Date: 4月 27th, 2021
Cate: ディスク/ブック

ズザナ・ルージィチコヴァ(その2)

ズザナ・ルージィチコヴァの答は、次のようなものだった。
     *
「わたしも、子供の頃にはピアノをひいていました」は、淡々とはなしはじめ、さらに、こうつづけた。「でも、戦争中、私は強制収容所にいれられていたので、食事も満足にあたえられず、わたしの手はこんなに小さいんです。このように小さな手ではピアノをひくのはとても無理ですが、チェンバロならひけますから」
 そのようにいいながら、ルージィチコヴァは両手をひろげてみせた。考えてもみなかったルージィチコヴァのことばに、ぼくはひどくうろたえた。尋ねてはいけないことを尋ねてしまったのではないか、と思い、心ない質問をしたことを反省しないではいられなかった。しかし、いいわけになるが、ぼくは、それまでに、ルージィチコヴァについて書かれた文章で、彼女が幼児期を強制収容所ですごしたことについてふれたものを読んだことがなかった。それで、不覚にも、彼女の心の傷にふれるようなことを尋ねてしまった。
 ぼくは、はなしの接穂をうしなって、おそらく、茫然としていたにちがいなかった。ルージィチコヴァは、(当時はまだ若かった)インタビュアの狼狽を救おうとしたのであろう、にっこりと笑って、「いいんですよ」といいながら、ブラウスの袖をめくりはじめた。ルージィチコヴァは、いったい、なにをするつもりか、ぼくは目をみはらないではいられなかった。
 これが、そのときの認識番号です。ルージィチコヴァの細い腕には強制収容所で記されたにちがいない刺青の文字があった。
     *

黒田先生のルージィチコヴァへのインタヴューは、おそらく1970年代の終りごろのようだ。
その時のインタヴューの記事が、どの雑誌に載っているのか知らないし、
なので読んではいない。

ルージィチコヴァが強制収容所にいたことは、その記事にあったのだろうか。

1988年の音楽之友社のムックのルージィチコヴァのページには、
そのことは載ってない。

黒田先生の文章を読んで、ズザナ・ルージィチコヴァの演奏を聴いてみたい、と初めて思った。
おもったけれど、当時は、ルージィチコヴァのCDがどれだけ出ていただろうか。

私の探し方が足りなかっただけなのかもしれないが、
ルージィチコヴァのCDを見つけることはできなかった。

それに、この時期、無職でもあったため、どうしても──、という気にはなれなかった。
そうやって三十年が過ぎた。

TIDALを使っていなければ、またそのまま聴かずに過ぎ去ってしまったであろう。
TIDALで、いろんな演奏家を検索するのは楽しい。
検索しながら、そういえば、あのピアニストは、とか、ヴァオリニストとは、と、
演奏家の名前を思い出しては検索する。

ズザナ・ルージィチコヴァも思い出した一人だった。

Date: 4月 26th, 2021
Cate: ディスク/ブック

ズザナ・ルージィチコヴァ(その1)

ズザナ・ルージィチコヴァという、チェコ出身のピアニストのことを知ったのは、
1988年、音楽之友社から出たムックだった。

そのムックは、器楽奏者を特集していた。
そのなかで、ズザナ・ルージィチコヴァだけは知らなかった。

初めて目にする名前ということに加えて、
一度では正確に憶えられそうにない名前、
これだけが印象に残っていた。

ズザナ・ルージィチコヴァに書かれていたのが、誰なのかはもう憶えていない。
手元に、そのムックもない。

グレン・グールドが、黒田先生が担当で六ページの扱いだったのに対し、
ズザナ・ルージィチコヴァは二ページと少なかったことは憶えている。

通り一遍のズザナ・ルージィチコヴァについてのことを読んでも、
聴いてみたい、という気はほとんど起きなかった。

その数年後、黒田先生の「ぼくだけの音楽」で、
二度目のズザナ・ルージィチコヴァについての文章を読む。

この時、ズザナ・ルージィチコヴァを聴きたい、とおもった。

黒田先生は、握手について書かれていた。
《ルージィチコヴァの手は、まるで赤ん坊のように小さくて、しかも、力を入れて握ったらこわれてしまいそうに柔らかかった》
そう書かれていた。

黒田先生は、ズザナ・ルージィチコヴァにインタヴューされている。
黒田先生の、ズザナ・ルージィチコヴァへの最初の質問は、
「なぜ、あなたは、ピアニストではなく、チェンバリストになられたのですか?」だった。

《ごく平凡な、しかし、ぼくがもっとも知りたかった質問》とも書かれていた。

Date: 4月 25th, 2021
Cate: Wilhelm Backhaus

バックハウス「最後の演奏会」(その19)

facebookでの(その17)へのコメントに、こうあった。

「骨格のある音」と「それ以外の音」、
「EMTの鳴らす音」と「それ以外のプレーヤーの音」とあった。

トーレンスの101 Limitedを使われている方からのコメントである。
いうまでもなく101 LimitedはEMTの930stと同じである。

私も20代のころ、101 Limitedを使っていたから、よくわかる。
別項「EMT 930stのこと(ガラード301との比較)」で、音の構図について触れた。

このことも、骨格のある音と密接に関係している。

そして音の構図の確かさがあってこその、ステージの再現である。

アナログディスク全盛時代には、骨格のある音、音の構図の確かなプレーヤーがあった。
数はそう多くはなかった、というよりも、少なかったけれど、確実に存在していた。

そういう音と接してきた耳とそうでない耳とでは、求める音が違って当然である。
直観的に捉えられる音に違いも生じてくる。

私より若い世代となると、アナログディスクではなく、
CDで音楽を聴き始めたという人が多いであろう。

CDプレーヤーで、骨格のある音、音の構図の確かなモデルもあったけれど、
それはアナログプレーヤーにおける割合よりもさらに小さかった。

ディスクに刻まれている音をあますところなく再現したからといって、
骨格のある音になるとはかぎらないし、
音の構図が確かなものになるともかぎらない。

Date: 4月 24th, 2021
Cate: ショウ雑感

2021年ショウ雑感(その13)

オーディオ雑誌の広告は、メーカー、輸入元によるもののほかに、
販売店の広告もある。

販売店の広告も、大きく二つに分けられる。
新品を主に扱う販売店と中古オーディオを主に扱う販売店である。

販売店の広告は、いまもステレオサウンドに掲載されているが、
ある時期からすればずいぶん減ってきている。

ある時期、販売店の広告の割合はかなり高かったことがある。
そのころだったはずだ、
ステレオサウンドから売買欄(used component market)が無くなったのは。

あくまでも私がきいたウワサである。
中古を主に扱っている販売店が、ステレオサウンドに苦情を入れたそうだ。
売買欄が、彼らの商売の邪魔をしている、とのことだ。

売上げが低迷していたのだろうか。
売買欄を止めろ、といってきたところがある、ときいている。

それがきっかけとなって、ステレオサウンドから売買欄は無くなった、とのこと。
くり返すが、あくまでもウワサでしかないが、
その話を、そんなことがあったとしても不思議ではないな、と思いながらきいていた。

売買欄は、広告に結びつくわけではない。
いわば読者サービスのページである。
しかも、売りたい人、買いたい人の住所、氏名、電話番号を載せる。

この校正がけっこう手間がかかる。
私がいた時に、電話番号を載せないようにした。
間違いを少しでも減らしたいからだった。

そういうページに、販売店からの苦情というより、いわばいいがかり。
終りにするきっかけになったはずだ。

自分のところの商売が苦しくなると、
そんなところにまで難癖をつけてくる。

コロナ禍はまだまだ続く。
そうなると、売買欄を止めろ、と同じような難癖をつけるところが出てこないとはかぎらない。

Date: 4月 23rd, 2021
Cate: 提言

いま、そしてこれから語るべきこと(その15)

昨年1月の(その14)で、
実在の写真家、ユージン・スミスをジョニー・デップが演じる「Minamata」が、
今秋公開される、と書いた。

2020年秋には公開されなかった。
ようやく、今年9月に公開が決った。

けれど流動的とも思っている。
公開は延期される可能性もあるだろうし、ごく短い上映期間になってしまうかもしれない。

水俣市出身なわけではないが、同じ熊本県の生れである私にとって、
小学生のころ、
テレビから流れてくる水俣病(以前も書いたが病気ではなく水俣事件である)のことは、
身近な、それでいて大きな恐怖だった。

絶対に忘れられない、忘れてはいけない(忘れたくない)事件である。

Date: 4月 23rd, 2021
Cate: ショウ雑感

2021年ショウ雑感(その12)

三度目の緊急事態宣言が発出される。

真空管オーディオフェアの中止が先日発表になった。
オーディオではないけれど、東京モーターショーも中止が発表された。

規模が違うのだから──、という希望的観測はできなくなりつつある状況だ。
11月開催予定のインターナショナルオーディオショウも、
今年も中止の可能性が高くなってきた、といえる。

今年は日本インターナショナルオーディオ協議会のメンバーがいくつか入れ代った。
新しいメンバーにとっては初のインターナショナルオーディオショウ参加のはずが、
来年になりそうである。

2020年のコロナ禍は、オーディオにどうだったのか。
家にいる時間が増えたことによって、オーディオ熱が高まった人もいて、
意外にも好調だった、という話をきく一方で、反対のことも耳に入ってきている。

ほんとうのところはどうだったのだろうか。

好調だったのは、中古オーディオの売買だった、ともきいている。
メインテナンスを専門としている業者(会社であったり、個人だったり)は、
かなり忙しかったらしい。

昔のオーディオ雑誌には、読者の売買欄があった。
ステレオサウンドにもあった。
いまもあるのは無線と実験ぐらいになってしまった。

いまはヤフオク!を始めとするインターネットでの売買が盛んだから、
オーディオ雑誌の売買欄は必要とされていないのかしもしれない。

けれどステレオサウンドの売買欄は、かなり以前になくなっている。
そのころ、私はステレオサウンドを離れていたので、どういう理由だったのかは、
ほんとうのところは知らない。

それでもウワサはきこえてきていた。

Date: 4月 23rd, 2021
Cate: Wilhelm Backhaus

バックハウス「最後の演奏会」(その18)

「骨格のある音」、「骨格のしっかりした音」、
こういうことを考えるようになったのは、これもまた「五味オーディオ教室」からである。

「五味オーディオ教室」は、肉体のない音ということから始まっていた。
肉体のある音とは、どういう音なのか。

「五味オーディオ教室」を手に取ったばかりの13歳の私には、よくわからなかった。
ただ、世の中に肉体のある音(肉体の復活を感じさせる音)とそうでない音とがある、
その事実だけである。

肉体の復活は、音像定位がしっかりと再現されていれば、
それがそうなわけではない。

よくいわれる音のボディを感じさせるのも、
必ずしも肉体の復活を感じさせる音ではないはず、と私は受けとっている。

正直なところ、五味先生に訊きたかったことのひとつである。
けれど、五味先生は1980年に亡くなられている。
あえなかった。

だから、考え続けていくしかないわけで、例えば人物画。
ここにも骨格のある人物画と、骨格を感じさせない人物画とがあるように感じている。

どんなに写実性の高い人物画であっても、
その絵が必ずしも骨格のある(感じさせる)とはかぎらない。

ここでの人物画は服を着た人の場合である。

それでいても、骨格の感じられる人物画があるし、そうでないものもある。

Date: 4月 23rd, 2021
Cate: ディスク/ブック

Vocalise(補足)

ソニー・クラシカルは、オーマンディのハイレゾリューション配信を始めている。
少し前からのmoraとe-onkyoでの配信を楽しみにしている。

今日、やっとラフマニノフの交響曲第二番が公開された。
96kHz、24ビットのflacである。
一番、三番、それから〝声〟Vocaliseも、近々配信されるようになるのでは、と期待している。

聴きたいのは、私の場合、〝声〟Vocaliseだけなので、
一曲のみを購入することになるだろう。

音楽を聴く、ということに関しては、いい時代になった。
そうではない、という人もいるだろうし、いていいのだけれど、
音楽を聴く、ということをどう捉えているのか、
音楽を聴く、ということが、私にとってどういうことなのか、
そういうことをふくめて、いい時代になった、と実感している。

Date: 4月 22nd, 2021
Cate: ディスク/ブック

Vocalise(その1)

五味先生の「FM放送」(「オーディオ巡礼」所収)に、
ラフマニノフの〝声〟Vocaliseのことが出てくる。
     *
 ──今、拙宅には、二本の古いテープがある。どちらも2トラック・モノーラルで採ったもので、一本はラフマニノフの〝声〟Vocalise、もう一本はフォーレのノクチュルヌである。
 FM放送で、市販のレコードの放送されたのを録音することはないと書いたが、理由は明白で、放送されたものは、レコードを直接わが家のプレヤーで鳴らすのより音質的に劣化してしまうからだ。放送局のカートリッジが拙宅のより悪いからというのではなく、音そのものが、チューナーであれテレコであれ、余分なものを通すたびに劣化するのを惧れるからである。ダビングして音のよくなるためしはない。それがいい演奏、いいレコードであればなおさら、だから、より良い音で聴きたいからレコードを買うべきだと私はきめている。
 これはだが、経済的に余裕があるから今言えることであって、小遣い銭に不自由したころは、いいレコードがあれば人さまに借りて、録音するしかなかった。〝声〟もそうである。
 ラフマニノフのこの曲は、オーマンディのフィラデルフィアを振った交響曲第三番のB面に、アンコールのように付いている。ごく短い曲である。しらべてみたら管弦楽曲ではなくて、文字通り歌曲らしい。多分オーマンディが管弦楽用にアレンジしたものだろうと思う。だから米コロンビア盤(ML四九六一)でしか聴けないのだが、凡そ甘美という点で、これほど甘美な旋律を他に私は知らない。オーケストラが、こんなに甘ったるく、適度に感傷的で美しいメロディを、よくもぬけぬけと歌いあげられるものだと、初めて聴いたとき私は呆れ、陶然とした。ラフマニノフの交響曲は、第二番を私は好む。第三番はまことに退屈で、つまらぬ曲だ。
     *
読んだ時から、聴いてみたい、とすぐに思った。
六分半ほどの曲だ。

20代のなかばごろだったか、LPを見つけた。
ラフマニノフの交響曲とのカップリングだった。

買おうとしたけれど、ほかのレコードを優先して買わずじまいだった。
CDになってから、廉価盤で出ていた。

ラフマニノフの交響曲集の最後におさめられていた。
今度は買った。
五味先生の書かれているとおりの曲だった。

私が買った廉価盤は廃盤のようだが、
いまでもオーマンディ/フィラデルフィア管弦楽団のラフマニノフは入手できる。

TIDALでも聴ける。
私はラフマニノフの作品はあまり聴かない。
交響曲も、上記CDを買ったときに聴いて以来、もう聴いていない。
ときおり〝声〟が聴きたくて、ひっぱり出して聴くぐらいである。

そのくらいの頻度での聴き方だと、TIDALで聴けるのは便利であるし、
見つけた時にひさしぶりに聴いてしまった。

これから先何度聴くか、となると、
おそらく十回と聴かないであろう。
ほんの数回ぐらいのような気もする。

五味先生の文章は、もうすこし続く。
コロという猫のことを書かれている。

コロが産んだ仔猫を始末することになったことを書かれている。
     *
 捨てに行くつらい役を私が引受けた。私はボストンバッグに仔猫を入れ、牛乳を一本いれ、西武の池袋駅のベンチへ置いた。こんな可愛いい猫だからきっと誰かに拾われ、飼ってもらえるだろう、神よ、そういう人にこの猫をめぐり逢わせ給え、そう祈って、逃げるようにベンチを離れた。一匹は家内がS氏夫人のもとへ届けにいった。
 貧乏は、つらいものである。帰路、私はS氏邸に立寄って、何でも結構ですからとレコードをかけてもらった。偶然だろうがこの時鳴らされたのが〝声〟であった。この〝声〟ばかりは胸に沁みた。
     *
〝声〟が、胸に沁みるときが、私にもいつかあるのだろうか。

Date: 4月 21st, 2021
Cate: High Resolution, James Bongiorno

MQAのこと、James Bongiornoのこと(その2)

TIDALで、“Mark Levinson”を検索したならば、
この人も忘れてはならない。

ジェームズ・ボンジョルノ(James Bongiorno)である。
ボンジョルノのアコーディオンとピアノの腕前は、
《アマチュアの域を超えている》と菅野先生が、
ステレオサウンド 53号に書かれているほどだから、そうとうなものなのだろう。

そのボンジョルノのCDが出ていることは知っていた。
Ampzilla 2000で復活をしてしばらくしたころに出したようである。

いつか買おう、と思いながらも、アメリカに注文してというのを億劫がって、
今日まできていた。

Mark Levinonがあるくらいだから、James Bongiornoもあるはず、と検索したら、
二枚とも表示された。

“Alone Again”と“This is The Moment”である。
残念なことにMQAではない。

Mark LevinonもMQAではないのだけれど、
こちらはMQAでないことをそれほど残念とは思わなかった。

James BongiornoがMQAでなかったのは、ちょっと残念に感じている。

Date: 4月 21st, 2021
Cate: Mark Levinson

ベーシストとしてのマーク・レヴィンソン(その2)

(その1)は、2009年3月に公開している。
マーク・レヴィンソンがベーシストとして参加しているポール・ブレイのアルバム、
「Ballads」について、簡単に紹介したぐらいで、
(その2)を書くつもりは、その時点ではまったくなかった。

さきほど、そういえば、と思って、TIDALで“Mark Levinson”で検索してみた。
同姓同名の歌手のアルバムが表示されるが、
ポール・ブレイ・トリオの「Bremen ’66」も出てくる。
それで(その2)を書いている。

「Bremen ’66」は、タイトルどおり、1966年のブレーメンでのライヴ録音である。
「Ballads」の一年前のレヴィンソンの演奏、それもライヴでの演奏が聴ける。

「Ballads」は買って聴いた。
「Bremen ’66」はCDで見つけたとしても買わなかっただろう。
それでもTIDALにあるから、一曲だけ聴いてみたところ。

もちろん「Ballads」もTIDALで聴ける。

Date: 4月 20th, 2021
Cate: 「本」

オーディオの「本」(近所の書店にて・その12)

つい先日、別の近所の書店で、ステレオ時代を手に取っている人がいた。
私と同じくらいか、ちょっと上の世代のようにみえた。
ほとんど、この書店でそういう人をみかけることはない。

新宿の紀伊國屋書店に行けば、規模が大きいし、繁華街にあるだけに、
ときどきオーディオ雑誌を手に取っている人をみかける。
それでも若い人が手に取っているところを、この十年ほどみかけたことがない。

オーディオマニアが高齢化していることは、これまでも何度か書いてきている。
ステレオサウンドだけのことではない。
無線と実験においても、読者の高齢化ははっきりとしている。

無線と実験がこれからも続いたとして、
読者が高齢化していくばかりであり、若い読者が登場してこなければ、
オーディオの技術者をめざそうとするオーディオ少年はいなくなってしまうのではないか。

私が別項でAliExpreeを取り上げているのは、このことも関係している。
昔の日本は、AliExpree的なオーディオのキットが、けっこうな数あった。

無線と実験、ラジオ技術、初歩のラジオ、電波科学などの、
自作記事が毎号載っているオーディオ雑誌もあった。

そういう時代背景があったからこそ、
オーディオの技術者がうまれ育っていったとはいえないだろうか。

そんなことは杞憂にすぎない、
いまはインターネットがあって、その代りを果たしているから──、
そんな声もきこえてきそうだが、そのことに期待もしているが、
そうともいえないという気持は半分程度はある。

いまのような状況が続けば、というかますますさびしいかぎりになっていけば、
オーディオ技術者はもう育ってこなくなることだって、十分考えられることだ。

Date: 4月 20th, 2021
Cate: 「本」

オーディオの「本」(近所の書店にて・その11)

無線と実験の、書店での扱いが気になるのは、
別項「日本のオーディオ・これから」と多少なりとも関係してくるからである。

ラジオ技術が書店で取り扱われなくてってけっこう経つ。
思い出したかのようにトランジスタ技術が、特集でオーディオ関係をやるけれど、
いま書店で手にすることのできるオーディオ雑誌で、自作記事が載っているのは、
基本的に無線と実験だけになってしまった。

私が中学生のころは、自作記事が載っているオーディオ雑誌は、いくつもあった。
それがひとつ消え、またひとつ消え、
無線と実験だけが毎号自作記事を載せるだけになってしまった。

オーディオマニアでも、無線と実験にまったく興味、関心をもたない人がいるのは知っている。
自作に関心がない人もけっこう多いし、
オーディオ雑誌はステレオサウンドだけあればいい、という人も、けっこう多いことだろう。

オーディオに興味をもちはじめたばかりの10代の少年が、
書店の音楽・オーディオコーナーで、無線と実験を見つける。
こんな世界もあるのか、と思う少年もいれば、そうでもない少年もいる。

前者の少年のなかのどのくらいがじっさいに 自作をするようになるのかはなんともいえない。
けれど、自作に少なからぬ興味をもっていることは確かだろうし、
積極的に自作に挑戦していく少年も、きっといる。

そういう少年の、これまたどのくらいの割合なのかはなんともいえないが、
オーディオメーカーの技術者をめざしていき、
実際に技術者になった人も、以前ならばきっといたはずだ。

無線と実験は、あとどのくらい続いていくのだろうか。
意外と早くおわりが訪れるのかもしれないし、
しぶとくねばっていく可能性もある。

それでも、いつの日か、無線と実験も消えてなくなるであろう。
そうなったとき、かわりのオーディオ雑誌があるだろうか。
自作記事を毎号載せるオーディオ雑誌が、なにかあるだろうか。

Date: 4月 19th, 2021
Cate: Wilhelm Backhaus

バックハウス「最後の演奏会」(その17)

この項の2012年12月に書いている(その12)、(その13)で、
骨格のしっかりした音、骨格のある音という表現を使っている。

わかりやすい表現のようではあるが、
ほんとうにうまく相手に伝わるのかどうかは、はなはだあやしい。

それぞれに「骨格のある音」のイメージは違っているような気がするからだ。
それでは、もっと丁寧に、
骨格のある音と骨格のない音の違いについて説明できればいいのだが、
こういう感覚的な音の表現を、どんなにこまかく描写していっても、
わからない人はわからない、という、それだけのことである。

それでも、今回のTIDALで聴くことができた「最後の演奏会」の音は、
確かに骨格のある音だったし、国内盤(CD)での音は、骨格のない音だった。

もっとも私の再生環境でそうであったというだけのことの可能性もある。
「最後の演奏会」のCDを、国内外の多くのCDプレーヤーで聴いているわけではない。
せいぜい三機種程度でしかない。

なので、あくまでも、その範囲内のことでしかない可能性もある。
けれど、国内盤に対する印象は、そう間違っていない、とも思っている。

TIDALの再生環境は、CDプレーヤー以上の違いがあるのかもしれない。
TIDALで聴いても、骨格のある音に聴こえなかった、と感じる人もいるだろう。
そう書きながらも、私のところでは、TIDALの再生環境は二つある。

一つはMac miniをメリディアンの218る接いで、コーネッタで聴くシステム、
もう一つは、iPhone 12 Pro+FC3でヘッドフォンで聴くシステムだ。
どちらで聴いても同じに感じたのだから、ある程度の普遍性のようなものはある。

その人が出している音が、まったく骨格を感じさせない音であれば、
TIDALで「最後の演奏会」を鳴らしたところで、国内盤の音と変らないであろう。

けれど、骨格のある音ということに関心のある人ならば、
そして骨格のある音とない音を違いを、少しでもいいから具体的に聴きたい、
そう思っている人は、TIDALと国内盤(CD)で比較してみてほしい。

Date: 4月 18th, 2021
Cate: Wilhelm Backhaus

バックハウス「最後の演奏会」(その16)

(その15)で触れた、バックハウスのデッカ録音全集。
2019年6月にアナウンスされ、発売は2020年1月だった。

当初は39枚組の予定だったが、実際には38枚組で出ている。
内容に変更はない。
価格もさほど高くない。

2019年の時点では買うつもりだった。
なのに、買っていない。

2019年9月にメリディアンの218を導入して、
e-onkyoで買うことに夢中になっていて、
ころっと忘れていたこと、e-onkyoにけっこうお金を使ってしまったことなどが理由である。

バックハウスのデッカ録音全集で私がいちばん聴きたかったのは、
「最後の演奏会」である。

(その15)で書いているように、
この「最後の演奏会」に関しては、LPもCDも国内盤でしか聴いたことがない。
輸入盤(CD)が欲しくて探したけれど、見つけられなかった。

国内盤の音に特に不満を感じていなければ、
疑問も感じていなければ、輸入盤を欲しい(聴いてみたい)とは思わない。

けれど実際の「最後の演奏会」の国内盤CDの音は、
薄っぺらく、芯がないように感じていた。

ほぼ二年前のことを思い出したように続きを書いているのは、
TIDALで「最後の演奏会」(The Last Concert)を聴いたからだ。

TIDALとCDとでは試聴条件がけっこう違う。
デッカ録音全集は買っていないので、
国内盤と輸入盤という比較にはならないけれど、
やっぱり国内盤の音の印象は、国内盤だからのようだ。

TIDALで聴くバックハウスの「最後の演奏会」の音は、納得がいく。