Archive for 8月, 2019

Date: 8月 18th, 2019
Cate: 欲する

資本主義という背景(その7)

資産価値。
これをオーディオの世界で初めてきいたのは、
ステレオサウンドで働いていたころだった。

あるオーディオ評論家が、そういっていたのをはっきりと憶えている。
オーディオ機器を購入するにあたって、資産価値を検討する──、
そんな内容のことだった。

それまでの私は、欲しいオーディオ機器について、
資産価値なんてことはまったく考えたことがなかった。

そんなことを考えてオーディオ機器を購入する──、
そんな人がいるのか、と驚いた。

買った時よりも手放すときに高く売れるモノ、
そこまでいかなくとも損をしないほどに売れるモノ、
そんなことまで考えてオーディオ機器を購入する。

どんなオーディオ機器であっても、一度使えば、いわゆる中古になる。
よほど希少なモノで、それを欲しがっている人が大勢いれば、
手放す時に高くはなる可能性はある。

それが、自分が欲しいモノと完全に一致していればいい。
それでも「資産価値が……」と言葉にすることはないだろうとも思うけれど。

おそらく「資産価値が……」といった人は、
欲しいと思っているモノが複数あれば、
迷わず資産価値で、どれにするかを決めるのだろう。

迷う、という行為においても、
資産価値を検討している人とそうでない人とでは、違ってくる。

「資産価値が……」をきいたころは1980年代なかばごろだった。
いまのように、高価になりすぎた時代ではなかった。

それに「資産価値が……」といって人自身、
非常に高価なオーディオ機器を購入していたわけでもなかった。
確かに、多くの人が好んで使うようなオーディオ機器ではなかったけれども。

だから、まだ「資産価値が……」に強い反撥を感じたわけではなかった。
けれど、いまはそのころとは随分様相が違ってきている。

おそろしく高価なオーディオ機器が、ごろごろしている(そういいたくなる)。
こうなってくると「資産価値が……」がとたんに生々しくなってくる。

Date: 8月 17th, 2019
Cate: 世代

世代とオーディオ(若い世代とバックナンバー・その3)

ここでのテーマとは関係ないが、バックナンバーということでは、
SNSで、一年に一度あるかないかくらいではあるが、
ステレオサウンドのとても古い号を手に入れた、
しかもとても四十年以上前のバックナンバーとは思えないほど状態がいい──、
そんな投稿を目にすることがある。

ステレオサウンドのバックナンバーは、かなり高い値がついていたこともある。
最近では、昔ほどの高値ではなくなっていても、
一桁の号数のステレオサウンドとなると、安くはない。

それに五十年前後立っているわけだから、美本といえるわけではない。
それでも、中には、非常に状態のいい古いステレオサウンドが、
古書店に並んでいることもある。

一桁の号数とまでいかなくとも、
20号から40号くらいまででも、きれいな状態のステレオサウンドはある。

古本を絶対に手にしたくない、という人の気持もわからないわけではない。
それでも古いステレオサウンドを読みたければ、
知っている人から直接譲ってもらわないかぎり、
誰が読んだかわからないステレオサウンドを買うしかない。

誰だってきれいなステレオサウンドを手にしたい。
私だって、そういう気持がないわけではない。

それでも、いざそういうステレオサウンド、
一度も読まれていないのではないか、
そう思いたくなるほどきれいなステレオサウンドもあったりする。

そんな時に、ラッキーと思う気持もあれば、
読まれなかったであろう、目の前にある古いステレオサウンドの号をみて、
さびしく思う気持もある。

本は読まれなくてもいい、
売れればいい、
そういう気持で本をつくっているのであれば、
きれいな古いステレオサウンドをみても、何も思わない、感じないのかもしれない。

Date: 8月 16th, 2019
Cate: 世代

世代とオーディオ(若い世代とバックナンバー・その2)

視野の狭い、未熟な意見、考えを、新鮮な意見、考えと思う人もいようが、
私はそうではない。

もちろん若い人の意見、考えすべてが未熟だとはいわない。
けれど、今回の1979年当時の七万円台のプリメインアンプを、
中級機ではなく高級機と捉えるのは、はっきりと狭く未熟でしかない。

当時の初任給に目を向けてはいても、
残念なことに、ここでは数字にのみ目を向けている、としかいいようがない。

少々きついことを書いているとは、私は思っていない。
なぜ彼は、自分の意見、考えに反論をしないのか、と思う。

七万円台のプリメインアンプを高級機ではないか、と思ったのならば、
自分自身で、自分の、その考えに対して反論をいくつか考えてみるべきである。

当時の初任給と七万円台という価格、
それだけで中級機ではなく高級機としたのは、そのままでは単なる思いつきでしかない。

しかも、このことを書いた若い人は、
瀬川先生の「コンポーネントステレオのすすめ」を読んでいる。
「コンポーネントステレオのすすめ」を読んでいるのならば、
そこに「コンポーネントステレオの経済学」、
「費用と性能の関係」があるのを思い出すはずだ。

読んでいる、ということはそうことである。
単に文字だけを追っただけで、書かれていることが頭に入っていなければ、
それは読んだとはいわない、眺めただけである。

ここに「標準的な価格」ということばが出てくる。
瀬川先生を、それをどう説明されているか、
「コンポーネントステレオのすすめ」を見なければ思い出せないというのならば、
何度でもいう,それは読んでいない、のと同じだ。

Date: 8月 15th, 2019
Cate: 世代

世代とオーディオ(若い世代とバックナンバー・その1)

ぎりぎり20代の人が、ステレオサウンドのバックナンバーを熱心に読む。
悪いことではない。

そう思いながらも、今日、facebookでみかけたことはちょっと気になった。
ステレオサウンド 52号はアンプの特集号だ。
セパレートアンプとプリメインアンプの総テストを、53号と二号にわたって行っている。

若い読み手は、七万円台のプリメインアンプを、
当時の初任給からすれば、中級機ではなく、高級機ではないか、としていた。

価格だけをみれば、そういえないことはない。
けれど視野は広くもってほしい、とつくづく思う。

中級機とか高級機とか、そういった位置づけは、
単に価格によって決るわけではない。

その時代時代に、アンプなら、どういった製品があったのかによって位置づけられるものだからだ。
七万円台のアンプのメーカーは、他にどんなプリメインアンプを出していたのか、
そこに目を向けるだけで、七万円台のプリメインアンプは、
そのメーカーにとって高級機という位置づけではないことはすぐにわかる。

他社製のプリメインアンプも含めて眺めれば、もっとはっきりとしてくることだ。

それでも当時七万円台のプリメインアンプは、大学卒の初任給の大半を注ぎ込まなければ買えない。
高級機ではないか、と、そうとらえることは可能だろうか。

単に当時のプリメインアンプがどういうモノがあったのか、
そういうことを抜きにしても、思いだしてほしいのは、
七万円台のプリメインアンプは、いわゆる単品コンポーネントである。

この時代、各社からシスコン(システムコンポーネント)が出ていた。
シスコンが流行っていた時代でもある。

シスコンの一つ前の段階としてはラジカセもあった。
家庭で音楽を聴く機器として、
ラジカセがあり、シスコンがあった。

つまり単品コンポーネントそのものが、いわば贅沢品である。
このことを忘れてしまっていての位置づけは意味をなさない。

1979年当時、七万円台のプリメインアンプは、
単品コンポーネントという贅沢品のなかでの位置づけは、中級クラスということになる。

若い人が、生れる前のステレオサウンドのバックナンバーを読むことは、
悪いことではない、としたのは、良いことだ、とはいえないことがあるからだ。

Date: 8月 14th, 2019
Cate: ケーブル

ケーブルはいつごろから、なぜ太くなっていったのか(電源の場合・その4)

AAとGGに通底するもの(その8)」で書いたことのくり返しになるが、
その時鳴った音は、
左右のスピーカーのあいだに、空気の密度が急激に高まった結果の見えない硬い壁ができ、
それをこれまた、異常に硬いもので叩いた、もしくは貫いた結果の音──、
そんな感じの音だった。

ジェット戦闘機が音速を超える際に発生するソニックブームとは、
こんな感じの音なのかも、と思えるような音だった。

アクースティックな楽器では、いかなる楽器をもってこようとも、
こんな音は絶対に出せないだろう、といった低音(衝撃音に近いかも)が伝わってきた。

これはこれで快感である。
聴く快感であり、こういう音を、周りに気にせず鳴らせることができるのも、
オーディオマニア的快感のはずだ。

でも、それがグレン・グールドのゴールドベルグ変奏曲の再生には、
まったく寄与していないどころか、
奇妙な異和感をまとって鳴るのだから、やっぱり「欠陥」スピーカーとしかいいようがない。

「欠陥」スピーカーについて、また書き始めると横路にどんどんそれてしまうので、
このへんにしておくが、ゴジラのテーマ曲では、そういう面がずっと洗練されて、
音楽的な魅力をより高めているようにも感じただけに、
カルダスの電源コードでの鳴り方は、惹かれるものがあったし、
それだけでなく自作の電源コードをこれからどういじっていくかの方向も見えてきた。

8月7日のaudio wednesdayでは、自作のコードにちょっとだけ手を加えた。
そんなことは予定していなかったから、材料を持ち合わせていたわけではない。

それでも手元のモノで、どういう傾向になるのかの確認はできる。
試してみると、こういうふうに、やはり変って行くのか、ということを確認できた。

ただ、それから先に進むのかは、また微妙なところである。
それはジュリーニによるマーラーの「大地の歌」を聴いたからである。

Date: 8月 14th, 2019
Cate: ケーブル

ケーブルはいつごろから、なぜ太くなっていったのか(電源の場合・その3)

(その2)で書いたことは、映画だけのことではないようにも思っている。
私は行かないので、実際に鳴っている音がどんな感じなのか想像するしかないのだが、
クラブで鳴っている音というのも、共通するところがあるのではないのか。

こういう音は、アクースティックな楽器を、どんなにいい音で録音して、
それをうまく再生しても、そういう音にはまずならない。

けれど、オーディオマニアとして快感につながっていくと感じてしまうし、
自分の音として日常的に鳴らしたいとは思わないまでも、
一ヵ月に一度、たとえばaudio wednesdayのような集まりでは鳴らしてみたい、
聴いてみたい、と思うわけだ。

このことはスピーカーシステムの音についてもいえる。
別項「AAとGGに通底するもの」で書いている、
「欠陥」スピーカーとついいいたくなってしまう、とあるスピーカーのこと。

非常に高価だし、その時鳴らしていたアンプもCDプレーヤーもまた非常に高価だった。
ラックもケーブルも同じである。
信号、電源ともにケーブルはカルダスだったようにも記憶している。

2009年12月に行われた試聴会でのことだった。
グレン・グールドのゴールドベルグ変奏曲が、試聴会が始まる前から鳴っていた。

バッハのゴールドベルグだ、ということは会場に入ってすぐにわかっても、
誰の演奏なのか、すぐにはわからなかった。

グールドっぽい、とまず思った。
でも聴けば聴くほど、グールドとは思えなくなる。
そのくらい音楽を歪めている、と感じた音である。

試聴会で鳴らされたクラシックのディスクは、
どれも感心しなかった。
改めて「欠陥」スピーカーだ、と再確認できた、と思いながら聴いていた。

それでも最後のほうで鳴らされた一曲は、すごかった。
アメリカのハイエンドオーディオのマニアのあいだで流行っているディスクらしい。

ここでの低音の鳴り方が、今回ここで書いている音と同種、同傾向の音であった。

Date: 8月 14th, 2019
Cate: ケーブル

ケーブルはいつごろから、なぜ太くなっていったのか(電源の場合・その2)

とはいっても音を聴く前からそう感じていたわけではなく、
実際に四種類の電源コードの音を聴いてから、なるほどな、と感じていた。

「GODZILLA KING OF THE MONSTERS」はサウンドトラック盤だから、
映画のなかで使われた音楽である。
そのなかでも、ゴジラのテーマ曲である。

日本のゴジラ映画を観てきた人にとっては、
懐しいともいえるメロディの、あの曲である。

とはいっても最新の演奏、最新の録音によるゴジラのテーマ曲である。

いつのころからだろうか、
映画の音、そして使われる音楽の音がはっきりと変ってきた、と感じている。
特にCGを使ったアクション、SF、ホラーといった映画で顕著に感じる。

それまでと違って、重量を感じさせる音が表現できるようになった、
そう感じている。

どの映画から、どの時代から、そういったこまかなことははっきりといえないものの、
よく重低音というけれど、実際の低音は重いわけではない──、
そんなことはオーディオの世界では以前からいわれ続けていることだが、
ここでは、文字通りの重低音のことである。

重低音という言葉から受ける印象通りの音のことである。

実際には、つまりナマの音としてこんな音は存在しないだろうが、
だからといってけしからん、とか、こんな音は認めない、などではない。

映画に必要な音であろうし、必要な音楽としての音として認めているし、
それになっといっても聴いていて快感であるのも事実だ。

カルダスの電源コードは、どちらも、この音の重量感に関しては、
聴き手のこちらを唸らせるものがあった。

Date: 8月 13th, 2019
Cate: ケーブル

結線というテーマ(その6)

別項「オーディオの楽しみ方(つくる・その39)」で、
DIN用ケーブルを自作していて気づいたことがある──、と書いた。

このことが、ここで書いているアースの共通インピーダンスに関係してくる。
これも以前書いていることだが、オーディオ機器をモノーラル化していくうえでは、
一つとても気をつけなければならないことがある。

モノーラル化していくのは、音の出口に近い方から順にやっていくべきだ。
スピーカーシステムは左右独立しているから、
ようするにパワーアンプからモノーラル化をしていくべきである。

間違ってもステレオ仕様のパワーアンプ、コントロールアンプを使っていて、
D/Aコンバーターをモノーラル化するのは、
アースに着目して考えるならば、おかしなやり方である。

もちろんモノーラル化そのものを否定はしない。
それではっきりと聴きとれる効果があるのは事実だ。

ただし順序を間違えた安易なモノーラル化は弊害ももたらす。
その音への弊害に気づかないのだろうか。

パワーアンプをモノーラル化したならば、次はコントロールアンプ、
そしてD/Aコンバーターというのならば、納得できるモノーラル化の順序である。

D/Aコンバーターも、コントロールアンプもパワーアンプもモノーラル化した。
それでもマルチアンプをやっている人はデヴァイダーもモノーラル化しなければならない。

この順序を守らなかったからといって、ハムが出たりすることはない。
だからこそやっかいともいえる。

このモノーラル化の順序に気づかさせてくれたのが、DIN用ケーブルの自作であり、
1982年ごろに登場したディネッセンのコントロールアンプJC80の電源構成である。

Date: 8月 13th, 2019
Cate: 218, MERIDIAN

メリディアン 218を聴いた(210 Streamerの登場)

facebookを眺めていたら、
Meridian 210 Streamerという文字が飛び込んできた。
写真も、もちろんあった。

218と同じといえる筐体。
facebookでは、YouTubeへのリンクもあった。

もちろんメリディアンのウェブサイトにも、210のページはある。

218を聴いていない人にとっては、どうということのない製品に思えるだろうが、
218でMQAの音を聴いている人は、おっ、と思うはずだ。

Date: 8月 12th, 2019
Cate: High Resolution

MQAのこと、SL-G700のこと

8月23日に、テクニクスのSL-G700が発売になる。
数ヵ月に発表になっていた製品なので、製品の内容そのものについては省くし、
音も聴いているわけではないので、SL-G700そのものについて書くわけではない。

テクニクスは、ご存知のように小川理子氏を前面に打ち出している。
うまく利用している、ともいえる。
そのためだろう、オーディオ関係のサイトだけでなく、
いろんなニュースサイトでも、テクニクスが新製品を発表すると取り上げてくれる傾向がある。

SL-G700も発売が近づいているから、オーディオ関係のサイトはもちろん、
オーディオとは関係のないニュースサイトでも紹介されている。
昨日も今日も、そういうサイトをみかけた。
Googleで検索してみると、まだ他にもあった。

SL-G700はSACDも再生できる。
そのことよりも、私がここでSL-G700に関することを書いているのは、
MQA対応であるからだ。

つまり、オーディオに強い関心を持っていない人の目にも、
SL-G700のことは留ることだろう。
とすれば、MQAということにも、当然目が留る。

MQAについて、SL-G700のニュースを読んだからすぐに理解できなくとも、
少なくともMQAの存在を知ることにはなる。

7日にはワーナーミュージックからMQA-CDが発売になった。
秋にはユニバーサルミュージックからも、またMQA-CDが出る。

こうやってオーディオマニア以外の人たちにも、
MQA、MQA-CDのことが知られるようになってくることを期待できる。

この一点だけで、SL-G700の登場を歓迎したい。

Date: 8月 12th, 2019
Cate: ケーブル

ケーブルはいつごろから、なぜ太くなっていったのか(電源の場合・その1)

8月のaudio wednesdayは、電源コードの比較試聴も行った。
愛知県からの常連のHさんが、カルダスの電源コードを二種類持ってきてくれた。
現行製品ではなくすでに製造中止になっている。

この他に、5月に自作した電源コードと、
それ以前に使っていた電源コード(ベルデン製に少し手を加えている)、
あわせて四種類の比較致傷を行った。

ベルデンに手を加えたモノは、常連のHさん(上のHさんと違う人)が気に入ってくれて、
最初に手を加えたベルデンの電源コードは、Hさん宅で使われている。
喫茶茶会記に置いているのは二本目である。

愛知のHさんは、以前にもカルダスの電源コードを持ってきてくれている。
短い時間だったが、その時も聴いている。
今回は、「GODZILLA KING OF THE MONSTERS」のサウンドトラック盤から、
ゴジラのテーマ曲で試聴したことが、
前回聴いたときよりもカルダスの音の特徴を抽き出したようにも感じた。

私の自作の電源コードも、ベルデンの電源コードも、
いまとなっては太いとはいわない太さである。
それに硬くない。

硬くないから取り回しも楽である。
カルダスは太いだけでなく、硬くそれに重い。

電源コードの長さは、カルダスがいちばん短く、
ベルデンがいちばん長い。とはいえ極端に違うわけでもない。

それでもカルダスのモノが重い。
この硬さ、重さ、その他をふくめての感触の違いは、
実際の音の印象にかなり近い、と感じる。

Date: 8月 11th, 2019
Cate: アナログディスク再生

ダイレクトドライヴとカートリッジのコンプライアンス(その4)

軽針圧のカートリッジ、つまりハイコンプライアンスのカートリッジの登場は、
ダイレクトドライヴの誕生と関係しているのでは? と書いてきたが、
もうひとつスピーカーシステムの能率とも関係していた、と考えている。

私がオーディオの世界に入ってきたときには、
すでにダイレクトドライヴが当り前であった。
ベルトドライヴ、アイドラードライヴのアナログプレーヤーのもつ音のよさが、
見直されるようになる少し前であった。

カートリッジもオルトフォンのSPUやEMTのカートリッジもあったけれど、
多くは軽針圧化のMM型でもあった。

スピーカーシステムもそうである。
フロアー型スピーカーシステムも当時はそれほと多くはなかった。

ブックシェルフ型全盛時代でもあったし、
さらに小型のスピーカーシステムが登場しはじめてもいた。

さらにいわれていたのは、スピーカーの能率の低下である。
といっても、現在のスピーカーシステムからすれば、
能率が低下していたといっても、十分高いといえるのだが。

ARがアコースティックサスペンション方式によって、
小型のスピーカーでも低音域のレスポンスをのばしたこと、
それによってスピーカーの能率が大きく低下したこと。

このことがカートリッジのコンプライアンスとも関係しているように感じているし、
さらに軽針圧化を後押ししたのがダイレクトドライヴの登場でもあった──、
そう考えているのだが、その時代のオーディオの変化を、私は経験しているわけではない。

上記したように、すでに変化していた時代でもあり、
再び変化しようという兆しの感じられる時代でもあった。

Date: 8月 11th, 2019
Cate: 世代

とんかつと昭和とオーディオ(その10)

古川緑波の「下司味礼讃」に天丼のことが出てくる。

読んでいると、おいしいとうまいの違いについて考えていることに気づく。
おいしいは美味しい、と書く。
うまいは、旨いとも美味いとも書くが、ここでのうまいは旨いのほうである。

どちらも満足して食べているのは同じだ。
それでも天丼とかカツ丼、カツカレーなどには、
うまいのほうがしっくりくることが多いように感じている。

天丼ではなく天ぷらをコースで味わうのであれば、おいしいのほうだろう。
どっちでもいいじゃないか、
そんなこまかなことどうでもいいじゃないか、と誰かにいわれそうだが、
例えば酢豚。

まだ熊本にいたころ、酢豚をどこかで食べるとしたら、そこにはパインが入っていた。
あのころ食べた酢豚でパインの入ってなかったのは記憶がない。

酢豚にパイン。
パインが入っている理由は肉を柔らかくするため、とかいわれていた。
東京に来てからの酢豚では、パインが入っていることはほとんどなかった。

いわゆる町中華と呼ばれている店での酢豚ではなく、
中華料理店とよばれる本格的な店での酢豚には、パインは入ってなかった。

パインの入っている酢豚なんて……、という人はけっこういる。
そういいたくなるのもわからなくはないが、
パインの入っている酢豚も、私は好きだし、友人のAさんとも、
パインの入った酢豚の話をして盛り上ったりしている。

さしずめパインの入った酢豚は、下司味なんだろう。
一般的にいって、パインの入っていない酢豚のほうが高級なんだろう。

酢豚もパインが入らなくなっただけでなく、
豚の銘柄、酢も黒酢使用を謳ってたりする。

そういう酢豚もAさんも私も好きである。
おいしい酢豚も好きだし、うまい酢豚も好きである。

どちらかを選ぶ必要はあるのだろうか。

Date: 8月 11th, 2019
Cate: バイアス

思い込みと刷り込み(その2)

私のオーディオの「始まり」は、これまでしつこく書いているように、
「五味オーディオ教室」からである。

いまもそう思っている。
けれど、同時に少し違うことも思うように(感じるように)なってきている。

「五味オーディオ教室」を読んでから43年。
これから先、あと43年生きている可能性は低いだろう。

つまり、私のオーディオの「終り」が近づいてきているわけだ。
近づいてきているからといって、「終り」が見えているわけではない。

ただ現実に「終り」を迎えたその刹那に意識する「始まり」があるのではないのか。
そんなことを思う(感じる)ようになってきた。

その時に、「始まり」はやっぱり「五味オーディオ教室」だった、と思うのか、
それとも違う「始まり」に気づくのか。

Date: 8月 11th, 2019
Cate: High Resolution

MQAのこと、カセットテープのこと(その4)

LS3/5Aを聴いたのは、ステレオサウンドで働くようになってからだった。
そのころにはロジャースからだけでなく、
いくつかのメーカーからもLS3/5Aが発売されていたけれど、
私が初めて聴いたLS3/5Aはロジャースの15Ω仕様のモノだった。

そしてアナログディスクによる音だった。
プログラムソースがCDが主になってからのLS3/5Aは、11Ω仕様になっていたことが多い。

いつごろ15Ωから11Ωになったのか、もう忘れてしまったが、
私にとって聴く機会のあったLS3/5Aは、LPからCDへの移行とほぼ一致していたようだった。

もちろん11Ω仕様のLS3/5Aをアナログディスクで、
15Ω仕様のLS3/5AをCDで聴いたこともある。

それでも私のなかでは、
LS3/5Aの印象として、いまも強くあるのは、
15Ω仕様をアナログディスクで鳴らした時の音である。

その音こそが、
「コンポーネントステレオの世界 ’77」での井上先生の組合せからイメージした音であり、
その後、瀬川先生の文章からイメージしたLS3/5Aの音である。

少し横路にそれるが、なぜオーディオ雑誌ではLS3/5AをLS3/5aと表記するようになったのか。
以前、別項「サイズ考(その6)」でも指摘したときは、
主にインターネットでの表記がそうだったが、いつしかオーディオ雑誌もそうなってしまった。

復刻版は、確かにLS3/5aである。
だから、それはそれでいい。
けれどオリジナルは、LS3/5Aである。

エンクロージュアに貼ってある銘板にも、LS3/5Aとある。
大文字か小文字か。

わずかな違いといえばそうであるが、
わずかな違いに一喜一憂するのがオーディオの面白さであると思っている私は、
いまのオーディオ雑誌が、以前のLS3/5AまでもLS3/5aとしてしまうのを目にすると、
この人たちのオーディオの楽しみは、わずかな違いなどどうでもいいんだなぁ、と思ってしまう。