Date: 9月 8th, 2020
Cate: 「オーディオ」考

オーディオがオーディオでなくなるとき(その20)

年齢とキャリアの長さから順当に考えれば、
柳沢功力氏の次の選考委員長は、傅 信幸氏だろう。

けれど、そうだろうか。
別項「編集者の悪意とは(その5)」で書いている。

最近は少し変化が見られるように感じるが、
少なくとも一年前までは、柳沢功力氏の次のポジションにいれるのは小野寺弘滋氏だった。

読者のなかには、ステレオサウンド筆者のトップは柳沢功力氏で、
その次が傅 信幸氏で……、と思っている人も少なくないようだ。
けれど、ステレオサウンドの特集での筆者の扱いをみれば、
編集部がどう考えているのは、実にはっきりとしている。

柳沢功力氏と小野寺弘滋氏はほぼ同じの扱いといっていい。
その次に傅 信幸氏、三浦孝仁氏、和田博巳氏という順である。

柳沢功力氏の次は、小野寺弘滋氏なのかもしれない。
どちらになるのかはわからない。
どちらになってもおかしくない。

もしかすると、もう選考委員長はおかないようになるのかもしれない。

誰が選考委員長になっても同じなのかもしれない。

柳沢功力氏の次は誰なのか。
こんなことを考えているということは、
少なくとも私のなかでは、ステレオサウンドはステレオサウンドでなくなっているのだろう。

ステート・オブ・ジ・アート賞から始まった賞、
現在のステレオサウンド・グランプリは、
その名称からいっても、ステレオサウンドの象徴のはずだ。

けれど、その象徴である賞をめぐる環境が変化しようとしている。
染谷 一氏がオーディオ評論家になれば、
小野寺弘滋氏のときと同じに、自動的に選考委員になるはずだ。

Date: 9月 8th, 2020
Cate: 「オーディオ」考

オーディオがオーディオでなくなるとき(その19)

49号が一回目だったステート・オブ・ジ・アート(STATE OF THE ART)賞。
ここから、いまも続くステレオサウンドの賞の企画は始まった。

賞だから、選考委員がいる。
そして選考委員長がいる。

岡先生が、選考委員長だった。
誰もが納得する選考委員長といえた。

選考委員の誰もが、岡先生が選考委員長であれば納得したし、
岡先生以外に選考委員長として、まとめ役ができる人はいない、とも思えた。

ステレオサウンドの編集部の人たちも、
読者も、岡先生以外の選考委員長を思い浮べることはできなかったはずだ。

ステート・オブ・ジ・アートがコンポーネンツ・オブ・ザ・イヤーに、
名称が変更になっても、岡先生が選考委員長だった。

岡先生が亡くなられて、菅野先生が選考委員長になられた。
この時も、菅野先生以外、誰が選考委員長にふさわしいだろうか、という議論は起こらなかっただろう。

菅野先生がオーディオ評論の第一線から退かれて、
選考委員長は柳沢功力氏になった。

柳沢功力氏の選考委員長に、異を唱えたいわけでなはいが、
岡先生、菅野先生のときとは、ちょっと違うものを感じてしまう。

柳沢功力氏に失礼かもしれないが、いわば消去法で選ばれた選考委員長のような気がする。
他に誰もいないのだから……、そんな感じがしてしまうのは、私だけだろうか。

そう感じた人は、私と同じくらい、私よりも長くステレオサウンドを読んできた人のなかには、
すくなからずいた、ように思う。

こんなことを書いているけれど、
柳沢功力氏のほかに誰がいる、と問われれば、誰もいないのである。
そんなことはわかっているから、このことはこれまで書かずにいた。

にもかかわず、ここにきて書いているのは、
そろそろ選考委員長が変ってもおかしくない、と感じ始めたからだ。

柳沢功力氏は1938年1月生れだから、82歳と高齢である。
まだまだ元気な様子ではある。

それでも、ステレオサウンド編集部としては、次を考えているのではないだろうか。
人の寿命はわからない。

柳沢功力氏より若い人が先に亡くなることも珍しいことではない。
それでも、次の選考委員長について、何も考えていない、とは思えない。

それは編集者だけではないだろう。
ステレオサウンド・グランプリの選考委員になっているオーディオ評論家たちも、
次の選考委員長が誰になるのか、
まったく考えていないとは、思えない(私がそう勘ぐっているだけ、だろうか)。

Date: 9月 8th, 2020
Cate: 「オーディオ」考

オーディオがオーディオでなくなるとき(その18)

avcat氏と染谷 一編集長との、このことを思い出したのは、
今年が2020年で、ステレオサウンドの前編集長の小野寺弘滋氏が、
ステレオサウンドを退社してオーディオ評論家になってから十年目になるからだ。

小野寺弘滋氏は、2010年12月にステレオサウンドを辞め、
2011年からオーディオ評論家である。

染谷 一氏は2011年からステレオサウンドの編集長である。
今年の12月に出るステレオサウンドで、染谷 一氏はまる十年、
編集長をつとめたことになる。

根拠があるわけではないが、
染谷 一氏も、いずれオーディオ評論家になる、と確信している。
だから、タイミング的にそろそろかな、と思っているわけだ。

そんなことを思っているから、
ここでのテーマ「オーディオがオーディオでなくなるとき」、
それから「ステレオサウンドがステレオサウンドでなくなるとき」について、考えてみたい。

Date: 9月 8th, 2020
Cate: 「オーディオ」考

オーディオがオーディオでなくなるとき(その17)

その1)は四年前。
(その1)に、「ステレオサウンドがステレオサウンドでなくなるとき」といったことを考えている──、
と書いた。

四年のあいだにステレオサウンドは16冊出ている。
207号も、出ている。

207号の特集「ベストバイ・スピーカー上位49モデルの音質テスト」での、
YGアコースティクスのHailey 1.2についての、柳沢功力氏の試聴記を、
avcatというアマチュアの方がSNSで問題にして、
そのことに対してステレオサウンド編集長の染谷 一氏がavcat氏に謝罪したことが、
SNSで話題になった。

おそらく検索すれば見つかるだろうし、
このことについて別項『「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」』で書いている。

このことを、
ここでのテーマ「オーディオがオーディオでなくなるとき」から見たらどうなのか、と思った。

ステレオサウンドの読者が、SNSで、記事の内容に好き勝手なことを書くのは自由である。
avcat氏はオーディオのインターネットの世界では名前の知られている人であっても、
オーディオのプロフェッショナルではないし、
アマチュアであり一読者であるのだから、
avcat氏の行為について否定的ではありたくないが、
それにしても染谷 一編集長が謝罪した、ということを、SNSで公開するのは、
どうだろうか、とは思う。

この騒動は、
「ステレオサウンドがステレオサウンドでなくなるとき」というよりも、
「ステレオサウンドがステレオサウンドでなくなってしまったとき」なのか。

Date: 9月 7th, 2020
Cate: 日本のオーディオ

リモート試聴の可能性(その8)

その7)のコメントが、facebookにあった。
そこには、レコード演奏家という概念を認めるなら、
スピーカーからの再生音を録音するという行為は、
レコード演奏家のライヴ録音という捉え方もできるのでは──、というものだった。

このことは、私も書こうかな、と考えていた。
けれど、菅野先生が提唱されたレコード演奏(レコード演奏家)論は、
いまどれだけ広まっているのだろうか、と思うところがあって、
書こうかどうしようか、と考えていたところでもあった。

レコード演奏家論がステレオサウンドに掲載されたときから、
全否定に近いものをインターネットで読んだことがある。

全否定していた人の書いているものを読むと、
どこをどう読めば、
レコード演奏家論をここまで歪めて捉えることができるんだろう……、と思いたくなるほどだった。

そこまでひどくはなくても、レコード演奏家論を認めない人は少なからずいる。
もちろんレコード演奏論に積極的な人もいる。
それから、ほぼ無関心という人もいる。

この無関心という人が、私が感じている範囲では、多数のようでもある。

菅野先生が亡くなられて、もうすぐ二年になる。
「レコード演奏家」をオーディオ雑誌で目にすることもそうとうに減ってきたのではないだろうか。

あと数年もすれば、どうなるのか、なんともいえない。

スピーカーからの再生音を録音して、ということに否定的な人は、
おそらくレコード演奏家論にも否定的なのではないだろうか。

今日観てきた映画「パヴァロッティ 太陽のテノール」では、
これをやっているわけだ。
元の音にない臨場感を生むために、
スピーカーで一度再生して、その音を録音して仕上げている。

録音の現場では、同じようなことは行われている。
デジタルで録音したものを一度アナログに変換して、音をいじる。
その後で、もう一度デジタルに変換して仕上げる。

そこに、デジタルだから、アナログだか、という妙なこだわりはない。

Date: 9月 7th, 2020
Cate: Noise Control/Noise Design

聴感上のS/N比と聴感上のfレンジ(その14)

タンノイ・コーネッタは、昔ながらのスピーカーのスタイルをしている。
コーナー型であり、フロントショートホーンがついていて、ハカマがついている。

いまどきのスピーカーシステムで、こんなスタイルのモノはほとんどない、といっていい。
ここで、このテーマで問題となるのは、ハカマのところである。

ハカマ(台輪)があることで、スピーカー・エンクロージュアの底板と床との空間、
ここは閉じられた空間になってしまう。

ハカマにスリットがあればいいのだが、
コーネッタには、そんなスリットはないから、
ハカマの内側では定在波が発生していて、
聴感上のS/N比を劣化させている。

ハカマのところの空間に、良質の吸音性のものを入れる。
あまり入れ過ぎるのも問題なのだが、
まず入れた状態と入れない状態の音を聴いてみてほしい。

audio wednesdayでは、7月のときからコーネッタのハカマのところには吸音材を入れている。
人が来る前にやっていたので、その変化を聴いていない人のほうが多い。
9月のaudio wednesdayでは、音出しの途中で、これをやった。

私は、コーネッタで三回目、それ以外のハカマ付きのスピーカーでも何度かやったことなので、
いまさら驚きはしないが、それでも、そう多くない吸音材を入れるだけで、
誰の耳にもはっきりとした違いとなってあらわれる。

喉にえへん虫がいる感じが、吸音材をいれる前の音であって、
適切な吸音材を入れれば、このえへん虫はどこかに行ってしまう。

すると、音はすーっと静けさを増す。
そしてみょうなつっかかりがなくなることで、聴感上のfレンジものびる。

Date: 9月 7th, 2020
Cate: 老い

老いとオーディオ(若さとは・その6)

なりたいオーディオマニアになれたのか。

何者か、と問われて、オーディオマニア、と答える私だから、
オーディオマニアになっているわけだが、
そこでの「オーディオマニア」とは、
オーディオに興味をもちはじめたころに、
なんとなくではあってもイメージしていたオーディオマニア像、
そこに近づけたのか、それになれたのか、
という意味での「なりたいオーディオマニアになれたのか」である。

なれたかな、と思うところもあるし、そうでもないかな、とも思うわけで、
選択肢は、つねにいくつかある──、
あの時、別の途を選んでいれば……、とおもう瞬間がまったくない人はいるのだろうか。

それでも、とおもう。
以前書いたことのくり返しになるが、
選べる途もあれば、選択肢として目の前にあっても、
選べない途もある。

それは選ばなかった途とは、当然ながら違う。

Date: 9月 7th, 2020
Cate: 映画

パヴァロッティ 太陽のテノール

映画「パヴァロッティ 太陽のテノール」を観てきた。
6月公開予定だったのが、コロナ禍の影響で約三ヵ月延び、先週末からようやく公開。

ドキュメンタリー映画なのだが、ドルビー・アトモスでも公開されている。
通常の上映もあるが、ドルビー・アトモスでの上映を観てきた。

冒頭のシーンは、
アンドレア・グリミネッリ(フルート奏者)によホームビデオでの撮影で、
アマゾンの熱帯雨林の中心部にあるオペラハウス、テアトロ・アマゾナスへ向うところである。

目的は、百年前にカルーソーが歌ったテアトロ・アマゾナスで歌いたい、ということだった。
いまならスマートフォンでも、十分きれいな画質で撮れるけれど、
この時は1990年代であって、いい画質ではない。

音も当然のことながら、そのくらいである。
なのに、テアトロ・アマゾナスに着き、舞台で歌うパヴァロッティの歌のシーンだけは、
意外にもいい音である。

ホームビデオのモノーラル音声を、この映画のために、
アビーロードスタジオでスピーカーから再生した音を、12本のマイクロフォンで収録。

録音したものを再生し、もう一度録音している。
こうすることで、モノーラル音源に再生・録音する場の音響が加わり、
ある種の臨場感が生れているようだ。

ドルビー・アトモスの上映だったから、よけいにそう感じたのか。
通常の上映では観ていないので、比較はできないが、
通常の上映とドルビー・アトモス上映は、200円の料金の違いだから、
ドルビー・アトモスのほうがいいように思う。

Date: 9月 6th, 2020
Cate: バランス

Xというオーディオの本質(その2)

輪廻という線、相剋という線がクロスしているのが、
アルファベットのX(エックス)であると、(その1)で書いてからほぼ二年。

クロスしているからこそ、輪廻と相剋のバランスということを考えるし、
大事なのは、クロスしている箇所の位置であり、角度であり、
そして繊細さである。

二本の線は、ただクロスしているだけではないのだから。

Date: 9月 6th, 2020
Cate: Cornetta, TANNOY

TANNOY Cornetta(CHET BAKER SINGS)

audio wednesdayの告知で、
チェット・ベイカーの「CHET BAKER SINGS」のMQA-CDをもっていく、と書いた。

audio wednesdayの当日(9月2日)が、ちょうど発売日だった。
喫茶茶会記に向う途中、新宿のタワーレコードで買うつもりでいた。

新宿のタワーレコードだけではないが、
クラシック、ジャズの売場は以前よりもかなり狭くなってしまっている。
渋谷のタワーレコードもそうである。

それでも発売日なのだから、買えるもの、と思いこんでいた。
私が新宿のタワーレコードに着いたのは、16時くらいだった。

ジャズの売場は、いまやほんとうに狭い。
なのに見つけられない。

「CHET BAKER SINGS」と同時発売の他のタイトルのMQA-CDはあるのに、
肝心の「CHET BAKER SINGS」のMQA-CDだけがない。

なので買えずにタワーレコードをあとにした。
渋谷に行こうかとも思ったけれど、暑さに負けてしまった。

コーネッタで「CHET BAKER SINGS」は、だからまだ鳴らしていない。

Date: 9月 5th, 2020
Cate: 日本のオーディオ

リモート試聴の可能性(その7)

ユニバーサルミュージックから「PLAYBACK in JAZZ KISSA BASIE」が発売されている。
SACDとLPだけでなく、e-onkyoでの配信も始まっている。

配信はDSF(11.2MHz)flac、MQA(96kHz、24ビット)がある。

すでにオーディオ関係のサイトで紹介されているので、詳細は省く。
ジャズ喫茶ベイシーの再生音を収録したものである。

今年はベイシー開店50年ということで、映画も公開されている。
その一貫としての、「PLAYBACK in JAZZ KISSA BASIE」の発売なのはわかっていても、
今年はコロナ禍ということで、オーディオショウがほほすべて中止になっているなかでの発売。

偶然なのだろうが、リモート試聴というテーマで書いている途中での発売は、
おもしろいタイミングでの登場というふうにも感じられる。

この企画は、どんなふうに受け止められるのだろうか。
おもしろい、と思う人もいれば、くだないこと、と思う人もいるはずだ。

再生音を録音して、何がおもしろいのか、という人は、以前からいる。
この人たちのいわんとするところがわからないわけではないが、
こうやって記録として残してくれることは、くだらない、とか、意味がない、とか、
そんなこと以前に、ありがたいことではないだろうか。

そんなことをいうよりも、「PLAYBACK in JAZZ KISSA BASIE」を、
どう聴くのかを、考えた方がずっと建設的ではないだろうか。

ジャズ喫茶ベイシーのシステムはよく知られている。
その音を収録して再生するのであれば、
やはり同じシステムでなければならないのか。

けれど、同じシステムであっても、同じ環境なわけではないし、
環境を含めて、ほぼ同じことを再現できたとしても、
鳴らす人が違うのだから……、ということになる。

同じにはできないのだから、どんなシステム、環境で聴いてもいい、ともいえる。
それでも伝わってくるところは、きちんとあるはずだ。

けれど、「PLAYBACK in JAZZ KISSA BASIE」について論じるのであれば、
少なくとも、なんらかのリファレンスといえるものをどうするのか──、
そのことを避けていくわけにはいかないはずだ。

Date: 9月 5th, 2020
Cate: Cornetta, TANNOY

TANNOY Cornetta(その28)

コーネッタで、カラヤンの「パルジファル」を聴いたのであれば、
やはり黒田先生の文章も思い出すことになる。
     *
 きっとおぼえていてくれていると思いますが、あの日、ぼくは、「パルシファル」の新しいレコードを、かけさせてもらいました。カラヤンの指揮したレコードです。かけさせてもらったのは、ディジタル録音のドイツ・グラモフォン盤でしたが、あのレコードに、ぼくは、このところしばらく、こだわりつづけていました。あのレコードできける演奏は、最近のカラヤンのレコードできける演奏の中でも、とびぬけてすばらしいものだと思います。一九〇八年生れのカラヤンがいまになってやっと可能な演奏ということもできるでしょうが、ともかく演奏録音の両面でとびぬけたレコードだと思います。
 つまり、そのレコードにすくなからぬこだわりを感じていたものですから、いわゆる一種のテストレコードとして、あのときにかけさせてもらったというわけです。そのほかにもいくつかのレコードをかけさせてもらいましたが、実はほかのレコードはどうでもよかった。なにぶんにも、カートリッジからスピーカーまでのラインで、そのときちがっていたのは、コントロールアンプだけでしたから、「パルシファル」のきこえ方のちがいで、あれはああであろう、これはこうであろうと、ほかのレコードに対しても一応の推測が可能で、その確認をしただけでしたから。はたせるかな、ほかのレコードでも考えた通りの音でした。
 そして、肝腎の「パルシファル」ですが、きかせていただいたのは、前奏曲の部分でした。「パルシファル」の前奏曲というのは、なんともはやすばらしい音楽で、静けさそのものが音楽になったとでもいうより表現のしようのない音楽です。
 かつてぼくは、ノイシュヴァンシュタインという城をみるために、フュッセンという小さな村に泊ったことがあります。朝、目をさましてみたら、丘の中腹にあった宿の庭から雲海がひろがっていて、雲海のむこうにノイシュヴァンシュタインの城がみえました。まことに感動的なながめでしたが、「パルシファル」の前奏曲をきくと、いつでも、そのときみた雲海を思いだします。太陽が昇るにしたがって、雲海は、微妙に色調を変化させました。むろん、ノイシュヴァンシュタインの城を建てたのがワーグナーとゆかりのあるあのバイエルンの狂王であったということもイメージとしてつながっているのでしょうが、「パルシファル」の前奏曲には、そのときの雲海の色調の変化を思いださせる、まさに微妙きわまりない色調の変化があります。
 カラヤンは、ベルリン・フィルハーモニーを指揮して、そういうところを、みごとにあきらかにしています。こだわったのは、そこです。ほんのちょっとでもぎすぎすしたら、せっかくのカラヤンのとびきりの演奏を充分にあじわえないことになる。そして、いまつかっているコントロールアンプできいているかぎり、どうしても、こうではなくと思ってしまうわけです。こうではなくと思うのは、音楽にこだわり、音にこだわるかぎり、不幸なことです。
     *
ステレオサウンド 59号掲載の「ML7についてのM君への手紙」からの引用だ。
M君とは、黛健司氏である。

私は、この文章を読んで、
黒田先生はカラヤンの「パルジファル」に挑発されたのかも……、とおもった。

黒田先生は、それまでのメニーのTA-E88からマークレビンソンのML7に、
コントロールアンプをかえられた。

黒田先生は、
《あのフュッセンの雲海をみつづけるためには、ぼくにとって少額とはいいかねる出費を覚悟しなければなりません》
とも続けて書かれている。

カラヤンの「パルジファル」の前奏曲がうまくなってくれると、
まさにそのとおりの情景が浮んでくるように感じる。

だからこそ、静であることが、とにかく大事なこととなる。

Date: 9月 5th, 2020
Cate: トランス, フルレンジユニット

シングルボイスコイル型フルレンジユニットのいまにおける魅力(パワーアンプは真空管で・その5)

タムラのA8713は、一次側、二次側ともに二組の巻線がある。
この巻線の結線を変えることで、
一次側は20kΩか5kΩ、二次側は600Ωか150Ωに設定できる。

9月のaudio wednesdayでは、20kΩ:600Ωで使っている。
20kΩにするか、5kΩにするか。

どちらがいい結果が得られるか、
使用機器によって違ってくるだろうが、
私が、今回の音の変化の大きな理由として考えている、
直流域での抵抗の低さが効いているのであれば、
巻線の直流抵抗は低い方がいい、ということになる。

A8713の一次側(20kΩ)の直流抵抗は、ほぼ1kΩである。
5kΩにすれば、直流抵抗は半分の約500Ωになるし、
一次側の巻線を単独ではなく、並列接続すれば、
5kΩであっても、直流抵抗はさらに半分の約250Ωになる。

池田圭氏は、《Lをパラってみると》と書かれている。
トランスもコイルなのだが、
もっとも単純なコイルでも、同等の音の変化が得られるはずである。

ただ同じ値のトランスとコイルとでは、どちらが音がいいのだろうか。
トランス使用では二次側の巻線は開放のままである。
使っていない。

その巻線がぶら下がっているのは、精神衛生上よくない、と考えることもできるし、
意外にも開放状態の二次巻線があるからこそ、
のところはまったくないとは言い切れないようにも感じている。

このへんのことはこれからじっくり聴いて判断していくしかない。
ならばコイルは、何をもってくるのか。

A8713のインダクタンスは、私が持っているLCメーターでは、測定できなかった。
故障しているのか、と思った。
他の部品を測ってみると、きちんと動作している。

20kΩの結線のままだったから、試しに二次側の巻線を測ってみたら、きちんと値が出た。
今度は一次側巻線の半分だけを測る。
10Hを少しこえる値だった。

私が持っているLCメーカーは20Hまでしか測れないためだったわけだ。

Date: 9月 4th, 2020
Cate: 老い

老いとオーディオ(齢を実感するとき・その20)

9月2日のaudio wednesdayでの、
コーネッタで聴いたカラヤンの「パルジファル」は、いくつかのことを考えさせた。

この日と同じシステムで、同じ使いこなしを、
20代のころの私がやったとしよう。

クォリティ的には、この日の音とそう変らない音を出せる自信はある。
それでも20代の私が、「パルジファル」をかけて、
これほど、いい感じで鳴らすことはできなかった、と思う。

20代のころの私は、その前にカラヤンの「パルジファル」をかけなかった、とおもう。
もっと、他にうまくなってくれるディスクを選んだだろう。

7月のaudio wednesdayでは、クナッパーツブッシュの「パルジファル」をかけた。
8月は「パルジファル」はかけなかった。
9月が、カラヤンである。

常連のHさんは、カラヤンの「パルジファル」の感想として、
「静謐の中から立ち上る感じ」と、あとで伝えてくれた。

物理的なS/N比の高さ、ではない。
もちろん、物理的なS/N比も、ある程度は保証されていなければならないのだが、
それだけでは、静謐の中から、とはなってくれない。

なにかが必要なのであった──、というよりも、
何かが求められるようも感じている。

「パルジファル」が鳴る。
齢を実感するとき、である。
けれど、ここにはネガティヴな意味はない。

Date: 9月 4th, 2020
Cate: Cornetta, TANNOY

TANNOY Cornetta(その27)

コーネッタで「パルジファル」をきいた夜の帰り道、
電車のなかで、一人で思い出していたのは、ステレオサウンド 52号で、
岡先生と黒田先生の「レコードからみたカラヤン」というテーマの対談だった。
     *
黒田 そういったことを考えあわすと、ぼくはカラヤンの新しいレコードというのは、音の面からいえば、前衛にあるとはいいがたいんですね。少し前までは、レコードの一種の前衛だろうと思っていたんだけど、最近ではどうもそうは思えなくなったわけです。むろん後衛とはいいませんから、中衛かな(笑い)。
 いま前衛というべき仕事は、たとえばライナー・ブロックとクラウス・ヒーマンのコンビの録音なんかでしょう。
 そこのところでは、黒田さんと多少意見が分かれるかもしれませんね。去年、カラヤンの「ローマの松」と「ローマの泉」が出て、これはびっくりするほどいい演奏でいい録音だった。ところがごく最近、同じDGGで小沢/ボストン響の同企画のレコードができましたね。これはいま黒田さんがいわれた、プロデューサーがブロック、エンジニアがヒーマンというチームが録音を担当しているわけです。
 この2枚のレコードのダイナミックレンジを調べると、ピアニッシモは小沢盤のほうが3dB低い。そしてフォルティシモは同じ音量です。したがって全体の幅でいうと、ピアニッシモが3dB低いぶんだけ小沢盤のほうがダイナミックレンジの幅が広いことになります。物理的に比較すると、そういうことになるんだけれど、カラヤン盤のピアニッシモのありかたというか、音のとりかたと、小沢盤のそれとを、音響心理学的に比較するとひじょうにちがうんです。
黒田 キャラクターとして、その両者はまったくちがうピアニッシモですね。
 ええ。つまりカラヤン盤では、雰囲気とかひびきというニュアンスを含んだピアニッシモだが、小沢盤では物理的に小さい音、ということなんですね。物理的に小さな音は、ボリュウムを上げないと音楽がはっきりとひびかないんです。小沢盤の録音レベルが3dB低いということは、聴感的にいえば6dB低くきこえることになる。そこで6dB上げると、フォルテがずっと大きな音量になってしまうから聴感上のダイナミックレンジは圧倒的に小沢盤の方が大きくきこえてくるわけです。
 いいかえると、カラヤンのピアニッシモで感心するのは、きこえるかきこえないかというところを、心理的な意味でとらえていることです。つまり音楽が音楽になった状態での小さい音、それをオーケストラにも録音スタッフにも要求しているんですね。これはカラヤンがレコーディングを大切にしている指揮者であることの、ひとつの好例だと思います。
 それから、これはカラヤンがどんな指示をあたえたのかは知らないけれど、「ローマの松」でびっくりしたところがあるんです。第三部〈ジャニロコの松〉の終わりで、ナイチンゲールの声が入り、それが終わるとすぐに低音楽器のリズムが入って行進曲ふうに第四部〈アッピア街道の松〉になる。ここで低音リズムのうえに、第一と第二ヴァイオリンが交互に音をのせるんですが、それがじつに低い音なんだけど、きれいにのっかってでてくる。小沢盤ではそういう鳴りかたになっていないんですね。
 つまりPがひとつぐらいしかつかないパッセージなんだけれど、そこにあるピアニッシモみたいな雰囲気を、じつにみごとにテクスチュアとして出してくる。録音スタッフに対する要求がどんなものであったかは知らないけれど、それがレコードに収められるように演奏させるカラヤンの考えかたに感嘆したわけです。
黒田 そのへんは、むかしからレコードに本気に取り組んできた指揮者ならではのみごとさ、といってもいいでしょうね。
     *
カラヤンの「パルジファル」が、レコード音楽として美しいのは、
こういうところに理由があるはずだ。

カラヤンのピアニッシモは、「パルジファル」においても、
音楽が音楽になった状態での小さい音であって、
心理的な意味でとらえられたピアニッシモである。

カラヤンの「パルジファル」よりも新しい録音の「パルジファルを、
私はどれも聴いていない。
「パルジファル」に関しては、カラヤンで私はとまったままでいる。

新しい録音の「パルジファル」は、カラヤンの「パルジファル」よりも、
ダイナミックレンジは、物理的には広いはずだ。

「パルジファル」に限らない。
オーケストラものの録音は、物理的なダイナミックレンジは、
カラヤンの「パルジファル」よりも広くなってきている。

このことはほんとうに望ましいことなのだろうか。