Archive for 10月, 2022

Date: 10月 22nd, 2022
Cate: ディスク/ブック

The Complete Recordings on Warner Classics CHARLES MUNCH

“The Complete Recordings on Warner Classics CHARLES MUNCH”、
この十三枚組のCDボックスが発売になったのは、四、五年前か。

EMI、エラートでの録音全集である。
オーケストラはパリ管弦楽団、ラムルー管弦楽団、フランス国立放送管弦楽団、
パリ音楽院管弦楽団。

ミュンシュとパリ管弦楽団。
五味先生の文章を読んだ時から聴きたいとおもっていた録音。
     *
 この七月、ヨーロッパへ小旅行したおり、パリのサントノレ通りからホテルへの帰路——マドレーヌ寺院の前あたりだったと思う——で、品のいいレコード店のショーウインドにミュンシュのパリ管弦楽団を指揮した《ダフニスとクローエ》第二組曲を見つけた。
 いうまでもなくシャルル・ミュンシュは六十三年ごろまでボストン交響楽団の常任指揮者で、ボストンを振った《ダフニスとクローエ》ならモノーラル時代に聴いている。しかしボストン・シンフォニーでこちらの期待するラヴェルが鳴るとは思えなかったし、案のじょう、味気のないものだったから聴いてすぐこのレコードは追放した。
 ミュンシュは、ボストンへ行く前にパリ・コンセルヴァトワールの常任指揮者だったのは大方の愛好家なら知っていることで、古くはコルトーのピアノでラヴェルの《左手のための協奏曲》をコンセルヴァトワールを振って入れている。だが私の知るかぎり、パリ・コンセルヴァトワールを振ってのラヴェルは《ボレロ》のほかになかった。もちろんモノーラル時代の話である。
 それが、パテ(フランスEMI)盤でステレオ。おまけに《逝ける王女のためのパバーヌ》もA面に入っている。いいものを見つけたと、当方フランス語は話せないが購めに店に入った。そうして他のレコードを見て、感心した。
(中略)
 シャルル・ミュンシュの《ダフニスとクローエ》そのものは、パリのオケだけにやはりボストンには望めぬ香気と、滋味を感じとれた。いいレコードである。
(「ラヴェル《ダフニスとクロエ》第二組曲」より)
     *
このCDボックスの発売以前に、単売されていたCDで聴いている。
すべてを聴いていたわけではないが、ブラームス、ベルリオーズ、ラヴェルなどは、
もちろん聴いている。

《パリのオケだけにやはりボストンには望めぬ香気と、滋味を感じとれた》、
五味先生は、そう書かれている。
聴けば、わかる、そのとおりなのだ。

TIDALにも“The Complete Recordings on Warner Classics CHARLES MUNCH”はある。
私がTIDALで聴くようになったときからある。

今回、改めて聴いて、
《パリのオケだけにやはりボストンには望めぬ香気と、滋味を感じ》とっていた。

TIDALでは、MQAで聴ける。
ボストン交響楽団との録音も、MQA Studioで聴ける。

だからよけいに《パリのオケだけにやはりボストンには望めぬ香気と、滋味》が感じられる。

Date: 10月 22nd, 2022
Cate: JBL, Studio Monitor

JBL 4320(その15)

じつを言うと、
GASのTHALIAをSAEのMark 2500と組み合わせるコントロールアンプ候補としていた。

別項でMark 2500を手に入れてから、
コントロールアンプに何を選ぶかを書いているが、
理想はマークレビンソンのLNP2であっても、いまではおいそれと手が出せない。

では現実的なところで何を選ぶのか。そのことをいろいろ書いていたのだが、
GASのTHALIAも候補の一つというよりも、けっこう有力な候補だった。

当時、THALIAは20万円前後だった。
為替相場や、THALIA IIの登場によって、多少価格は変動したが、そのくらいだった。

Mark 2500は、そんなTHALIAの三倍ちょっとの価格だった。
価格的には不釣合いだし、 GASのコントロールアンプの中から選ぶのであれば、
Mark 2500とペアにふさわしいのはTHAEDRAということになる。

THALIAの中古は、私は見たことがない。
ヤフオク!で探してもみたが、いまも出品されている個体が昨年からあった。

でも、このTHALIAを手に入れたい、とは思わなかった。
結果として、THAEDRAがヤフオク!で、かなり安価で入手できたので、
THALIAを探すのはやめてしまったが、
それでもMark 2500とTHALIAの組合せの音は、
ちょっと聴いてみたいという気持はまったく薄らいでいない。

Date: 10月 21st, 2022
Cate: JBL, Studio Monitor

JBL 4320(その14)

その13)で、GASのコントロールアンプTHALIAについて、
ちょっとだけ触れている。

THALIAはGASのコントロールアンプ三兄弟の末っ子である。
THALIAだけ薄型のシャーシーを持つ。
それでいて機能はトーンコントロールも持っている。

価格的にはTHAEDRAの半額以下だった。
THAEDRAはGASのフラッグシップモデルだっただけに、
物量も投入されたつくりなのに対し、THALIAはコスト的な制約もあってだろう、
肩の力の抜けたようなところをもっていたように感じている。

三兄弟の真ん中THOEBEは、それほど聴く機会がなかったこともあって、
なんとなく印象が薄い。
できの悪さを感じるわけではないが、
立派な長兄(THAEDRA)、より自由な三男(THALIA)のあいだにはさまれて、
なんとなく目立たないように感じていた。

いまコンディションの優れた、こられ三機種が揃ったとして、
同じ条件でじっくり聴いてみると、印象も変ってくるのかもしれないが、
それでもそれほど変らないだろうな、とも思う。

書きたいのはTHALIAの良さである。
THALIAはTHAEDRAよりもみずみずしい良さをもつ。

立派さはTHAEDRAには及ばないけれど、
THAEDRAと肩を並べようとはしていない、
その無理のなさが、THALIAの音の特質に活きているのだろう。

内部をみてもTHALIAは、はっきりと上二機種とはつくりが違う。

そういう性格のTHALIAだから、JBLの4320を鳴らすのに使いたい。

Date: 10月 20th, 2022
Cate: オーディオ評論

評論家は何も生み出さないのか(その10)

普通に生きていく上で、
そして普通に好きな音楽を聴いて行く上で、
特に必要と思われない想いを抱いていて、
その想いを伝えようとされていたから、
瀬川先生は辻説法をしたい、といわれたのだろう。

Date: 10月 20th, 2022
Cate: ディスク/ブック

マーティン・シュタットフェルトのゴールドベルグ変奏曲

十数年前、車での移動中にふと耳に飛び込んできたゴールドベルグ変奏曲。
私一人で乗っていたわけではなくて、他の人も同乗していたし、
ラジオの音量も大きかったわけではなかった。

聴こえてくるのは、ところどころ聴こえなかったりしたゴールドベルグ変奏曲だった。
それでも、誰の演奏なの? と気になるくらいには、魅力的な演奏に思えた。

グレン・グールドではないことはわかっていた。
すくなくとも、私がそれまで聴いてきたゴールドベルグ変奏曲とも違う演奏。
誰なのか、ひじょうに気になったものの、
演奏家の名前を聞く前に車から降りることになってしまい、そのまま月日だけが過ぎていった。

ときどき、あれは誰の演奏だったのか? と思い出すことはあったけれど、
聴いたことのないゴールドベルグ変奏曲のCDをかたっぱしから購入して聴く、
そこまでやる気力はなかった。

そうこうしているうちに、忘れてしまっていた。
今年グレン・グールド生誕90年ということで、
そういえば、あれは誰だったのか? と思い出してもいた。

今日、twitterを眺めていたら、ソニー・クラシカルが、
マーティン・シュタットフェルトのことをツイートしていた。

この人だったのかもしれない。
ソニー・クラシカルと契約している演奏家だから、TIDALで聴けるはず。
確かに、マーティン・シュタットフェルトのアルバムはある。

ゴールドベルグ変奏曲もある。
MQA Studioで、もちろん聴ける。

不思議なもので、もう十数年も前に、ほんのわずか聴いただけの演奏なのに、
あぁ、この演奏だ、となる。

ソーシャルメディアとTIDAL、
この二つがなかったならば、まだ聴けずにいたことだろう。

Date: 10月 19th, 2022
Cate: オーディオ入門

オーディオ入門・考(たまのテレビで感じること・その2)

テレビ好きの友人が、以前は東京に住んでいた。
とにかくテレビが好きで、しかも仕事をほとんどしていなかったので、
かなりの数の番組を見ていた。

そのなかから、私が気に入りそうな番組を教えてくれると同時に録画してくれていた。
なので、月に一回ほどその友人宅を訪ねてはテレビを見ていた。

その彼も十数年前に故郷に帰ってしまった。
それからはテレビを見る機会がさらに減っている。

その減ってしまった十数年のあいだに感じていることがある。
清楚系の女優として紹介されることが、わりとある。

テレビはさっぱり見なくなったので、雑誌とかインターネットの記事で、
そういうキャッチコピーとともに、女優の写真が載っているわけだが、
毎回、この女優が清楚? と感じることがほとんどである。

私がテレビを見ていたころ、清楚といわれる女優は、
確かに清楚と感じていた。

それがいつのまにか、清楚の基準が変ってしまったのか──、
そんなふうに思うほどに、ほんとうに皆、この女優を清楚なひとと思っているのか、
そんな疑問すらわいてくる。

この十数年間、ずっとテレビを見てきていたら、
いまの清楚の基準にも納得しているのかもしれない。

Date: 10月 19th, 2022
Cate: ジャーナリズム

オーディオの想像力の欠如が生むもの(その79)

オーディオの想像力の欠如した者は、覚悟なき聴き手にしかなれない。

Date: 10月 19th, 2022
Cate: オーディオ評論

評論家は何も生み出さないのか(その9)

2010年1月1日に、「オーディオにおけるジャーナリズム(特別編)」を公開している。
ここで公開しているのは、
瀬川先生が(おそらく)1977年に書かれたメモである。

このメモは、新しいオーディオ雑誌の創刊のためのメモと読める。
いわば企画書である。

このころ、なぜ瀬川先生は、こういうものを書かれたのだろうか。
そのことを考えてみてほしい。

そこから、また引用しておきたい。
     *
◎昨今のオーディオライターが、多忙にかまけて、本当の使命である「書く」ことの重要性を忘れかけている。談話筆記、討論、座談会は、その必然性のある最小限の範囲にとどめること。原則として、「書く」ことを重視する。「読ませ」そして「考えさせる」本にする。ただし、それが四角四面の、固くるしい、もってまわった難解さ、であってはならず、常に簡潔であること。ひとつの主張、姿勢を簡潔に読者に伝え、説得する真のオピニオンリーダーであること。

◎しかしライターもまた、読者、ユーザーと共に喜び、悩み、考えるナマ身の人間であること。小利巧な傍観者に堕落しないこと。冷悧かつ熱烈なアジティターであること。
     *
《小利巧な傍観者に堕落しないこと》とある。
小利巧な傍観者に堕落してしまっては、何も生み出せないはずだ。

Date: 10月 18th, 2022
Cate: 五味康祐, 情景

情景(その14)

ステレオサウンド 49号、
「体験的に話そう──録音と再生のあいだ」という対談で、
菅野先生が語られている。
     *
菅野 一つ難しい問題として考えているのはですね、機械の性能が数十年の間に、たいへん変ってきた。数十年前の機械では、物理的な意味で、いい音を出し得なかったわけです。ですがね、美的な意味では、充分いい音を出してきたわけです。要するに、自動ピアノでですよ、現実によく調整されたピアノを今の技術で録音して、プレイバックして、すばらしいということに対して、非常に大きな抵抗を感ずるということてす。
 ある時、アメリカの金持ちの家に行って、ゴドウスキイや、バハマン、それにコルトーの演奏を自動ピアノで、ベーゼンドルファー・インペリアルで、目の前で、間違いなくすばらしい名器が奏でるのを聴かしてもらいました。
 彼が、「どうですか」と、得意そうにいうので、私は、ゴドウスキイやバハマン、コルトーのSPレコードの方が、はるかによろしい、私には楽しめるといったわけです。
 すると、お前はオーディオ屋だろう、あんな物理特性の悪いレコードをいいというのはおかしい、というんですね。そこで、あなた、それは間違いだと、果てしない議論が始まったわけです。つまり、いい音という意味は、非常に単純に捉えられがちであって……。
     *
ベーゼンドルファー・インペリアルの自動ピアノでのパハマンやコルトーの演奏、
SP盤を再生してのパハマンやコルトーの演奏。

どちらがリアルな音なのかといえば、いうまでもなく自動ピアノの音である。
けれど、リアリティのある音となると、どうか。

この点は、人によって違ってくるのかもしれない。
リアルとリアリティの違いなんてどうでもいい、という人もいるし、
そうでない人もいる。

この菅野先生の発言をどう解釈するのかも、人によって違ってくることだろう。

Date: 10月 17th, 2022
Cate: 電源

ACアダプターという電源(GaN採用のアダプター・その4)

GaN採用のACアダプターを使うようになって四ヵ月が過ぎた。
もとのACアダプターに戻そうとは、まったく思っていない。

GaN採用のACアダプターに関しては、中高域の粗さが気になる、
そんな評価も目にしていた。

新品のGaN採用のACアダプターが届いて、とにかく接続する。
最初になってきた音は、良さも感じられるし、
いわれてみれば中高域に粗さがあるといえばある。

でも新品だし、少し様子をみて判断しようということで、
一日、二日、三日と連続して使用していると、気にならなくなっている。

GaN採用のACアダプターに否定的な意見が、いまもあるのは知っている。
GaN採用のACアダプターといっても、いまでも多くの製品が市場に出ている。

いいGaN採用のACアダプターもあれば、そうでないGaN採用のACアダプターもある。
どちらを選んで使っているのか、
そのことを無視しての評価はあてにならない。

それにGaN採用のACアダプターにして、
時間帯による音の違いがかなり減ったように感じられることだ。

もともとついていたACアダプターでは、時間帯によって、
日によって、けっこう音が違うように感じることがままあった。

電源の状態が影響してのことなのかな──、
そんなふうに思っていたものの、特に対策をすることはしなかった。

GaN採用のACアダプターにして、それは明らかに減っている。
なのでGaN採用のACアダプターに、いまのところけっこう満足している。

Date: 10月 16th, 2022
Cate: オーディオ評論

評論家は何も生み出さないのか(その8)

ここでのテーマである、
「評論家は何も生み出せないのか」について考える際に、
「評論家はどうしても何も生み出せないのか」もあわせて考えると、
小林秀雄の批評についての文章を思い出す。
     *
人々は批評という言葉をきくと、すぐ判断とか理性とか冷眼とかいうことを考えるが、これと同時に、愛情だとか感動だとかいうものを、批評から大へん遠い処にあるものの様に考える、そういう風に考える人々は、批評というものに就いて何一つ知らない人々である。
(「批評に就いて」より)
     *
オーディオ評論家と、いま呼ばれている人たちも(書き手側)、
オーディオ評論家と、いま呼んでいる人たちも(読み手側)、
小林秀雄が指摘しているように、根本のところで《そういう風に考える人々》なのではないのか。

結局、愛のないところには、何も生れない、
このことにつきる。

Date: 10月 15th, 2022
Cate: オーディオマニア

オーディオは男の趣味であるからこそ(アルテック604の現在)

Great Plains Audio(グレート・プレーンズ・オーディオ)は、
1998年にアルテックの資産を受け継いで創業している。

一時期、活動を停止した、というウワサも耳にしたけれど、
いまはまた活動しているようである。

グレート・プレーンズ・オーディオ(GPA)のサイトを見ると、604の最新版がある。
604-8E IIと604-8H IIとがある。

604-8E IIがアルニコ仕様で、604-8H IIがフェライトである。
フレームの形状からいえば、604Eではなく、
604-8Gもしくは604-8Hの後継機となるのだが、そのところはまぁどうでもいい。

私が気になるのは、というか、アルテック時代の604シリーズと大きく違うのは、
ホーンである。

GPAのサイトには604-8E IIと604-8H IIの真横からの写真がある。
ホーンがフレームよりも前面に突き出している。

アルテックの604のホーンはフレームよりも前に出ていない。
だからユニットを下に向けて伏せて置くことができる。

新しい604は、もうできない。
音のため、なんだろう、とは誰だって思う。

音が良ければ、突き出している方がいい、という捉え方もできる。

ホーンがフレームよりも前に張り出している同軸型ユニットは、
604-8E IIと604-8H II以前にも存在していた。

それだから、どうでもいいことじゃないか、と割り切れればいいのだが、
どうも私は、この点が気になる。

GPAの同軸型ユニットのホーンがフレームよりも前に突き出ていてもいいのだけれど、
ならば604という型番ではなく、違う型番にしてほしかった。

八年前、別項で、
美は結論である。
己の結論に節制をもつことが、オーディオマニアとしての「美」である、
と書いた。

いまもそう思っている。
アルテックの604にあって、GPAの604にはないもの、
それに気がついてほしい。

Date: 10月 15th, 2022
Cate: 新製品

Meridian 210 Streamer(その9)

メリディアンの210にふれていて空想(妄想)していたことがある。
メリディアンのアクティヴ型スピーカーシステム、M20が、
ここにあったらなぁ──、そんなことを想っていた。

M20は40年ほど前のモデルである。
アクティヴ型とはいえ、その時代の製品だからデジタル入力はない。
なので、D/Aコンバーターは必要となる。

D/Aコンバーターはメリディアンの218、
それに210を組み合わせて、M20を鳴らすという組合せを空想していた。
その音を、想像していた。

M20はさほど大きくない。
218も210もそうだ。
コントロールアンプは、あえて使わない選択をする。

全体にこじんまりしたシステムにまとまる。
M20はいまとなっては、もう古い機種、
そこに218と210を組み合わせるのは時代的には隔たりがある。

けれど、そんなことはどうでもいいように思う。
聴いたわけではないし、これからも聴くことはまずないだろう。

だから、つい、どんな音が鳴ってくれるのか、と想像する。
その音は、別項で触れている「見える音」でもないし、「見るオーディオ」でもない。

でも、私にとっては感じられる音、感じられるオーディオである、はずなのだから。

Date: 10月 14th, 2022
Cate: 書く

続・言いたいこと

2008年9月3日、最初に書いたのが「言いたいこと」である。
これを書きたいがために、このブログを始めた、といっていい。

もちろん始めた理由はこのこと一つだけではないが、
このことが理由としては最も大きい。

この日から十四年とちょっとが経った。
あと四ヵ月もしないうちに、このブログも終る。

これが12,261本目になる。

「言いたいこと」は「わかってほしいこと」でもあったわけだが、
どれだけ伝わっているのかは、なんともいえない。

こんなことを書かなくてもわかってくれる人もいる。
そういう人と、このブログを始めたことで出会えている。

でも、わかってほしい、と思っていた人は、案外わかってくれていない──、
と感じている。

なんとなく感じているだけではなく、
あぁ、この人は変らないなぁ……、とおもったことが何度かある。

だからといって嘆くこともない。
昔から、そういう人はいたし、いまもいる。

瀬川先生は、辻説法をしたい、といわれていた。
audio identity (designing)は、私なりの辻説法でもあった。

Date: 10月 13th, 2022
Cate: 再生音

続・再生音とは……(その36)

このブログを始めたばかりの頃、
2008年9月に、
「生の音(原音)は存在、再生音は現象」と考えていきたい、
と書いている。

再生音は現象だからこそ、おもしろいし、
オーディオを長く続けているのだ、といまひとりで納得している。

ステレオサウンド 38号に、
黒田先生が八人のオーディオ評論家のリスニングルームを訪問された特集がある。

そこで「憧れが響く」という文章を書かれている。
そのなかに、こうある。
     *
 目的地は不動であってほしいという願望が、たしかに、ぼくにもある。目的地が不動であればそこにたどりつきやすいと思うからだ。あらためていうまでもなく、目的地は、いきつくためにある。その目的地が、猫の目のようにころころかわってしまうと、せっかくその目的地にいくためにかった切符が無効になってしまう。せっかくの切符を無駄にしてはつまらないと思う、けちでしけた考えがなくもないからだろう。山登りをしていて、さんざんまちがった山道を歩いた後、そのまちがいに気づいて、そんしたなと思うのと、それは似ていなくもないだろう。目的地が不動ならいいと思うのは、多分、そのためだ。ひとことでいえば、そんをしたくないからだ。
 目的地はやはり、航海に出た船乗りが見上げる北極星のようであってほしいと思う。昨日と今日とで、北極星の位置がかわってしまうと、旅は、おそらく不可能といっていいほど、大変なものになってしまう。
 ただ、そこでふりかえってみて気づくことがある。すくなくともぼくにあっては、昨日の憧れが、今日の憧れたりえてはいない。ぼくは、他の人以上に、特にきわだって移り気だとは思わないが、それでも、十年前にほしがっていた音を、今もなおほしがっているとはいえない。きく音楽も、その間に、微妙にかわってきている。むろん十年前にきき、今もなおきいているレコードも沢山ある。かならずしも新しいものばかりおいかけているわけではない。しかし十年前にはきかなかった、いや、きこうと思ってもきけなかったレコードも、今は、沢山きく。そういうレコードによってきかされる音楽、ないしは音によって、ぼくの音に対しての、美意識なんていえるほどのものではないかもしれない、つまり好みも、変質を余儀なくされている。
 主体であるこっちがかわって、目的地が不変というのは、おかしいし、やはり自然でない。どこかに無理が生じるはずだ。そこで憧れは、たてまえの憧れとなり、それ本来の精気を失うのではないか。
 したがってぼくは、目的地変動説をとる。さらにいえば、目的地は、あるのではなく、つくられるもの、刻一刻とかわるその変化の中でつくられつづけるものと思う。昨日の憧れを今日の憧れと思いこむのは、一種の横着のあらわれといえるだろうし、そう思いこめるのは仕合せというべきだが、今日の音楽、ないしは今日の音と、正面切ってむかいあっていないからではないか。
     *
この黒田先生の文章と再生音は現象ということが、
いまの私のなかではすんなり結びついている。