FAIRYTALES(その2)
ラドカ・トネフのFAIRYTALESを聴いた時から思っていたのは、
山中先生はどうやって、このCDに出逢われたのだろうか、だった。
黒田先生は、ステレオサウンド 56号に「異相の木」を書かれていた。
ヴァンゲリスの音楽について書かれた文章だった。
「異相の木」の書き出しはこうだった。
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庭がある。ほどほどの広さの庭である。庭ともなれば、木の一本や二本うわっていても、おかしくはない。なるほど、それらしい木が、それらしくうわっている。春には、花も咲いたのかもしれないが、いまはみあたらない。
庭には、おのずと、主がいる。それらしい木をそれらしくうえた人間である。木は、松であったり、杉であったり、檜であったり、桐であったりする。つまり、木であれば、なんでもかまわない。いずれにしろ木である。その木が、そしてその木のうえられ方、ひいてはそだち方が庭の主を語る。
ひどく手入れのいい、そのために人工的な気配さえただよう庭が、一方にある。むろんそういう庭には、雑草などはえているはずもない。「見事な庭ですね」と、そこをおとずれた人は、きまっていう。そういわれるのが、その庭の主は好きである。庭の主は、そういわれたいばかりに、しばしば、そこに人をまねく。まねかれる人は、庭の見事さを理解する、いわゆる通にかぎられる。「この木はなんですか、松ですか杉ですか」などととんちんかんなことを口走る人間は、その庭の主の客とはなりえない。
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「異相の木」での庭とは、レコードコレクションを指している。
その上での、ヴァンゲリスの音楽が、黒田先生の「庭」にとっては異相の木である。
ラドカ・トネフのFAIRYTALESは、
どこか山中先生にとっての異相の木のようにも感じていた。
そのことについて訊くことはしなかった。
ハイレス・ミュージックのサイト内のMQA-C Dソフト情報のところには、
ボブ・スチュアートの名前がある。
山中先生は、ボブ・スチュアートからFAIRYTALESをすすめられたのだろう。
ハイレス・ミュージックの鈴木秀一郎さんは、
ボブ・スチュアートに頼まれて、
ステレオサウンドから出ている山中先生の著作集をイギリスに送られた、とのこと。
きっと深い交流があったのだろう。
こういうことをきくと、山中先生が試聴室で鳴らされたメリディアンの音のことを思い出す。
ラドカ・トネフのFAIRYTALESによって、いくつかのことがつながっていくようだ。
山中先生にとってFAIRYTALESが異相の木だったのかどうかは、わからない。
私が勝手にそうおもっているだけである。
私にとっては、どうだったのか。
遠ざけてきたわけだから、異相の木なのかもしれないし、そうでないのかもしれない。