Archive for 5月, 2017

Date: 5月 13th, 2017
Cate: ショウ雑感

2017年ショウ雑感(その4)

告知用のヴィジュアルに、イヤフォンをした女性が使われているのだから、
OTOTENが、ヘッドフォン、イヤフォンに力をいれるのは想像できていた。
ただ……、と思ったのは、オーディオテクニカのブース。

ちょうど二週間前にヘッドフォン祭が行われたばかりである。
オーディオテクニカも、ヘッドフォン祭に出展していた。

それなのにOTOTENでもヘッドフォン、イヤフォンの展示・試聴なのである。
オーディオテクニカの売上げにおいて、ヘッドフォン、イヤフォンが占める割合は高いのだろう。
そこに注力するのは当然なことだが、
それでも二週間前にやったことを、しかも同じ東京で行われる催し物でまたやるのは、
オーディオマニアとしてはがっかりである。

オーディオテクニカには、ヘッドフォンとイヤフォンしかないわけではない。
カートリッジがあるのだから、
それにオーディオテクニカはインターナショナルオーディオショウには出展していないのだから、
OTOTENでは、カートリッジを中心とした展示・試聴を行ってほしかった。

オーディオテクニカに、勝手な期待をもっていただけにがっかりしたのと反対に、
まったく期待していなかったのに楽しめたのが、ダイヤトーンだった。

今年の9月に発売予定の小型2ウェイスピーカーが置かれてあった。
昼は満員で、ブースに入るのをやめてしまった。
他のブースをまわっていたら、18時近かった。
空腹だったし、そろそろ帰宅するか、その前にトイレに向っていたら、
ダイヤトーンのブースの前を通った。人はそれほどいない。
あと10分ほどで最後のデモが始る、という。

Date: 5月 13th, 2017
Cate: ショウ雑感

2017年ショウ雑感(その3)

会場が国際フォーラムになって初めてのOTOTENなのに、
東京はあいにくの雨。

一昨年と同じ会場だったならば、
雨が降っているという理由だけで、私は行かないが、
国際フォーラムは雨が降っていようと、行く気になる。

決して小雨ではない天気がどれだけ影響しているのかわからないが、
来場者がものすごく多いとは感じなかった。

会場に着きエレベーターに乗る。
年輩の夫婦が、「ここにくるのはじいさんとおばあさんばかりだよ」と話していた。
もちろんそんなことはなかったけれど、
若い人がインターナショナルオーディオショウと同じくらいいたかというと、
少なかったようにも感じた。

意外に感じたのは、会場のスタッフ、警備員に、
ガラス棟からホール棟に行くには?(その反対も)と尋ねている人を三人みかけた。
私が三人みかけたのだから、もっと多くの人が尋ねていたのかもしれない。

三人とも年輩の方だった。
キャリアの長いオーディオマニアであろう。
だとしたら、この人たちはインターナショナルオーディオショウには来たことがないわけである。
インターナショナルオーディオショウに来ている人ならば、四階に連絡通路があるのはわかっている。

OTOTENに来る人の中には、
インターナショナルオーディオショウには来ない人がいる──、という事実に少し驚いた。

オーディオマニアならば、どちらにも……、と思ってしまうのは、私の思い込みなのか。

Date: 5月 12th, 2017
Cate:

日本の歌、日本語の歌(アルテックで聴く・その4)

瀬川先生は、ステレオサウンド 56号で続けて、こうも書かれている。
     *
 もうひとつ別の見方がある。国産の中級スピーカーの多くは、概して、日本の歌ものによく合うという説である。私自身はその点に全面的に賛意は表し難いが、その説というのがおもしろい。
 いわゆる量販店(大型家庭電器店、大量販売店)の店頭に積み上げたスピーカーを聴きにくる人達の半数以上は、歌謡曲、艶歌、またはニューミュージックの、つまり日本の歌の愛好家が多いという。そして、スピーカーを聴きくらべるとき、その人たちが頭に浮かべるイメージは、日頃コンサートやテレビやラジオで聴き馴れた、ごひいきの歌い手の声である。そこで、店頭で鳴らされたとき、できるかぎり、テレビのスピーカーを通じて耳にしみこんだタレント歌手たちの声のイメージに近い音づくりをしたスピーカーが、よく売れる、というのである。スピーカーを作る側のある大手メーカーの責任者から直接聞いた話だから、作り話などではない。もしそうだとしたら、日本の歌を楽しむには、結局、国産のそのようなタイプのスピーカーが一番だ、ということになるのかどうか。
 少なくとも右の話によれば、国産で、量販店むけに企画されるスピーカーは、クラシックはもちろん、ジャズやロックやその他の、西欧の音楽全般に対しては、ピントを合わせていない理くつになるわけだから、その主の音楽には避けるべきスピーカーということにもなりそうだ。
     *
瀬川先生は全面的に賛意はしないとされている。
私も同じだ。

ただし、これは国産の中級スピーカーに関してのことである。
きちんとはつくりこまれた国産スピーカーの場合は、どうなのか。

2015年のインターナショナルオーディオショウで、ヤマハのNS5000の試作機が鳴らされていた。
二年前の「ショウ雑感」にも、そのことは書いた。
NS5000に、私は期待していた。

2016年に完成品として登場したNS5000に、私は失望した。
悪いスピーカーに仕上がったわけではない。
優秀なスピーカーに仕上がった、といえよう。

NS5000への関心はなくなってしまったし、
2015年の時点で気づいてたけれど、書かなかったことがある。

別項でも、気になる点があると書いた。
二枚のディスクに共通して感じられた気になる点である。

それは、ここでテーマとしている日本語の歌だけがうまく鳴らなかった、ということだ。

Date: 5月 12th, 2017
Cate: ショウ雑感

2017年ショウ雑感(その2)

明日から二日間、OTOTENが国際フォーラムで開催される。
都合をつけて、一日は行く予定でいる。

実際どうなのかは会場に行ってみるまでわからないけれど、
一昨年までとは、会場もかわったこともあるが、
今年から違う、という雰囲気は伝わってきている。

ただ世の中の流れを反映しているな、と思うのが、
告知のヴィジュアルである。

「いい音のある世界は、美しい。」というコピーがある。
その横にモデルの女性がほほ笑んでいる。
その耳には、イヤフォンである。

そこに難癖つけようという気はないが、
「いい音のある世界」とは、まずイヤフォン(ヘッドフォン)からなのか……。

それが開催期間中に多くの人を呼ぶことにつながるのかもしれない。

Date: 5月 11th, 2017
Cate: 瀬川冬樹, 瀬川冬樹氏のこと

瀬川冬樹氏のこと(ステレオサウンド編集後記より)

ステレオサウンド 8号の編集後記。
椋元さんという方が書かれている。
     *
実は今号の追い込み時期に、原稿締め切り日を大幅に遅れたS氏宅へ悲壮な決心で乗り込みました。S氏と向い合っている時までは確実に緊張していた自分を自覚していたのですが、壁に並んだJBL、タンノイ、アルテックのスピーカー、JBLのSG520、SE400S、その他のアンプ、それに販売店よりも数多く並んだカートリッジ、これらに目が向いた時には、すでにこの失敗はスタート。音が鳴りはじめた時には何んの目的で自分がここに居るのかということなどすっかり忘れ、気がついた時は訪問後八時間も過ぎたという次第。そればかりか、もう社へ電話する機会も失ない、言い訳けすら考えるゆとりのない私は、S氏の思いやりのある親切なお言葉をお受けし、真夜中の二時に帰宅する結果を招いてしまいました。帰宅後しばらくして、事の重大さに気がつく始末。
     *
8号は1968年秋号。
S氏とはいうまでもなく瀬川先生のこと。

椋元さん、という編集者は、他の号の編集後記を読むと、
オーディオマニアではないよう気がする。

でも、そういう人が原稿取りに行ったにも関わらず、
しかも締切日を大幅に過ぎているにも関わらず、
瀬川先生の音を八時間聴いていた、ということ。

Date: 5月 11th, 2017
Cate:

日本の歌、日本語の歌(アルテックで聴く・その3)

私が最初に聴いたアルテックは、8インチ口径のフルレンジユニット755Eである。
きちんとしたエンクロージュアが用意できずに、
ダンボールの平面バッフルだったり、床に天井を向けて、ほんの少しだけ浮せて鳴らしたり、
そんな使い方(鳴らし方)だったけれど、気持の良い鳴り方だった。

その後405H(4インチ口径フルレンジ)も、
チェック用として持っていて時期もある。

604を聴いたのは、ステレオサウンドの試聴室ではなく、
あるユーザーのリスニングルームだった。
エンクロージュアは612で、アンプは自作の真空管式だった。
その後、別のユーザー宅でも612は聴いている。

アンプ、その他が違うとはいえ、このふたつの612に入った604の音は大きく違っていた。
違っていたけれど、どちらの604でも女性ヴォーカルは聴いていないし、
特に聴きたいと思わせる音ではなかった。

《歌謡曲や演歌・艶歌》の再生に関しては、いいかげんに鳴らしていた755Eの方が、
ずっと好ましかった。

私とアルテックとは、そんな感じだった。
アルテックの大型システムで、《歌謡曲や演歌・艶歌》を聴くことはつい最近までなかった。

毎月第一水曜日に、四谷三丁目のジャズ喫茶、喫茶茶会記で行っているaudio wednesday、
スピーカーは何度か書いているように、アルテックのユニットを中心としたモノだ。

昨年の1月から、積極的に音を出すようにしている。
すでに10数回、音を出してやっているけれど、
これまで一度もグラシェラ・スサーナを聴きたい、と思ったことはなかった。

日本語の歌を鳴らしていなかったわけではない。
これも何度か書いているように、常連のKさんは松田聖子をCDを毎回持参される。
それ以外にも日本の女性ヴォーカルのCDも、一緒にだ。

それらのCDは鳴らしていた。
でもグラシェラ・スサーナを聴きたい、とはこれまで一度も思わなかったのが、
ふと、どうなんだろう、と初めて思ったのが、5月のaudio wednesdayである。

Date: 5月 11th, 2017
Cate: 再生音

続・再生音とは……(こだわる・その2)

ステレオサウンド 9号。
1968年12月に出ているステレオサウンドに、
「オーディオの難題に答えて」という記事が載っている。

副題として「読者オーディオ身上相談集」とあることからわかるように、
読者からの質問に対して、複数のオーディオ評論家が答えるという内容だ。

六つの質問がある。
読者によるペーパープランの組合せについて、であったり、
グレードアップを無駄なくするためには、とか、
改良と改悪について、だったりとかだ。

その中に、〝原音再生〟の壁を破るには何を狙ったらよいでしょうか? がある。
上杉佳郎、菅野沖彦、瀬川冬樹の三氏が答えられている。

菅野先生は録音側から答えられている。
上杉先生はハードウェアに即しての回答である。

瀬川先生は、こうだった。
     *
 生と再生音の関係は、ただひと言でいうことができます。それは──
〈あなた自身〉と〈写真に映されたあなた〉の関係です。
 写真とひと口にいっても、モノクロームありカラーあり、印刷もスライド投影もある。ステレオ写真という「のぞき絵」もあれば、映画もある。わたくしのいう「写真」とは、広い意味での映像文化全体の将来まで含んで指しているのですが、かりに映像の技術がどこまでも進んでも、そうして写しとられたあなたがどこまであなた自身に似せられたとしても、それは決して〈あなた自身〉にはなりえず、しかも写っているのはまぎれもなく〈あなた〉に外ならない……。
 わたくしはこれですべてを語っているつもりですが、誤解をさけるためにあえて蛇足を加えれば仮に将来、現在の二次元の映像がやがてタッソオの蝋人形もどきの立体になり声までそっくり似せられるようになったとしても、結局それはあなた自身ではありえない。再現の技術の果てしない追求というのは、こうして極限を想像してみると、およそ無気味なものです。蝋人形にせよロボットにせよ、思考能力が無かろうなどといおうとしているのではない物理的な次元でイクォールが得られたとしても、再現されたものはジャンルが違う、同じであっても同じものではない、といいたいのです。
     *
瀬川先生の回答はまだまだ続く。
興味のある人はステレオサウンド 9号をお読みいただきたい。

Date: 5月 11th, 2017
Cate: 再生音

続・再生音とは……(こだわる・その1)

再生音について考える必要はあるのか。
そう思われる人もいよう。
そんなこと考えなくとも、自分のシステムでいい音が聴ければいいのであって、
「再生音とは……」について、時間を割いてまで考えて何になるのか。

そういう人にとっては、この項はひどくつまらないであろう。

再生音はスピーカーから鳴ってくる音。
それ以上でもそれ以下でもない。

こんなふうに言い切れれば楽だ。
確かにスピーカーから鳴ってくる音が、再生音であるが、
それだけで再生音の正体について語っているとはいえない。

ステレオサウンド 38号の特集「オーディオ評論家──そのサウンドとサウンドロジィ」、
その中で、井上先生が最後に語られている。
     *
 ほとんどすべての人間が生まれながらに現実の音に反応しているはずです。それが再生音になると、どうしても他人の手引きや教えばかりをもとめるのか。いい音というのは、あなたがいまいいと思った音なんてすよ、とぼくはいっておきたい。つまり結局は、ご自分で探し出すことでしかないんです。
     *
再生音だと、なぜそうなってしまうのか。
これを読んだ時から、ずっと心にひっかかっている。
ひっかかり続けているから、この項を書いている。

再生音の正体について考えず、正体がはっきりとわからぬままオーディオをやっていても、
いい音は出せる。
ならば、それでいいじゃないか。

そう思わないわけではない。
それでも再生音の正体をわからぬままオーディオをやっていくことに、
むなしさ(とまでいってしまうといいすぎに感じるが……)をおぼえる。

Date: 5月 11th, 2017
Cate: オーディオ評論

ミソモクソモイッショにしたのは誰なのか、何なのか(製品か商品か・その2)

製品批評か商品批評か。
そんなことを考えていたら、少し違う意味での製品か商品か、があることに気づく。

ステレオサウンド始め、オーディオ雑誌は、
オーディオ機器をメーカー、輸入元から借りて試聴し記事をつくる。

記事で取り上げるオーディオ機器をすべて購入して──、
ということは現実には無理である。

オーディオ雑誌には広告が載っている、
そんな雑誌に書かれていることは信用できない、
広告なしでつくるべきだ──、
そんな意見がいまも昔もある。

わからないわけではないが、広告なしでオーディオ雑誌をつくろうとした場合、
何が問題になるかというと、雑誌の価格が高くなるということよりも、
取材対象となるオーディオ機器を、どう調達してくるかが、非常に難しい問題となる。

まったく方法がないとはいわないが、そうとうに大変になる。

オーディオ機器は、メーカー、輸入元から借りている。
このことも、製品か商品かに関係しているように思う。

ステレオサウンドにいるときは、そんなこと考えもしなかったが、
メーカー、輸入元から借りているオーディオ機器は商品なのだろうか。

オーディオ雑誌が、オーディオ店からオーディオ機器を購入したとする。
それを試聴して記事にするのであれば、商品批評ということになっても、
メーカー、輸入元から借りたモノを聴いて──、というのは、
商品批評ではなくて製品批評ではないのか。

Date: 5月 10th, 2017
Cate: 平面バッフル

「言葉」にとらわれて(その22)

サンスイのLMシリーズを聴く機会はなかった。
LMシリーズのスピーカーは1975年に出ている。

まだ私はオーディオに興味をもっていなかった。
私がLMシリーズのスピーカーを知ったのは、1977年6月。
ステレオサウンド 43号特集ベストバイにおいてである。

でも、そこではLMシリーズの技術的特徴であるLMトゥイーターについて、
深く知ることはできなかった。
トゥイーター周りのバッフルが、
ウーファーよりも前面にあるという形だけが印象に残っていたくらいである。

LMトゥイーターについて知るのは、ステレオサウンドで働くようになり、
別冊「世界のオーディオ」のサンスイ号を読んでからである。

三井啓氏が、「サンスイに見るオリジナリティ」というタイトルの記事で、
LMスピーカーシステムの開発について9ページに渡って書かれている。

サンスイが全面的に協力しているムックだけに、開発の背景から測定データまで掲載されている。
LMシリーズのトゥイーター周りのバッフルは、前に突き出ているのか。

1977年には、すでにテクニクスからリニアフェイズのスピーカーシステムが登場していた。
コーン型ウーファーで、中高域がホーン型でなく、ドーム型、コーン型であれば、
ボイスコイルの位置はウーファーが奥まってしまうだけに、
テクニクスはスコーカー、トゥイーターの取り付けを階段状にしている。
フランスのキャバスのブリガンタンもそうである。

なのにサンスイのLMシリーズはウーファー、トゥイーター、
どちらもコーン型なのに、トゥイーターがさらに前に位置しているということは、
リニアフェイズということを無視してまで、ということになる。

音を聴く機会があれば、
もっと早くにLMトゥイーターの技術的特徴(マルチラジエーションバッフル)に興味をもっただろうが、
なにしろ聴く機会もなく、LMシリーズが普及価格帯のスピーカーということもあって、
サンスイ号を手にするまで、関心の対象外だった。

LMトゥイーター(マルチラジエーションバッフル)の考え方は、
立体バッフルともいえるし、ある種のホーンバッフルともいえるし、
振動板の前面と後面が逆相の一般的なユニットだけでなく、
同相のハイルドライバーにおいて、マルチラジエーションバッフルはうまく作用するかもしれない。

Date: 5月 10th, 2017
Cate:

日本の歌、日本語の歌(アルテックで聴く・その2)

ステレオサウンド 56号の翌年の夏、セパレートアンプの別冊が出た。
巻頭の「いま、いい音のアンプがほしい」で、
アルテックの604EをマッキントッシュのMC275で鳴らした時のことを書かれている。
     *
 しかしその試聴で、もうひとつの魅力ある製品を発見したというのが、これも前述したマッキントッシュのC22とMC275の組合せで、アルテックの604Eを鳴らした音であった。ことに、テストの終った初夏のすがすがしいある日の午後に聴いた、エリカ・ケートの歌うモーツァルトの歌曲 Abendempfindung(夕暮の情緒)の、滑らかに澄んで、ふっくらとやわらかなあの美しい歌声は、いまでも耳の底に焼きついているほどで、この一曲のためにこのアンプを欲しい、とさえ、思ったものだ。
     *
620Bに搭載されているのは604-8Hで、
604Eとはホーンもフェイズプラグも、フレームもネットワークも違うから、
まったく同じには語れないにしても、同じ604であり、アルテックの同軸型ユニットである。

そうなると56号での《歌謡曲や演歌・艶歌》を、
女性ヴォーカルを受けとめた私の読み方は、それでいいんだ、と思った。

セパレートアンプの別冊が出た時には、上京していた。
とはいえアルテックのスピーカーを聴く機会はなかった。
当時はJBLが圧倒的だった。

JBLは、どのオーディオ店に行っても聴けた。
アルテックはそうではなかった。
展示はしてあったから、聴かせてほしい、といえば聴けたであろう。

けれど18の若造は、買う予定のないオーディオ機器を聴かせてほしい、とはいえなかった。
私がアルテックのスピーカーで、女性ヴォーカルを聴くのは、もう少しあとのことだ。

Date: 5月 10th, 2017
Cate: オーディオ評論

ミソモクソモイッショにしたのは誰なのか、何なのか(製品か商品か・その1)

川崎先生が、KK適塾でくり返し話されていた「製品と商品」。
5月4日のブログ「金網越しに道にまで花がある、その製品化と商品化」でも、
製品化と商品化について書かれている。

製品か商品か。
オーディオ評論が対象としているのは、どちらなのか、とその度に考えてしまう。

オーディオ評論の中には、個々のオーディオ機器の批評がある。
ここでのオーディオ機器を、
批評する側の人間(オーディオ評論家、オーディオ雑誌の編集者)は、
製品として見ている(聴いている)のか、
それとも商品としてなのか。
それとも、こんなことまったく意識していないのか。

批評の難しさがある。
広告があるオーディオ雑誌でのオーディオ批評には、それゆえの批評の難しさがさらにある。

製品批評の難しさと商品批評の難しさは、まったく同じとはいえないはずだ。

Date: 5月 10th, 2017
Cate: 提言

いま、そしてこれから語るべきこと(その12)

(その11)に、facebookでコメントがあった。

そこには、
水俣病と病気扱いしたのが間違いである、と,まずあった。
たしかにそうである。
水俣病と、私も書いている。けれど、病気ではない。

コメントには、森永ヒ素ミルク中毒事件と同じくチッソ水銀中毒事件であり、
事件であるのだから、患者ではなく被害者とされるべきだ、と。

そうである、チッソ水銀中毒事件の被害者である。
(その11)でリンクしている産経ニュースの記事で、
原一男氏は
「説明不足で、差別意識があると受け止められても仕方がない発言をした。傷つけた患者や家族に謝りたい」
と語っている、とある。

ドキュメンタリー映画を製作している監督が、被害者ではなく患者と呼んでいる。
この原一男氏は、プロフェッショナルなのだろうか。

ドキュメンタリーをつくっていく人間として、
プロフェッショナルとしての非情を、原一男氏はもっていないのではないだろうか。

原一男氏にあるのは、無情だけかもしれない。

Date: 5月 10th, 2017
Cate: 提言

いま、そしてこれから語るべきこと(その11)

さまざまなニュースが流されていっていく。
ある人は気にも留めないニュースであっても、
別のひとにとっては、絶対に見過せないニュースでもある。

このニュースがそうだ。
水俣病テーマの映画撮影中の原一男監督が「(患者は)文化を受け入れる部分がダメージを受ける」と発言 謝罪へ

映画監督の原一男氏の講演会での発言のすべてが読めるわけではなく、
その一部分だけである。
その前後に関しても情報はない。

それでも……、である。
原一男氏は説明不足といわれている。
そうとはとうてい思えない発言をされている。
見出しになっている発言よりも、はるかにひどい。

「(水俣病患者は)人間の形はしていても中身は人間でなくなる」

記事には、《参加者らから「患者への差別だ」と批判が出ている》とあるが、
これは差別という言葉でおさめてしまっていいとも思えない。

原一男氏の根底にあるのは、もっとひどい、別のもののような気がする。
それこそが「人間の形はしていも中身は人間でなくなる」ものではないのか。

Date: 5月 9th, 2017
Cate:

日本の歌、日本語の歌(アルテックで聴く・その1)

ステレオサウンド 56号の特集(組合せ)で、瀬川先生がこんなことを書かれていた。
     *
 日本の、ということになると、歌謡曲や演歌・艶歌を、よく聴かせるスピーカーを探しておかなくてはならない。ここではやはりアルテック系が第一に浮かんでくる。620Bモニター。もう少しこってりした音のA7X……。タンノイのスーパーレッド・モニターは、三つのレベルコントロールをうまく合わせこむと、案外、艶歌をよく鳴らしてくれる。
     *
56号のころ、私は高校生。
クラシックをかなり聴きはじめていたころでもあるが、
グラシェラ・スサーナのうたう日本語の歌もよく聴いていたころだ。

だから、この一節が、他のところ以上に記憶に残っている。
グラシェラ・スサーナの歌も、《歌謡曲や演歌・艶歌》なのだから、
それを《よく聴かせるスピーカー》としてアルテックの620BとA7X、
タンノイのスーパーレッド・モニターを挙げられている。

グラシェラ・スサーナをよく聴いていたわけだから、
ここでの《歌謡曲や演歌・艶歌》は、女性ヴォーカルということになる。

瀬川先生は、ここでは男性ヴォーカルなのか女性ヴォーカルなのかは書かれていない。
どちらも、ということなのだろう。
それはわかったうえで、高校生であった読み手(私)は、女性ヴォーカルとして受け取っていた。

アルテックはアメリカのスピーカーである。
620Bはスタジオモニターなのでまだしも、
A7X(ドライバーが802-8Gに変更されている)は、元は劇場用であり、
私の中のイメージでは、男性ヴォーカルに向いている、というものだった。

高校までは熊本に住んでいた。
JBLはよく聴く機会があったのに対し、アルテックに関しては一度もなかった。