Archive for 6月, 2019

Date: 6月 13th, 2019
Cate: 世代

世代とオーディオ(OTOTEN 2019・その1)

昨日と今日、SNSに、
オーディオ関係の、このニュースにコメントしているのをいくつかみかけた。

AV WATCHの記事にリンクしているが、
PHILE WEBでも取り上げられているから、読まれた方は多いだろう。

日本オーディオ協会の小川理子理事長が、
「今月末のOTOTENでは、今までのオーディオマニアの方だけでなく、若い人達にも参加して欲しい」
と発言したことへの、SNSでのコメントであった。

どうすれば、若い人たちがOTOTENの会場にやってくれるのか。
オーディオブームのころ、どの出展社も、
オーディオフェアでそんなことを考えていなかったのではないだろうか。

日本オーディオ協会も考えていなかったのではないだろうか。

それでもオーディオブームのころは、若い人たちが大勢、集まっていた。
何故なんだろうか。

ステレオサウンドで、1982年に始まった菅野先生のベストオーディオファイル。
ベストオーディオファイルに登場する人たちの年齢の若いことを、
それほど不思議には思わなかった。

20代、30代の人もけっこう登場しているし、
けっこうなオーディオシステムだったりする。

きちんと統計をとったわけではないが、
どちらかといえば若い人のほうが多い印象だ。

それから三十数年。
その人たちも50代、60代になっている。
この年代あたりが、いまのステレオサウンドの中心読者層になっている。

ベストオーディオファイルに登場する人たちだけが若かったのではない。
編集部も若かった。

私が編集部で働きはじめたのは、19の誕生日の約一週間前で、
ぎりぎり18だった。

私の七つ上に、Jr.さん(Nさん)がいた。
十上に、編集次長だった黛さんがいて、
同じ歳のNさんがいた。
ここまでが20代である。

それからSさんとIさんが、黛さんよりも少し上で30代前半だった(はず)。
1980年代のはじめ、ステレオサウンド編集部も若かった。

Date: 6月 12th, 2019
Cate: High Fidelity

ハイ・フィデリティ再考(ふたつの絵から考える・その7)

十数年前くらいからだろうか、
スピーカーシステムの音の精度、精確さは確実に向上してきている。

インターナショナルオーディオショウで聴くだけなのだが、
それでもYGアコースティクスののスピーカーシステムの音には、
ここ数年、感心するばかりだ。

B&Wのスピーカーシステムもそうだ、といえよう。
あくまでも聴いた範囲であって、
他にも精度の高さ、精確さをほこるスピーカーシステムはあるだろう。

とはいっても、一般には精度の高い音と高く評価されていても、
聴いてみると、この音のどこが? と思うスピーカーもないわけではない。

どこのメーカーなのかは書かないけれど、一社ではない。
インターナショナルオーディオショウ、オーディオ店で鳴っている音での印象であって、
愛情をもって鳴らしているユーザーの音を聴いての印象ではない。

でも二十年くらい前か、
知人があるメーカーのスピーカーシステムを購入した。

そのメーカーの音を、それまで一度もいいと思ったことがなかった。
ひどい音だ、と聴く度に思っていた。

なのにハイエンドユーザーのあいだでの世評は高かった。
そのスピーカーを知人が買ったわけだ。

聴きに来ませんか、という誘いがあった。
期待はしていなかったけれど、やっぱりひどかった。

知人もそう感じていたようで、すぐに売っぱらってしまった。
愛情をもって鳴らしてこそ──、というけれど、
それはあくまでもまともなスピーカーに関してであって、
そのスピーカーのように欠陥スピーカーといいたくなる場合は、例外というしかない。

どこかが間違っているとしかいいようのない音のスピーカーは、確かに存在する。
そういうスピーカーまでも、精度の高い音といわれているのをみていると、
精度の高い音、精確な音とはいったいなんだろう、と、
次元の低いところで考えなくてはならないのかと思ったりもするが、
そんなスピーカーをきちんと聴き分けて除いていけば、
確かにスピーカーの音の精度、精確さは確実に向上している。

Date: 6月 12th, 2019
Cate: High Fidelity

ハイ・フィデリティ再考(ふたつの絵から考える・その6)

二十年くらい前からだろうか、
写真と見紛わんばかりの絵を描く人が現れはじめた。

私が、そういう人を最初に見た(知った)のは、インターネットだったか。
世の中には、すごい人がいるもんだ、と感心した。

それからぽつぽつとそういう人が現れてきている。
インターネット、それもSNSを眺めていると、
そういう人の絵がタイムラインに流れてきて、
さらにはどうやって描いているのかも動画もあったりする。

写実性の技術は向上している──、といえるだろう。
と思いながらも、私はここでも五味先生が書かれてきたことを思い出す。
     *
 画家なら、セザンヌは無論のこと、ゴッホもゴーガンもあのピカソさえ、信じ難いほどの写実性で自画像を描いている。どんな名手が撮った写真よりそれはピカソその人であり、ゴッホの顔と私には見える。音楽作品にはしかし、そういう自画像は一人として思い当たらない。バルトークの師だったというヤノーシュ・ケスラーという作曲家は、優れたアダージョを書けるには音楽家は実際の経験を経ねばならぬと教えたそうで(ただし何を? おそらく恋愛、もしくはそれにともなう失望や恍惚、悲哀だろうか? それならもうぼくはずいぶん経験ずみだし、よいアダージョが書けねばならないのに)、とバルトークは二十歳ごろ母への手紙に書いている。バルトークの作品にその苦悩の生涯を彷彿するのはたやすいことだが、どれを取上げても彼の肖像は浮かんでこないだろう。ケスラーの説が当たっているなら、ベートーヴェンは体験でたしかに比類ないアダージョを作っているが、いかなる他の音楽も到達しなかったとケンプの称えるそのアダージョの幽玄の趣、崇高でけざやかな美しさにもっとも不似合いなのがベートーヴェン自身のあの(醜い)マスクの印象になる。
 いまさら言うまでもないが、音楽は聴くもので見るものではない、肖像画が声を出すか? といった反論はわかりきっているので、音楽に自画像を求めるのが元来無理なら、自画像と呼ぶにふさわしい作品をたずねてみるまでである。ブルーノ・ワルターは、『交響曲第一番』をマーラーのウェルテルと呼びたいと言っている。
 音楽家は、自分の体験を音で描写はしないものだとも言う。ワルターがこれを言った事由はわからないが、体験を描写しないで自画像を描ける道理がない。しかしたとえば『ドン・ジョバンニ』を、フロイトが『ハムレット』をそう理解したように、モーツァルトの無意識の自伝と見ることはできるだろう。
(「五味オーディオ教室」より)
     *
《セザンヌは無論のこと、ゴッホもゴーガンもあのピカソさえ、信じ難いほどの写実性で自画像を描いている。どんな名手が撮った写真よりそれはピカソその人であり、ゴッホの顔と私には見える》
とある。

ここにも写実性が出てくる。
セザンヌ、ゴッホ、ゴーガン、ピカソの自画像は、
写真を思わせるような絵ではない。

けれど《信じ難いほどの写実性》と、五味先生は表現されている。
《信じ難いほどの写実性》とは、高精度のカメラで撮影した写真のもつ写実性とは、
何が違うのか、ということは、すでに五味先生が書かれている。

《体験を描写しないで自画像を描ける道理がない》、
と書かれている。

Date: 6月 11th, 2019
Cate: ディスク/ブック

全身編集者

さきほど知ったばかりの本だ。

雑誌「ガロ」元副編集長だった白取千夏雄氏の半生記・半世紀──、
と出版社のおおかみ書房のサイトでは紹介されている。
自費出版に近いかたちのようで、書店売りはしていないらしい。

全身編集者」。
もうこれだけで、読みたくなってくる。

Date: 6月 11th, 2019
Cate: ベートーヴェン

ベートーヴェンの「第九」(その20)

6月5日のaudio wednesdayでは、
フリッツ・ライナー指揮シカゴ交響楽団によるベートーヴェンの「第九」も鳴らした。

ライナーの「第九」のことは、(その1)で触れている。
1989年の映画「いまを生きる」(原題はDead Poet Society)で使われていた。

この映画を観ていて、ライナーの「第九」と出逢えた。
私はステレオ録音の「第九」では、ジュリーニ指揮ベルリンフィルハーモニーの録音とともに、
このライナー盤を聴きつづけてきている。

今回は四楽章だけを鳴らした。
鳴らし終って、常連のKさんが「歌が入っていなければ、いい曲なのに……」といわれた。

Kさんと同じことを、ある雑誌でもみかけたことがある。
どの雑誌で、どの人が書いたことなのか記憶しているけれど、ここでは書かない。

その人もまた、四楽章で歌が入ってくることで、
「第九」をだいなしにしている。
さらには、演歌にしてしまっている──、
そんなことを書かれていた。

音楽の聴き方も、ほんとうに人によって、大きく違ってくる。
もう人さまざまという言葉だけでは足りないとおもえるほどに、
こうまで違ってくるものか、ともう諦めるしかないのか。

30代なかばだったら、ムキになって説得しようと試みただろうが、
いまは、もうつもりはない。

一応、反論めいたことはちょっと言ったけれど、
それ以上はあえて言うまい。

でも、(その10)で書いている、昔の新聞で読んだ記事のことを思い出す。

年末に受刑者に「第九」を聴かせた、という話だ。
受刑者の一人が剛球した、という内容だった。

「第九」をもっと以前に聴いていれば、
罪を犯すことはなかっただろう……と。

私も、ベートーヴェンの「第九」を、
小澤征爾指揮ボストン交響楽団の演奏で、人見記念講堂で聴いたとき、
四楽章でバリトンが歌い出したところから、もう涙が止まらなかった経験がある。

Date: 6月 11th, 2019
Cate: 広告

ホーン今昔物語(It’s JBL・その6)

「ヘッドフォンブック SPECIAL EDITION」を、広告だ、と私は捉えている。
そう考えたときに、「ヘッドフォンブック SPECIAL EDITION」についてくる本の部分は、
いったい何なのだろうか。

書店で売られている以上、「ヘッドフォンブック SPECIAL EDITION」の主体は本の部分のはず。
けれどファイナルのイヤフォンE1000が主体であって、本の部分こそおまけといえる。

この本の部分、
私は映画におけるパンフレットに近いような気がする。

映画館に行けば、上映している映画のパンフレットが売られている。
小学生、中学生のころは、ほとんど買っていた。

高校生のころからあまり買わなくなり、
ずいぶん買っていない。
なので、最近の映画のパンフレットの内容がどういうふうになっているのか全く知らない。

私が買っていたころと変っていないとして、
映画のパンフレットは、いわば解説である。

その映画の制作スタッフ、俳優の名前が記載されているし、
その映画の背景、シリーズものであればそういったことなどについての解説が載っている。

解説を書いているのは、たいていは映画評論家と呼ばれている人たちの誰かだ。
映画評論家が書いているからといって、
そこでの文章は、その映画の評論ではない(昔と同じならば)。

そして有名人による推薦文のようなものも載ってたりする。

「ヘッドフォンブック SPECIAL EDITION」の本の部分は、
書店でぱらぱらとめくっただけだが、
映画のパンフレット的存在といっていいだろう。

こんなふうに考えてみると、
小野寺弘滋氏の「It’s JBL」はハーマンインターナショナルのサイトで公開するだけでなく、
パンフレット的に仕上げての小冊子という手もあると思う。

Date: 6月 11th, 2019
Cate: ジャーナリズム, ステレオサウンド

編集者の悪意とは(その9)

その2)で、facebookでのコメントを読んで、
続きを書くだけでなくタイトルも少し変更したことに触れた。

変更したことによって、(その8)までで書いてきたことは本題ではなくなっている。
(その10)から書くことが、ここでのテーマの本題になっていく。

(その2)の最後に、
ここでの編集者には、元ステレオサウンドの編集者だった私も含まれる、としているように、
編集者の悪意に関係してくる実例を挙げていく。

これまでも別項で、細部をぼかしながら書いてきたことも、
ここでは、
メーカー名、型番、ステレオサウンドの号数、記事のタイトルなども、
少しはっきりさせていく予定である。

私が担当した記事だけでなく、
私が「編集者の悪意」もしくは「編集者の悪意のようなもの」を感じた記事についても触れていくことで、
編集者の悪意は、どこを向いてのものなのか、
そのあたりも考えていきたい。

(その10)を書くのは、少し先の予定。

Date: 6月 10th, 2019
Cate: 菅野沖彦

菅野沖彦氏のこと(ステレオサウンド 210号・その5)

昨晩の(その4)の最後に、
その気持をずっと持ち続けていた人だから書ける文章がある、と書いた。

ここで「気持」という単語を使ったのは、なんとなくだった。
なんとなくだったけれど、翌朝(つまり今日)になって気づいた。

ここでの「気持」は、川崎先生がいわれる「いのち・きもち・かたち」であることに。
ステレオサウンド 210号と211号に載った「菅野沖彦先生 オーディオの本質を極める心の旅」は、
黛さんの「かたち」である。

Date: 6月 9th, 2019
Cate: 菅野沖彦

菅野沖彦氏のこと(ステレオサウンド 210号・その4)

私がステレオサウンドで働くようになったのは1982年1月の終り近くだった。
ちょうどステレオサウンド 62号の編集作業の真っ只中だった。

ステレオサウンド 62号、63号には、
「音を描く詩人の死」が載っている。
瀬川先生に関する記事である。

この記事を執筆されたのは、編集顧問のYさん(Kさんでもある)だった。

ステレオサウンド 62号、63号が出たとき私は19だった。
黛さんは1953年9月生れだから、28歳だった。
編集次長という立場だった(当時の編集長は原田勲氏)。

あのころは編集という仕事になれることに精一杯のところもあったから気づかなかったけれど、
62号と63号の「音を描く詩人の死」の文章を、
黛さんは自身で書きたかったのではないのか──、
このことに今回気づいた。

黛さん本人に確認したわけではない。
でも、きっとそうであったに違いない、と信じている。

そして、その気持をずっと持ち続けていた人だから書ける文章がある、ということだ。

Date: 6月 9th, 2019
Cate: オーディスト

「オーディスト」という言葉に対して(その25)

6月5日のaudio wednesdayの準備をしていたときのことだ。
常連のHさんが、早めに来てくれて手伝ってくれた。

あれこれいくつかの話題を話していて、
そうだ、これもオーディストなんだなぁ、と合点のいくことがあった。

オーディスト(audist)とは聴覚障害者差別主義者という意味をもつスラングである。
その23)で、
オーディスト(聴覚障害者差別主義者)とは、
神の御言葉を聴けない者は不完全な人間である、
神から与えられた言葉を聴けない、話せない者は不完全な人間である、
と主張する人たちのことだ、と聞いているとも書いた。

今回考えたのは、このことに近いことでもある。
Hさんと話していたのは、
音楽評論家の多くは、音に関心を払わない、
再生するオーディオにも関心を払わない人が多い、ということだった。

いまはそうでもなくなりつつあるのかもしれないが、
私がオーディオに関心をもちはじめたころは、
音楽評論家で音にも強い関心をもつ人はほんとうに少なかった。

別に音楽評論家に限らない。
音楽好きで、レコード(録音物)を介して音楽を聴くことに熱心な人であっても、
音、再生装置にはまったく無関心という人も少なくない、というか、多いように感じる。

そんな話をしながら、そうか、と思ったのは、
音楽好きでありながら、音に関心を払わない人、
そういう人の中には、オーディオマニアをはっきりと軽蔑する人がいる、ということ、
そして、こういう人も、すこし違う意味でのオーディストなんだ、ということである。

Date: 6月 9th, 2019
Cate: 老い

老いとオーディオ(brandead)

brand + ing = branding
brand + ed = branded
brand + dead = brandead

Date: 6月 9th, 2019
Cate: ディスク/ブック

FRIDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO(その3)

6月5日のaudio wednesdayで“FRIDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO”のSACDをかけた。

“FRIDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO”のSACDを、
audio wednesdayでかけるのは三度目。

今回はうまく鳴ってくれる予感はあった。
それでも鳴らしてみないことには、
スピーカーから音の聴かないことには、なんにもいえない。

前回、前々回の“FRIDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO”の音を聴いている人もいる。
今回初めて聴く人もいる。

最初の音が鳴ってくれば、わかる。
まったく不満がないわけではないが、いい感じで鳴ってくれた。

私がひとりでそう思っているわけではなく、
聴いていた人たちの感想をきいても、そうだった。

一曲目の「地中海の舞踏/広い河」、
特に後半の鳴り方は、冒頭の音からはちょっと想像できない感じで鳴ってくれた。

二人のギタリストがいるステージに、聴き手のわれわれも坐って聴いている、
そんな感じで、しかも演奏者の体温が、曲のクライマックスで上ってくるような感じさえあった。

そんなのは、聴き手の一方的な期待による錯覚といわれれば、そうかもしれない。
同じ音を、あの場で聴いても、そう感じない人もいるはずだ。

今回はそんな人はいなかっただけのことかもしれない。

それでも錯覚できない音と錯覚できる音、
どちらをとるのかとなったら、迷わず錯覚できる音をとる。

“FRIDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO”はライヴ録音である。
ギタリストはステージにいて、観客はステージにはいない。

観客の位置で演奏を聴きたいという人には、
今回の音は、ある意味、ひどい音ということになる。

でも、私は“FRIDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO”のSACDを、
そんな音で聴きたいとは思わない。

演奏者の体温が上昇するのにつれて、
聴き手のこちらの体温も上昇するような音で聴きたい。

そういう音で聴いてこそ、
私は“FRIDAY NIGHT IN SAN FRANCISCO”をすごい、とおもう。

Date: 6月 9th, 2019
Cate: 再生音

ゴジラとオーディオ(その3)

その2)を書いたのは五年前。
前作の「ゴジラ」から、「ゴジラ キング・オブ・モンスターズ」まで五年かかったわけである。

キングギドラが登場することは、五年前に発表されていた。
「ゴジラ キング・オブ・モンスターズ」では、
キングギドラではなくギドラとして登場する。

なぜ名称からキングが抜けているのかは、
次作「Godzilla vs. Kong」で明らかになるのかもしれない。

別項で書いたように、私にとってほぼ理想的なゴジラ映画だった。
ゴジラに対する思い入れは、世代によって大きく違うのかもしれない。

私が小学生のころ、ゴジラの映画、ガメラの映画もよく上映されていたし、
大半を映画館で観てきている。

私はそういう世代である。
前作の「ゴジラ」も満足といえば、満足していたけれど、
それでもサウンドトラックを買おう、とまではまったく思わなかった。

今回の「ゴジラ キング・オブ・モンスターズ」は、サウンドトラックを買おうと思っている。
私のようなゴジラ映画に思い入れをもつ者(世代)にとって、
今回の「ゴジラ キング・オブ・モンスターズ」で使われている音楽は、
自分の手で鳴らしてみたい、と思わせる。

「ゴジラ キング・オブ・モンスターズ」のサウンドトラックは、
e-onkyoにもラインナップされている。

「ゴジラ」で検索してもヒットせず、
「godzilla」で検索しなければならない。
しかもflacとMQAがあるが、どちらも44.1kHz/24ビットという中途半端なスペック。

Date: 6月 8th, 2019
Cate: audio wednesday

第102回audio wednesdayのお知らせ(ラジカセ的音出し)

ラジカセといえば、ひとつ、書き忘れていたことがある。
ドルビーのことである。

はっきりと思い出せないのだが、
あのころ(1974年ごろ)のラジカセ(モノーラル)に、ドルビーはついていたのか。
なぜか思い出せない。

このころのミュージックテープは、ドルビーが使われていなかった。
ミュージックテープにドルビーが使われるようになったのは、1980年ごろからか。

ミュージッテープを購入して聴くときはドルビーは関係ない。
テープヒスがストレートに出てくる。

実というと、ドルビーがかけられているミュージックテープは一度も聴いたことがない。
私が中学生のころ聴いていたミュージックテープは、
すべてドルビーなしだった。

十年ほど前に、グラシェラ・スサーナのミュージックテープを、何本かヤフオクで入手した。
聴く予定もなかったが、安かったからだ。

当時ミュージッテープの価格は、一本3,000円超えていた。
それが中古になって、一本百円から数百円程度で入手できた。

高校生になりカセットデッキを購入してからはドルビーは使っていた。

なので私にとって、ラジカセはドルビーなし、
カセットデッキはドルビーあり、というイメージがいまも残っている。

Date: 6月 8th, 2019
Cate: ショウ雑感

2019年ショウ雑感(その3)

OTOTENが、今月末に開催される。

日本オーディオ協会のサイトにOTOTENのページが公開されいてる。
URL(https://www.jas-audio.or.jp/audiofair/)を見て、ちょっと嬉しくなった。
URLの最後、ototenではなくaudiofair(オーディオフェア)になっているからだ。

OTOTENのイベント/セミナーのページを見ると、さらに嬉しくなる。

いままでインターナショナルオーディオショウのほうが、
OTOTENよりも上だという印象が、私のなかにはあった。

けれど、今年のOTOTENは充実しているように感じる。
実際のところ、行ってみないことにはなんともいえないが、
それでもお台場でやっていたころよりは、ずっと充実している、といえるはず。

私がいちばん楽しみにしているのが、
ガラス棟G701で、
6月29日(15:30~16:30)と30日(12:00~13:00)に行われるMQAのイベントだ。

ボブ・スチュアート氏が来日しての内容だ。
これだけで今年のOTOTENは、とても楽しみである。