Date: 5月 4th, 2021
Cate: High Resolution

MQAのこと、TIDALのこと(MQAとMQA Studio)

MQAに関心のある人ならば、MQAとMQA Studioとがあるのに気づかれているはずだ。
e-onkyoでもそうなのだが、MQAとMQA Studioがしっかりと区別されている。

MQA対応のD/Aコンバーターでは、
MQA再生を示すLEDの色が、MQAでは緑、MQA Studioでは青になる。

TIDALでも、MQAのタイトルは緑の丸、MQA-Studioのタイトルには青の丸がつく。
MQA-CDの場合、再生してみると、緑がつくディスク、青がつくディスクとがある。

これまではMQAとMQA Studioに音の差があるのか、
比較することはできなかった。

e-onkyoでもMQA-CDでも、どちらかだし、
MQAとMQA Studio、両方があるわけではなかったからだ。

それがTIDALには、いくつかのタイトルで、MQAとMQA Studioの両方がある。
しかもサンプリング周波数が同じタイトルがある。

44.1kHzがMQAで、48kHz、96kHz、192kHzがMQA Studioというのもけっこうある。
こういうのは音の違いがあってあたりまえだから、いい。

気になるのは、
同じサンプリング周波数で、MQAとMQA Studioに音の差があるのかだ。
すべてを聴いているわけではないが、
サンプリング周波数が同じでもMQAとMQA Studioだと、差が認められる。
とはいえ、大きな差ではない。

MQAとMQA Studioが、同じサンプリング周波数であったならば、MQA Studioをとるが、
ほとんどのMQAタイトルではどちらか片方だけなのだから、
気にしても仕方ないことでもある。

Date: 5月 4th, 2021
Cate: ディスク/ブック

Vocalise(その3)

4月30日に購入したオーマンディ/フィラデルフィア管弦楽団の“Vocalise”を、
さっき聴いた。

最初の音が鳴ってきて、えっ、と思った。
モノーラルだったからだ。

私がこれまで聴いてきたのはステレオ録音だった。
どういうことなの? と調べてみると、
オーマンディは1954年11月28日、1967年10月18日に“Vocalise”を録音している。

ということは、五味先生が聴かれていた“Vocalise”は、モノーラルのほうである。
今回e-onkyoで購入したほうである。

私がこれまでCDで聴いてきた“Vocalise”はステレオだから、
同じ演奏ではなかったわけだ。

五味先生はステレオ録音のほうは聴かれていないように思う。

五味先生は《こんなにも甘ったるく》と表現されていた。
今回聴き較べてみると、ステレオのほうがさらに甘ったるい。

Date: 5月 4th, 2021
Cate: 日本のオーディオ

日本のオーディオ、これから(韓国、中国は……・その13)

facebookにはChi-Fiのグループがある。
ひとつだけではない。

AliExpressをみれば、Chi-Fiのラインナップの多さはけっこうものだ。
一人ですべてを追って行くのはかなり大変で、情報交換の場を求めてなのだろう。
facebookにChi-Fiのグループができて当然だと思う。

そろそろ日本のオーディオ雑誌も、Chi-Fiを無視できなくなってきているのではないだろうか。
記事でまとめて取り上げるところも出てきても不思議ではない。

ステレオサウンドは、まずやらない。
オーディオアクセサリーも、やらないと思っている。
なぜかといえば、広告に結びつかない(つきにくい)からだ。

やるとすればステレオかな。
いまのステレオ編集部なら、Chi-Fiオーディオをまじめに取り上げるだろう。

中国のオーディオ(Hi-Fi)がChi-Fiなら、
韓国はK-Fiとなるかといえば、ならないだろう。

Chi-Fiは、Hi-Fiをもじっている。
国名の頭文字をとっただけではなく、「i」があってこそだ。

韓国(Korea)、日本(Japan)にもiはない。
K-Pop、J-Popのように、K-Fi、J-Fiとはいわない。

Chi-Fiがあるのだから、Tai-Fi(Taiwan Hi-Fi)も登場してくるのだろうか。

Date: 5月 3rd, 2021
Cate: オーディオの「美」

音の悪食(その10)

長島先生はジェンセンのG610Bをはじめて鳴らした時の音を「怪鳥の叫び」みたいだ、
とステレオサウンド 61号で語られている。

そういう音が出たから、といって、
角を矯めて牛を殺す的な鳴らし方を、長島先生はやられてきたわけではなかった。

38号では、
「たとえばスピーカーでいえば、ムチをふるい蹴とばしながらつかっているわけですから」
ともいわれている。
つまり、スピーカーとの格闘であり、
スピーカーの調整というよりも、スピーカーの調教といったほうがぴったりくる。

悪食とは、大辞林には、こうある。
 ①普通,人が口にしない物を食べること。いかものぐい。「好んで—する」
 ②粗末な食事。粗食。
 ③仏教で,禁じられた獣肉を食べること。

長島先生にとって、鳴らしはじめのころG610Bの音、
そのひどい音は、①なのか、②なのか。

粗末な音ではない。
けれどひどい音だったのだから、②に近いともいえる。

怪鳥の叫びみたいな音は、人が聴きたくない音でもあるのだから、①的でもある。
もちろん長島先生は好んで怪鳥の叫びを聴かれていたわけではない。

①、②、どちらの音であっても、耐えながら聴くことは、音の悪食であろう。
いい音になってくれるまでしんぼうして聴く。

しんぼうできない人は、とりあえず聴きやすい音に安易にもっていく。
音の悪食を嫌う鳴らし方をする。

音の悪食なんて、できればしたくない、といえばそうなのだが、
かといって絶対避けたい、とも思っていない。

オーディオに関していえば、無駄になることなどないからだ。
①、②の意味での音の悪食は経験しておくほうがいい。

では③の音の悪食とは──、と考える。
禁じられた音を聴くこと、そういう意味での音の悪食とは、どういうことがあるのか。

Date: 5月 3rd, 2021
Cate: 日本のオーディオ

日本のオーディオ、これから(韓国、中国は……・その12)

Chi-Fi。
Chinese Hi-Fiの略である。

Chi-Fi Audio、Chi-Fi Amp、Chi-Fi DACといった使われ方がされている。
いつごろ出来たのか。
私が知ったのは、ついさきほどだった。

Chi-Fiは、英語圏で使われている。
AliExpessのお客様のレビューを見ればわかるが、
世界各国の人が購入している。

オーディオマニアであれば、どこの国の人であろうと、
AliExpressのオーディオは面白いはずだ。

おもしろいといえば、AliExpressと同じ中国の通販のwishは、
オーディオに関しては、つまらない。

オーディオに関しては、それも自作に関することであれば、
いまのところAliExpressが上である。

Chi-Fi、あまり語感がいいとは思っていない。
それでも、このChi-Fiは、High end Audioの対義語なのかもしれない、とも思っている。

Date: 5月 3rd, 2021
Cate: ディスク/ブック

Piazzolla 100 (Piazzolla, Schubert, Schittke)

キャサリン・フンカ(Katherine Hunka)のピアソラを聴いた。
キャサリン・フンカ、今日初めて知った。

Googleで“Katherine Hunka”で検索すると、
「もしかして:Katherine 噴火」と表示されたりする。

ロンドン生れのヴァイオリニスト/指揮者であることぐらいしか、結局わからなかった。

Piazzolla, Schubert, Schittke”は、
日本では「ピアソラ:ブエノスアイレスの四季」とつけられている。

一年前に発売になったCDであるけれど、
今日、TIDALであれこれ検索して出逢うまで、まったく気づかなかった。

“Piazzolla, Schubert, Schittke”も、
ピアソラ生誕百年ということで企画されたアルバムなのかもしれない。

TIDALで、Piazzollaで検索すると、けっこうな数のアルバムが表示される。
すべてを聴いているわけではないし、聴きたいと思ってもいない。
でも、まあまあ聴くようにはしている。

初めて知る演奏家によるピアソラを、けっこう聴いている。
彼・彼女らが弾いているのは、確かにピアソラの曲なのだが、
聴いて、ピアソラだ、ピアソラの音楽が! とすべてに対して感じているかというと、
むしろ少ない。

誰とは書かないが、けっこう名の知られている演奏家であっても、
しかもレコード会社が推していても、聴いて、これがピアソラ? と感じることのほうが、
残念ながら多い。

別項「正しいもの」で、吉田秀和氏の「ベートーヴェンの音って?」について触れた。
まったく同じことを、ピアソラに関して感じる。

「ピアソラの音って?」ということだ。

Date: 5月 2nd, 2021
Cate: Noise Control/Noise Design

CR方法(その20)

別項「BOSE 901と真空管OTLアンプ(その5)」で、
901にCR方法をやるのであれば、
九本のスピーカーユニットひとつひとつにやる、と書いた。

901の場合、九本のスピーカーユニットだから、
九つのコイルが直列接続されているわけだ。

複数のコイルの場合、どうするのか。
トランスも複数の巻線があったりする。

ライントランスであれば、一次側、二次側ともに巻線が二つあり、
インピーダンスに合せて巻線の接続を直列にしたり並列にしたりする。

二つの巻線を直列接続にした場合、
CR方法は直列接続した状態のコイル、
つまり一つのコイルとみなして、その直流抵抗を測って、コンデンサー、抵抗の値を決める。

並列接続の場合は、というと、それぞれの巻線(分割された巻線)の直流抵抗を測る。
直列接続とは違い、独立したコイルと見做して、それぞれにコンデンサーと抵抗を用意する。

直列接続の場合には、コンデンサーと抵抗は一本ずつになるが、
並列接続の場合には、二本ずつになる。

並列接続した直流抵抗を測って、という手もある。
そうすればコンデンサーと抵抗は一本ずつですむし、手間も少しだが省ける。

けれど私が試した範囲(といっても一回だけ)では、
並列接続の場合は独立した巻線として扱った(考えた)ほうがいい。

なのに901の場合は、スピーカーユニットが直列なのに、
九本のスピーカーユニットが直列接続された状態の直流抵抗を測って、
九本のユニットに対して、コンデンサーと抵抗、一本ずつでいいのではないか。

たしかにコイルの接続だけをみれば、そういえる。
けれどトランスと901のようなスピーカーとでは、動作が違う。

トランスの巻線は直列接続された状態でひとつの巻線として動作している。
901の場合は、それぞれのスピーカーユニットは、あくまでもそれぞれのユニットである。

となるとスピーカーユニット一本ごとにCR方法をやっていくことになるはずだ。

Date: 5月 1st, 2021
Cate: 朦朧体

ボンジョルノのこと、ジャーマン・フィジックスのこと(その71)

別項で、骨格のある音、骨格のしっかりした音について書いている。
書きながら、音の骨格を意識するようになったのは、いつごろからだろうか──。

あのころからかな、とか、いや、もっと遡ってのあの時かも、
いやいや、結局は、「五味オーディオ教室」を読んだ時からなのでは──、
そんなふうに、はっきりとなんともいえない。

それでもいえるのは、ここでのテーマである朦朧体を意識するようになってからは、
特に骨格のある音を強く意識するようになったことだけは、はっきりしている。

ここでのタイトルは、「ボンジョルノのこと、ジャーマン・フィジックスのこと」だから、
ボンジョルノがつくってきたアンプ、
ジャーマン・フィジックスのスピーカーのことがメインテーマのように思われかもしれないが、
もちろんこれらもテーマではあっても、メインテーマは朦朧体である。

輪郭線に頼らない音像の描写。
そこに肉体の復活を感じられるかどうかは、その骨格にあると感じているからだ。

Date: 4月 30th, 2021
Cate: ディスク/ブック

エッシェンバッハのブラームス 交響曲第四番(その3)

エッシェンバッハのブラームスの四番を聴いて、驚いていた。
聴き終ってから、その驚きは何を孕んだ驚きなのか、ということを思っていた。

つい最近聴いたエッシェンバッハの演奏は、
一ヵ月ほど前の「バイエル」、「ブルグミュラー」、「ツェルニー」などである。
TIDALで、エッシェンバッハのこのシリーズ(Piano Lessons)である。

つまりピアニスト・エッシェンバッハである。
今回は指揮者・エッシェンバッハである。

ずいぶん違う、というよりも、まったく違う。
同じ人とは、まずおもえない。

“Piano Lessons”での演奏は、
ピアノを練習している子供たちの手本となるものだから、
そこで個性の発揮となっては、手本として役に立たない。

ブラームスの四番は、手本とかそういところから離れての演奏である。
比較するのがもともと間違っているわけなのはわかっていても、
聴いてそれほど経っていないのだから、どうしても記憶として強く残ったままでの、
今回のブラームスの四番であり、
それも“Piano Lessons”はスタジオ録音、ブラームスの四番はライヴ録音である。

エッシェンバッハのブラームスの四番は、
ミュンシュ/パリ管弦楽団のブラームス 交響曲第一番に近い、というか、
そこを連想されるものがある。

宇野功芳氏は、このミュンシュ/パリ管弦楽団の一番を、
フルトヴェングラー以上にフルトヴェングラーと、高く評価されていた。

宇野功芳氏ばかりでなく、福永陽一郎氏も、最上のフルトヴェングラーという、
最大級の評価をされていた、と記憶している。

フルトヴェングラーの録音にステレオはない、すべてモノーラルだけである。
ミュンシュ/パリ管弦楽団は、ステレオである。

エッシェンバッハ/シュレスヴィヒ・ホルシュタイン祝祭管弦楽団の四番も、
あたりまえだがステレオだ。

ミュンシュの一番は、たしかにすごい。
完全燃焼という表現は、この演奏にこそぴったりであり、
特に最終楽章の燃焼は圧巻でもある。

エッシェンバッハの四番は、そこまでとは感じなかったけれど、
フルトヴェングラー的なのだ。

Date: 4月 30th, 2021
Cate: ディスク/ブック

Vocalise(その2)

オーマンディ/フィラデルフィア管弦楽団によるラフマニノフの交響曲第二番が、
一週間前に、moraとe-onkyoで配信が始まった。

そろそろ交響曲第三番と“Vocalise”のカップリングが出るころかな、と思っていたら、
今日、やはり配信が始まった。

ソニー・クラシカルだから、MQAは期待できない。
flac(96kHz、24ビット)である。

それでもいい。
さっそく“Vocalise”だけを購入した。
交響曲第三番を聴きたいとは思わないからで、
どうしても聴きたければTIDALで聴ける。

TIDALで、ラフマニノフの“Vocalise”を検索すると、意外とあった。
ラフマニノフ自演の“Vocalise”もあった。
アンドレ・プレヴィンによる“Vocalise”もあった。
こちらはMQA Studio(96kHz、24ビット)である。

五味先生の文章と一切関係ないところで“Vocalise”のことを知って聴いたのであれば、
プレヴィンをとったかもしれないが、
管弦楽曲版“Vocalise”のことは五味先生の文章で、なのだから、
もうどうしてもオーマンディの“Vocalise”のほうを、私はとる。

とる──、そう書いているけれど、
どちらが名演といったことではない。

Date: 4月 29th, 2021
Cate: 真空管アンプ

BOSE 901と真空管OTLアンプ(その5)

BOSE 901を真空管OTLアンプで鳴らす、ということを考える(妄想する)ようになったことに、
別項で書いているCR方法がけっこう関係している。

CR方法を、いくつかのところで実践してきて、
ぜひ試してみたいことのひとつが、BOSEの901である。

スピーカーユニット九本直列接続されている。
直列接続されたユニットにCR方法は、まだ試していない。

一本だけのときと同じ効果はあるはずだが、
ユニットが直列になっていることで、その効果は変らないのか、
それとも大きくなるのか、反対に小さくなるのか。

予想では大きくなるような気がしているが、こればかりは試してみないとなんともいえない。

901に使われているスピーカーユニットのインピーダンスは、0.9Ω。
ということはボイスコイルの直流抵抗は、0.9Ωよりも低い。
そうなると、CR方法の抵抗とコンデンサーの値をそこまで低くするのは難しい。

私が使うDALEの無誘導巻線抵抗に関しては、
1Ωよりも小さな値があるけれど、ディップマイカコンデンサーは1pFが最小だ。

なのでネットワークのコイルには、1Ωと1pFを使っている。
901の場合も、もしやれるとなったら、1Ωと1pFの組合せを使うことになる。

それで十分とは思いながらも、真空管OTLアンプとの組合せを前提とするならば、
(その1)で書いているように、8Ωのスピーカーユニットを九本直列接続すれば72Ωに、
16Ωならば144Ωになり、このくらいのインピーダンスになれば、
大がかりなOTLアンプでなくとも実用になるだけではなく、
CR方法に関しても、抵抗とコンデンサーの値を、
ボイスコイルの直流抵抗値により合せられるからだ。

Date: 4月 29th, 2021
Cate: ショウ雑感

2021年ショウ雑感(その14)

最近、頭に浮んでくる五味先生の文章は、
「フランク《オルガン六曲集》」のなかの一節だ。
     *
 私に限らぬだろうと思う。他家で聴かせてもらい、いい音だとおもい、自分も余裕ができたら購入したいとおもう、そんな憧憬の念のうちに、実は少しずつ音は美化され理想化されているらしい。したがって、念願かない自分のものとした時には、こんなはずではないと耳を疑うほど、先ず期待通りには鳴らぬものだ。ハイ・ファイに血道をあげて三十年、幾度、この失望とかなしみを私は味わって来たろう。アンプもカートリッジも同じ、もちろんスピーカーも同じで同一のレコードをかけて、他家の音(実は記憶)に鳴っていた美しさを聴かせてくれない時の心理状態は、大げさに言えば美神を呪いたい程で、まさしく、『疑心暗鬼を生ず』である。さては毀れているから特別安くしてくれたのか、と思う。譲ってくれた(もしくは売ってくれた)相手の人格まで疑う。疑うことで──そう自分が不愉快になる。冷静に考えれば、そういうことがあるべきはずもなく、その証拠に次々他のレコードを掛けるうちに他家とは違った音の良さを必ず見出してゆく。そこで半信半疑のうちにひと先ず安堵し、翌日また同じレコードをかけ直して、結局のところ、悪くないと胸を撫でおろすのだが、こうした試行錯誤でついやされる時間は考えれば大変なものである。深夜の二時三時に及ぶこんな経験を持たぬオーディオ・マニアは、恐らくいないだろう。したがって、オーディオ・マニアというのは実に自己との闘い──疑心や不安を克服すべく己れとの闘いを体験している人なので、大変な精神修養、試煉を経た人である。だから人間がねれている。音楽を聴くことで優れた芸術家の魂に触れ、啓発され、あるいは浄化され感化される一方で、精神修養の場を持つのだから、オーディオ愛好家に私の知る限り悪人はいない。おしなべて謙虚で、ひかえ目で、他人をおしのけて自説を主張するような我欲の人は少ないように思われる。これは知られざるオーディオ愛好家の美点ではないかと思う。
     *
五年半ほど前、別項でも引用した。
そこでは、SNSで見受けられる、
ここに書かれているオーディオマニアとは真逆の人たちのことをとりあげた。

インターネットの普及が、
自説を主張するだけの我欲のかたまりのような人たちの存在を顕にしただけなのか。
それともインターネットがおよぼす悪影響によって、こういう人たちが生れてきたのか。

さいわいなことに、私の周りにいるオーディオマニアに、そんな我欲のかたまりの人たちはいない。
けれど、インターネットには、そういう人たちをすぐに見つけることができる。

オーディオ雑誌の売買欄をなくせ、と出版社に難癖をつけた販売店も、
こういう人たちと同じであろう。
我欲のかたまりの人たちだと、私は思っている。

《知られざるオーディオ愛好家の美点》は、いまでは珍しくなってしまったのか。
ただ単に、我欲のかたまりの人たちが目立っているだけのことと思いたいのだが、
結局、我欲のかたまりの人たちは、オーディオにどれだけお金と時間を注ぎ込んでいたところで、
音楽を聴いていないのではないだろうか。

《音楽を聴くことで優れた芸術家の魂に触れ、啓発され、あるいは浄化され感化される》ことが、
これまでまったくなかったのか、
それともいつのまにか失ってしまったのか。

Date: 4月 29th, 2021
Cate: High Fidelity

手本のような音を目指すのか(その8)

空冷ファンをもつパワーアンプがある。
よほど広い空間をもてないかぎり、空冷ファンはないほうがいいし、
単に空冷ファンが発するノイズだけでなく、
仮にそういったノイズが発生しなかったとしても、
ファンが廻るだけで音は影響を受けてしまう。

ファンはないほうがいいわけだが、
A級パワーアンプだと、ファンがついてたりする。
このファンの音も、時計の秒針のようにひじょうに気になる場合と、そうでない場合とがある。

常に気になるという人もいるだろうし、
まったく気にならないという人もいるだろう。
なので、気になる場合とそうでない場合とがあるというのは、
私の場合ということでもある。

なぜ、そうなのだろうか。
私は20代のころ、SUMOのThe Goldを使っていた。
A級動作、125W+125Wのパワーアンプで、
ファンはフロントパネルのすぐ後に二基あった。

しかもフロントパネルには空気を取り込むための四角い開口部が二つあったため、
ファンの音はけっこう大きかった。

AB級、400W+400WのThe Powerには、フロントパネルの開口部はなかったため、
ファンの音の聞こえ方はけっこう違う。

音を鳴らしていないと、The Goldのファンの音は、けっこう大きなと感じていた。
けれど音を鳴らし始めると、まったくとはいわないまでも、さほど気にならない。

一方で、パイオニアのExclusive M4は、A級50W+50Wで、
やはり空冷ファンを一基備えている。

音を鳴らしていないときのファン・ノイズは明らかにExclusive M4のほうが小さい。
国産アンプらしい、といえば、そうである。

なのに音を聴いていると、意外にもExclusive M4のほうが、
ファン・ノイズが気になったりしていた。

同じ場所での比較ではないから、厳密な比較なわけではないが、
それでも、この二つのA級パワーアンプのファン・ノイズに気になり方の違いは、
私にとっては時計の秒針の音と同じ存在のように感じられる。

Date: 4月 28th, 2021
Cate: High Fidelity

ハイ・フィデリティ再考(ふたつの絵から考える・その11)

ルチア・アルベルティのCDを初めて手にしたのは、
オルフェオ・レーベルから出ていたオペラ・アリア集だった。

ベルリーニやドニゼッティを歌っている、このCDはなかなか素敵な一枚なのだが、
ルチア・アルベルティのCDは、そう多くない(むしろ少ない、といったほうがいいくらいだ)。

ルチア・アルベルティは、「カラスの再来」といわれていた。
クラシックの世界で、「カラスの再来」は、よく使われる。
多くの場合、そんなふうにいわれていたなぁ……留まりでしかない。

黒田先生は、《ルチア・アルベルティの明日にカラスを夢みたくなる》と書かれていた。
けれど、くり返すがルチア・アルベルティの録音は少ない。

それだけの歌手にすぎなかったのであれば、納得できることなのだが、
ルチア・アルベルティはそうではなく、このことも黒田先生が書かれているのだが、
ルチア・アルベルティは大手音楽マネージメントと契約を結んでいない。

そのためルチア・アルベルティはマネージャーもつけずに仕事をしている、
と黒田先生の「ぼくだけの音楽」に書いてあった。

そして、黒田先生の「あなたは結婚しないんですか?」というぶしつけな質問に、
ルチア・アルベルティは、「だって、わたしはベルリーニと結婚しているから」と答えている。

なのにルチア・アルベルティの「清らかな女神よ」を、これまで聴いたことがなかった。
それこそ大手音楽マネージメントと契約していれば、
大手のレコード会社から、間違いなく出ていたはずだ。

でも出てこなかった(はずだ)。
いつしかルチア・アルベルティの新録音を待つことをやめてしまっていた。

そんなこともあって、私の手元にはオルフェオ盤だけだった。
いまもそのことに変りはないが、TIDALには、オルフェオ盤以外に三枚ある。
“A Portrait”のなかに、「清らかな女神よ」がある。

オルフェオ盤を聴いてから、三十年以上経って,
ようやくルチア・アルベルティの「清らかな女神よ」を聴いている。

Date: 4月 27th, 2021
Cate: ディスク/ブック

ズザナ・ルージィチコヴァ(その3)

そういえば、あの、ちょっと憶えるのが難しい名前の人──、
そんなふうに思い出した。

Zuzana(ズザナ)だけは憶えていた。
これだけで、検索は可能だった。
けっこうな数のアルバムが表示される。

バッハがやはり多い。
黒田先生の文章の冒頭にも、
ズザナ・ルージィチコヴァのバッハのチェンバロの全集のことがある。

ほかにもいくつかあった。
そのなかで、なんとなくモーツァルトのヴァイオリン・ソナタ集を選んだ。
ヨセフ・スークとの協演である。

きいた瞬間に、ぐいぐいひきこまれる演奏ではない。
黒田先生は《誠実なルージィチコヴァ》と書かれている。

モーツァルトのヴァイオリン・ソナタを聴いていると、
黒田先生の文章をもういちど読みたくなって、だから、今回書いている。

黒田先生のズザナ・ルージィチコヴァの文章を読んでなかったら、
ズザナ・ルージィチコヴァを聴くことはなかったかもしれない。

思い出すこともなかっただろうし、TIDALがなければ、また聴きのがしていただろう。

ならば、もっと早く聴いておけば、と後悔しているかというと、
そうでもない。
三十年前は、いまほどズザナ・ルージィチコヴァのよさがわからなかったかもしれない。
出逢うべき演奏とは、いつかきっとそうなるようになっている──、
私はそう思っている、というより信じている。

黒田先生は、ズザナ・ルージィチコヴァと表記されているが、
いま日本ではズザナ・ルージチコヴァが一般的なようである。

そしてe-onkyoに、バッハ全集(Bach: The Complete Keyboard Works)がある。
MQA Studio(96kHz、24ビット)である。