続・再生音とは……(こだわる・その2)
ステレオサウンド 9号。
1968年12月に出ているステレオサウンドに、
「オーディオの難題に答えて」という記事が載っている。
副題として「読者オーディオ身上相談集」とあることからわかるように、
読者からの質問に対して、複数のオーディオ評論家が答えるという内容だ。
六つの質問がある。
読者によるペーパープランの組合せについて、であったり、
グレードアップを無駄なくするためには、とか、
改良と改悪について、だったりとかだ。
その中に、〝原音再生〟の壁を破るには何を狙ったらよいでしょうか? がある。
上杉佳郎、菅野沖彦、瀬川冬樹の三氏が答えられている。
菅野先生は録音側から答えられている。
上杉先生はハードウェアに即しての回答である。
瀬川先生は、こうだった。
*
生と再生音の関係は、ただひと言でいうことができます。それは──
〈あなた自身〉と〈写真に映されたあなた〉の関係です。
写真とひと口にいっても、モノクロームありカラーあり、印刷もスライド投影もある。ステレオ写真という「のぞき絵」もあれば、映画もある。わたくしのいう「写真」とは、広い意味での映像文化全体の将来まで含んで指しているのですが、かりに映像の技術がどこまでも進んでも、そうして写しとられたあなたがどこまであなた自身に似せられたとしても、それは決して〈あなた自身〉にはなりえず、しかも写っているのはまぎれもなく〈あなた〉に外ならない……。
わたくしはこれですべてを語っているつもりですが、誤解をさけるためにあえて蛇足を加えれば仮に将来、現在の二次元の映像がやがてタッソオの蝋人形もどきの立体になり声までそっくり似せられるようになったとしても、結局それはあなた自身ではありえない。再現の技術の果てしない追求というのは、こうして極限を想像してみると、およそ無気味なものです。蝋人形にせよロボットにせよ、思考能力が無かろうなどといおうとしているのではない物理的な次元でイクォールが得られたとしても、再現されたものはジャンルが違う、同じであっても同じものではない、といいたいのです。
*
瀬川先生の回答はまだまだ続く。
興味のある人はステレオサウンド 9号をお読みいただきたい。