オーディオの「美」(美の淵)
絶望の淵とか死の淵などという。
絶望の淵に追いやられる、死の淵に立たされる、ともいう。
幸いなことに、私はまだ死の淵、絶望の淵に立たされたり追いつめられてはいない。
オーディオは美の淵なのだろうか、とふと思った。
よくオーディオは泥沼だ、といわれる。
いまもそうなのかはよく知らないが、昔はよくいわれていたし書かれてもいた。
その泥沼に喜んで身を沈めていくのがオーディオマニアである、とも。
この項へのコメントを、川崎先生からfacebookにいただいた。
「オーディオの美ではなく、オーディオはすでに美であるべき!」とあった。
オーディオは美であるべきなのに、それを泥沼とも表現する。
泥沼は泥沼である。もがけばもがくなど深みにはまっていく。そして抜け出せなくなる。
けれど、この泥沼はオーディオマニアと自認する人、まわりからそう呼ばれる人にとっては、
案外と居心地のよいところもあるのかもしれない。
でも、それでも泥沼は泥沼である……。
こんなことを考えていた。
そして、この泥沼の淵は美の淵なのだろうか、とも考えた。
いまのところは、美の淵という言葉を思いついただけである。
この美の淵に、オーディオは聴き手を導いてくれるのか。
なにもはっきりとしたことは、まだ書けずにいる。
それでも、美の淵について考えていこう、と思っている。