Posts Tagged 川崎和男

Date: 10月 10th, 2014
Cate: ジャーナリズム, 川崎和男

Mac Peopleの休刊(余談)

1998年12月に、ひとつだけ実行したことがある。
メガネを川崎先生のデザインのモノにした。

アンチテンションのMP690の発売をきっかけに取扱店が一気に増えたが、
それまでは日本橋の三越本店別館のメガネサロンだけでしか取り扱っていなかった。
十数年前まで、東京でもただ一店のみだった。
(アンチグラヴィティのMP621だけはサングラスとして、六本木AXISのLIVING MOTIFでも取り扱ってはいた)

だから、そこへ行った。
行けばわかるのだが、ここは他のメガネ店とはちょっと違う。
売れているフレームの多くはかなり高価なモノばかりで、
私が行った時も、隣の人が払っていた金額は私が払った金額の約十倍だった。

そんな三越のメガネサロンに、たしかに川崎先生のフレームが並べられていた。
けれどお目当てのフレームはなかった。
店員にたずねた。
増永眼鏡に問い合せてくれて、どのフレームなのかを確認して取り寄せてもらうことになった。

私が欲しかったのはMP649。
それまでMP649は入荷していなかった。店員も知らなかったそうだ。

私が注文して初めて入荷したことになる。
つまりMP649に関しては、東京でのただ一店の取扱店ですら初めての入荷ということは、
私が少なくとも東京では最初に手にしたことになる。
しかも、おそらくしばらくは他の人は誰もMP649をかけていなかった。

Date: 10月 10th, 2014
Cate: ジャーナリズム, 川崎和男

Mac Peopleの休刊(その8)

ステレオサウンド編集部にまだ勤めていたら、この人に会えるのに……、と思った日がもう一度あった。
1998年11月18日である。
毎月18日はMAC POWERの発売日である。
12月号のDesign Talkは、「得手」とつけられていた。

ここでオーディオについて書かれていた。
いつになくオーディオについて長く書かれている、嬉しいな、と思いながら読み進めていくうちに、
「レコード演奏家」という言葉が出てた。そして「オーディオ評論家のS・O氏」ともあった。

オーディオ評論家のS・O氏、菅野先生のことである。
     *
同氏には、車・パイプ・西洋人形という収集品についても彼なりの美学を聴かせていただいた。生意気盛りの私は、そこからモノの美学性を衝撃的に学ぶことができた。
 S・O氏からいただいたLPレコードは宝モノになっている。また、日本でもトップのミキサーである彼の推薦新譜批評は読み続けてきた。いずれ、また会える機会が必ずあると思って楽しみにしている。
 当時はイヤなオーディオ評論家もいた。そんなやつに限って私のデザインを全面否定した。否定されたからイヤな評論家だというのではない。その評論家の趣味性や音・音楽・音響の「得意」性を疑っていたのだ。S・O氏は、初対面でこの人はデザインが語れると直感できた人物である。
 もう私などS・O氏には忘れられてしまっているかもしれない。オーレックス(’70年代の東芝のハイファイ・システム)ブランドで、エレクトレットコンデンサー・カートリッジのアンプ「SZ-1000」のデザインについてアドバイスをいただいた。その機種が私の東芝時代最後のデザインとなった。
     *
MAC POWER、1998年12月号のDesign Talkを読んで、もう一度そう思ったわけだ。
ステレオサウンド編集部にいたら、すぐさま菅野先生と川崎先生の対談を企画するのに……と。

なんとかして自分で対談を実現したい気持とともに、
おそらくMAC POWERかステレオサウンドが先に実現してしまうだろうな、とも思っていた。

だが一年建っても、どちらの編集部もやらなかった。
やらなかったから、やろう、とようやく決心した。
1999年が終ろうとしていた。
草月ホールで川崎先生の講演から五年半が経っていた。

Date: 9月 29th, 2014
Cate: 素材

羽二重(HUBTAE)とオーディオ(その5)

耳の構造は、外耳、中耳、内耳にわけられ、外耳と中耳の境界に鼓膜がある。
この鼓膜を振動板を捉え、鼓膜にボイスコイルに相当するものがついていれば、話は違ってくるのだが、
実際には鼓膜が音を神経に伝えているわけではない。

耳の構造については、いまではインターネットで検索すれば専門的な知識も得られるので、
こまかなことは省略するが、内耳に蝸牛がある。

この蝸牛にはリンパ液が入っていて、このリンパ液の揺れを感覚細胞(有毛細胞)がとらえて電気信号に変える。
電気信号は、蝸牛神経を通って大脳に伝えられる。

有毛細胞はリンパ液に触れている。つまり触覚によって、最終的に音という空気の疎密波を脳に伝えている。
たしかに聴覚は触覚といえる。

味覚はどうか。嗅覚はどうか。
聴覚と同じように調べていけば、触覚が、それぞれに特化した機能といえることに気づくはずだ。
味覚も嗅覚も触れなければ、味や匂いを感じることはできない。

五感ではなく二感。
納得できる。

9月26日の羽二重=HUBTAEの発表会での川崎先生の話をきいていて、このことを思い出した。
菅野先生による音色と音触、
そこに川崎先生の、五感ではなく二感、
聴覚はあきらかに触覚である。

ならば音の色見本は触覚的なモノであるべきなのではないか。
むしろ触覚であることで、直感的に理解できるのではないのか。
さらにいえば、触覚による音の色見本によって、音に対して、より鋭敏になることができるのではないのだろうか。

Date: 9月 28th, 2014
Cate: 素材

羽二重(HUBTAE)とオーディオ(その4)

音色は、ねいろ、とも読み、おんしょく、とも読む。
オーディオを語る際の音色は、おもにおんしょくである。

もう十年以上前になるが、菅野先生が音触(おんしょく)という造語を使われはじめた。
いまおもえば、このときなぜ気づかなかったのかだろうか。

音色、音触、どちらもおんしょくである。
ならば音の色見本を、いろみほんと呼ばずに、しょくみほんと呼べば、音の触見本を連想しても不思議ではない。

でも、音触という言葉に出会ってから、結局十年以上かかった。
それも羽二重=HUBTAEの登場というきっかけがなければ、まだ気づいていなかった。

いちど気づくと、あのことも気づかせてくれるきっかけとだったんだ……、と思い出すことがある。
九年前のことだ。
川崎先生が、五感について話された。

五感とは目(視覚)・耳(聴覚)・鼻(嗅覚)・舌(味覚)・皮膚(触覚)、
この五つの感覚を、何の疑いもなく、そのまま信じている。
けれど、川崎先生は五感ではなく二感だ、といわれた。

人間には視覚と触覚の、ふたつの感覚しかない、ということである。

Date: 9月 26th, 2014
Cate: 素材

羽二重(HUBTAE)とオーディオ(その1)

久しぶりに六本木に行ってきた。
ここ数年、私にとっての六本木は、国際文化会館に行くことである。
前回も前々回も、国際文化会館に川崎先生の講演をきくために六本木に行っている。

今回も国際文化会館に行ってきた。
福井県織物工業組合と川崎先生による「羽二重」HUBTAE=新素材ブランドの発表会が行われたからだ。

羽二重といえば、多くの人は羽二重餅を思い浮べることだろう。
私だって、じつはそうである。羽二重が絹織物だということは知ってはいても、
羽二重餅がどうしても浮んでくる。

そういえば私が働いていたころのステレオサウンドは六本木五丁目にあった。
少し歩けば、青野という和菓子屋がある。
ここの羽二重餅を試聴の茶菓子としてよく買いに行っていたことも関係しているといえばそうなるかもしれない。

羽二重は餅ではない。絹織物であることを、
今日の川崎先生の話をきいて、オーディオマニアとして刻みつけることができた。

これからはずっと羽二重ときいて、餅を思い浮べることはなくなった。

川崎先生の話をきくまでは、羽二重とオーディオはどう結びついていくのか考えていた。
いくつかのことは浮ぶ。
それでも羽二重とオーディオが、鍵穴と鍵がぴったりと合うような感じではなかった。

なにか、もっと違うところに結びつけるところがあるような気だけがしていた。
今日「こんなところに扉があったのか」と、それに気づかされたような感じだった。

Date: 9月 22nd, 2014
Cate: ジャーナリズム, 川崎和男

Mac Peopleの休刊(その4)

Design Talkを読んで、そこに書かれていることをすべて理解できていたわけではなかった。
MAC POWERの次号が出るまでの一ヵ月、何度か読みなおしていた。

次号が出る。Design Talkを読む。
一度読んだだけではすべてを理解できないから、また次の号が出るまでの一ヵ月、何度か読むことになる。

これをくり返していた。
そうやって一年、二年がすぎ、1994年に「デジタルなパサージュ」がやっと出た。
これで読み逃していた数回分のDesign Talkが読める。

1994年はそれだけではなかった。
乃木坂にあるギャラリー間で、川崎先生の個展「プラトンのオルゴール」展が開催された。
そして赤坂の草月ホールで講演会もあった。

「プラトンのオルゴール」展に行った後で、草月ホールに行った。
この日の、私の受けた衝撃は大きかった。

衝撃が大きかったから、遠い……、と感じていた。
ほんとうに遠い、と。

この人に会いたい(この人の前に立ちたい)と思っていたから、遠いと感じていた。

Date: 9月 21st, 2014
Cate: デザイン

TDK MA-Rというデザイン(その6)

MA-Rはツメにあたる部分が赤くなっていて、スライドするようになっていた。
ツメを折るではなく、スライドさせれば録音はできなくなるし、元に戻せば録音可能になる。

細かなことではあるが、MA-Rの、この機構も見事だと思ったし、細部も疎かにしていない。
しかも赤くなってると書いたが、赤はC60テープで、C46は青、C90は緑に色分けされていた。

まさにReference Standard Mechanismといえよう。
川崎先生は、MA-Rがカセットテープの最終形態だといわれている。
そう思う人は多いだろう。

MA-R以前にこんなカセットテープはなかった。
MA-R以後も同じだ、MA-Rに匹敵するカセットテープは出てこなかった。

いまカセットテープ、カセットデッキに凝ることがあれば、MA-Rを使いたい。
なんとか探し出してきてでも、このテープを使いたい。

メタルテープが登場したときは高校生だった。
メタルテープ対応デッキは買えなかった。
ステレオサウンドで働くようになってからは買えたけれど、カセットデッキ、テープへの関心は薄れていた。

だから聴いたことはあるが、個人的にメタルテープは使ったことがない。
そんな私がいまごろになってMA-Rについて項をたてて書いているのは、
9月13日の川崎先生のブログ『K7の最高機種デザインはAurexデザインだった』を読んだからである。

そこにMA-Rの写真があった。

Date: 7月 27th, 2014
Cate: チューナー・デザイン

チューナー・デザイン考(パイオニア Exclusive F3・その22)

この項の(その4)で、T104も瀬川先生のデザインだと思う、と書いた。
なにか確証があるわけではない。私の思い違いの可能性もある。

それでも瀬川先生のデザインだ、とやはり思う。
オーレックスのST420は川崎先生のデザインだ。

川崎先生はオーレックス時代に瀬川先生と何度か会われているし、
瀬川先生のリスニングルームへも行かれている。
川崎先生がいまも所有されているヴィソニックの小型スピーカーは、瀬川先生に薦められたモノ。

瀬川先生は川崎先生がオーレックスのデザインを手がけられていることをご存知だった。
だからアキュフェーズのT104が瀬川先生のデザインだとすれば、
瀬川先生はST420に、チューナー・デザインの解答のひとつを発見された──、
私はそう思っている。

そうでなければシンセサイザー方式のチューナーのT104に、
バリコン使用のアナログチューナーST420のデザインをもってくるだろうか。

だからこそ、(その18)で、嬉しい、と書いた。

Date: 7月 26th, 2014
Cate: チューナー・デザイン

チューナー・デザイン考(パイオニア Exclusive F3・その20)

川崎先生が、7月25日のブログに、オーレックス時代にデザインされたチューナーについて書かれている。
「デザインには発明が必要だということを学んだ作品」というタイトルがつけられている。

ST910、ST720、ST420、ST220、四つのオーレックスのチューナーのことに触れられている。
そして、書かれている。
     *
「このデザインには、発明があるだろうか」という自問自答です。
今ではチューナーはインターネットラジオになってしまいましたが
チューナーでのこの代表機種全てに「デザインによる発明」です。
だから、あきらかに言えることは、
「デザイン=造形が必ず発明」は必要十分条件だと思っています。
     *
いまでも、デザインは好き嫌いでしょう、といったことを言い放つ人がいる。
オーディオマニアでも、そういう人がいるのを残念ながら知っている。
そういう人は、「デザインに発明が必要だ」ということを一生知らずに終っていくのかもしれない。

デザイナーが「このデザインには、発明があるだろう」と自問自答するのであれば、
デザイナーではないわれわれ受け手の者は、何かをそのデザインに発見しなければならない。

デザインは好き嫌いでしょう、といってしまったら、そこには発見はない。
発見しようとしないから、好き嫌いでしょう、で終ってしまうのかもしれない。

Date: 9月 26th, 2013
Cate: ロングラン(ロングライフ)

ロングランであるために(その18)

一人でなんとかやっている会社を、
主宰者がいなくなったあとのことを考えて、人を雇って組織化できればいいが、
一人でやっていた会社には、一人でやっていた理由があるのだから、
その理由から組織にしていくのは難しい、と思われる。

けれど、後々のことを考慮すれば、なんらかの組織はなければならないわけで、
それは、何も会社という、ひとつの組織ということに縛られることはない、と思う。

この項の(その17)で引用した山中先生の話に出てくるように、
販売店をふくめての「組織」ならば、充分可能ではないのか。

私がまだ田舎に住んでいたころは、
田舎ということもあって量販店はなかった。
あったのは、各メーカーを専門に扱う個人経営の電器店だった。

東芝の製品だったらあの電器店、日立の製品だったら別の電器店、というぐあいだった。
すべての製品だったわけではないだろうが、その電器店で修理もやっていたと記憶している。

いまも、そういう電器店とはつきあいがある、といっていた。
ちょうどEIZOから川崎先生デザインのテレビ、FORISが登場したとき、
実家でもテレビを買い替えるつもりで、何がいいか、という電話があった。

当然FORISを勧めたわけだが、却下された。
理由は、FORISそのものにあったわけではなく、
実家にとっては昔からのつきあいが続いている電器店から購入できるかどうかが、
製品のクォリティよりも優先されることだった。

しつこく説得しても、○○さん(つきあいのある電器店)から買えなければダメ、をくつがえせなかった。

Date: 8月 2nd, 2013
Cate: Edward Benjamin Britten

BRITTEN THE PERFORMER(その4)

“BRITTEN THE PERFORMER”のCD BOXを購入し聴いた人のすべてが、
「美しい演奏」と感じるかどうかは、なんともいえない。

どこが美しいのか、どこがいいのか、さっぱりわからない、と感じてしまう人もいよう。

反感をもたれることはわかっているけれど、
ベンジャミン・ブリテンのモーツァルトを「美しい演奏」と感じさせない音は、
どこかが間違っている。

音楽として正しい音で鳴っていれば、
オーディオ機器のグレードにはさほど関係なく(まったく関係ない、とはいえないけれど)、
「美しい演奏」と感じることができる。

どんなに高価で、世評の高いオーディオ機器を揃え、
セッティング、チューニングに手抜きすることなく、
オーディオ仲間に聴いてもらっても、皆が素晴らしい音だといってくれる音であっても、
ブリテンのモーツァルトを「美しい演奏」ではなく、美演にしてしまったり、
「美しい演奏」とは感じさせないのであれば、
そのシステムから鳴っている音は、「美しい音」ではない。

川崎先生が数日前、facebookに書かれていた。
《「正しいかどうかは、美しいかどうか」の自問自答で判断が可能だと、プラトンは言っていた。》

「正しいかどうかは、美しいかどうか」の自問自答で判断が可能であっても、
美しいかどうかは、どうやって判断するのか、と問う人はいる。

結局「美しいかどうかは、正しいかどうか」の自問自答で判断するしかない、
と私はおもっている。

答になっていないじゃないか──、
そういわれようが、「正しいかどうかは、美しいかどうか」の自問自答で、
「美しいかどうかは、正しいかどうか」の自問自答で判断していくものだ。

ベンジャミン・ブリテンの演奏は、だから正しい。

Date: 3月 2nd, 2013
Cate: 川崎和男

川崎和男氏のこと(最終講義)

東京へ向かう新幹線の中で書いている。
大阪大学へ、川崎先生の最終講義を聴きに行った帰りだ。

1994年、草月ホールで聴いたのが、最初だった。
それからは東京での川崎先生の講演は、できるかぎり聴きに行くようにしていた。

東京以外での講演も、何度か行っている。
京都、金沢、兵庫にも行った。

行くたびに、ほとんど毎回のように残念に思っていたのは、
オーディオ関係者が聴きに来ていないことだった。

今日は大阪なのだから、
オーディオ関係者は誰もいない、と思っていた。

最終講義のあとの懇親会で、
よく似た人がいるもんだな、と思っていたら、その人本人だった。

誰なのかは書かないけれど、
オーディオ関係者が、ふたり来られていた。

他の人にとっては、どうでもいいことにすぎないだろうが、
私には、とても嬉しいことだった。

Date: 12月 12th, 2012
Cate: ジャーナリズム

あったもの、なくなったもの(その6)

関係のない者が好き勝手なことを書いている──、
そう関係者は思うかもしれない、とそんなことは承知のうえで書いている。
それに「つまらなくなった……」と思っているのは、おまえのまわりの人間だけだろう、ともいわれることだろう。
類は友を呼ぶ、というから、私のまわりには「つまらなくなった……」という人が集まるのかもしれない。

それでも、あえてこんなことを書くのは、ステレオサウンド編集部にいたときには気づかなかったことが、
離れてみると、ふしぎなことによく見えてくる。
見えてくると、あったもの、なくなったものがはっきりとしてくる。
そうなると当然、なぜそうなってしまったのか、と考える、からである。

ステレオサウンドの185号が先日発売された。
新しい編集長になってまる二年、八冊のステレオサウンドが出た。

まだ読んでいない。
川崎先生の連載が載っていたころは、発売日に書店に行き購入していたけれど、
川崎先生の連載が終了してからは、購入をすっぱりとやめた。
それでも発売日には書店に行き、とりあえず手にとることはあったが、
もうそれもしなくなってしまった。
オーディオに対する情熱が失せたわけではない。

ステレオサウンドがもう必要なくなった、ということもある。
けれど、そうなったとしても、オーディオ雑誌としておもしろいものであれば、買うに決っている。
だから違うところに、
買わなくなった、すぐには手にすることもなくなってきたことに関係している何かがあるわけだ。

Date: 10月 7th, 2012
Cate: 境界線, 録音

録音評(その1)

「北」という漢字は、右と左の、ふたりの人が背けた状態の、
人をあらわす字が線対称に描かれている──、
ということは川崎先生の講演をきいたことのある方ならば耳にされているはず。

「北」がそうであるように、「化」も人をあらわす字が線対称的に描かれた文字である。
左の「亻」も右の「匕」も、そうである。

「花」という漢字は、艹(くさかんむり)に化ける、と書く。
ならば、「音」に化ける、と書く漢字もあっていいのではないか、と思う。

花が咲く、茎や枝の色とくらべると、花の色は鮮かな色彩をもつ。
音楽も、豊富な色彩をもつ、音が化けることによって。

花と、茎や枝の色は違う。
けれどあくまで花は、枝や茎の延長に咲いている。
ここからここまでが茎(枝)で、ここから先が花、という境界線は、
実はあるようにみえて、はっきりとその境界線を確かめようと目を近づけるほどに、
境界線は曖昧になってくる。

音と音楽の境界線も、あるようでいてはっきりとはしていない。

よくこんなことが、昔からいわれているし、いまもいわれている。
「このディスクは録音はいいけれど演奏がねぇ……」
「このディスクは演奏はいいけれど録音がもうひとつだねぇ……」
そんなことを口にする。
私だって、時にはそんなことをいう。

昔からレコード評には、演奏評と録音評がある。
オーディオ雑誌、レコード雑誌に載る演奏評、録音評は、たいてい別のひとが担当している。
演奏評は音楽評論家、録音評はオーディオ評論家というぐあいにだ。

ただ、これもおかしなはなしであって、
菅野先生はかなり以前から、そのことを指摘されていた。