプレーヤー、カートリッジといったことは、
付加価値であると思っていたとしても、私にとっては付加価値ではない、という気持が強いのはそのためである。
取り除けない価値は、付加価値ではないはずだ。

では、タンノイのオートグラフにとって、五味先生が鳴らされていたということは付加価値になるのか。
私には、ここがやや微妙になってくる。

毎月第一水曜日に行っているaudio sharing例会をはじめたばかりのころ、
来られた方がいわれた。
オートグラフは五味康祐氏が鳴らしていたから特別なスピーカーではない。
そういうこととは関係なしに特別なスピーカーなのだ、と。

これは至極まっとうな意見である。
そうわかっていても、私にとってタンノイ・オートグラフは、
どこまでいっても五味先生がもっとも愛用されたスピーカーということで、特別な存在なのである。

つまり私にそう言われた人にとって、
五味先生が鳴らされていたいたことはオートグラフにとっての付加価値ではない、ということであり、
私にとっては付加価値以上の意味をもつことになる。

そしてその人と私のあいだに、五味先生が愛用されていた、ということが付加価値となって、
オートグラフを見ている人もいるはずだ。

Date: 2月 1st, 2015
Cate: アクセサリー

オーディオ・アクセサリーとデザイン(その1)

デザインとデコレーション。
デコレーションとは装飾である。
装飾品はアクセサリーである。

オーディオにもいくつものアクセサリーが存在する。
ケーブルもそのひとつだし、インシュレーター、スタビライザー、クリーナー、その他多くのジャンルのモノが、
いまオーディオ・アクセサリーとして流通している。

オーディオアクセサリーは音元出版の季刊誌の誌名なので、
ここではオーディオ・アクセサリーと表記する。

以前はオーディオ・アクセサリーは地味な存在だった。
いわば陰の存在のようでもあった。
価格もそれほど高価なモノはほとんど存在しなかった。

スピーカーケーブルにしても、ほとんどのケーブルが1mあたり数百円だった。
そこにマークレビンソンのHF10Cが登場した。
1mあたり4000円だった。

ステレオサウンド 53号に瀬川先生が「1mあたり4千円という驚異的な価格」と書かれているくらい、
当時としては非常に高価なスピーカーケーブルであった。
いまでは安価なスピーカーケーブルということになってしまうけれども。
これが1979年だった。

1980年代の後半になって、朝沼予史宏さんがステレオサウンドの試聴室に、
マークボーランドという、初めてきくブランドのスピーカーケーブルを持ち込まれた。
長さは3mくらいだった。
朝沼さんによると、ペアで30万円ほどだということだった。

3mだとしよう。
HF10Cだと片チャンネル12000円、ペアで24000円。
マークボーランドのスピーカーケーブルはHF10Cの十倍ほどの価格である。

Date: 2月 1st, 2015
Cate: 価値・付加価値

オーディオ機器の付加価値(その2)

オーディオ機器にとっての付加価値とはどういものがあるのだろうか。

いま私のところにはJBLのHarknessがある。
トーレンスのTD224、パイオニアのExclusive F3、EMTのTSD15、デッカのMarkVなどがある。
これらはすでに書いてきたように、岩崎先生がお使いだったモノだ。

その意味では付加価値があるオーディオ機器といえるわけだが、
ここでの付加価値はあくまでも私にとって、ということに限られるし、
付加価値とはいいたくない気持も強い。

岩崎先生の文章を読んできた読み手の一部にとっても、それは意味のあることで、
そういう人にも、岩崎先生のモノだったオーディオ機器ということは付加価値となるだろうが、
それを一般的な付加価値とは呼べない。

これに関することでいえば、このモデルは以前○○さんが使われていた、といわれるモノが市場に出ることがある。
仮に本当だとしても、すでに誰かの手にわたり、その人からまた別の人に、ということもある。

こういう場合にも、私にとって付加価値と同じ意味での付加価値があるといえるだろうか。
これは人によって違ってくることだろう。

あいだに何人かの人がいようと、そこに付加価値を認める人もいれば、
直接本人から譲ってもらったものでなければ、付加価値は認められない、という人もいる。

誰かが使っている(いた)ということは、付加価値になり得るのだろうか。
タンノイのオートグラフは五味先生が鳴らされていたスピーカーシステムである。
JBLの4343は瀬川先生、マッキントッシュのXRT20は菅野先生、
JBLのパラゴンは岩崎先生、ジェンセンのG610Bは長島先生、ボザークは井上先生……、
スピーカーシステムに限らず、アンプ、プレーヤーを含めるといくつもあげていける。

これは付加価値になるのか。
つまりはタンノイのオートグラフにとって、五味先生が鳴らされていた、ということは付加価値となるのか。

Date: 1月 31st, 2015
Cate: 価値・付加価値

オーディオ機器の付加価値(その1)

デザインは付加価値といっている人は昔からいて、いまもいる。
オーディオの世界にもいる。

いつまで、こんなことがいわれつづけていくのか、と思うと、うんざりする。

それにしてもオーディオにおける付加価値というのはあるのだろうか。
昔から、そんなことを思っていた。
あるようには思えないのだが、
オーディオ機器の資産価値をけっこう気にする人がいるのを、
ステレオサウンドで働くようになって知った。

意外だった。
自分が所有しているオーディオ機器の資産価値など、
それまで一度も考えたことはなかったし、
資産価値を選択基準にしたこともなかったからだ。

なるほど、そういう考えをする人もいるのだ、ぐらいに思っていた。
けれど、はっきりと資産価値を口にするわけではないが、
オリジナル至上主義の人の中には、この資産価値をとにかく気にしての人がいることも知った。

オリジナルと違う部品を使うと、そのオーディオ機器の資産価値が下がる、とはっきりと口にした人もいた。

先日、ゴールドムンドの価格改定が発表になった。
いまは円安だし、ゴールドムンドはスイスの会社でありスイスフランの高騰を考えれば、
価格改定はしかたないこと。

どのくらい価格がアップするのか。
ゴールドムンドのパワーアンプのフラッグシップモデルであるTELOS 2500+。
現在の価格は16,500,000円。これでもすごい価格なのに、価格改定後は33,500,000円となる。
二倍になる。

購入を検討している人は、価格改定前になんとか手に入れるしかない。
けれどすでに所有している人にとって、この価格の上昇は資産価値の上昇でもある。
10%、20%くらいの価格上昇でも資産価値の上昇といえなくはないが、
そんなのはごくわずかである。

けれど一千六百万円が三千三百万円ともなれば、
この資産価値の上昇は立派な付加価値といえるのではないか。

Date: 1月 31st, 2015
Cate: 音楽性

「音楽性」とは(人間性と音楽性)

人間性を辞書でひけば、
人間を人間たらしめる本性。人間らしさ、とある。

音楽性は載ってなかった。
けれど人間性の意味でいえば、
音楽を音楽たらしめる本性。音楽らしさ、ということになる。

音楽といっても、これまでに多くの(無数の)音楽が生み出されている。
あまりにも、音楽という言葉がカバーしている範囲は広い。

だからもう少し限定して、たとえばベートーヴェンの音楽、
もっと狭めればベートーヴェンの作曲した曲ひとつ、
ピアノソナタ第32番ということに限れば、
音楽性とは、
ベートーヴェンのピアノソナタ第32番をベートーヴェンのピアノソナタ第32番たらしめる本性、
ベートーヴェンのピアノソナタ第32番らしさ、ということになる。

音楽を聴くことは、聴いている音楽への共感でもある。
なにがしかの共感があるから、聴き手は、その音楽を素晴らしいと思ったり、感動したりする。

だが純粋な共感はあるのか、とも考える。
100%な共感ともいおうか、そういう共感はあるのか。

そんな純粋な共感をもって音楽を聴いている人もいるかもしれない。
けれど私はそうではない。
だから純粋な共感はあるのか、と考えるわけだ。

私はわたしなりの共感で音楽を聴くしかない。
ということは、そのわたしなりの共感というのは、私の人間性と深く関わっているといえるわけで、
そうなると、私がベートーヴェンのピアノソナタ第32番に感じている音楽性とは、
つまりは私の人間性と切り離すことはできない、ということになる。

純粋な共感をもって音楽を聴いている人であれば、そうはならないだろう。
だが、そんな人がどれだけいるのだろうか。
私のまわりに、そういう人はいるだろうか。

いないとすれば、私のまわりにいる人たちがいうところの音楽性とは、
この言葉を発した人の人間性と深く関わっているのではないか。

にも関わらず、音楽性ということばを、ひとつの共通認識として使いがちである。

Date: 1月 30th, 2015
Cate: ロマン

オーディオのロマン(その6)

オーディオ雑誌やインターネットでの情報、
それからオーディオ店での試聴などなど、
ありとあらゆる情報を選択のために集める。

これはこれで楽しい行為である。
これ自体が趣味といえるのかもしれない。

気になっているモデルの情報をどれだけ集められるか。
集めた情報をどう取捨選択していくのか。
候補がいくつかあれば、情報収集とその取捨選択はもっと面白くなる。

これはオーディオの楽しみ方のひとつであり、
私はこれを自転車でよくやっている。
買えるとか買えないとかはあまり関係なく、この行為自体が楽しいからである。

そんなことをやりながらも、買いたいと思うフレームは、
そうやって情報収集・取捨選択をやっているフレームとは、まったく違っていたりする。

なのに、なぜそんなことをやっているのか。
無駄な行為としか思えないことをやるのか。

もちろん欲しいと思っているフレームについての情報も集めないわけではない。
かなり積極的に集める方だと思う。

でもそれ以上に、他のフレームに関して情報収集をするのは、もう趣味だから、としかいいようがない。
あえて理由をつければ、現在入手できるフレームの中で、もっとも理想に近いと思われるモノはどれなのか、
それを知りたいからなのかもしれない。

Date: 1月 30th, 2015
Cate: 現代スピーカー

現代スピーカー考(その35)

江川三郎氏がどこまでハイイナーシャプレーヤーを追求されたのかは、私は知らない。
想像するに、ハイイナーシャに関してはやればやるほど音は変化していき、
どこまでもエスカレートしていくことを感じとられていたのではないだろうか。

つまり飽和点が存在しないのではないか、ということ。

静粛な回転のためにターンテーブルプラッターの重量を増す傾向はいまもある。
10kgほどの重量は珍しくなくなっている。
もっと重いものも製品化されている。

どこまでターンテーブルプラッターは重くしていけば、
これ以上重くしても音は変化しなくなる、という飽和点があるのだろうか。

10kgを20kgにして、40kg、100kg……としていく。
アナログディスクの重量は、重量盤といわれるもので約180g。
この一万倍が1800kgとなる。
このへんで飽和点となるのか。

それにターンテーブルプラッターを重くしていけば、それを支える周辺の重量も同時に増していく。
1.8tのターンテーブルプラッターであれば、プレーヤーシステムの総重量は10tほどになるのだろうか。

だれも試せないのだから、ここまでやれば飽和点となるとはいえない。
飽和点に限りなく近づいていることはいえるが、それでも飽和点といえるだろうか。

江川三郎氏も、飽和点について書かれていたように記憶している。
ようするに、きりがないのである。

Date: 1月 30th, 2015
Cate: 世代

世代とオーディオ(その10)

五味先生はFM放送の録音・再生以外の、どんなオープンリールデッキの使い方をされていたのか。
生録をやられていたとはきいていない。

五味先生はスチューダーのC37を買われるほど、
オープンリールデッキに対して熱心だった。

アナログプレーヤーでいえばC37はEMTの927Dstのような存在である。
五味先生は930stを愛用されていた。
927Dstがあるのもご存知だった。
その音は少なくともステレオサウンド 51号でのオーディオ巡礼で聴かれている。

それでもアナログプレーヤーを927Dstにされることはなかった。
けれどC37にはされている。

927Dstは大きすぎるから、は理由にはならない。
C37を買われているのだから。

五味先生が亡くなられてから一年以上が経ったころ、新潮文庫から「音楽巡礼」が出た。
あとがきに南口重治氏の文章がある。
その冒頭にこう書かれている。
     *
 五味康祐先生が亡くなられてはや一年余月日の過ぎるのは早いものだ。私と五味先生とのおつきあいは大半がオーディオを通してであった。この稿を書くに当たって、五味先生から送られてきた何本かのテープを聴いてみた。存命中はご自慢の器械で名曲のさわりの部分をいつも送って下さったのだが、テープのはじめには必ず「ナンコーさん」と、あの優しい声の呼びかけが入っているのである。その声を聞き、ケンプの演奏するベートーヴェンのピアノソナタ作品109番の第一楽章を聴いていると「どうですか、音の具合は……」といまにも姿を現されそうな気がした。お互いに、もっとオーディオ自慢をしたかったのにと思うと残念でならない。
     *
こういう使い方もされていたのか、と読んで思っていた。

オープンリールとはどこにも書いてないが、カセットテープではまずないはず。
音キチを自称されていた五味先生のことだから、19cmということはないだろう、
2トラック38cmで録音されたテープを南口氏に送られていたのだろうか。

Date: 1月 30th, 2015
Cate: 世代

世代とオーディオ(その9)

ステレオサウンド 49号の巻末のUsed Component Market(売買欄)に、
アンペックスのAG440B-2が出ていた。
実働250時間、完全オーバーホール、オプションの4トラック再生用ヘッドなどがついている。
希望価格は125万円で、連絡先はステレオサウンド編集部気付になっていた。

このアンペックスは、まちがいなく瀬川先生のアンペックスだと直感した。
欲しい、と思ったけれど、私はまだ16歳。
とうてい無理な金額である。

このころは瀬川先生がアンペックスを購入されたのがいつなのかわからなかった。
けれどその後、古いオーディオ雑誌で瀬川先生のリスニングルームが紹介されているのをみると、
かなり以前から所有されていたことがわかる。

けれど実働250時間ということは、瀬川先生はあまり使われていなかったことになる。

1970年代後半のステレオサウンドには、オープンリールのミュージックテープの広告が載っていた。
2トラック38cmのミュージックテープは一万円をこえていた。

LPはプレスで大量生産が可能だが、ミュージックテープはLPのように簡単に大量生産できるものではない。
基本的にはコピーなのだから。
高価になるのはわかっていた。

それでも魅力的なモノであれば欲しい、と思ったはずなのだが、
食指が動くモノはほとんどなかった。

それでもオープンリールデッキには、オーディオ機器としての魅力があったから、
欲しいと思っていたわけだが、これで録音するものはいったいなにになるのか、とも考えていた。

私は「五味オーディオ教室」でオーディオにどっぷりつかってしまった人間だから、
五味先生と同じように毎年バイロイト音楽祭を録音するようになるのだろうか、
あとはNHK-FMによるライヴ中継なのか。
どちらにしてもFM放送ということになる。