Archive for 12月, 2018

Date: 12月 16th, 2018
Cate: オーディオ評論

「新しいオーディオ評論」(その17)

いまは冬号がそうだが、以前は夏号がベストバイの特集号だった。
冬号でも夏号でも、どちらでもいいのだが、
その当時でもベストバイの特集号は売れていた。

買わないという読者がいたにも関らず売れていた。
つまりベストバイの特集号だけ買う人が大勢いるということである。

ステレオサウンドにいたとき、編集部の先輩が話してくれたことがある。
ベストバイを始めた理由について、である。

ベストバイの最初は35号(1975年夏)である。
ベストバイの原形といえるいえる特集は、
さらに一年前の31号の「オーディオ機器の魅力をさぐる」といえる。

ベストバイもそうだが、31号の特集も試聴取材はない。
つまりスピーカーやアンプの総テストは編集部の体力的負担がけっこう大きい。
総テストばかりをやっていると、編集者の体力がもたない、
編集者を肉体的に休ませようということで生れたのが、ベストバイという企画ということだった。

こればかりが理由のすべてではないだろうが、なるほどなぁ、と納得したものだった。
別の時にきいた話では、チューナー特集の号は売れなかったそうだ。
24号(1972年秋)、32号(1974年秋)の二冊である。

この二冊を読めば、試聴・取材がどれだけ大変だったかは、
ステレオサウンドの編集経験者であれば容易に想像できよう。

大変だったからといって、その苦労が売行きとして報われるとは限らない。
その反対で、編集者の苦労は少なくとも、ベストバイの特集号は売れるわけだ。

ベストバイが定番の特集企画となったことに納得しながらも、同時に疑問もあった。
41号からステレオサウンドを買いはじめた私は、一号も欠かすことなく買った。
特集がなんであれ、ステレオサウンドは毎号買おうと決めていたし、
中学、高校時代は小遣いをなんとかやりくりしながら、買っていた。

そんな私には、特集記事によって買ったり買わなかったりする読者の存在が理解できなかった。
それでも、これが現実であり、年に四冊しか出ないステレオサウンドでも、号によって売行きが変動する。

Date: 12月 15th, 2018
Cate: オーディオ評論

「新しいオーディオ評論」(その16)

ステレオサウンドにいたころ、オーディオ業界関係者、
それから訳知り顔のオーディオマニアからよくいわれていたことがある。
「ステレオサウンドは、あれだけ広告が入っているから、一冊も売れなくても黒字なんでしょ」と。

いまでも数年に一度くらい、同じことを聞くことがある。
こんなことをいってくる人は、楽な商売していますね──、
そんなことをいいたいようだった。

巻末の広告索引のページをみれば、どれだけの広告が載っているのかわかる。
十年前、二十年前のステレオサウンドと比較してみると、
広告量のどんなふうに変化していったのかもすぐにわかる。

確かに減っている。
それでも他のオーディオ雑誌の広告索引と見較べると、
ステレオサウンドはダントツに多いのはひと目でわかる。

本が売れなくても、広告だけで黒字。
広告料がどのくらいなのかは調べればすぐにわかるから計算してみれば、
一号あたりの広告収入のおおよその目安はつく。

でも、そんなことを計算したところで、実際のところ、
本が一冊も売れなかったら、広告は入らなくなる。

ある程度の部数売れているから広告も入るのである。
こんな当り前のことをいまさらながら書いているのは、
雑誌にとって、ある一定以上の読者数は絶対的に必要である。

いま書店には冬号が並んでいる。
冬号とは、つまりステレオサウンドグランプリとベストバイの特集号であり、
賞の特集号である。

この冬号だけ特別定価でいつもより高い。
冬号は売れる。

売れるけれど、冬号だけは買わない、という読者が昔はいた。
いまはどうなのだろうか。

Date: 12月 15th, 2018
Cate: オーディオ評論

「新しいオーディオ評論」(ルールブレイカーか・その3)

カルメンも、ルールブレイカーだといまさらながら気づく。
ルールブレイカーであるカルメンは、自らのルールを持っている。

Date: 12月 15th, 2018
Cate: MERIDIAN, ULTRA DAC

メリディアン ULTRA DACで、マリア・カラスを聴いた(その6)

黒田先生は、「オペラへの招待」のカルメンの章の冒頭に、こう書かれている。
     *
「恋って、いうことをきかない小鳥のようなもの、飼いならそうとしたって、そんなこと、誰にもできない」
 カルメンは、そのようにうたう。カルメンがその登場の場面でうたう「ハバネラ」の冒頭である。この歌であきらかにされるのは、カルメンの、大袈裟にいえば人生観、あるいは恋愛観である。
「掟なんて、しったことではない。わたしを好きになってくれなくったって、わたしのほうで好きになってやる。わたしに好かれたら、気をつけたほうがいいよ!」
 カルメンは、「ハバネラ」で、こうもうたう。
 では、カルメンとはなにものか?
     *
カルメンとはなにものなのか?
マリア・カラスによる「ハバネラ」は、この問いへの答を見事に表現している。
今回、ULTRA DACでマリア・カラスの「ハバネラ」を聴いて、実感できた。

マリア・カラスの名前は、クラシックに興味を持つ以前から知ってはいた。
名前だけではある。
カラヤンの名前よりも先に知っていた。

マリア・カラスの録音で最初に買ったのは「カルメン」である。
それでも「カルメン」の録音で、マリア・カラスの「カルメン」よりも、
アグネス・バルツァの「カルメン」の方を聴いた回数は多かった。

「オペラへの招待」でも、
黒田先生は「カルメン」の推薦ディスクとしてあげられているのは、
バルツァによるカルメン、カラヤン指揮ベルリンフィルハーモニーによる録音と、
ベルガンサ、アバド指揮ロンドン交響楽団による録音である。

マリア・カラスの録音ではない。
私はロス・アンヘレス、ビーチャム指揮フランス国立管弦楽団による録音も好きなのだが、
バルツァ盤を20代のころ聴いていたのは、録音のよさも関係してのことだ。

そのころの私は、カラスの「カルメン」をそれほどうまく鳴らせていなかった。

そういえばアグネス・バルツァはギリシャ人である。
マリア・カラスはギリシャ系アメリカ人である。
ギリシャの血をひく歌手が、カルメンには向いているのか。

それはともかくとして、今回ULTRA DACで、カラスの「ハバネラ」を堪能できた、とさえ感じている。
これは私だけではなかったようだ。

それでも、まだマリア・カラスをMQAで聴いたわけではない。
e-onkyo musicのサイトでは、マリア・カラスのスタジオ録音がMQAで配信されている

通常のCDとMQA-CDの違いは、すでに知っている。
まだ先がある。

Date: 12月 15th, 2018
Cate: MERIDIAN, ULTRA DAC

メリディアン ULTRA DACで、マリア・カラスを聴いた(その5)

なぜオーディオショウではマリア・カラスがかけられないのか──、
こんなことを書いている私も、ここ十年ほどマリア・カラスを聴いていなかった。

それがここに来て急にマリア・カラスのことが気になってきたのは、
9月のaudio wednesdayで、メリディアンのULTRA DACを聴いたからである。

マリア・カラスのCDを聴いたわけではない。
なのに帰りの電車のなかで、マリア・ラカスを聴きたい、とふと思った。
ULTRA DACで聴いてみたい、と思った。

自分でもULTRA DACの音が、なぜ突然マリア・カラスと結びついたのかはわからない。
とにかくマリア・カラスだ、とおもった。

12月のaudio wednesdayで、マリア・カラスの「カルメン」をかけたのは、
その1)で書いているとおり。
これだけの音で鳴るのならば、
オーディオショウでも頻繁にかけられるようになるのでは──、とおもうほどに鳴った。

「カルメン」ならば、クラシックに関心のない人でも耳にしているだろう。
特にハバネラは聴いたことがない、という人のほうが少ないだろう。

ビゼーの「カルメン」には、「ハバネラ」だけではない。
お馴染みの音楽がかわるがわる登場してくる。
そのお馴染の音楽は、くり返すが、クラシックをさほど聴かない人にとってもそうである。

「カルメン」はオペラの数多い作品のなかでも、とびきりの知名度をもつ。
その意味で、まさにオーディオショウ向きともいえるのに、
不思議なことに、私の知る範囲では「カルメン」も聴いていない。
マリア・カラスの「カルメン」を含めてだ。

Date: 12月 15th, 2018
Cate:

日本の歌、日本語の歌(その5)

別項「音を表現するということ(その4)」で書いたことを、昨晩思い出していた。

audio wednesdayで、ほぼ毎回グラシェラ・スサーナの歌をかける。
グラシェラ・スサーナはアルゼンチン人。
日本語を話せないわけではないが、流暢とはいえない。

グラシェラ・スサーナの歌う日本語の歌も、誰が聴いても外国人による日本語の歌とわかる。
このことは、これまでに何度となくいわれてきた。
「よく、こんな日本語の歌、聴けますね」とか「がまんできますね」とか、
そういったことを、30年以上、何度となくいわれてきているから、
こちらとしては「またか」と思うだけである。

その2)でも書いていることだが、こういうことをいってくる人たちは、
ホセ・カレーラスの「川の流れのように」もダメなようである。

日本語で「川の流れのように」を歌っている。
日本人の歌手が歌うようには日本語として明瞭ではない。

そこのところが気になる人は少なくないどころか、
むしろ多いようにも感じている。

私はグラシェラ・スサーナもホセ・カレーラスも、まったく気にならないどころか、
日本語の歌を歌う歌手として、高く評価している。

昨今では、テレビで外国人による日本語の歌番組をやっているようである。
テレビをもたないからほとんど知らないが、
その番組に出てくる外国人のほうが、グラシェラ・スサーナよりも、
ホセ・カレーラスよりも、日本語の歌における日本語に関しては流暢であり、
まったく外国人ということを意識させない人もいるらしい。

このことを以前いわれたこともある。
暗にグラシェラ・スサーナの日本語の歌は、
その人たちの歌よりもレベルが低い、といいたかったようだ。

けれどホセ・カレーラスにしてもグラシェラ・スサーナにしても歌手である。
アナウンサーではない。

Date: 12月 14th, 2018
Cate: ロマン

オーディオのロマン(魔法の箱)

ひとつ前に、メリディアンのULTRA DACは魔法の箱のようだ、と書いた。
オーディオ機器は、たいてい箱である。
アンプもD/Aコンバーターも箱といえるし、
スピーカーシステムも、最近では四角い箱の方が珍しくなりつつあるけれど、やはり箱といえる。

ULTRA DACは私にとっては魔法の箱のような存在であっても、
私とまるで違う音楽の聴き方をする人には、魔法の箱でもなんでもなく、
単なる箱、木箱くらいの存在でしかないだろう。

別の人には銅の箱、また別の人には銀の箱、金の箱かもしれない。
銅や銀の箱といえるオーディオ機器とは巡りあえよう。
金の箱といえるオーディオ機器との出逢いもまれではあるだろうが、ないわけではない。

けれど魔法の箱といいたくなるオーディオ機器との出逢いは、
単に、そのオーディオ機器が優れているだけでは無理である。

使い手との相性、使い手の実力があってこその魔法の箱のはずだ。

一時(いっとき)でもいい、
魔法と箱と信じられるオーディオ機器と出逢えた人はロマンを信じられる人のはずだ。

Date: 12月 13th, 2018
Cate: MERIDIAN, ULTRA DAC

メリディアン ULTRA DACを聴いた(トランスポートとのこと・その4)

瀬川先生が、ステレオサウンド 52号の特集の巻頭に書かれている。
     *
もうこれ以上透明な音などありえないのではないかと思っているのに、それ以上の音を聴いてみると、いままで信じていた音にまだ上のあることがわかる。それ以上の音を聴いてみてはじめて、いままで聴いていた音の性格がもうひとつよく理解できた気持になる。
     *
アンプの音についてのことだが、同じことは今回トランスポートにも当てはまる、と感じた。
スチューダーD731のトランスポートとしての音はヴィヴィッドだ、と書いた通りだ。

表現を変えるならば、ストレスがないように感じる。
音の出方にストレスを感じないのだ。
だからこそヴィヴィッドに感じるのかもしれない。

それまでのラックスのD38u、パイオニアのPD-D9をトランスポートとして聴いたとき、
ストレスといったものを特に感じることはなかった。

けれどD731とULTRA DACの音を聴くと、
D38u、PD-D9の音には、どこかしらストレス的なものがあったように感じてしまうから、
瀬川先生の書かれていたことを思い出してもいた。

こういう音を聴いていると、EMTの930stの音も思い出してしまう。
EMTのアナログプレーヤーの音が、どこか体に染み込んでしまっているのか。
どこか共通する、ストレス的なものを感じさせないヴィヴィッドな音を聴いてしまうと、
あぁ、これなんだ、と確信に近いものを感じてしまうところが私にはある。

別項「JUSTICE LEAGUE (with ULTRA DAC)」で書いたこと。
JUSTICE LEAGUE(ジャスティス・リーグ)のサウンドトラックの23曲目、
“COME TOGETHER”の抜群のかっこよさは、ストレスフリーといいたくなる音ゆえかもしれない。

こういう音を聴いてしまうと、
ULTRA DACが魔法の箱のようにおもえてしまうし、
思慕の情みたいなものが湧いてくる。

Date: 12月 13th, 2018
Cate: オーディオ評論

「新しいオーディオ評論」(その15)

ステレオサウンドは1966年創刊だから52年である。
創刊号を手にとった人は、若い人ならば60代半ばぐらいからいるだろうし、
70代、もっと上の人もいる。

創刊号を小学生の時から読んでいたという人がいるのどうかはわからないが、
私の知る範囲でも、創刊号ではないけれど、
小学五、六年のときにステレオサウンドの読者になった、とうい人は数人いる。

創刊号からずっと読んでいる人もいれば、途中でやめた人もいる。
私のように途中から、という人がもっとも多いだろうし、
その途中からずっと読みつづけている人、途中でやめた人がいる。

もっとも長い人は50年以上ステレオサウンドを読んでいる。
そこまでではないにしろ、20年、30年くらい読んでいる人はけっこういる。

私もずっと読みつづけていれば40年以上の読者となっている。

雑誌というものは、そのようにずっと読みつづけている読者もいれば、
いま書店に並んでいる209号が、最初のステレオサウンドという読者もいる。

創刊数年程度の雑誌なら、こういう問題はまだ先のことだが、
創刊されて数十年経つ雑誌では、難しい問題である。

最初の読者のレベルに合わせてしまえば、数十年読んできている人は満足しない。
後者を満足させるような記事ばかりでは、初めての読者はおいてけぼりになってしまう。
それだけでなく、それだけの内容の記事をつくることの難しさも生じる。

それでも読みつづける初めての読者ももちろんいるけれど、そう多くはない。
初心者は初心者向けの雑誌を読んでいればいい、というのは、いまでは通用しないし、
昔でも、正しい意見とは思わない。

私は初心者向けの雑誌とステレオサウンドを同時に手にして読んできた。
初めての読者に媚びを売るような記事は必要ない、と思っている。

けれど、いまはステレオサウンドとどのオーディオ雑誌を併読すればいいのか。
そういう問題もある。

雑誌が抱える問題に対し、ステレオサウンドは既に答を出しているように感じる。
それが替えの利く読者の量産である。

Date: 12月 12th, 2018
Cate: オーディオ評論

「新しいオーディオ評論」(その14)

2010年暮に、それまでの編集長だった小野寺弘滋氏がステレオサウンドを退社して、
オーディオ評論家となった。
ステレオサウンド専属ともいえるオーディオ評論家と、いまのところいっていいだろう。

現在の編集長の染谷一氏も、何年後か十年後くらいに同じ道を辿る、と私は確信している。
そして染谷一氏の次の編集長もまた同じだろう。

そうやってステレオサウンド編集長経験者をオーディオ評論家としていく。
編集長経験者なのだから、編集部内では有能ということになる。

①なのか②なのかは、それぞれで判断してほしい。
それでも私は①だとは思っていない。

すでにステレオサウンド編集部も、替えの利く人たちだけでかためた方が、
組織として維持存在できる。
①替えの利かない〝有能〟な編集者よりも、
替えの利く編集者の方が使いやすい。

その替えの利く編集者の中で比較的有能な人が編集長となって、
いずれオーディオ評論家となる。
そのための道筋として恒例のステレオサウンドグランプリがある。

ステレオサウンド 49号から始まった賞(この時はSTATE OF THE ART賞だった)。
その後、名称を二度変更していまに到る。

替えの利く人材と賞をうまく組み合わせたものだ、と感心する。
経営者として、これは正しいとはいわないけれど、
決して間違っていない選択と実行なのだろう。

ステレオサウンドという会社も、創刊当時よりもずっと人も多く、大きくなっている。
私がいたころよりも人は多くなっているはずだ。

替えの利かない〝有能〟な人が現れるのは、
期待してどうにかなることではない。
株式会社ステレオサウンドを存在させていくためには、そんなことを期待するのではなく、
必要なやり方をとっていくしかないのだろう。

けれど、そうして替えの利くオーディオ評論家と編集者ばかりになってしまった。
そればかりではない、と私は見ている。
替えの利くの作り手側だけでなく、受け手側もそうなってしまったのではないか。

替えの利く読者。
これを量産していくことが、組織の維持存続にはもっとも有効なのではないか。

Date: 12月 12th, 2018
Cate: MERIDIAN, ULTRA DAC

メリディアン ULTRA DACを聴いた(トランスポートとのこと・その3)

メリディアンのULTRA DACについて、あれこれ試してみたいことがある。
そう思いながらも、前回もそして今回も聴くと、そんなことをやるよりも、
いろんなディスクを聴く方を優先してしまう。

ずっと、聴いていたい、と思う。
だからチェックしたいことは後回しになる。

前回もやや感じていたことだが、
今回聴いて、そうなのかも、と思っているのは、
ULTRA DACの目覚めの時間がややかかることだ。

ULTRA DACの電源スイッチはリアパネルにある。
ということは基本的に電源を入れっ放しにしておくことが前提なのだろう。

今回ULTRA DACの電源を入れたのは18時ごろだった。
アンプの電源を入れたのは、その少し前。

なので、どちらかがとははっきりいえないところを残しているわけだが、
D731、D38u、PD-D9、もう一度D731とトランスポートを替えていったときの音の変化、
特に二度目のD731との組合せの音は、
48kHzと44.1kHzという違いがあるし、
48kHzの場合は、アップサンプリングの回路を経由しているわけだし、
その違いもあることは考慮しなければならないが、
それでもULTRA DACのウォームアップは、短くはないと感じる。

二度目のD731の時には21時をまわっていた。
これまでのことからアンプのウォームアップはすでに終っている時間だ。
となると、やはりULTRA DACは電源を入れてから本領発揮まで、やや時間を要するのか。

他の機器のウォームアップを終らせてからでないと、
ULTRA DACがほんとうにそうなのか、とははっきりといえない。

それでも、いまのところウォームアップには十分な時間をかけてほしい、と、
これからULTRA DACを試聴する機会がある人にはいっておきたい。

Date: 12月 12th, 2018
Cate: MERIDIAN, ULTRA DAC

メリディアン ULTRA DACを聴いた(トランスポートとのこと・その2)

パイオニアのPD-D9の動作は問題なかった。
安心して、いろんなディスクがかかる。

特に不満もなかったけれど、
スチューダーのD731との組合せの音が耳に残っている。
やはりD731と組み合わせてみたい、とどうしても思ってしまう。

D731のオーナー、Kさんによると、
内部をいじることでデジタル出力を44.1kHzに変更できるはず、ということだった。

D731の内部は、今回初めて見た。
Kさんによると、
メイン基板の横にある小さな基板の電源供給を止めれば変更される──、
ということだった。

その状態ではULTRA DACがロックしない。
メイン基板をよく見ると、44.1kHzという表示がある。
ジャンパーを差し替えることで、48kHzから44.1kHzへの変更が可能になる。

このへんはプロ用機器だな、と感心する。
マニュアルが手元になくても、基板を見ればわかるようになっている。

ジャンパーを入れ替えて、もう一度ULTRA DACと接続すると、今度は44kと表示された。
これでD731とULTRA DACの組合せでMQA-CDが聴けるようになった。

この音は、やはりいい。
KさんにD731をお願いしてよかった、と思える音が鳴ってくる。
それに厳密な比較を行ったわけではないが、
通常のCDを聴く場合でも、デジタル出力は48kHzよりも44.1kHzのほうがよく感じる。

D731のトレイは安っぽい。
国産の、いまどきの高価なCDプレーヤーの造りを見慣れた目には、
ほんとうに安っぽく映る。
もうそれだけでいい音がしそうにないと思う人も少なくないだろう。

それにD731のシャーシーもまた安っぽい。
薄い鉄板だし、ネジの数も少ない。
高剛性の筐体や、アルミの削り出しの筐体ばかりに見ている人には、
もうこれだけでいい音は絶対にしないはず、と決めつけるであろうほどだ。

それでも、不思議と音はいい。
とにかくヴィヴィッドなのだ。

Date: 12月 12th, 2018
Cate: オーディオ評論

「新しいオーディオ評論」(その13)

組織を長く維持存続していくには、②替えの利く〝有能〟が、
一番重要であるということは理解できる。

①替えの利かない〝有能〟は、いつかその組織を離れていく。
独立するかもしれないし、この世からいなくなるのかもしれない。
②よりも①のほうが離職率は高いであろう。

そして、ここでいう組織とは会社だけではなく、その業界も含まれている。
つまり株式会社ステレオサウンドとともに、オーディオ業界も含めての組織である。

菅野先生が10月13日に亡くなられた。
少なくともオーディオのジャーナリズム業界に①の人はいなくなった。
残っている人はすべて②か④替えの利く〝無能〟、
つまりどちらも替えの利く人たちばかりだ。

いまのオーディオ評論家を名乗っている人たちのなかに、
①といえる人がいるとは到底思えない。

こんなことを書くと、いや、○○さんはそうではない、と、
個人名を挙げて反論する人がいるかもしれない。
一人か二人は、○○さんである。

ここで具体的に個人名は出さないけれど、
その人であっても、私には②か④であり、替えの利く人である。

それが悪いとはまではいわない。
ステレオサウンド(というより原田勲氏)が求めたことであり、
それに応えた結果であるのだから、いま、オーディオ業界でメシを喰えているのだから。

つまりオーディオ評論家(商売屋)である。
そしてステレオサウンドは、
さらに替えの利くオーディオ評論家を量産しようとしている、と私には見える。

Date: 12月 11th, 2018
Cate: オーディオ評論

「新しいオーディオ評論」(その12)

三ヵ月ほど前に「左ききのエレン」というマンガについて書いた。
毎週土曜に公開される。
このあいだの土曜日に56話が公開になった。

そこにこんなページがある。
あるデザイン事務所で、先輩が後輩に説教する。
サラリーマンには4種類いる、と。
 ①替えの利かない〝有能〟
 ②替えの利く〝有能〟
 ③替えの利かない〝無能〟
 ④替えの利く〝無能〟

この中で、会社に一番必要な人材はどれか、と後輩に質問する。
答は②の替えの利く〝有能〟である。

「左ききのエレン」はマンガだから、
①〜④には、それぞれイラストが付いている(すべてスターウォーズのキャラクター)。
①はダースベイダー、②と④はストームトルーパー(②は武器を所有している)、
③はC3POである。

つまり②は④の上位互換で、④を②のレベルまで育ててくれる、ともある。
②は量産できるというわけだ。

私が熱心に読んでいたころのステレオサウンドは、
①替えの利かない〝有能〟な書き手たちがいた。

五味先生がまずそうだった。
岩崎先生、瀬川先生、菅野先生、井上先生、
他にも私が先生とつけて呼ぶ人たちがいた。

①替えの利かない〝有能〟な人たちだったから、その喪失感も大きい。
岩崎先生が亡くなり、五味先生、瀬川先生──と続いた。

この時、ステレオサウンドの原田勲氏は何を考えたのか。
替えの利かない〝有能〟な人たちに依存していたら、先はない、ということではないのか。

Date: 12月 11th, 2018
Cate: 書く

毎日書くということ(9000本をこえて感じていることとステレオサウンド 209号)

約一年後、10000本書いたから、このブログは休もうと考えていたけれど、
今日、ステレオサウンド 209号を見て、
10001本目を一年後に書くことになるんだろうなぁ、と思っている。