評論家は何も生み出さないのか(その9)
2010年1月1日に、「オーディオにおけるジャーナリズム(特別編)」を公開している。
ここで公開しているのは、
瀬川先生が(おそらく)1977年に書かれたメモである。
このメモは、新しいオーディオ雑誌の創刊のためのメモと読める。
いわば企画書である。
このころ、なぜ瀬川先生は、こういうものを書かれたのだろうか。
そのことを考えてみてほしい。
そこから、また引用しておきたい。
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◎昨今のオーディオライターが、多忙にかまけて、本当の使命である「書く」ことの重要性を忘れかけている。談話筆記、討論、座談会は、その必然性のある最小限の範囲にとどめること。原則として、「書く」ことを重視する。「読ませ」そして「考えさせる」本にする。ただし、それが四角四面の、固くるしい、もってまわった難解さ、であってはならず、常に簡潔であること。ひとつの主張、姿勢を簡潔に読者に伝え、説得する真のオピニオンリーダーであること。
◎しかしライターもまた、読者、ユーザーと共に喜び、悩み、考えるナマ身の人間であること。小利巧な傍観者に堕落しないこと。冷悧かつ熱烈なアジティターであること。
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《小利巧な傍観者に堕落しないこと》とある。
小利巧な傍観者に堕落してしまっては、何も生み出せないはずだ。