Archive for 9月, 2018

Date: 9月 24th, 2018
Cate: ディスク/ブック

A CAPELLA(とMojo・その7)

Mojoの意味については、Mojoが発表になったときに調べたことがある。
iPhoneアプリのGoogle翻訳でmojoと入力しても、こちらが求める意味は表示されなかった。

それにMobile Joyの略とも発表されていたから、それ以上調べることもしなかった。

野上さんはアメリカ暮しが長かった人である。
Mojoの音に驚いた私は、Mojoの意味について、野上さんに訊いた。
Mobile Joyの略だということは伝えずに、何か意味あるんですか、と訊いた。

意味はあった。
Google翻訳ではダメだったけれど、Googleで「mojp 意味」を検索してみると、
確かに意味がある。
野上さんが教えてくれた意味も、そこにはあった。

CHORDはイギリスの会社で、mojoの、その意味は、どうもアメリカでのもののようだから、
CHORDの人たちが、その意味を知っていたのかまだはなんともいえないが、
偶然なのかもしれないが、それにしてはできすぎの意味がある。

確かにCHORDのMojoは、その意味のとおりの製品である。
mojoとは、人やモノにもともと備わっている力、という意味である。

CHORDのD/Aコンバーターに備わっている力は、どのモデルも共通している。
Mojoも最上機種のDAVEも、核となる技術は同じである。

Date: 9月 24th, 2018
Cate: ディスク/ブック

A CAPELLA(とMojo・その6)

瀬川先生は「コンポーネントステレオの世界 ’79」では、こうも書かれていた。
     *
 35ミリカメラの一眼レフの流れをみても、最初はサブ機的なイメージでとらえられていたものが、数年のあいだに技術を競い合っていまや主流として、プロ用としても十分に信頼に応えている。オーディオもまた、こうした道を追って、小型が主流になるのだろうか? 必ずしもそうとは言いきれないと思う。
 たしかに、ICやLSIの技術によって、電子回路はおそろしく小型化できる。パーツ自体もこれに歩調を合わせて小型化の方向をとっている。けれど、オーディオをアナログ信号として扱うかぎり、針の先でも描けないようなミクロの回路を通すことは、やはり音質の向上にはならないだろう。プリント基板にエッチングされた回路では電流容量が不足して音質を劣化する、とされ、エッチング層を厚くするくふうをしたり、基板の上に銅線を手でハンダづけする手間をかけて、音質の向上をはかっている現状では、アンプの小型化は、やはり限度があるだろう。オーディオがディジタル信号として扱われる時代がくれば、手のひらに乗るアンプも不可能ではなくなるだろうが……。
     *
MojoはD/Aコンバーターだから、半分はアナログ信号を扱っているけれども、
それでもD/Aコンバーターとしての性能は、
デジタル信号のアナログ信号への変換部分にかかっているといえるし、Mojoというより、
CHORDのD/Aコンバーターの技術的特徴は、まさにこの部分にある。

Mojoがアナログ信号だけを扱うオーディオ機器であったら、
Mojoのサイズと価格で、Mojoに匹敵する音を実現するのは困難(というより無理)といえる。

別項「redundancy in digital」を書いていることと対極にあるデジタル機器が、Mojoともいえる。

Mojoは手軽に扱ってもそれなりの音は聴かせてくれる。
「Mojo、いいけれど、それでもこのサイズ、この価格を少し超えている程度だよね」
そんなふうに捉えている人がいても不思議ではない。

あのサイズ、あの重さだから、どこかにポンと置いて接続して鳴らす。
本来はそういう使い方をしてもいい製品なのだろう。

Mojoとは、Mobile Joyを略した型番である。
だから、9月21日の夜、野上さんのところであれこれやったようなことを、
Mojoは、ユーザーに要求していないのかもしれない。

それでも、あれこれやれば、しっかりは音は変化していく。
そうやって得られる音は、デジタル機器ゆえの進歩を実感させるとともに、
Mojoの、もうひとつの意味についても気づかされる。

Date: 9月 24th, 2018
Cate: ディスク/ブック

A CAPELLA(とMojo・その5)

「緻密なメカは、セクシーだ」ということでは、
われわれの世代、上の世代のオーディオマニアには、
ステラヴォックス、ナグラのオープンリールデッキがまさしくそうである。

どちらもスイス製、しかも高価だった。
熊本のオーディオ店では実物を見ることはなかった。
東京に来てからも、オーディオ店で見た記憶はない。

写真や映画に登場した、これらのメカを見ては、
使う目的はほとんどないにもかかわらず、欲しい、と思っていた。

この時代、小型でも優れた音ということになると、途端に高価になる。
国産の小型コンポーネントは、ナグラやステラヴォックスのような製品ではなかった。
比較的安価な製品だった。

このことは瀬川先生も、
《それが当り前で、パワーアンプに限らず、同じ時代に同じような内容のものを超小型化しようとしたとき、もし音質を少しも犠牲にしたくなければはるかに高価につくし、同程度の価格でおさえるなら音質は多少とも聴き劣りするはずだ。それでなければ大型機の方が間違っている》
と書かれている。

国産の小型コンポーネントのそれぞれの価格は、CHORDのMojoより少し高いくらいに抑えられていた。
当時の小型コンポーネント(その4)で引用した瀬川先生の文章にあるように、
音にこだほるオーディオマニアにとっては身構えせずに聴ける、いわばサブ的なシステムとして、
《音楽を、身構えて聴くことなど思ってもみない人たち》にとってはメインのシステムとして、
素直に受け止められる。

ではMojoはどうかといえば、
《音楽を、身構えて聴くことなど思ってもみない人たち》にとってのメインのシステムの一部となる。
オーディオマニアにとっても、そうなるだけの音を聴かせてくれる。

身構えて聴いても、というより、
シンガーズ・アンリミテッドの“A CAPELLA”では、身構えて聴きたくなる音を再現してくれたからだ。
これは、MojoがD/Aコンバーターという、デジタル機器のひとつだからかもしれない。

Date: 9月 24th, 2018
Cate: ディスク/ブック

A CAPELLA(とMojo・その4)

その1)で、iPhoneのカメラについて触れたのは、
初期のデジタルカメラからの進歩が、そのままCHORDのMojoにあてはまるからである。

40年前、瀬川先生が「コンポーネントステレオの世界 ’79」の巻頭で書かれていることも思い出す。
少し長いが引用しておく。
     *
 パイオニアがA2050(プリメイン)でまず横幅を38センチに縮めて小型化のトップを切ったのは78年の3月だった。この寸法自体は驚くにあたらないが、パイオニアの場合、これと同寸法のチューナーとカセットデッキを同時に発売し、小型スピーカーと、それに前年にすでに発売していた小型レコードプレーヤー(XL1350)を組んで、ミニコンポーネントシリーズとしてまとめたところがユニークだった。このシリーズは周到に計画されたらしく、随所に新しい構造上のくふうがみられ、しかもサイズに無理をしていないせいか音質も立派だと思うが、小型化という点では、なかなか可愛らしいね、という程度の評判にとどまったと思う。
 その意味で、6月にテクニクスとダイヤトーンから相次いで発表された小型アンプ・シリーズが、本格的な超小型化のあらわれで、その後はオーレックス、少し遅れてソニー、ビクター、アイワ……と同類が次々に出現しはじめた。
 これらの超小型アンプのおもしろさは、何よりもまず、実物を目の前に置いたときの意外性にある。こんなに小さくて! と、誰もが目を見張る。カメラなどでも同じことだが、従来一般化していた大きさのものを、そのまま小型化したのでは、どこか玩具的な印象を与えてしまう。その点はさすがに心得たもので、テクニクスもダイヤトーンも、そしてその後を追った各社の製品も(一部を除いては)、材質や仕上げに精巧な感じをそれぞれに表現していて、それがいっそう、ミニチュアとしてのおもしろさ、小型化されているにもかかわらず信頼感を抱かせる大切な要素になっている。
 ただ、前例のない製品であるだけに、細部でのコントロール類の機能や形態の整理に、まだ十分に消化しきれていない部分が各社とも散見されるのは、いまの段階では仕方のないことだろう。
 これまでに発売されたミニアンプを形態別に分類してみると、トップを切ったテクニクス、ダイヤトーン、オーレックス、アイワの四社がセパレートタイプ、あとを追ったビクター、ソニーの二社がインテグレイテッド(プリメイン)タイプというように(パイオニアは超小型とはいいにくいので別にすれば)同類で、このほかにテクニクスがレシーバーを一機種追加している(同社では「レシーバー」という呼び方のイメージのよくないことを嫌って、「チューナー・アンプリファイアー」と命名しているが)。
 ミニアンプとしてどういう形態が最も好ましいか、などということは簡単には結論づけられないが、しかし次のような見かたができる。
 こんにちの時点まで、アンプは大きさや重さの増加することなどいっさいかまわず、いわばなりふりかまわないやりかたで、音質の向上に務めてきた。電源部の強化、アイドリング電流を多くするために放熱板の面積を増加する……。すべて大型化の方向であった。
 パルス電源などの新しい技術の助けを借りたにせよ、例えばテクニクスのSE-C01(パワーアンプ)があの大きさ(W29・7×H4・9×D25cm)で42W×2の出力を得ていることは驚異だが、同じ40Wといっても、たとえばGASの〝グランドサン〟の鳴らすあの悠揚たる、まるで100W級ではないかとおもえるような音にくらべると、やはりどこか精一杯の感じがすることは否めない。ダイヤトーンやオーレックスの場合は、パワーアンプを(コントロールアンプの寸法に合わせないで)ひと廻り大型に作っているが、それでもやはり、同じパワーの大型機にくらべて同格の音がするという具合にはゆかない。
 それが当り前で、パワーアンプに限らず、同じ時代に同じような内容のものを超小型化しようとしたとき、もし音質を少しも犠牲にしたくなければはるかに高価につくし、同程度の価格でおさえるなら音質は多少とも聴き劣りするはずだ。それでなければ大型機の方が間違っている。
 改めて言うほどの問題ではなく当り前だと言われるかもしれない。が、私の言いたいのはこれから先だ。
 ミニアンプを実際に見た人は、誰でも、その可愛らしさに驚く。そのサイズから、これなら机の上に、書棚や食器棚の片隅に、また寝室のベッドのわきに……さりげなく置くことができそうだ、と感じる。またそれほどではない一般の人たちも、その点では変らない。
 言いかえればそれは、ことさらに身構えずに音楽が楽しめそうだ、という感じである。ミニアンプ(を含む超小型システム)は、誰の目にも、おそらくそう映る。実際に鳴ってくる音は、そうした予感よりもはるかに立派ではあるけれど、しかしすでに大型の音質本位のアンプを聴いているマニアには、視覚的なイメージを別として音だけ聴いてもやはり、これは構えて聴く音ではないことがわかる。そして、どんな凝り性のオーディオ(またはレコード)の愛好家でも、身構えないで何となく身をまかせる音楽や、そういう鳴り方あるいはそういうたたずまいをみせる装置を、心の片隅では求めている。ミニアンプは、オーディオやレコードに入れあげた人間の、そういう部分に訴えかけてくる魅力を持っている。
 では、いわゆるマニアでない人たちにはどうか。音楽を、身構えて聴くことなど思ってもみない人たち。生活の中で、どこからともなく美しい楽しい音楽がいつも流れていることを望んでいる、そんな聴き方の好きな人たちなら、ミニアンプは、マニアがときたま身を休めるためのいわゆるセカンドシステムやサブ装置(システム)でなく、そのままメインの再生装置として素直に受けとめられるはずだ。
 オーディオやレコードのマニアにとってはどこまでもサブ機であり、一般の人たちにとってはそのままメインの装置になる。
 これは一見矛盾しているようだがそうではなく、このことがミニアンプのありかたに大きな示唆を与える。
 マニアにとってのサブ機なら、あえて大仰にセパレートタイプなどと身構えなくても、インテグレーテッド型、あるいはいっそうまとめた形のレシーバータイプであるほうが、むしろ好ましい。テクニクスのSA-C02を目の前に置かれて、これ一台でチューナーからパワーアンプまで全部収まっている、と思うと、まるで、いままで背負っていた重いリュックサックを肩から下ろした瞬間のような、素敵に身軽な安堵感をおぼえる。これでいいじゃないか。十分じゃないか。何を好んで、いままでのあの図体の大きな、三つも四つも分割された場所ふさぎのアンプに何の疑いも抱かなかったのだろう……。
 マニアでない一般の愛好家にとってはどうなのだろうか。もしも、日常の暮しの中でさりげなく音楽を流しておきたい、という程度にオーディオセットを考える人なら、そして、正常な生活感覚を持っている人なら、やはり、チューナー、プリ、パワーと三つに分かれた大仰さよりも、せいぜいチューナーとプリメインの二つ、もし性能が同じなら一体型レシーバーの方を、とるはずだ。
 ──こう、考えてくると、ミニアンプをプリメイン+チューナー,さらにセパレートタイプに、あえて作る必然的な理由というものが、次第に薄れてくることがわかる。
 とは言っても、私は、こうあるべきというヤツが大嫌いだ。ミニアンプのいわば主流がこんな方向を目ざすのが本すじであることを言いたかっただけで、しかしそこに、セパレートあり、プリメインあり、また結構で、それぞれに個性を競い合わなくては、ものは面白くならない。いまはまだ製品としての例はないが、たとえばナカミチ630のような、チューナー+プリアンプという形が、ミニの中に生まれてもよさそうに思う。こちらを手もとに置いて、パワーアンプはスピーカーの近くに持っていってしまう。このほうが理想的でもあるはずだ。
 ミニアンプに触れたのだから、そのいわば元祖に敬意を表しておかなくてはならないだろう。いうまでもなくイギリスQUADだ。むろんQUADはミニアンプを作ろうとしていたわけではない。けれど、こんにちの新しい国産ミニアンプをみて驚いた目で、もういちどQUADのアンプ群やチューナーを眺めてみれば、それがもう十数年以前から(管球時代からの流れでみれば二十年以上に亘って)、このサイズを維持してきたことに驚かずにはいられない。
     *
1978年に、国産メーカーから小型化をはかったコンポーネントが登場した。
テクニクス、ダイヤトーン、オーレックス、アイワ、ビクター、ソニーらのなかで、
いまもオーディオマニアの記憶に残っているのは、テクニクスのコンサイスコンポのはすだ。

私もそうだ。
ダイヤトーン、オーレックスのミニコンポーネントも記憶に残っているが、
この時代の小型コンポーネントということですぐに思い出すのは、コンサイスコンポである。

オーレックスの場合、広告は、製品以上に記憶に残っている。
この広告のキャッチコピーは「緻密なメカは、セクシーだ。」であった。

確かに小型で緻密なメカは、セクシーといえる。

Date: 9月 23rd, 2018
Cate: ディスク/ブック

A CAPELLA(とMojo・その3)

CDの登場は1982年10月。
翌年にはヤマハから10万円を切るCD-X1が出た。

第一世代のCDプレーヤーは、各社どれも15万円ほどか、それ以上していた。
ソニーのCDP101が168,000円だった。

そこにヤマハが99,800円でCD-X1を出してきた。
ヤマハの最初のCDプレーヤーCD1は250,000円していた。

CD-X1は10万円を切った、ということで話題になった。
ヤマハは、CDプレーヤー関連においては、価格的に挑戦していたところがある。
セパレート型が登場後、D/AコンバーターDX-U1を69,800円で出してきていた。

CDプレーヤーの価格に関しては、第一世代とそれ以降の製品を同列には比較し難い。
明らかに国産メーカーの第一世代のCDプレーヤーは、戦略的に価格を抑えていた。

CDP101の168,000円を、いまの若い世代の人たちがどう思うのかはなんともいえないが、
中を見れば、同価格の他のオーディオ機器(アンプ)と比較しても、
儲けが出るのだろうか、と思った。

事実、信頼できるところから聞いているが、
ヤマハのCD1は本来ならば40万円くらいの価格になる中身である。
CD1のことだけ具体的に書いているが、これは他のメーカーも同じだったはずだ。

とにかくCDとCDプレーヤーを普及させたい、というメーカーの意図(思惑)が、
第一世代のCDプレーヤーの価格である。

いま考えると、第一世代のCDプレーヤーは、製品ではあったけれど商品と呼べたのか、と思う。
儲けは出なかった、けれど、ここで普及への突破口となれば、
第二世代、第三世代……で利益をあげることができる、その意味では商品といえるのかもしれないが、
製品と商品について考えるうえで、第一世代のCDプレーヤーは興味深い。

ヤマハのCD-X1を見て触ったとき、
はっきりと第一世代には感じられなかったコストということが、そこにはあった。
CD-X1は利益の出る製品だった。つまり商品といえる最初のCDプレーヤーだったのかもしれない。

CD-X1もDX-U1も、そのころはステレオサウンドにいたから、じっくりと聴いている。
そこでは、音を聴いての驚き、
つまり今回のMojoを聴いての驚きはなかった。

だから、Mojoの音には、その音を聴いたときに驚き、
こうやって書きながら、もう一度驚いているわけだ。

Date: 9月 22nd, 2018
Cate: ディスク/ブック
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A CAPELLA(とMojo・その2)

数日前に、写真家の野上眞宏さんから「Mojoで遊びましょう」という誘いがあった。
それで昨晩は、野上さんのところに行っていた。

MojoはWindowsパソコンとUSBで接続されていた。
ヘッドフォン端子からの出力をRCAに変換するアダプターがつけられていた。

記憶にある(といっても三ヵ月半ほど前のこと)以前のD/Aコンバーターの音とは、
あきらかに違うけれど、良さもあればそうでないと感じるところもあった。

途中で以前のD/Aコンバーターも試しに鳴らしてみる。
もう一度Mojoに戻して、少しセッティングを変える。
ちょっと面白い置き方も試した。

その音は良くても、実用性には欠ける。
そんなことをやっていると、音も変っていく。
といっても、何か特別なアクセサリーを使ったわけではない。
細かなことは書かないが、なんだぁ〜、と思われるようなことをいくつかやっただけ。

いくつかのアルバムを聴いてカンターテ・ドミノ(DSD)を聴くころには、
いい感じで鳴るようになってきた。
その次に、シンガーズ・アンリミテッドの“A CAPELLA”。

これが驚くほどの音だった。
Mojoの筐体についている三つのインジケーターの一つは、
色で入力されているデジタル信号の状態を示す。

“A CAPELLA”では44.1kHzを示す色になっている。
CDをリッピングしたものだから、とうぜん44.1kHzである。

なのに聴いている印象は、ハイレゾ音源? とMojoのインジケーターを確かめるほどに、
うまいぐあいに鳴っている。

CHORDのD/Aコンバーターは、Mojoの上にQUTESTはがあり、
その上にはHUGO 2、HUGO TT、DAVEがある。

MojoよりQUTEST、QUTESTよりHUGO 2……、
そんなふうに音そのものは良くなっていくはずだ。

MojoとDAVEを直接比較すれば、きっと大きな差に驚くとは思う。
でも、それは当り前のことであり、そうでなければ困る。

MojoとDAVEを直接比較しての驚きと、
Mojoを聴いての、特に昨晩の“A CAPELLA”の音での驚きは、
同列には比較できない性質の違いがある。

Mojoでの“A CAPELLA”の音には、野上さんも驚かれていた。
目の前にあるのは掌サイズのD/Aコンバーターであり、
価格も50,000円前後である。

ソニーが最初に出したポータブルCDプレーヤーのD50も、同じような価格だった。
1984年に発売されている。
D50の音はイヤフォンでも、スピーカーでも聴いている。

その後も、いくつかのポータブルCDプレーヤーは聴いている。
イヤフォンで主に聴いたし、中にはスピーカーで聴いたモノもある。

単体のCDプレーヤーとD/AコンバーターとしてのMojoを比較するのは、少し無理があろう。
それでもどちらも掌サイズで、
価格も近い(といっても年代的な差を考慮すればMojoの価格もスゴい)。

Date: 9月 22nd, 2018
Cate: ディスク/ブック

A CAPELLA(とMojo・その1)

昨日(9月21日)は、新しいiPhoneの発売日だった。
最初のiPhoneから11年。

ハードウェアの進歩は、デジタルとはそういうものだ、と頭ではわかっていても、
やはりスゴいと思うほどである。

処理速度も速くなっているけれど、それ以上に搭載されているカメラの進歩は、
直接ヴィジュアルであるだけに、その進歩ぶりはよりはっきりと実感できる。

私がデジタルカメラに初めて触れたのは、カシオのQV10だった。
1994年発表、1995年3月発売。
知人が買ったのを触らせてもらった。

私がデジタルカメラを買ったのは、キヤノンのPoweShot A40で、2002年だった。
いまは単体のデジタルカメラは持っていない。
iPhoneのカメラを使っているだけだ。

直接、QV10、PoweShot A40の画質と比較したわけではないが、
ここまでコンパクトになって,ここまで簡単に、ここまでキレイに撮れるようになったのは、
競争の激しい世界だからこその進歩なのとはわかっていても、驚異的に近い。

それに較べるとオーディオは……、とつい言いがちになってしまうけれど、
昨晩、聴いたCHORDのMojoには驚いた。

MojoはD/Aコンバーター搭載のヘッドフォンアンプとなるのか。
出力はヘッドフォン端子のみである。

掌にのるサイズ、重量も180gしかない。
価格も安い。
それでもPCMは768kHz/32ビット、DSDは11.2MHzまで対応している。

これまでヘッドフォンアンプとして聴いたことがある。
けれど、スピーカーを通してMojoは聴いたことはなかった。

Date: 9月 21st, 2018
Cate: ディスク/ブック

FAIRYTALES(その3)

MQA-CDは、CDと互換があるからこそD/Aコンバーターが対応していれば、
ピックアップ部分、トランスポートは従来のCDのそれでいいわけだ。

ということはハイブリッドSACDのCDレイヤーをMQA-CDとすることも可能なはずだ。
何の問題もない。

そういうハイブリッドSACDが出ているのかどうか、知らなかった。
今回メリディアンのULTRA DACを聴いてからというもの、
MQAについての勉強をしているところである。
不勉強であった。それゆえにどんなディスクがあるのかをほとんど知らない。

いましがた帰宅した。
郵便受けに届いていた。
先日、注文したラドカ・トネフのFAIRYTALESである。

封を切ってみると、MQA-CDのマークとともにSACDのマークも入っている。
Hybrid SACDとも表記してある。

やっぱりあるんだ、と思ったし、
技術的にはなんら問題はないことの確認でもある。

項を改めて書く予定でいるが、世の中にはMQAを誤解している人が少なからずいる。
今回MQAで検索してみて、初めて知った。

MQAは非可逆圧縮だからダメ、と書いている人もいたし、
ハイレゾではない、とまで書いている人もいた。

MQAに非可逆圧縮の領域があるのは確かである。
けれど、あくまでも、その領域があるということであって、
全領域が非可逆圧縮なわけではない。

他にも書いておきたいことはいくつもあるが、
ここで書くことではないので、このへんにしておくが、
MQAがどういう技術か、そのことを知る前に、
まずULTRA DACでMQA-CDの音を聴いてほしい、とおもう。

MQAについて勉強するのは、その方がずっといい。

ULTRA DACの音を聴いて、それでもMQAに対して否定的であるのならば、それはそれだ。
少なくとも、私は、そういう人と音楽、音、オーディオについて語ろうとは思わないし、
そんな人と酒をのみながら、あれこれ話すことは絶対にないだろうから、
つまり完全に無関係な人だから、好きにやってくれ、というしかない。

FAIRYTALESが、MQA-CDとSACDのハイブリッド盤であるということは、
自信のあらわれであろう。

Date: 9月 20th, 2018
Cate: ちいさな結論

ちいさな結論(「音は人なり」とは)

毒をもって毒を制す。

オーディオ機器ひとつひとつに、それぞれの毒がある。
聴き手にも、その人なりの毒がある。

それ以外の毒もある。
いくつもの毒がある。

それらから目を背けるのもいい。
けれど、毒をもって毒を制す、
そうやって得られる美こそが、音は人なり、である。

Date: 9月 20th, 2018
Cate: ディスク/ブック

FAIRYTALES(その2)

ラドカ・トネフのFAIRYTALESを聴いた時から思っていたのは、
山中先生はどうやって、このCDに出逢われたのだろうか、だった。

黒田先生は、ステレオサウンド 56号に「異相の木」を書かれていた。
ヴァンゲリスの音楽について書かれた文章だった。

「異相の木」の書き出しはこうだった。
     *
 庭がある。ほどほどの広さの庭である。庭ともなれば、木の一本や二本うわっていても、おかしくはない。なるほど、それらしい木が、それらしくうわっている。春には、花も咲いたのかもしれないが、いまはみあたらない。
 庭には、おのずと、主がいる。それらしい木をそれらしくうえた人間である。木は、松であったり、杉であったり、檜であったり、桐であったりする。つまり、木であれば、なんでもかまわない。いずれにしろ木である。その木が、そしてその木のうえられ方、ひいてはそだち方が庭の主を語る。
 ひどく手入れのいい、そのために人工的な気配さえただよう庭が、一方にある。むろんそういう庭には、雑草などはえているはずもない。「見事な庭ですね」と、そこをおとずれた人は、きまっていう。そういわれるのが、その庭の主は好きである。庭の主は、そういわれたいばかりに、しばしば、そこに人をまねく。まねかれる人は、庭の見事さを理解する、いわゆる通にかぎられる。「この木はなんですか、松ですか杉ですか」などととんちんかんなことを口走る人間は、その庭の主の客とはなりえない。
     *
「異相の木」での庭とは、レコードコレクションを指している。
その上での、ヴァンゲリスの音楽が、黒田先生の「庭」にとっては異相の木である。

ラドカ・トネフのFAIRYTALESは、
どこか山中先生にとっての異相の木のようにも感じていた。

そのことについて訊くことはしなかった。
ハイレス・ミュージックのサイト内のMQA-C Dソフト情報のところには、
ボブ・スチュアートの名前がある。

山中先生は、ボブ・スチュアートからFAIRYTALESをすすめられたのだろう。
ハイレス・ミュージックの鈴木秀一郎さんは、
ボブ・スチュアートに頼まれて、
ステレオサウンドから出ている山中先生の著作集をイギリスに送られた、とのこと。

きっと深い交流があったのだろう。
こういうことをきくと、山中先生が試聴室で鳴らされたメリディアンの音のことを思い出す。
ラドカ・トネフのFAIRYTALESによって、いくつかのことがつながっていくようだ。

山中先生にとってFAIRYTALESが異相の木だったのかどうかは、わからない。
私が勝手にそうおもっているだけである。

私にとっては、どうだったのか。
遠ざけてきたわけだから、異相の木なのかもしれないし、そうでないのかもしれない。

Date: 9月 19th, 2018
Cate: ディスク/ブック

ADORO, LA REINE DE SABA

ADORO, LA REINE DE SABA、
こう表記すると、どのディスクのこと? と思われるだろうが、
日本語表記では「アドロ・サバの女王」である。

今日(9月19日)は、ユニバーサルミュージックのハイレゾCD名盤シリーズ
邦楽シリーズの発売日である。
MQA-CDでの発売である。

すでに何度か書いているように、今日発売の30タイトルの中に、
グラシェラ・スサーナの「アドロ・サバの女王」がある。
MQA-CDだから、いまのところ聴く環境を持っていないが、
ディスクだけは買ってきた。

ハイレゾCD名盤シリーズは、邦楽だけでなく、洋楽、ジャズ、クラシックも既に発売されているが、
生産限定盤であるから、無くなってしまったら買えなくなる。

メリディアンのULTRA DACでのMQAの音を聴いて二週間。
あの音は、いまも、そしてこれからも耳に残っていることだろう。

いま買っておかないと、いずれ後悔する。
それに一枚でも多く売れれば、次回があるかもしれない。
グラシェラ・スサーナの他のアルバムも、MQA-CDとして登場してくる可能性が芽生えるかもしれない。
そうなってほしいと、思っている。

Date: 9月 19th, 2018
Cate: ディスク/ブック

FAIRYTALES(その1)

Radka Toneffの名前を久しぶりに目にした。
ラドカ・トネフ、ノルウェーの女性歌手だった。

ラドカ・トネフのFAIRYTALESを聴いたのは、もう30年ほど前のこと。
ステレオサウンドの試聴室で、山中先生がもってこられたCDの一枚が、FAIRYTALESだった。

何の試聴だったのかを、なぜか憶えていない。
どのオーディオ機器で聴いたのかも、不思議と憶えていない。
そのくらい、ラドカ・トネフの歌の衝撃が大きすぎた。

山中先生は、「これ」といってディスクを渡された。
ジャケットのイラストを見ても、どんな音楽が鳴ってくるのかはわからなかった。

ディスクをCDプレーヤーにセットして再生する。
私だけでなく、その時、試聴室に他の編集者も衝撃を受けたようだった。

山中先生は、我らの表情を見て、そうだろ、というような顔をされていた。
ラドカ・トネフのFAIRYTALESは、私も買ったし、他の編集者も買った。

FAIRYTALESには、いいようのない雰囲気があった。
たじろぐようなところもあった。

それゆえ、愛聴盤とはいえないところもある。

ラドカ・トネフについて詳しいことは知らない。
FAIRYTALESの録音後に自殺していることだけは、聴き終ったときに山中先生から聞いている。

歌い手の自殺(自殺でなくても、事故死、病死であっても)と、
その歌とを、結びつけようとは思わない。
世の中には、自分だけの物語をつくって、深く(勝手に)結びつける人もいるけれど、
私は、そういうことには興味がない。

そんな私でも、FAIRYTALESは何かが違う、と感じた。
物語をつくったりはしないが、遠ざけてきた一枚である。

そのFAIRYTALESが、MQA-CDになっている。
メリディアンの輸入元ハイレス・ミュージックのサイトを見ていて、見つけた。
MQA-C Dソフト情報のページの中ほどに、ラドカ・トネフのFAIRYTALESのことが載っている。

手に入れなければ! と昨晩思っていた。

FAIRYTALESは、限定盤である。
枚数もごくわずかである。
注文方法も、ハイレス・ミュージックのサイトに書いてある。

Date: 9月 18th, 2018
Cate: オーディオマニア

オーディオマニアと取り扱い説明書(その6)

その2)で、MA7900のUSB端子によるデジタル入力を使うには、
入力セレクターをまわしていけばいいというものではないことを書いた。
バランス入力に関しても同じある。

入力セレクターどれだけまわしても、バランス入力になるわけではない。
ここでまた取り扱い説明書が必要になる。

しかもMA7900の取り扱い説明書は印刷物を綴じているわけではない。
一枚一枚バラバラの状態である。
こうなると、さらに面倒に感じてしまう。

それでもわかりやすい取り扱い説明書ならば、ここにこんなことを書きはしない。
いまではオーディオ機器がどんどん高価になっていっている。
そんな状況では、マッキントッシュのMA7900は、さほど高価とはいえなくなっているのかもしれない。
それでも現実には、数十万円の出費を要する。

そういうオーディオ機器の取り扱い説明書が、これなのか、と少々がっかりもする。
MA7900は、その機能の割にフロントパネルのツマミが少ないのは、
その3)でも書いているように、整理と省略を意図して、のはずだ。

私はMA7900に触れるのはaudio wednesdayで、月一回だけである。
そのくらいの頻度だから、バランス入力に切替えるにしても、
取り扱い説明書が必要になるし、その取り扱い説明書のどこに書いてあるのかをまず探す。
それから取り扱い説明書を見ながら、いじるわけだ。

一回やれば、難しいことではない、のはわかる。
ければ、月一回しか触らない私には、
次に同じようなことをやろうとしたときには、また忘れたりする可能性もある。

さすがに、今回のことで、入力セレクターに関しては、忘れないだろうが、
こんな感じで触っていると、ちょっといらいらする。
いらいらしながら、これはマッキントッシュの製品なのだろうか、と悪態をつきたくなる。

以前のマッキントッシュならば、こんなことを思いはしなかったはずだ。
そういえば、そのころのマッキントッシュの取り扱い説明書は、どんなふうだったのだろうか。
いまごろになって気になっている。

Date: 9月 18th, 2018
Cate: 新製品

新製品(QUADのヘッドフォン)

コンデンサー型スピーカーといえば、
イギリスのQUAD、日本のスタックスという時代があった。

そういう時代にオーディオに関心をもった私にとって、
スタックスはコンデンサー型ヘッドフォンに積極的であるのに、
QUADは……、と思ったことがあった。

QUADの創業は1935年、スタックスは1938年。
スタックスはSTAXで、アルファベット四文字、QUADもそうだ。

イギリスと日本、
どちらも島国である。

創業した年が近く、いくつかの共通点があり、どちらもコンデンサー型スピーカーを作ってきた。
けれどQUADには、これまでヘッドフォンはなかった。

QUADの創業者のピーター・ウォーカーの方針だったのだろう。
それでもオーディオマニアとして、QUADのESLを鳴らしてきた者として、
それに修理が必要とはいえESL63 Proをいまも所有している私としては、
出てこないだろう、とわかっていても、どこかでQUADのヘッドフォンの登場、
もちろんコンデンサー型ヘッドフォンの登場を待ち望んでいた。

いまのQUADにピーター・ウォーカーは当然いない。
息子のロス・ウォーカーもいない(はずだ)。

いまのQUADは、昔のQUADではない──、
そんな言い方は確かにできる。
それでもQUADはQUADだ、ということを、
今回のQUAD初のヘッドフォンERA1の記事を読んで、そう感じた。

心が騒ぐからだ。

ここまで書いて、もう一度当該記事を読み返した。
コンデンサー型ではない。
コンデンサー型の技術を活かしたダイナミック型である。

わずか15分くらいのワクワクだった。
それでも、このワクワクは楽しかった。
「QUADがコンデンサー型ヘッドフォンを開発」は、いつか実現するのかもしれない。

その時は、ほんとうのワクワクがあるのだろうか。

Date: 9月 17th, 2018
Cate: MERIDIAN, ULTRA DAC

メリディアン ULTRA DACを聴いた(その24)

そういう違いのある、MCD350の音とULTRA DACの音で「Moanin’」を聴いている。
MCD350によるSACDの音を基準とすれば、
ULTRA DACによるMQAディスクの音は、やや暗いと受けとられるし、
後者の音を基準とすれば、MCD350での音は明るすぎる、ともなる。

どちらの鳴り方が「Moanin’」なのか。
「Moanin’」はmoanから来ている、とある。

moanには、 (苦痛·悲しみの)うめき(声) 、
〈不幸などを〉嘆く、悲しむ、〈死者を〉いたみ悲しむの意味がある。

そんなmoanの意味を知れば、ULTRA DACでの「Moanin’」なのかとも思う。
クラシックを主に聴いてきた私は、
「Moanin’」の鳴り方はこうでなくては、というのがまだ形成されていない。

「Moanin’」の意味を考えずに、能天気に聴いているのであれば、
MCD350の音も気に入っている。
それでも、一度「Moanin’」の意味を知ろうと思ったのであれば、
聴き方も自ずと変ってくるというものだ。

ULTRA DACでの「Moanin’」も、やはり静かだ。
静かであっても、いわゆる鉛などを使った鈍重な静けさの音が、
角を矯めて牛を殺す的に陥りがちであるのとは違う。

躍動している。
バド・パウエルの「Cleopatra’s Dream」も聴いた。
このディスクは、こうあってほしい、というイメージが私にもある。

もう少しセッティングを詰めていったら──、と感じもしていたが、
それでもベクトルは一致している。
ならば「Moanin’」も、ULTRA DACでの音こそ、となるのか。

「Moanin’」のDSDファイルをULTRA DACで鳴らした音も、
だから無性に聴きたい。